熊本県 八代市 泉町(旧泉村) 五家荘
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雑文録

2021.02.10

山行

五家荘の山を知り尽くす救援隊・隊長O氏から登山の誘いがあったのは数日前の事。

「今度の日曜、白崩平(しらくえたいら)に福寿草を見に行かんですか?」との事だった。白崩平は五家荘の山々の中で福寿草の有名な群生地で、その名の通り、白い石灰岩の岩が点在する山腹の平地なのだが、とっさにO氏のフェイスブックの、去年の水害で被害を受けた登山道の崩落現場の写真を思い出した。

崩落というより地滑り、鉄砲水、山崩れに近い状況で林道は崩壊、砂防ダムは倒木、落石、巨岩の山々…川沿いのコンクリートの歩道は深くえぐられ、見るも無残、極めて危険な状態のままなのだ。

更にこの寒さで1年間に痛めた左ひざの靱帯も傷み、左の額の穴も隙間風…少し膨らんで来た具合(髄液もれ?)…しかも今月末に脳のMRIの定期検査がある…いったん断ろうとしたがOさん、

「福寿草はもちろん…森の妖精「セリバオウレン」も開花して見られるですよ」と、たたみかけてくる。

森の妖精?…「セリバオウレン?」はて?…検索するに確かに美しい…純白の細く尖った花びらが開き、白い雄しべも花びらに沿い飛び散るさまは、白い線香花火とでも言おうか。冬の終わり、森の中にチリチリと咲く花火。風が吹けばすぐに消えさるようなはかない火花が「セリバオウレン」なのだ。これを写真に収めないわけにはいかない。

 

本来、体調の事情もあり、断るべきだが…森の妖精、妖女、妖艶…妖魔、妖術、夢魔、夢幻…妖怪、錯乱、錯誤、魔界転生、ドグラ・マグラ…なんともそういう言葉に弱い自分なのだ。

更に「竹田さんは山には登らんで、よかですたい…きつかなら、そのあたりをぶらぶらするだけでよかです。私も都合で昼過ぎに帰らんといかんです…」山に登らなくていい、そこらへんをぶらぶらするだけでいい?とはさて面妖な…O氏の誘い、そそのかし。

確かに久連子に行けば、山に登らなくても福寿草が咲く場所も分かる。(奥座向の登山道のあの当たり) 一度、山道をゆっくり散策するのも楽しいかもしれないと思い、今回の不思議な登山計画に参加することにした。

集合はふもとの温泉施設の駐車場に6時半…海抜ゼロメートルの我が家を朝4時半に出る。(気合が入りすぎて30分早く到着) 時間になると、するすると当日のメンバーの車がやってくる。Oさん、Sさん、そして最後の車からドアを開けスッと出てきたのは、五家荘の伝説のオババ様、Nさんだった。森の妖精に会う前に、いきなり森の妖婆に出くわしてしまった。オババさまは白髪にバンダナ…金色の短い杖を2本持っている。年齢は定かでないが昭和18年生まれと答えた。適当な答え方が怪しい。

Oさんの車は4人を詰め込み8時前に久連子に到着。待っていたのは泉・五家荘登山道整備プロジェクトのメンバーの山師の面々だった。中には子連れ山師の夫婦も居た。彼らの背中にはロープ、アルミの梯子にバン線…ラジェット…ツルハシが詰め込まれ…(やはりこれは普通の登山ではない…)と気が付いたがすでに手遅れ、全員のやる気に満ちた緊張感の中で一人、ぶらぶらするわけにはいかない。結果、膝を曲げ、靴紐を結ばざるを得なくなった。

オババ様の前後には整備プロジェクトのうら若き女性2名がサポートにつき、いよいよ介護登山の始まりとなった。(すでにOさんの策略にはまった僕は、この若い娘たちの前で膝が痛いだの、帰りたいだの弱音を吐くことはできない…最後まで二人には「誰?この人?」と怪しまれた。

おこば谷(オババ谷ではない)の登山道までの道は、もちろん崩落していた。飛び込み台のようにえぐられたコンクリートの先にSさんが赤いスプレーで「キケン」と書いて行く。その「キケン」の文字を冗談で踏むと、忍者屋敷の落とし穴のように奈落に落ちる。一行はその横の階段状の法面の段差を通路にし、その段差の幅20センチくらいの、苔で足が滑りそうな道を通る。

登山口から森の中に入り急坂を登る。雑木林の中、時に樹の根をつかみ、固定されたロープを頼りにしながら、体を持ち上げ坂を登る。えぐられ荒廃した沢筋へ降りる箇所には手際よく、アルミの梯子が伸ばされ固定されていく。山師の手際は素晴らしく、ザッザっと岩を掘り出し、岩をガンガン積み上げ、梯子までの足場を瞬時に作る。

杉林を抜け、昼前に標高990メートルの白崩平に着く。雪こそ残っていなかったが、あちこちの岩陰に金色の花が首を伸ばし咲き乱れている。陽の光を浴びると、その金色の花弁は更に輝きを増す。地味な山野草の中で、これほどの輝きを持つ花はない。咲き方もお花畑のような蜜の状態ではなく、福寿草の咲き方は家族、夫婦のような小さな集団で肩を寄せ合い、冬の寒さを耐え、陽に向かい首を伸ばし、金花を咲かせている気がする。

眺めているうちに、山の向こう、岩宇土山の中腹にあるお地蔵さんの姿をふと思い出す。そのお地蔵(母)さんは、しっかりと子供を抱きしめているのだ。岩の風化は進んでもその姿は消えることはない。

軽い昼食をすまし、各自、花を写真に収め、帰路に就く。登山整備プロジェクト軍団の活躍のおかげで、危険場所も難なくおりることが出来た。帰りに、こんもり丸く小さな椎茸が付いた人の腕ほどの太さの古木を肩に担いで急坂を降りた猛者も居た。

軟弱な自分が無理とあきらめていた白崩平の登山を無事クリアできたのは、森の妖女、オババ様のお陰でもある。若かりし頃、北アルプスの剣岳登山の経験もあるという猛者、妖女は、「わたしゃ、絶対自分のペースは崩さん」と豪語する。後ろから見ると、見事な足さばきだった。どんな道も「逆ハの字」にスタスタとリズム良く歩く。しかも無駄な力みも何もなく、両手の金のステックでバランスを取りながら進んでいく。ただし、膝が上がらないのでそんな個所は後ろから誰か押してあげる介護、下りも落ちないようにする介護は必要だが。この妖女のペースで僕も進んでいたので、膝の痛みも頭の痛みも胸のつかえもなかった。この頑固なスローペースを、早く頂上を目指したい人は待ちきれないだろうが。

久連子に戻り、いよいよみんなで森の妖精、セリバオウレンを探す。全員一列になり、道路沿いの苔むす斜面を探す。結果、残念ながら妖精は姿を見せなかった。草むらの中、目を皿のようにして探す、メンバーの妖気に恐れをなしたのだ。

車中の会話で、昔、オババ様も大病されたようで「脳の血管に血のコブが何個所か見つかってですな、昔手術ば受けたとですたい」「まさか (自分と同じではないか) 手術とは?」「開頭手術ですたい」「で、今薬か何か?」オババ様は答える。「薬の代わりに、いつも球磨焼酎(じょうちゅうと言う)ば、飲みよると」

五家荘の山々の妖しい魅力とは、森の妖精はもちろん、何気ないところに、妖女が居ることなのだ。(妖女使いのO氏の妖しい誘いにも用心)

もちろん自分も、妖しいオヤジそのものなのだが。

 

2021.01.13

山行

もうあっという間に、年が明けてしまった。雑文録も更新していなかったので、死んだと思われているかもしれない…まだ、生きています…との信号でも送っておこうと思います。

昨年暮れ、五家荘図鑑のネットサイトを構築してくれた会社の担当者のY氏と久しぶりに会った時に、Y氏は僕の顔を見て恐る恐る…「五家荘図鑑…まだ、書かれているんですか?…」と聞いてきた。いや君の会社が構築したサイトだから、書かれているかいないか、自分で確かめれば分かるのに、と言いたかったが、止めた。

Y氏は温厚で、とても優しい性格で (そして、僕の存在を心の底で恐れている…) 何も言うことはないのだけど、実際「まだ●●やっているのですか?」という質問は、人に対してとても失礼な質問なのだ。聞き方によっては面と向かい「あなた、まだ生きているのですか?」と平気で言われるのと同じ意味に聞き取れるのだ。

新年そうそうの雑文録が、半分愚痴になってしまった。やはり五家荘の山の空気を吸わずに家に引き籠るとよくない。

山の先輩Oさん、Mさんのフェイスブックには、山の樹氷、霧氷の写真がどんどん送られてくる。五家荘の山は例年、膝まで雪が積もるのだ。熊本で雪山と言えば阿蘇の草千里などの冬景色が定番として報道されるが、五家荘が紹介されることはめったにない。そもそも軟弱なテレビクルーに取材できやしないのだ。(中途半端に紹介され人が押しかけたら大変。絶対チェーンは要るし、道のほとんどが白いアイスバーン、滑り出したら止まらない。山で遭難の可能性もある。) そんな白い世界に行きたくてヤマヤマなのだが、僕の壊れた頭に寒さは脅威なので、冬場は右の額の穴を冷やさないように毛糸の帽子を被ってぶらぶらするしかない。

今年の写真の予定は、まずは昨年からの懸案の極私的芸術祭の実行だ。昨年末に、氷川町の立神峡の陶芸家、平木師匠に仕上げてもらった「森の雫シリーズ」の写真を撮らなければならない。

雫の尖がった先は森の空を突き抜け、胴体に空いた穴は緑のトンネル。穴の向こうの世界と、僕の現在の時間の流れを繋ぎ、(望遠鏡で遠い宇宙の星を眺めるように、宇宙の時間をワープするように) 森を流れる時間のひずみをつなぐ…写真を撮るのが本来の目的ではなく、その穴から向こうの世界を覗く行為が、僕の「極めて私的」な世界なのだ。(こんな妄想、誰も相手にしない)

平木師匠には僕のわがままに散々付き合ってもらい、雫を造形してもらった。口には出さぬが実際は相当苦労されたらしい。「穴」の原型は円筒でろくろを回す時に、円の空気の流れができ、本体の基本も先のとがった円錐形で、実際は本体の中にも空気の流れが出来ている。要するに、お腹の中の穴にらせんの空気の流れを抱えながらも、本体にも螺旋の空気の流れがあり、燃え立つ窯のなかで、その重なる螺旋がせめぎ合い、少しバランスが悪いと空気が膨張し、終には本体が破砕する…そんな炎の中で取り出された森の雫たち…が、本当の森の時間の螺旋軸の中で、どんな世界を見せるのか…ビートルズで「丘の上のバカ」という歌があるが、ぼくは「森の奥のバカ」でいい。

そもそも五家荘の伝説を考えたらいい。平家伝説はどうだろう。霧の中、白く消えかかるような熊笹の道の向こうの茂みを「あるスコープ」で覗くと、時空を超え、平家の白い旗がはためく様子が見えるかもしれない。風の音に混じり、落人の息遣いが聞こえてくるかもしれないではないか。ザッザッと霧の向こうのうごめく黒い影の足音が聞こえてくるかもしれない。

村で今も舞いつがれる神楽は神の舞、舞い手がぐるぐる軽やかに舞う、身のこなしは何時しか神が宿る姿そのものになるのだ。舞えば舞うほど、時間のねじれは解かれ、結界で仕切られた四角い舞台は、斜めに傾いていく。緒方家の縁側のふすまに映る影。開けると庭園の茂みの奥に光る二つの赤い目がある。梅の木轟のつり橋で、雨上がり谷底から湧き上がる白い雲の姿に、だいだらぼっち(だいだら法師)を見たことがある…山でも、里でも五家荘が秘境と言われる本当の所以はそこにある。結局、僕の五家荘は山頂を目指す登山ではなく、深い森の小道の霧の中をさまよう、(本当に遭難しました) ひとときの旅のようになってしまった。

…この前、中古の車を買い換えに行った。三菱のパジェロ・ミニの黒にした。

山では車でも以前、痛い目にあった。夕暮れ二本杉方面に帰路の途中、つい欲が出て、八軒谷に寄って帰ることにした。八軒谷の登山道のゲート近辺の林道を少し歩けば、何か珍しい花に会えそうな気がしたのだ。薄暗くなった荒れた狭い道を走っている途中、左の斜面の廃屋、竹林の茂みから落人の霊がいきなり前輪左のタイヤに刀を突きさした。車は急停車。完全にタイヤはバーストして、動かない。ゴリゴリと無理して本道まで降りて小雨の中、電話しようにもつながらない。雨に濡れながら、電波の届くところまで歩き、保険会社に電話する。オペレーターは都会に住む、テレビのコマーシャル通りのさわやかな対応だが、まったく事情がつかめない。「お客様の現在地をお教えください」「五家荘」「ごかのしょう?そんな地名はございませんが…」「えーと、八代市、泉町・ご・か・の・ショー…」「お客様、お客様…少し聞こえにくいのですが…」彼女に僕がどんな山奥で苦労しているかをとぎれとぎれの電話で伝えるのは至難の技だった。結果、熊本市内からのレッカー車がくるまで長い時間を無駄にし、それから市内の工場まで1時間以上。後日、タイヤ代はもちろん、とんでもない追加料金をとられた。落人を甘く見てはいけない。山のパンクは落石のせいではない。

パジェロはすでに販売製造中止の車で、中古というよりも老古車。本当は四駆が欲しかったが予算がないので2駆の車になった。走行距離10万キロのポンコツで相当疲れている。まるで僕の存在そのものではないか。あと何年走れるか?替えの部品も心もとない。しかし気のいい中古屋さんが「ピカピカに磨いておきますけん」と言ってくれた。僕の寿命の範囲内で頑張って一緒に山の坂道を登ってくれるに違いない。(納車は1月16日)

「まだ、五家荘に行っていますよ!」と春になればクラクションを鳴らしたい。

2020.12.02

山行

僕の生まれた町は小さな港町で、家の前の海岸には魚市場が2軒あり、子供の頃には獲れたての魚が水揚げされ、木箱に並べられ競りにかけられていた。夏休みには、積み上げられた大きな生け簀の中で漫画を読んだり、かくれんぼをしたり、将棋をして遊んだ。生け簀の板のスキマからのぞく海はいつもギラギラ輝きうねっていた。その市場は後継者がいなくて平成になると無機質に公園化され敷地はただの駐車場になった。漁船のポンポンポンポンというエンジン音も、海から生け簀を吊り上げるギリギリした機械の歯車の音も、セリで賑わう声も聞こえない。市場が無くなると次第に漁船の数も減り、今や岸壁に繋がれた漁師の漁船は数えるほどになった。(僕の知るかぎり3艘しかない)

 

そんな時代の中で、僕より少し年上の漁師の実さんは、わが集落のリーダーだった。真っ黒に日焼けした顔、大柄な体。髪は縮れ、瞳はまさに人懐こいどんぐりまなこの持ち主だった。実さんは中学を卒業し、定時制に通いながら漁師の後を継いだ。祭りになると実さんの船の底から渡り蟹が網で掬われ、宴会の料理の主役になった。他の漁師からも天然の鯛やヒラメが提供され年に一度の祭りの夜は大賑わいだった。老いも若きも焼酎を酌み交わし、宴は深夜まで続いた。こんな光景は一昔前、どこの港町でも見られた光景なのだろう。

賑わいは思い出の中にしか残っていない。実さんは癌に侵され、長い闘病の末、亡くなった。船長のいない漁船「実栄号」はしばらく港につながれ波に寂しそうに揺れていた。

ある時、実さんが僕に「五家荘て、知っとうね?」と聞いてきた。

「もちろん知とるです」と答えると、実さんはどんぐり眼を光らせて「あぎゃん、遠か山に行っとると?」と驚いて聞き返した。実さんたち漁師は、「豊かな海を作る」ためには「豊かな森を作れと」山にどんぐりを植えに行ったそうなのだ。森の栄養分が川を伝い、海をうるおし、海が豊かになる…なんとも気の遠い話だけど、どんぐりの話は漁師みんなのこころを動かした。このままでは海は荒れるという危機感が芽生えたのだ。

当時、実さんたちは長崎の諫早湾の干拓に反対するために、対岸の熊本から漁船デモの応援に参加した。干拓地に近づくと濃い藍色のラインと干拓で汚染された茶色く濁ったラインの色がはっきり分かれていたと実さんは怒りと驚きの声で僕に語った。「こぎゃん、海の色が変わるものかと」

1997年の排水門のギロチンは一瞬。排水門の開門裁判は2020年の今でも未決のまま。海の腐臭が死臭に変わった。

 

五家荘の森も相当傷んできたらしい。風の当たる尾根筋は近年の大雨でどんどん地表が流され、大樹の根を洗う。繰り返しの大風で更に本体が揺すられ、雨でさらに踏ん張る根も弱る。大樹が根こそぎ倒れた根の後は、丸くえぐられ大きな窪地になっている。大樹の亡骸は更に風雨に洗われて、白く乾燥してほどけ森に棲む大きな恐竜の骨のように横たわる。谷筋の大樹も同じ運命をたどる。大水で谷がえぐられ、沢には大きな岩が顔を出し転がり跳ね、樹をなぎ倒す。ついに崖が崩れ同時に、谷に根を張る大樹も流されもんどり倒れる。森が荒れると川も荒れる。

11月も末、いつもの谷の入り口から道を登る。すでに紅葉の時期は終わり。森は静かだ。足元の茶色い枯葉を踏みながら歩く。珍しく鳥の声も聞こえないし、沢のせせらぎの音、風の音もしない。無音の空間が森を占める。

 

何も聞こえない不思議な時間の中に僕は居た。葉の落ちた木々の間には秋の終わりの青い空が突き抜ける。

「森の大樹が倒れる時はどんな声を立てるのだろうか?」変な想像をする。一本一本の樹も生き物であり、森の精が宿っているはず。であれば何か声を立てるはずだ。人の耳に聞こえるはずはない…だから、想像するのだ「樹が倒れる時はどんな声をたてるのか?」

帰り道、沢をまたいで倒れた樹を見つける。彼は谷が崩れる途中に巻き添えをくい、流されたのだ。まだ若いのに両手を大きく広げ倒れているように見える。胴回り、3メートルくらいか。なんとも名残惜しそうなのだ。僕は何度もシャッターを切る。そんな彼の気持ちを写真に残すのは難しい。

 

実さんたちのどんぐりは、遠い、遠い森の奥で、まだ眠り続けているような気がする。

 

 

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◆熊本県は川辺川ダム建設へ転換。

豪雨被害の検証委員会は2回で終了。蒲島県知事は30回に渡り住民ら延べ約500人から意見聴取したが、参加者は農協などの団体代表や自治会長ら「地域代表」が多数を占めた。

潮谷義子前知事時代の01~03年に計9回の住民討論会が開かれ、延べ1万2千人の人が参加して議論したのと比べて民意は限定的だったと言わざるを得ない。

【毎日新聞11月19日・要約】

 

流水型の川辺川ダムの建設を国に求めると表明した蒲島知事が20日上京し、赤羽国土交通大臣に直接、ダム建設を要望しました。

【熊本放送ニュース11月20日・要約】

 

熊本県の蒲島郁夫知事は23日、球磨川支流の川辺川での流水型ダム建設容認について、水没予定地のある同県五木村役場を訪れ2008年のダム「白紙撤回」からの方針転換を謝罪した。蒲島知事は09年に県が創設した「五木村振興基金」を10億円増額する方針を表明した。

【西日本新聞11月24日・要約】

2020.11.13

文化

夏に山の大先輩O氏から、「脊梁小学校」の緑のTシャツをいただいた。O氏のこころ遣いには感謝しかない。小学校を休みがちな自分だが、せめて写真部員の役割だけは果たさなければならない。

今年の五家荘の紅葉は例年になく鮮やかだった。蛇行しながら進む崖沿いの細道の正面、突然、真っ赤に染められ立っている一本の樹に出会い、はっと驚く。例えは悪いが、緑の中に真っ赤な鮮血がほとばしるような光景があるのだ。赤でなければ、次は黄色、いっせいに尖った手のひらを開いている。晴天、青いスクリーンを張ったような空に、樹々の葉色は染みるように浮き上がる。

家人の運転する車で緒方家に向かう。緒方家は平家の落人伝説が残されている築300年の合掌作りの古民家。2階に隠し部屋などもあり観光スポットになっている。門をくぐり、庭に入ると驚くことに庭にはびっしり形のそろった黄色い葉が敷き詰められていた。まるで誰かが丁寧に葉をいちまい、いちまい並べてくれたように。運よく誰も居ないので部屋の中からも庭の写真を撮らせてもらう。

陰翳礼讃。これは僕の偏愛する作家、谷崎潤一郎の有名な随筆の作品名だ。昭和8年に書かれたもので谷崎は日本古来の翳と闇の世界を好み、その随筆の中で日本人独特の暮らしや感性をなつかしみ、その深い味わい方を記した。何回読んでも深く濃い。今回の雑文録は谷崎をまねた随筆調の下手な文章になってしまった。(苦笑)

随筆の中の有名な厠の話はさておき、建築についても谷崎は持論を述べている。

西洋の寺院のゴシック建築は、屋根を高く尖らしてその先が天をも刺すところに美しさを感じるのに比べ、日本の建物は建物の上に大きな屋根を伏せ、その庇が作り出す広い陰の中へ、全体の構造を取り組む構造になっている。

寺院にしても、庶民の住宅にしても、その庇の下に漂うものは濃い闇だと書く。まさに緒方家の作りがそうで、突き出た庇の下には日中でもほのかな闇の世界が漂う。

逆に言えば、西洋の考え、暮らしはみんな明るければいいというもの。食器にしてもなんにしても白さが目立ち、金属の皿でもなんでもみんな節操なくピカピカに磨いてしまう。(女体も白ければいい…) ところが翳の世界を味わうのが日本の世界。明かりもなく、電気もなく、ふすまや障子ごしに光がろ過され、部屋に柔らかな光が差し込む。部屋の隅にほのかな闇が存在している。薄暗がりの部屋の中、白い磁器が自分の手のひらの上で白く鈍く輝いている。漆器の黒が闇に溶け込む。料理と共に、その闇の世界を味わうのだ。

美食家で有名な氏の羊羹についての描写もすごい。

…あの色(羊羹)などはやはり瞑想的ではないか。玉のように半透明に曇った肌が、奥の方まで光を吸い取って夢見る如き、ほの明るさをかんでいる感じ、あの色合いの深さ、複雑さは、西洋の菓子には絶対見られない。クリームなどはあれに比べるとなんという浅はかさ、単純さであろう。だがその羊羹の色合いも、あれを塗り物の菓子器に入れて、肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めるとひとしお瞑想的になる。

…人はあの冷たく滑らかなものを口に含むとき、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で溶けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う。…

…僕の脳裏には、以前カタログで見た、東京の羊羹専門店「虎屋」の黒い羊羹の一切れが浮かぶ。あの羊羹の深い黒さが暗黒の甘い塊になっていると谷崎に描かれると、一刻も早く口に入れたくなってきてしまった。

谷崎は西洋風の明るい光の下で、さらされ、何の深みもなくなった日本古来の文化のありさまも嘆く。例えば文楽は今や、人形が西洋風のステージで明かりに照らされ、何の陰影もない表情に劣化し、観光客目当ての見世物になったけど、本来の文楽の人工的な白く冷たいお面はろうそくの揺らめく灯りの下でぼんやり浮き上がるからこそ、生きたようにも見えるのだ。明かりの下、見ている方もどうせ人形だからと思うと、最初から何も感動しようがない。

歌舞伎も同様、明るすぎて今やミュージカルショーカブキになったのだろうが、文楽の昔のように、ろうそくの灯りの元で演じられたら、全く違ったものに見えるのだろう。随筆が書かれた昭和の初期の段階で、すでに歌舞伎は明るすぎてダメだと氏に苦言を書かれていた。あの派手な金銀の衣装も闇の中で不気味に浮かびあがるからこそ、深く蠱惑的なものに見えると谷崎は嘆いている。

神楽もそうなのだろう。五家荘の神楽が闇の中で当時のように、わずかな光だけで演じられるシーンを想像するだけでたまらない。舞台の隅の暗がりに誰かいるような気配がする、神楽の鈴や鉦や太鼓の響きでみんなの肩の後ろの暗がりに本物の神が舞い降りて来ている気配がするに違いない。

今は更に更に「LED、ブルーライト」。明るければいい、早く結果を明らかにせよという時代になってきた。伝統を放棄し、明るく便利な暮らしを明治以来目指した日本人の哀れな結末はもう「見えた」。スマホ片手にゲームに興じる大人、子供の軽薄な明るさは救いがたい。ブルーライトは光の中でも一番波長が長く、網膜に直接届き、目を傷めるどころか、脳にも悪影響を及ぼすと専門医から警鐘を鳴らされている。(全然報道されないのはどうしたことか)

秋の五家荘の夕暮れは早い。午後4時には帰路に就かないと、途中で山道は暗く危険な道になる。逆にそんな秋の夕暮れに緒方家の誰も居ない部屋の中で一人座り、誰かやってくるのを待ちながら自分の姿が闇に包まれていくのを味わいたいものだ。

奥の床の間に飾られた墨絵の掛け軸の画も闇に溶け込み、花器に活けられた一本の紅い椿の花だけが、暗がりに妖しく浮かび上がる…床の間も日々磨かれて「床ひかり」するからこそ価値がある。その床に掛け軸も花器の花の姿もほのかに映されていなければならない…僕はひとり、床の間の前で枯れた山水画の世界の旅を夢想する。

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帰路、道路わきの紅葉は鮮やかだったが、お目当ての川の紅葉はすでに終わり、満足した写真は撮れなかった。しかし河原に降りると、風が吹き、一斉に赤や黄の葉がざーっと風に舞い、僕の頭に降り注いだ。

 

落ち葉の吹雪…川に落ちた葉は一斉に流される。もうこんな一瞬はやってこない。こんな奇跡のような景色を写真に撮る技術は僕にはないから、カメラをわきに置き、岩の上に座り、次の風が吹いてくるのを待つ。

五家荘は素晴らしい。秘境ゆえ、闇も光も、人の情けも、忘れ去られようとしている文化もほんのわずか残されている、ほんのわずか。どうか最後の葉の一枚が、軽薄な風に落ちませぬように。

 

2020.10.13

文化

巷では「学術会議」の任命問題がきっかけで「役に立つ、立たない」論争が起こっているらしい。はたから見れば「教養のある人々と」「ない人々」の論争、だから話がかみ合わない。かみ合わないから「教養のない人々側」は「教養のある人々側を」力でねじ伏せようと攻撃する。もちろん「学術会議の権威」のもとに居座る爺様、婆様もこの機会にぜひご退場いただきたい。

もう10年も前、たまたま京都大学の入学案内を手に入れた。その案内には学長からのメッセージがあって、当時の学長いわく「大学は教養を学ぶところ。本学は社会の即戦力になるような学生を絶対育成しまへん」と記されてある。「大したものだ」と僕は思った。さすが京大。

(僕は数年間、ニセ学生として京大に世話になっていた。)

 

今や、大学は就職率を競う専門学校になってしまった。高校も有名大学の入学者数を競う。折角大学に入ったのだから、元をとろうと、大企業に就職するため、勉強せずに2回生から就活するのだ。教養どころではない。そして大ブラック企業の兵隊となり即戦力の使い捨て、疲労し摩耗し役にも立たず、教養も得られず、最悪、精神を病み社会に帰らぬ人になる。教養のない人々の役に立つとはこういう事だぜ。

僕ごときが書くのもなんだけど学術や芸術を費用対効果で見たらだめなのだ。それらはそもそも数値化できない代物なのだから。ところが政治は違う。政治家のやってきたことがすべて数値化される。景気が悪いのもいいのも、1000兆円こえる国債も結果がすべて。なんの教養もない政治家に限って「何んーも、役に立たないのに税金!」と言いふらす。まず彼らこそ、AI人工知能に交代すべきなのだ。国会で居眠り、英会話を勉強する政治家の費用対効果はすざまじい。

 

嗚呼、最近怒りっぽくなった。これは「老化」のひとつらしい。(苦笑)

ネットで悪口、デマを飛ばす連中も無駄なプライドで脳が固まり「老化」しているらしい。

 

熊本の大手の製薬会社が「太陽の畑」とかなんとか言っちゃって、裏の壮大な面積の雑木林を全部刈り取り、森の生き物全部追い出し、ソーラーパネルを山一面にひき、自社の工場は全部自然エネルギーで「ゴミも分別してまーす」てな、脳みそを漂白された教養のないコマーシャルが僕は大嫌いなのだ。

豊かで、数えきれない生き物の命を育んできた雑木林と、ソーラーパネルの発電量を比較する愚かさ。全然エコじゃないじゃん。

五家荘はもちろん過疎地。森が役にたたないからと言って、自然林をなぎ倒してソーラーパネルを設置する人がどこにいるものか。五家荘の自然や文化は、そんな物差しで計れないものなのだ。

さて、現在停滞中の極私的芸術展の現状。もうダメなのかなと恐る恐る、陶芸家のH先生に連絡すると、現状の写真が送られてきた。僕のわがまま、無理な要望で、何度も取り組むも、うまくいかなかったのかもしれない。(無理な造形で、窯で割れるのか…) 先生も意地なのだろう。本気で取り組んでもらって本当に恐縮なのだ。

写真の奥の繊細なしずく状の造形…。設計通り、しずくの真ん中に丸い穴が開いている。手前に横たわるのはしずくの子供たち。焼き上がりはどんな色に仕上がるのだろうか?

極私的芸術祭、もうすぐ編。なんの役にも立たない極地。これらのしずくが出来たら、僕は一人森に入る。

そしてそのしずくの丸い穴から、向こうの世界を除くのだ。穴を通り向こうの森とこちらの森の空気が行き来する。穴はレンズか、過去と未来、時間のトンネルか?…そんなへ理屈考えなくていい…ただ穴を覗く。穴は「空」。その空の世界を覗いてみたい。

 

「空」とは般若心経で言う「空」の世界…

※多頭飼いで猫 ( 総勢 7匹 ) 世界化している我が家は、般ニャー心経

 

いつか、そのしずくが輝きだすのを待つ。

それだけで僕はよい、のだ。

 

2020.09.21

9月初めに上陸した台風9号10号の風は酷かった。海抜ゼロメートルの我が家は目の前の海から暴風が吹き、雨戸をいくら抑えていても丸く膨らみ弾けそうになる。通過した後も数時間にわたり暴風に家が揺れに揺れた。猫どもはのんびりしたものだったけど。人間は大変だった。(万が一があれば総勢7匹の猫を避難させなければならないが、その方法を考え付かない!)

ところが熊本市内ではほとんど無風、無被害だった。近年の自然災害はまるで悪魔がダーツを飛ばし矢が刺さった場所だけ大きな被害が出るような巡り合わせになっているようだ。10号についてはテレビラジオで50年に1度、いゃ、終いには100年に1度と言いだし、洪水実験だの、風速50メートルではペットボトルが飛び、壁にもこんな大穴が開きまっせ!という見本を繰り返し示していた。(何かを待ち望んでいるように)

そんな台風の報道のさなか、友人の住む鹿児島県の子宝島では自衛隊機のヘリを使った全島民の避難報道が流されていた。人口53人、世帯数32、 周囲4キロ、標高10メートル程度の島に、それ以上の高波が来る危険性が高まったからだ。子宝島は鹿児島県の十島(とから)列島に並ぶ一つの島で十島村に所属する。十島村は、屋久島と奄美大島の間に、有人七島と無人島五島からなる南北約160キロという「南北に長い村」。普通のアクセスは鹿児島港から出るフェリーで、便は1週間に2回程度往復し、その160キロの長い海路の島々を辿り生活用品などを配って回る。鹿児港から子宝島まで片道12時間。夜11時に出港し島につくのは翌日11時となる。普段から波は荒く、少しのシケでも岸壁に船が着船出来ず、そんな時の荷物は又来週になるそうだ。友人曰く、海水浴どころではない、沖に流される危険があるので海水浴はほとんどしないという。

その友人Sさんは、本来、山育ち(昔の地名で中央町の山奥育ち)で釣りの名人だった。ひょんなことから僕の住む小さな港町に引っ越してきて、ダイバーの仕事をしていた。閉鎖的で寂れた集落を朝に夕に犬の太郎君を連れ、毎日散歩するSさん。陽に焼け人懐こい笑顔を見せるSさんはすぐに打ち解け、人気者になった。町でマンゴー畑を始めたり、ログハウスを自作したりSさんは色々なことを取り組んだ。数年後、残念なことにSさんはダイバー仲間の誘いを受け、子宝島に引っ越すことになった。

Sさん家族が、小宝島に旅立つ前夜、集落では壮大な送別会が開かれた、老いも若きも歌いギターをかき鳴らし酒を飲み、別れを惜しんだ。最後はみんな肩を組み「あの素晴らしい愛をもう一度」を大合唱した。本棚の奥にしまっていた当時の写真を見ると、その肩を組むメンバーの中には80近くの亡父も居た。半島の突端の行き詰まり、もともとは明治にできた港で歴史なんてない、どこからかやってきた者が居ついてできた集落で、どこにもいけない老人たちは、我が身の旅立つ夢をSさんの背中に託したのだろうか。

ところで、十島列島にも平家伝説が残る。まさかこんな離島まで平家がと思うが、つながりが何かあるかもしれない。五家荘は山の魅力はもちろん、五家荘の持つ独特の謎めいた

伝説にも引き込まれるものがあるのだ。地方創生という名のもと、どこもかしこも同じデザインに画一化された町やイベント文化の中で、山の秘境、海の秘境の存在はとても貴重なものなのだと思う。

 

◆十島村に残る平家伝説の一部(ネットで浮遊中の要約)

・口之島

口之島の伝説はタモトユリ(袂百合)。平家の落人が白い香り高い百合をたもとに忍ばせて持ってきたとの言い伝えがあり、平の清盛の子孫が肥後姓を名乗り、口之島の住人の一番多い姓となっている。

・中之島

島に命からがら上陸しようとした平家残党の亡霊がブトになったという伝説がある。

・平 島

平家落人が列島で最初に流れついた島と言い伝えられ、島の東側の崖下の洞窟は平家の穴と呼ばれる。

・悪石島

源氏の追討を防御するために、島におどろおどろしい悪石という恐ろしい名前を付けたと言われている。

※悪石島の「仮面神ボゼ」は別格

 

Sさんは2年前、病気で亡くなった。島の病床でどんな夢を見たのだろうか。

「家が貧しくて、子供の頃、晩飯のおかずは母が川で釣ってくるヤマメや川魚でしたもんね。母親は釣りが上手くて…」そういいながら目を輝かせながら、目に見えない竿を操るSさん。

僕たちは、車を停めるとガードレールをくぐり、川へ降りる小さな道を木々の生い茂った道をかき分けながら進む。目の前は藪だらけだけど、足元をよく見ると村人がかすかに踏みつけた道が見える。(秘密の釣り場発見!) 奥で川の流れる音が聞こえる。釣り竿を木に引っ掛けないように、胸に抱きながら進む。五家荘の川は幅が狭く、木が頭の上まで茂っているので長い竿は使えない。短い竿をうまく手首を返しながら、パッとポイントに餌を落とすのだ。ヤマメは臆病で人の影や水を歩く足音にも身を隠し、一投目で失敗すると中々上に出てこない。結果、川を上に上にさかのぼっていく必要がある。そして行先にとても超えられそうにない大きな岩が立ちはだかると釣りは終わり。来た道を這い上がり、次の川を探すことになる。ようやく河原に降りて釣竿をつなぎ、リールをつけラインを結ぶ。ラインの先には手作りの毛ばり。河原の周りには水の中から羽化したかげろうたちが白い羽を広げて飛び交っている。水の中を歩かず、河原の岩の上を歩く。僕らの視線の先、苔むした岩の下には濃い緑の淵がある。その淵の前には岩があり、その岩から小さな滝のように流れは白い波を立てている。ヤマメはその波から湧き上がる虫を狙っているのだ。つまり、餌を落とすポイントはその白い波から少し離れた場所となる。Sさんは、息を止め身をかがめ、さっとその小さな渦の下に潜むヤマメの頭上に餌を落とす。その餌は小さな渦に沿いくるりと回る途中で、淵から躍り出たヤマメにくわえられる。バグッ!そのわずかなアタリの瞬間、竿はさっと跳ね上げられ、濡れたヤマメの体が宙に舞いSさんの手元に手繰り寄せられる。Sさんはニンマリいつもの笑顔に戻る。ヤマメは五家荘では「マダラ」と呼ばれる。黒い魚体に暗いまだら模様のガラが付いているからだ。僕はSさんと釣りの話をする度に、Sさんの手には見えないテカテカした愛用の釣竿が握られているような気がしていた。

 

五家荘の平家一族の家紋は「アゲハ蝶」。

前回の雑文録で書いた「アサギマダラ」は海を渡る蝶で、海を渡り日本から台湾まで旅する蝶と言われる。か弱い蝶が、日本の高山から台湾まで海上を休みもせずに行き交うことは不可能で、彼らは海に浮かぶ島々を辿り、蜜を吸い、休みながら台湾まで旅するのだろう。

人のタマシイも海を越え、どこかに飛んでいくのだろうか。

ふうわり、ひらり、ふうわり、ひらり

2020.08.25

山行

海抜ゼロメートルの自宅から車を走らせること2時間半、着いたのは僕のお気に入りの山々。真夏気温40度を超える下界が、標高1500メートルまで来ると、心地よい涼しさにほっとする。峠では小鳥たちの楽し気に歌を競い合う声にいやされる。一昨年の夏、ある谷を降りた時、苔むした横倒しになった流木から、長ーく伸びた茎の先に涙のしずくのような花弁をたらした勇ましい植物に出会った。濃い緑の葉を大きく広げ、下から見上げるその雄姿に僕は見惚れてシャッターを切った。その名は「ぎぼうし」。その不思議な名前と涙を垂らす、うつむくその姿を僕は記憶に刻んだ。7月に京都に行った時、家々の軒先の鉢にこじんまりと背中を丸めた同類の姿を見かけたのだが、その「養殖もの」の姿に驚いた。同じ花でこうも勢いが違うものか。お盆に阿蘇、産山村 ( ヒゴタイ公園) の川沿いの小道を歩き、またも同族、ぎぼうしの群生を見かけたのだが、彼らも養殖ものと同じ、ひ弱でまったく生命力を感じなかった。(失礼を承知で書くが、誰か種でも蒔いたのか?) 五家荘のギボウシを見てみよ。過酷な環境で1本どっこ。体を思いきり伸ばし、花を咲かせている。谷は「天然もの」の宝庫。探せばいろいろな出会いがあるのだろうけど、盗掘が後を絶たないそうだ。中には苔ごとごっそり盗む罰あたりな輩もいるらしい。( 絶対、罰当たるからねっ! ) どうせ下界で植えても枯れるのに「天然物ですよ、旦那」と売りつける。阿蘇では違う場所で、「キツネノカミソリ」を見かけた。初めて見るその怪しくも紅い花を調べてネットで検索するに、楽天でキツネのカミソリが通販されていた。「まさか売っているのは、天然ものではないでしょうね?お店の旦那」

今回はギボウシの時と違うルート山頂を目指す。( 情けないが、山頂まで行くのは無理… ) リハビリもかねて片道1時間半と決めて森の空気を吸い、山道を引き返す。

蝶の収集家として有名なのは解剖学者養老孟司先生。たまたま先生のユーチューブの動画を見ていたら淡々とした独特な語り口で、森の素晴らしさを語っていた。先生が飼っているマウスを「ほら自由になりな」と、机の上に開放したら、じっとして机の四角の世界でうずくまり動かなくなったそうだ。1週間経ち、ようやく自由に動き始め、体調が戻り生き生きしてくる。先生曰く、今の子供はネズミそのもの。大人が干渉しすぎると嘆く。だから子供のうちに森に連れていき自然を体験させるのは大事なことだとも語った。大人も動かないマウスだから仕方ないか。気温もエアコンで統一。変なサプリを飲んで長生きを目指す。コロナ騒動であわてふためくマウスたち。御年82歳の養老先生。煙草にさりげなく火をつけ、うまそうに吸い「ぷはーっ」と白い煙を吐いて微笑んだ。

帰りに少し寄り道。なんと今度は花の群生の中に「アサギマダラ」の群舞を見ることができた。次から次に、夏空から舞い降りてくる。もちろん天然もの!

「アサギマダラ」も謎の多い蝶で、海を渡り日本の高山にやってくるそうだが、検索していて、なんかもったいなくなり、その手を止めた。

 

 

海を渡る謎の蝶のままでいい。調べ尽くして知ったかぶりして語るより、今は謎の蝶のままで、僕のこころは充分満たされた。

五家荘は貴重な「養老の森」の一つなのだなぁ。

 

2020.08.07

山行

梅雨も明け、久しぶりに山に入った。左ひざの故障もあり、登山ではなく山歩きなのだけど、片道ぶらぶら歩いて3時間を限度にし、頂上を目指さずに時間が来たら、ぶらぶら帰路に就くことにした。それだけで充分なのだ。苔むした岩、樹の根の間の山の細道、杖を突きバランスを取りながら登り始める。大雨の後で山道の景色も大分変り、川の水量も増えている。崩落した沢筋には岩がごろごろ転がっている。通い慣れた道だが、何時通っても変化があり面白い。頭の上では鳥の声が追ってくる。

樹々の葉の色も濃く、見上げると星形の葉の形の重なりが青い空に浮かび上がり、とてもきれいに見える。誰もいない極私的空間。川から吹き上がる冷気も涼しく心地良い。1時間も歩かないうちに、1本の樹に付いた白いキノコの列に出くわした。その樹を見上げていくと、白いキノコの長い隊列が空を目指している。その隊列には何かリズムのようなものを感じる。そうだ、宮沢賢治の童話「どんぐりと山猫」の情景ではないか。

 

金田一郎君はある日、山猫から“めんどな”裁判の案内ハガキをもらい、裁判に参加すべく山に向かい、その途中で一本のブナの木の下に、たくさんの白いきのこが「どってこどってこどってこ」と、変な楽隊をやっているのを見かけ、道を尋ねるのだった。

一郎はからだをかがめて「おい、きのこ、やまねこが、ここを通らなかったかい。」とききました。するときのこは「やまねこなら、けさはやく、馬車で南の方に飛んでいきましたよ」と答えました。一郎は首をひねりました。「みなみならあっちの山のなかだ。おかしいな。まぁも少し行ってみよう。きのこ、ありがとう」きのこはみんないそがしそうに、どってこどってこどってこ、とあのへんな楽隊をつづけました。

 

僕が出会った楽隊は、足もとではなく、一本の樹の道を空に向かい「どってこどってこどってこ」と登って行く。何枚か写真を撮る。焦って撮らなくてもよい。きのこたちはじっと僕を見ている。風を感じ、森の息を感じる、この時間を感じるだけで充分楽しい。

そうして沢を行ったり来たりしながら、いつものなだらかな小さな滝の前に出る。本来はその滝を右に見て、大きな苔むした岩の隙間を登り、山頂へと向かうのだが、その苔むした岩に生える今まで見たこともない花を見つけ、写真を撮る。と、その岩の上から、滝の奥にある、隠れた滝の存在に気が着いた。この滝に行く道は、あまり知られていない山頂に向かう道だ。数年前、あるグループの登山に参加しこの奥のルートを辿ったが、急坂の途中で息切れ、酸欠。体が硬く重くなり、まったく歩けなくなり一人断念、引き返した思い出がある。頭の手術が原因なのだろう。どれだけやる気があっても体が動かなかった。

まだ時間があるし、少し引き返し、隠れた滝に向かうことにした。

森の陰に隠れて気が付かなかったが、その滝の前には先客がいた。今どきめったに見ない大きな三脚を構え、その上には、さらに珍しい、中盤フイルムカメラ (マニヤ)を乗せ、一人の男がカメラを構えていた。

暗い帽子に、体全体も暗いヤッケのようなものを身にまとっている。機材と言いカメラバックといい、相当使い込んでいるようす。長年山に通いつめ、写真を撮っている雰囲気のある影のような存在だ。ところが、その影はなかなか気に入った場所がきまらず、あたりをうろうろしている。時にうずくまり何かをしているようだ。

僕は足元を流れる小川のテーブル状になって水が落ちる景色が気に入り、しゃがんでカメラを構える。手前にふかふかした緑の苔の岩がある。こんな掌に乗るような箱庭のような景色もかわいいと思いシヤッターを切る。苔の上に蝶か虫が散歩していればなお良かったが、みんな忙しいのだな。

そうこうしているうちに、奥の暗い影は違う滝の前に三脚を移動した。僕の正面に位置する場所だ。そして絶句する景色が目に入る。

驚くことにその男は、三脚の前にある伸びたばかりの細い樹を、バックから手慣れた手つきで鉈を取り出しなぎ倒したのだ。バサッバサッ、二度三度、鉈を振り下ろし、樹を倒す。樹は地上から30センチほどの短さに切り落とされ、男の手にへし曲げられ、緑の葉の付いた若い樹が、足元に放りだされた。それでも満足できずに、残った30センチの樹も腰をかがめ引き抜こうとして体重をかけるが、根は抜かれないまま、男はあきらめた。前の場所でうずくまるように見えたのも、同じように撮影に邪魔な樹を切り倒していたのだろう。僕は自分の撮影どころではない。久しぶりに頭に血が上るのを感じた。

自然を痛めた上で、自然を撮ろうとする意識は全く理解できない。

どうする?注意するか?喧嘩するか、罵倒するか、問答無用、滝に突き飛ばすか。死体を土に埋め、彼が切り倒した樹を墓標にするか。

僕は会話が苦手で、いきなりヤルしかない。相手が怒って鉈をかまえたら、このスティックで腹を突いてやる…と妄想する。

とりあえず、話、話をするべきだ。携帯のカメラを動画に切り替え、奴の仕業、姿を撮り、ネットでさらし者にしてやる。(しかし、そのさらし方が分からぬ!)

そうしているうちに男に気付かれ、それとなく会話が始まる。そうだ会話をしながら、注意すればよい。「あなた、さっき樹を切っていたでしょう、俺は見た、そんなことしていい写真が撮れるわけない…」

と、言うつもりがカメラ談義。「珍しいカメラですね。マミヤ…」「そうです」男はそういうと額の汗を拭いて笑い、帽子をかぶり直した。結構な老人、齢は70前後。どこかの病院の院長のような上品な風情、もしくは大学の教授風。

「今どき中版フイルムカメラですか」「そうです。フィルムは感度がISO50」「レンズはズーム?」「いえ、単焦点の35ミリなんです」結構、難易度高い撮り方だ。この場所と決めたら動けない。

「ここは、しょっちゅう陽がでたり陰ったり、なかなか撮りにくいですな」気さくなじいさんだ。「森の中は光があるようで、ないからですね。いったん陽がでればまたやり直し」デジカメと違い、フイルム撮影は大変。ちょっとの計算違いで画像は真っ暗になる。現像代もフィルム代もばかにならない。じいさんはもうあきらめたのか、てきぱきとカメラバックにしまいだした。もう山を降りるらしい。

で、鉈の話はどうした…

問答無用、滝に突き飛ばすのか、この爺さん気さくな院長先生を。許すな、痛みを感じない自然破壊常習者を。だまされるな、温厚な人柄の奥に隠れた凶暴さを、慈悲のなさを、若樹をたたき殺す残忍さを!今注意せんと、またやるぞ、このジイサン!彼はとっととリュックを背負い、道を降り始めた・・

無残、敗退、慚愧…僕はどうしたら良かったのか。どうせ、気まずくなるなら最初からずばり、叫べばよかったのだ。「樹を切るな、殺すなと」なんで言えなかった!自分のだらしなさ、勇気のなさにがっくりする。期待外れ。

 

近々、僕にも山猫からはがきが届くだろう。

「タケダ、シンジさま、明日“めんどな”裁判しますから、山に来てください、とびどぐもたないでください」

金田一郎君は、どんぐりどものくだらない争いを、スパッと解決、彼の判決にうるさいどんぐりどもはシーン、ぐうの音も出なかった。秋になると、森はどんぐりどもの叫び声で大騒ぎ。大きいのが偉い、背が高いのが偉い、丸いのが偉い!まさにどんぐりの背比べなのに、どんぐりどもは自分が一番偉いと大騒ぎ。人間の世界と同じ。そこで金田君は判決を言い渡す。

「この中でいちばんばかで、めちゃくちゃで、まるでなっていないようなのが、いちばんえらい!」と。するとどんぐりどもは、しいんとしてしまいました。それはそれはしいんとして堅まってしまいました。山猫が感心する。これほどの難しい裁判がたった1分半でかたづけてくださいました。どうかこれからわたしの裁判所の名誉判事になってください。

僕は裁判官の役で山に行くのではない。被告として出頭し、山の生き物みんなに囲まれ、裁判を受けるのだ。1本の樹を殺した犯人を見逃した罪で。裁判は長引きそうな予感がする。ハガキが着くたびに僕は山に出頭しなければならない。谷を出る時には鳥の声はしなかった。

2020.07.22

文化

(写真は京都・法然院)

7月になっても雨が続き、五家荘の山行きどころではなくなった。山に行けないストレスを解消するために、再度図書館から泉村誌を借りて読むが、内容が深く膨大でなかなか手ごわい。資料の山の迷路に彷徨い、出口が見えない。

 

ところで「極私的芸術祭はどうなった」と思い起こすに、立神峡の陶芸家、H氏から最近、何の連絡もない。

お互い人づきあいが苦手なほうで、特別な要件がなければメールさえしないのだが、私が発注したあの「しずく」のオブジェはどうなったのだろう。

 

一度、思い立って電話したが、「コロナ」問題で春に京都で予定していた陶芸の展示会も中止、生活も厳しく、いろいろな補助金の申請で忙しいと話していた。それにしても遅い…遅すぎると、気をもんでいたら、以心伝心、久しぶりにメールがくる。一応試作品ができたと、画像が送られてきた。

その画像とは…お願いしたものと、いゃ…ちょぃと違うような気がする…本体中央の穴は、僕の希望とおりにすると割れるかもしれないので丸い「トンネル状」にしたとある…その、トンネルの切り口があまりにもきれいで…機械的で、味がない…更に、色は、こんな色でどうですかって…濃い緑と書いて送ったのだが…この暗い、たとえようのない色は何だ…しかも色を聞く前に、自分で塗って焼いて…画像では確かに、すでに完成しているではないか…。

間に合うかと思い(…もう間に合わない)…色は緑に!と返信したが、その返事がない。再度電話するに、今度は携帯を無くして、これまでの携帯のデータが全部消えて、何の連絡も出来なかったとの事であった…先生…僕たちこれからどうしたらいいのでしょうか?

結果、予算を追加して、しずく2号 (2滴目) も制作してもらうことになった。

やはり造形は難しい…この世に存在していない形を自分の意志で生み出すのはそう簡単ではない。まず技術がないと粘土で丸い団子もつくれないし、短気な自分にはまず無理だ。土を何度も練り空気を抜き、指でするすると形を作る。その形に自分の思いを込め、焼き上げる。

般若心経的に言えば「色即是空、空即是色」だ。何もないところから、何かが生まれ、何かが生まれていそうで、実は何も存在していない。

 

森のしずく…森から滴る、しずくの一滴。その張り詰めた透明のしずくの中に、森の景色が映り、青い空に白い雲が流れ、鳥の声が封じ込められ、そしてポチャリ…消える。何万年もその繰り返し。ポタポタポタ…いくつもいくつも、しずくが落ちてははじけ、消える。

 

もうよい、まずはしずく1号をもって森に出かけようではないか…1号も、元は土からできた森の仲間ではないか。叩き割って、森に還すか。縄文土器のように、何かを包み込むため儀式の後、土器を地面に叩きつけて割るのだ。しずく1号を割り、その欠片を森に埋めた写真を撮ろう…。極私的に感じる、極私的芸術祭とはこのことじゃい。

しかし、こういう極私的芸術行為は他人に見られてはまずい。誤解を受ける恐れがある。しかし、ごみの不法投棄では断じてない。あくまでも芸術的な行為なのだ。(説明しても多分、誰にも分らぬ) 五家荘の山に自分のしずくを抱いて、パリンパリンと、叩き割り、こっそり、山に谷に、欠片を埋める。しずくの破片は時の破片。降り積もる木の葉に埋まり、土に埋まり、粉々になり森と同化する。…と、いう妄想を持ちながら山行きの準備をするにも、今年の長雨…まだやむ気配がない。

 

そんな雨の合間を縫い、ほぼ10年ぶりに京都に行く。

 

3泊4日、おじさんのふらり一人旅だ。宿は左京区浄土寺にある、2階建ての小さなホテルだった。地名から浄土寺。極楽浄土はすぐそばだ。その宿からは哲学の道、銀閣寺に道がつながるのだが、一番近いのは法然院だった。法然院には作家谷崎純一郎の墓があり、にわかファンの自分はその墓を見るのも旅の目的になった。早朝、大雨に打たれながらも参道を登り緑に苔むした山門をくぐる。山門を降りると、道の左右に砂山が見える。「白砂壇(びゃくさだん)」と呼ばれ、両側に白い盛り砂があり、水を表し、心を清めて浄域に入る意味があるとのこと、砂の上に書かれる文様は季節ごとに変わる。今回は丸い円が二つ。つまり雨のしずくなのだ。

水浸しの石の歩道を左に折れ、うっそうと垂れ下がった、緑の木々の奥に、石の塔があり、その奥に石で作られたオブジェ (何か安っぽく聞こえるな…) があった。

掌に乗るくらいの丸く磨かれた石が、天から垂直に降り、連なり、地面を連打している。

 

 

タタタタ、タタタ、タンタン、地球を打ったその丸い天体は、四方八方にしずくとなり、散らばる。ひたすらその繰り返し…僕にはそう見えた。

雨が降らなければ、その丸い天体は静かに天から舞い降り、静謐な景色を感じることができたかもしれない。

敷地内には、聞・思・得・修・信の板がある。これがこのオブジェの解説板なのだ。

 

雨がより激しくなる、山の斜面の竹林からひっきりなしに雨が降り注ぐ。…帰りに墓地に向かうが、とうとう谷崎の墓は見つからなかった。丸い自然石に直筆の「寂」という文字が刻まれているそうだが、早朝、一人「寂」の気分を感じることができてよい。稲垣足穂の墓もあると聞いたが、こんなに雨が酷ければ、好物のシガレットも湿気って、火もつけられなくて退屈だろう。

 

タタタタ、タタタ、タンタン…タン…タン…タン…

聞・思・得・修・信…

 

 

2020.06.08

山行

病気の後遺症のせいで今年の10月まで車の運転ができない身なのだが、“どうしても会いたい花”がいる。その名も“ギンちゃん”。正式には銀竜草(ぎんりょうそう)・ツツジ科の植物。「ひと目」見たらだれも忘れられない「ひとつ目」小僧。その姿は、杉の木立の暗がりに、ひっそり住い、時期が来ると枯葉のなかからすっすっと顔を出し、全身、白銀の服をまとう。何人かまとまりうつむいて、ひそひそ話をしている。そんなギンちゃんのことを不気味に思い、失礼にも幽霊草と呼ぶ輩もいる。そんな「ひとつ目」銀ちゃんに「ひと目ぼれ」した僕は、くどくしつこい性格なのだ。

 

去年も捜索したが、山を間違え、完全に当てが外れた。(その代わりに家人が珍しい、すっぽん茸を見つけた) 今年こそはと意気込むに、年末に左肩の腱板断裂、さらに成人の日に駅前広場で芝生に足を滑らせ、プチリ、左ひざの靭帯損傷、体の半分、左斜めに崩れながらも整形外科でリハビリ半年、「今度の週末山に行くのです。ギンちゃんに会いに」という意味不明の発言、若き理学療法士の先生、無言、無反応で僕の左ひざをベットの上で軽々と肩に担ぎあげ、体重をかけ、ぐいぐいと膝の裏の筋肉を伸ばす痛さも、足首にいつもより重い2キロの鉛を巻かれ、上下50回!と言われ、右足のふくらはぎが同時に激しいこむら返り、あまりの痛さに声を挙げようとするも我慢し耐え、嫌がる家人を脅迫、愛車イグニス(ドアに大きな擦り傷アリ)を運転させ、大通り峠越で五木に入り、五家荘の或る山を目指した。がけ崩れ、割れた岩の尖る林道を強行突破、ついに目指す山の登山口にとりつく。今回は五家荘の先輩“レスキュー山師” Oさんのフェイスブック情報から、おおよそギンちゃんの居る場所は想像がつき、膝のサポーターをパンと引き締め、急な登山口の坂をよじ登り、這い上がる。そのまま夫婦でほふく前進、しばらくすると、這いつくばる目の前に“ギンちゃん”が現れた!何と美しく、不思議な孤高の植物よ!地球上の植物で、全身銀色に輝く植物がどこに居るか!ギンちゃんだけではないか!

◆ぎんりょうそう…ツツジ科ギンリョウソウ属の多年草。腐生植物としてはもっとも有名なものの一つ。

調べるに「腐生植物」というのは誤り。昔の本には動物の死体や糞などに栄養源を求めるとかいて、花の下には死体が埋まっているなどと、更に謎めいた言い伝えもある。実際ギンちゃんは、カビやキノコ(べニタケ類の菌糸)を食べて暮らしていて、腐ったものを食べているわけではない。正確には「菌従属栄養物」という。光合成をしないので色は白く、暗い森の中でも暮らしていける。地上に顔を出すのは花を咲かせ、実をつける約2か月だけ。植物のくせに光合成もしないでふらふらフリーに生きているのはなんとすごいことなのか。学校の授業で先生の教える、植物の光合成の話は「大嘘」(そこまで言わなくてもいい ) ということになる。田舎でよく言う「勉強せんと、いい学校に入れんばい」と大人が言うのと同じ大嘘なのだ。つまりテレビで100点満点東大のクイズ王が、卒業して政府の官僚になりクズの王様になる前に、ギンちゃんの存在を学べと言いたい。

光合成なぞせずに、森の暗がりでひとつ目を光らせて闇を見つめるギンリョウソウの家族のユニークなことよ。僕は妄想する。闇夜の晩。月を隠した暗くて重い雲が風に流され、雲の間から月の光が一筋、森に射し込む。その光を浴びて、ギンちゃんの体は反応して、うつむいていた顔を上げる。光合成ではなく月合成…。森の中でいくつもの瞳がピカり煌めき、首を振り、光を放射する。その光を合図に、森に住む「だいだらぼっち」が覚醒し、森の中をのしのし動き出す。

こんな妄想はともかく、ギンリョウソウの生態を詳しく調査した結果も、ネットでは色々出てくる。熊大の杉浦准教授のリポート、東大の塚谷裕一氏の著作「森を食べる植物」では、みっちりギンちゃんのことが報告してある。ギンリョウソウの生態を真剣に知りたい方はそちらの正しい道へどうぞ。

フェイスブックに写真を投稿すると、五家荘の山の守り神、レスキュー O氏からは「執念ですね」と笑われ、重鎮、Mさんからは「あなたも男、覗き趣味」ですねとほめられた(苦笑)。

「執念」プラス「覗き趣味」。その答えは「変態」。杉林の暗がりで這いつくばり、一つ目小僧、ギンリョウソウの丸い瞳に魅せられひたすらカメラを覗く姿は、はたから見れば「変態」そのもの。しかしネットで検索するに、あふれんばかりの写真が出てくる。つまり、全国にはあふれんばかりの“ギンちゃん”フアンの変態族が居るのだ。正論ばかり吐いて自分の頭で考え、何も感じない者ばかりだと、融通が利かない世知がない世間となる。変態(オタク)が世間を救うのだ。

撮影後、振り返ると、家人が道の途中で倒れかけていた。もともと気管支が弱いのだ。いったん坂を降りて、再度救い上げ、ギンちゃんを見せて帰路に付く。

ギンリョウソウの花言葉は「はにかみ、そっと見守る」

 

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