熊本県 八代市 泉町(旧泉村) 五家荘
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雑文録

2021.07.28

山行

僕が五家荘で一番好きな山と言えば、白鳥山。(標高1638m)

登れば登るほど好きになる山と言ってもいいくらい。以前、乗っていた車(トヨタ・フィルダー)の名も車体が白で、自分では「シラトリゴウ」と呼んでいた。優雅な名前の割には、すり傷とへこみだらけだったけど…。

白鳥山の魅力は残された自然と、山にまつわる哀しい歴史にある。山麓一帯は、ブナなどの自然林に囲まれ、谷から川筋を登るもよし、峰越(峠)から尾根伝いに歩くも良し、登山道に入ると、いきなり濃い白鳥ワールドに踏み入ることになる。

四季折々、いろいろな植物、苔の世界が待っていて、いつ訪れても何かの発見や出会いがある。あまり成果がない時は、少し脇道にそれ、苔むした巨木の後ろに回ると、森は違う表情を見せてくれる。僕にとっては宝さがし。

敢えて山に登らなくても、古書をたどると、山にまつわる哀しい歴史に足元をとられることになる。五家荘の山々には古道が存在し、昔は行き来のあった作業道や集落をつなぐ道も、人が途絶えると草に覆われ姿を消してしまっているけど、歴史を調べると消えた道もよみがえる時がある。

白鳥山は尾根を通る道は踏み後もしっかりして、それだけ、長い時間、踏みしめられた道でもある。歩く道の下には落ち葉とともに、古人の生活の足跡がいくつもの層のように積み重なり合っている。

峰越は宮崎県との県境であり、北に下ると宮崎県の椎葉村の領域になる。峠から烏帽子岳に向かい山道を少し歩いた場所に「ぼんさん峠」があり、五家荘の樅木に不幸があると、村の若い衆が椎葉村から「ぼんさん」を背負って、着替えやらなにやら一式とともに葬儀に間に合うために通ったと言われる峠が存在する。それほど五家荘と椎葉村との関係は深いそうなのだ。

白鳥山の別名は御池(みいけ)さん。山頂前の湿地帯の以前の姿は池で、雨乞いの神聖な場所だった。白鳥神社も存在したそうで、その時期と同じ時期かどうかは分からないけど、平家の落人が住んでいたという伝説も残っている。

御池の周辺は、ぼやぼやしていると、時に天候も急変、踏み固められた山道もあたり一帯ガスがかかり、白いモヤに一気に包まれる時がある。ここで焦りは禁物、じっとしているのが一番、焦るあまり、幾重にもつけられた踏み後を進むと、迷った挙句にまた迷い自分の位置も方角も分からなくなる。冷たいガスに体温も奪われ、真夏でもヒンヤリ肌寒い。

前回の山行も(僕は結構な雨男…)小雨が降りだし、ガスに変わり、体温を保つために体を丸くしてうずくまる目の先、その先には白いモヤの中を、人の形のような薄暗い影たちが歩き始める幻を見た。気が付くとさっきまで「ケンケン」とかん高い警告音を鳴らしていた鹿の声も、おしゃべりな鳥たちの鳴き声も途絶え、頭上を気流のゴーッ、ゴーッという声か通り過ぎる。両手を広げ叫ぶ人影、地べたにうずくまる人影、倒れた像が這い上がる…モヤが消え去ると、その影の正体は、苔生す枯れ木の姿であったり、倒木の編まれた網のような根の塊にすぎないのだけど。そういった景色の中で雨乞いの儀式が行われていた姿を想像すると時空を超えて、森は僕をますます謎めいた気分にさせてくれるのだ。

白鳥山は五家荘の発祥の地とも言える。泉村誌によれば、追っ手を避け、白鳥山にたどりついた平家の落人はこれから生きるための祈りをささげた時に、一羽の白鳥が飛来して、足元に5枚の羽根を落としていった。これを彼らは神の加護と思い、この羽で五本の矢を作り人が棲めそうな方角に矢を放った。一の矢が樅の木にささりその場を「樅木」と名付け『白鳥神社』を祀って住むことにし、二の矢は、ニタ摺りをしているイノシシの尾に当たり、これはめでたいとその地を「仁田尾」、三の矢は行方不明、樅木と仁田尾の間でそれぞれの地を出し合い繋いで「葉木」、四の矢も行方不明…子孫が幾久しく暮らせる願いを込め「久連子」、第五の矢は椎の木に当たり「椎原」となづけられたといういわれがある。第二の矢までが「それなりの言い伝え」として理解できるけど、残りの矢が行方不明とは、嘘っぽくなくて面白い。いくらあいまいでも、確かに五本の矢の言い伝え通り、五家荘には五の地域が確かに存在している。

ところがこの言い伝えも、尾根の反対側の宮崎の椎葉村の言い伝えでは真逆の内容になる。

追っ手を逃れた平家の残党が御池の周辺で陣地を張っていた時に、山頂付近の石灰岩(白い巨石群がある…)の白い姿を源氏の白旗と見誤り、もう逃げられないと自刃したとの言い伝えが残り、なんと同じ山頂でも、消滅と再生、真逆の伝説があるという不思議な地なのだ。

壇ノ浦の戦いは、平安時代末期、1185年の戦闘。栄華を誇った平家が滅亡に至った最後の戦いで、その残党が九州の山地を転戦したどり着いたのが九州山地の真ん中、椎葉村、五家荘のエリア、すでにその戦いから900年近くの長い月日が経っていて、その打ち寄せる時間の中で、洗い出され、残されたのが落人伝説なのだし、それが残るには何らかの理由がある。黙して語らぬ山の神さんはその真相すべてを知っているのだろうけど。

僕は素人ながら、五家荘の平家伝説のモデルは平家の落人伝説と、椎葉山一揆の残党、生き延びた人の伝説との合作ではないかと推察している。そもそも椎葉地区には平家の残党が生き残り集落を形成し、平和な暮らしを営んでいたのを、豊臣秀吉へ見栄を張るために当時の山の主たちが内輪もめ、結果、政府から討伐の命令が下り、椎葉山一揆(1619年)…山で平和に暮らしていた人々は皆殺し、悲しい結果となる。その人々の残党が必死に白鳥山に逃げ延び、身を潜めて暮らしていたのではないかと思ったりする。山一揆で生き延びた人たちが、生きるすべとして敢えて、平家の残党と名のったのかもしれない。

椎葉山一揆は今から500年前、事の顛末は、幕府側の資料としてきちんと記されている。一揆後は幕府の天領となってその後人吉の相良藩に預けられた。こうして資料を読んだりしていると白鳥山の名前がなんと切なくも感じられてしまう。何しろ皆殺しなのだから。白い羽が多くの人の流す血で赤く染まったり、侍の刃で倒された山人たちの屍の周りには芍薬の白い花が、乱れ咲いている景色もあったろうし、御池の暗いよどみも、よけい深く感じてしまう。奇しくも五家荘も別の理由で天領となり幕府が管理するという同じ運命を背負った。

樅木から峰越、椎葉村への林道は1986年に5年掛けで開通した林道で、その道のおかげで、白鳥山へはすぐにでも入ることができるようになった。開通に際しては樅木、椎葉地区の住人の喜びようは大変だったようで、ネットの検索にはいろいろな交流イベントが開催されていた。(ぼんさん峠も不要になった)林道はつまり、林業の為の道路でもあり、残念な事と言えば、白鳥山の宮崎県側は自然林が伐採され、杉林に変わり、結構なスペースの自然は消滅してしまった。

今から何百年も前の話、どう思おうが、その人の自由、感じ方次第。今年も雨でも数回、白鳥山に出かけ、散々な目にも遭ったがそれも僕の自由でもある。馬鹿は治らない。

昔の白鳥号はどんどん優雅に(!)急な坂を登ってくれたけど、いまのパジェロミニ(車体の色は黒…愛称、クロちゃん)はさすがに、坂をうんうんあえいで登る。雨が降っても下手にワイパーのスイッチは入れられない…前回、原因不明の故障で止まらなくなった…おまけで付いているカーナビも相当怪しく、時に場違いな山鹿の地図が表示されるし、ピンポンと音が鳴り、驚いたのは、峰越に着いたとたん、「まもなく、踏切です…用心してください」と助言してくれた。ここは峠だよ黒ちゃん!

電波が混線しているのか、つまり、そんな黒ちゃんを運転する僕の脳も相当混線しているらしく、この前は本当に、キリに包まれ座り込み、御池を前にカメラを構え撮った一枚に、僕の脳は何かを感じ、そのあとしばし、動けなくなったのだった。

 

 

ワクチンとたんこぶと。

雨も楽し、五家荘

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