熊本県 八代市 泉町(旧泉村) 五家荘
メニュー
雑文録

2022.09.19

文化

五家荘に鎮座する国見岳は標1739メートル。熊本県最高峰の山なのだ。熊本県民のほとんどが熊本の最高峰は阿蘇山と思っているが、そうではないし、そもそも阿蘇山という山は存在せず高岳、中岳という山々の総称なのだ。五家荘と同じ烏帽子岳という山もある。ついでに調べていくと、阿蘇には西巌殿寺(さいがんでんじ)という天台宗の寺院があり、古くから阿蘇山修験道の拠点として、九州の天台宗の中で最高位の寺格を持つ寺院だったそうだ。

五家荘の山々にも修験道の山があり、そこらも共通点がある。神仏習合、山の神さんがみんなの暮らしを見守ってくれていたのだし、みんなの気持ちは山の神さんと自然とともにあったのだろう。そして西巌殿寺は釈迦院と同じく、明治政府の廃仏稀釈で廃寺が決まり山伏は還俗(げんぞく)した。※還俗とは、戒律を堅持する僧侶が在俗者・俗人に戻る事。

 

泉村誌を読むに、国見岳は過去に大々的な調査が行われた。

※昭和62年(1987) 現地を視察した研究者が次のような指摘をした。

山頂にある山形の巨大岩は祭祀の拠点「磐座(いわくら)」とみられる。そして山頂付近の調査で西側の磐座の前に柱の穴らしきくぼみがあり、表土をさぐると、4か所の穴が確認された。

この結果を踏まえて、平成4年(1992年)5月の3日間、その4か所と中心部の穴跡の発掘調査が行われた。

◆調査主体者

国見岳の神籬(ひもろぎ)保存会会長・井伊玄太郎氏 (早稲田大学名誉教授)

保存会事務局 中島和子 (京都精華大学教授)

熊本県文化課、泉村教育委員会、などなどの面々

その後、再調査が平成14年(2002年)7月に行われた。

◆調査主体 NPO古代遺跡研究所 所長 中島和子

調査団 日本考古学協会。山鹿市立博物館長 隈昭志氏の面々

東西南北、深さ、6メートルのトレンチ調査が行われ、

結果は残念ながら、新しい発見はなく、

今後は更なる大々的な調査が求められる…と、書いてあるところで終わり。

…おそらく当時の詳しい調査結果はどこかに保存してあるのだろうが、僕には見る事はできない。

それ以上はネットで、国見岳に関連する情報を深堀りするしかない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そもそも※昭和62年(1987) 現地を視察した「研究者」とは誰か?

ついでに言えば、何故その研究者の氏名が記されていないのか?

 

単純に考えれば、平成4年に調査された、調査主体者の

国見岳の神籬(ひもろぎ)保存会会長・井伊玄太郎氏の事だと思うのだけど。

神籬(ひもろぎ)とは、神道において神社や神棚以外の場所で祭祀を行う場合、

臨時に神を迎えるための依り代となるもの。

国見岳山頂の巨岩を山の神様の代わり「神籬」として、当時の人々は山の神様に祈りを捧げていたのだろう。「神籬」は現代、地鎮祭などで用いられている。ちなみに、国見岳の神籬(ひもろぎ)保存会の情報は、ネットの検索にも出てこない。全国にも国見岳という名の山が多々あり、同名の「国見岳」のネットワークに何か深い意味があるのだろうが、井伊玄太郎教授の書かれた本に国見岳にまつわるものが見当たらない。

さて、次に出てくる方

国見岳の神籬(ひもろぎ)保存会事務局 中島和子(よりこ)氏

中島教授は2回目の調査主体のNPO古代遺跡研究所所長でもある。古代遺跡研究や、磐座についての論文を多数発表されているが、古代遺跡研究所の活動資料はインタ―ネットでは見当たらない。ただ、全国で古代遺跡、縄文についての講演活動をされていて(過去には熊本でも講演されていた)その参加者のブログなどで、多少の研究の内容をつかむことが出来た。

中島氏の略歴には、「古代における政治と祀り」をテーマに日本とアメリカ大陸先住民の古代文化を研究中。九州と六甲山・甲山周辺の磐座(いわくら)を守る運動を起こしていると書かれてある。

磐座(いわくら)とは、「神の鎮座するところ。神の御座」。「そこに神を招いて祭りをした岩石。その存在地は聖域とされた」との意味。

 

五家荘の国見岳の山頂、巨岩は、つまり磐座、神籬の場、

神の鎮座する場所でもあり、古代から神聖な祀りの場だったのだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

◆中島教授の講演の一部(講演を聞いた人のブログの要約)

 

漢文の古事記では日本語の言霊の真意は書き尽くせない。

(例)天地初発之時 於高天原 成神名 天之御中主神…

と漢文で書かれているが、日本語の言霊では

「あめつち はじめてひらけしとき たかまのはらに なれる

かみのなは あめのみなかぬしのかみ・・・」

 

つまり、漢文の「天地」は「てんち」てんとちという事なのが、

「あめつち」となると「あ」「め」「つ」「ち」の一つひとつの

言葉に沢山の意味が含まれている。

例えば

「あ」…目に見えない微粒子。宇宙に満ち満ちている。根源。純粋などの意味

「め」…芽。始め。動き。

「つ」…集い。つくる。

「ち」…凝縮。力の根源。

イワクラ…天津神に降りていただく所。だから、天に近い高いところにつくる。

古代の祈りは太陽の光の暖かさに感謝し、自然の恵みが豊かであることに喜び、個人のみでなく全てのものが豊かになるようにという思いがある。それなのに、現代の人間の祈りといえば自己の欲望や自分勝手な願いばかりが多く、神社でもそのような祈願が主流になっていることを中島教授は嘆かれていたようだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

磐座について深堀していくと、日本磐座学会というものにたどり着く。学会は全国の磐座についての情報を発信したり、講演活動もある。

フェイスブックも開設され「生きた」情報がどんどん公開されている。国見岳の神籬(ひもろぎ)保存会とは、かすかに道が繋がっているような気がする。

http://iwakura.main.jp/

 

国見岳がきっかけで、インターネットの情報の森の中、又僕は道に迷いつつある。(苦笑)

8月に国見岳での遭難事故があった。無事、救助されて良かったと思う。僕も同じく五家荘の山での遭難経験者だが、五家荘の山は深く、いったん間違って降りたり、落ちたりすると中々引き返せないのが実情なのだ。しかもその時は自分がどこにいるのかも分からなくなる。迷ったときは、その場所に戻るのが鉄則だが、谷底からその場所を見上げるに、そこまで戻るに相当な体力が居るので、そのまま、助かりそうな場所を目指して歩き始める、森の深みにはまるわけだ。

今、国見岳の登山口までの林道は崩壊し、僕の現状では捜索の手伝いに行くにも登山口までの林道の途中で体力が切れ、うずくまり、捜索メンバーから保護されるのも恥ずかしいので、捜索には参加出来なかった。つまり遭難された方の無事を祈るしかなかった。

 

8月の末に、たまたま坂本村で山好きの老齢の方と出会い、五家荘の山の話題になった。その方は数10年も前に国見岳に登った事があり、友人が山頂近くで遭難されたそうだ、友人は1日かかり谷底から這い上がり助かったそうだが、その時の国見岳の山頂は今の展望のいい山頂とは違い、うっそうとした森だったそうだ。今の五家荘は強風で尾根の樹々も倒れ、見晴らしもよくなったが、当時は深い森だったのかもしれない。その森の中に磐座は鎮座されていたのだ。国見岳で執り行われた神籬の儀式の景色を想像する。

中島教授の指摘の通り、現在の社寺、宗教で、人は物欲まみれの祈願ばかりで、逆に神も仏様も逃げ出してしまっているようだ。

古来、日本人は自然の山や岩、木、海などに神が宿っていると信じ、信仰の対象としてきた。古代の神道では神社を建てて社殿の中に神を祀るのではなく、祭りの時はその時々に神を招いて執り行った。その祭りのシンボルが今も国見岳に残っているのは、何ともこころ強いではないか。

もう、めったに山頂まではいけないが、山道を歩いていて見つける石ころでも、神が居ると信じたら、それが神と信じたいと僕は思いたい。それだけで古代の神と人と、交信できる気がする。

家で寝ていて、国見岳で執り行われた神籬の儀式の景色を想像すると、ぽっかり天井が開き、山の夜空が広がる幻想を一人、見る。

2022.08.21

文化

廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)…そう2月6日の雑文録(金海山 釈迦院)で書いた、薩摩藩らが、徳川政府との戦に勝つため、無理やり京都の天皇を政治利用し「錦の御旗」を掲げ、明治維新を達成、全国津々浦々、各集落毎にある神社を合祀しお寺を廃止、一町村一神社を標準とせよという無茶苦茶な事を庶民に押し付けた法律が「廃仏稀釈」なのだ。

明治元年(1868)明治政府によって出された神仏習合(しゅうごう)を禁じた命令で、全国に仏教排斥運動が起った。土着の神と仏様さまが仲良く暮らしていたのを追い出しこれから天皇を神とせよというもの。五家荘でも釈迦院が被害に遭い仏像が廃棄された(一部、かくまわれて復活) 。天皇は人から生きた神に大変身…

釈迦院は九州山地の修験道の拠点の一つ。全盛期は西の高野山とも呼ばれ、天台・真言・禅・浄土宗の道場、二寺、75坊中(僧の住む家)が並び立ち一大聖地だった。当時は尾根伝いに山伏が修行し時に山人の病気、ケガをなおし、仏様の教えを説いて回った。二本杉に祀られてあるのも、お大師様(弘法大師)の像。

五家荘の尺間神社の建立のきっかけは、五家荘の庄屋の一つ「左座家」にまつわる言い伝えにから。ある時、左座家の4代目の亀喜が原因不明の病気で突然、床に臥せてしまった。日夜、熱にうなされ、いろいろな治療に手を尽くすが容態は悪化するばかり。親戚縁者集まるに、病の原因は左座家に代々伝わる「備前長船」という刀でなはなかろかと誰かが言い出した。屋敷に泊まる人も亀喜と同様、夜な夜な熱が出て、悪夢にうなされる事が続いたのだ。奇怪なことに翌朝、うなされた人が床の間に目をやると、飾ってあった「備前長船」の白刃が鞘から顔をだしている。きっとこの妖刀の呪いが原因なのだ。

五家荘には庄屋だった左座家、緒形家の屋敷が今でも保存され、見学も自由となっている。薄暗い床の間には板で棚が架けられ長い板、短い板が上下平行して取り付けてある。聞くところによると、当時、争いなどが起った時に討ち取った敵の大将の生首を床の間の棚に置いて戦果を誇る習わしがあったという。首から流れ出た血が直接落ちて畳を汚さないように、階段状にその床の間の板を流れ落ちる仕組みらしい。このような事は当時の戦では当たり前なのだろうけど。

さて、4代目の病気をどうするか?いろいろ聞いて回るに大分の尺間神社 (1573年 天正元年建立 )の神様なら何とかなるのではないかという情報を左座家は得て、中畑萬吉という人に無理を言い大分の尺間神社までお参りを頼んだ。すると神社の神様から中畑さんに亀喜さんの病気のもとは、刀のたたりというお告げがあった。

そこで左座家の5代目は遠路、大分の尺間神社に行き神社に備前長船を収め、80日間山に籠もり荒行した。すると4代目の病気は嘘のように完治、旅人もうなされることはなくなった。その事がきっかけで地元の人々は本家・尺間神社に分祀をお願いし、今の西の岩の尺間神社が出来たのだ。村に本物の山の神様が来たとみんなは大喜びだったという。閉ざされた山里、五家荘。今のようにインターネットもパソコンもない。五家荘と大分の尺間神社をつなぐ役目は山伏、信仰心のネットワークが役目を果たしたのだろう。

僕に神のお告げがあったわけではないが、やはり、どうしても五家荘の尺間神社の事が気になる。釈迦院と尺間神社、当然大きな時間差があり、関係性は皆無だろうけど、閉ざされた山間地の宗教心を基に考えると、草むらに消えかけたもう一つの尾根の道が微かに見え隠れするような気がする。

そう思いながら、一度、尺間神社の鳥居をくぐるも体力不足、根性なしで断念、引き返した自分を恥じ、もう一度、尺間神社の本殿に向かう事にした。

その日は、山の神のお告げ、手助けか、鳥居をくぐると、崩落した参道の斜面に太い、黒と黄色に編まれたビニールのロープがするすると垂れ下がっていた。

体重70キロの重さに耐えながらも、崩落した急坂をロープにすがりながら登り始める。道の幅は一人分の幅しかない。時々、岩が顔を出し坂は更に狭く急になる。頭の上に樹々の枝が伸び、進行を邪魔する。ロープはとうとう本殿の手前まで繋がれていた。おそらく、地元の人々が参拝するために設置されたのだろう。左ひざを痛め、バランスのとれない僕の体は最後までロープにお世話になってしまった。

そうして、尖った岩山の上に、ちょうど4畳半くらいの木造の本宮があった。標高917メートル。もう体もフラフラなのだが本宮の周りを見るに、本当に岩場の頂上に置かれているのが分った。建物の周りをぐるり回ると基礎部分は平たく割られた岩を積み上げた薄い石垣の上にバランスよく建てられていたのだ。

足元を見ると、断崖絶壁。木の枝のすきまから苔むす岩の壁面が見える。足元から吹き上がる冷たい風に身も心も凍り付く。本宮の裏に回ると、岩場を少し降りる道があり、その向こうにも岩場の上に同じ大きさの建物奥宮がある。それにしてもよく、こんな場所で祈祷しているものだ。さすがに奥の宮まで怖くて行けない。恐怖で固まり、体が動けなくなる。カメラバックからスローモーションのような動作でカメラを出し、怖れながら写真を撮る。

※以前読んだ資料で、本殿は「びゃくらんの滝」の上にありますと記されていた記憶がよみがえる。つまりここは滝の最上部にあるのか…と思うと余計に怖い。しばし休憩、足元に気を付け、ロープにすがりながら帰路を急ぐ。

本宮への道など、地元の山人から言わせれば、なんでもない山道だろうし、恐れることはないのだろう。恐れているのは無信心、邪鬼の塊、罰当たりなよそ者の僕くらいだ。

嗚呼、尺間権現様…時代は大きく変わりました。人も少なくなりました。それでも、山の神様は山人の健康祈願、暮らしを見守ってくれているとみんなは信じております。

これからも、本宮から長いロープを一本、下界に垂らしておいてください。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

※尺間神社の本来の意味は、魔を払う意味の釈魔大権現。大権現の名称から尺間神社に変身(変名)したのは廃仏毀釈の影響だと思う。残念な事に今の尺間神社に電話するも愛想の悪い男の低い声で怪しまれ不快な思いをした。地元の文化施設の担当に聞いてもたらいまわしにされ、ほとんど情報はなかった。(苦笑)

五家荘の尺間神社の建立は、1904年(明治37年)。廃仏稀釈とは無縁で、山の神さんという事で信仰、親しまれてきたのではないか。大正に入ってからは、不合理な神社合祀がされることはなくなり1920年(大正9年)「廃仏毀釈」運動は終息した。

※九州で廃仏毀釈の被害を受けた有名な神社は英彦山

英彦山は、羽黒山(山形県)、熊野大峰山(奈良県)とともに日本三大修験山のひとつとされる。江戸時代の最盛期には3000人の衆徒と800の坊舎(宿泊場)があり九州地域の崇敬を集めてきた霊山。しかし明治維新の廃仏毀釈と神仏分離令、修験道禁止令によって、神仏習合および仏教に関わる文化財の多くは人為的に破壊され、口伝を主とする修験道文化の伝統はほぼ途絶えた。明治政府に反抗する多くの修験者が投獄され、亡くなった。

 

2022.07.24

文化

3年に1回開催される、瀬戸内海国際芸術祭にあこがれたのは何時の頃からか。

芸術祭は2010年度からスタートし瀬戸内海の大小さまざまな島を舞台に世界中から芸術家が参加し、島民を巻き込み作品の展示がされ、全部見て回るには最低1週間はかかる芸術祭。

熊本から見学に行くには遠く、時間がかかる。(当然、仕事はホッタラカス事になる)

会社定年になってから、じっくり行こうとか、(こちとら自由業なり、死ぬまで稼がないかん)、いつか行こうとか、(そんなこと言うてたら、死ぬまでいけない)…

そんじょそこらの屋外(イベント)芸術祭とは次元が違う。瀬戸内国際芸術祭総合ディレクター北川フラムさんの本を読むと、準備に相当な時間をかけ、島民の方への説得、理解を得るのも大変だったらしい。(経緯を書いた本まで出ているくらい!)…

で、今年がその開催の年なのだが、やっぱり行けなかった。(仕事をホッタラカシて長野の縄文博物館に行った) せめて2年前に立神峡の陶芸家平木先生に、製造してもらったオブジェ「命名・森のしずく1号」を持って五家荘の山に向かった。2022年極私的芸術祭の極私的スタートである。

森のしずく1号の発想の起源は、瀬戸内芸術祭の本で見た、※「トムナフーリ」という作品で、「トムナフーリ」は森万里子氏の作品で、豊島の森の小さな池の真ん中に置かれた白いガラス質の米粒のような形のオブジェ。(高さ3メートル)

「トムナフーリ」は樹々の生い茂る暗い沼の中で、スーパーカミオカンデと接続し、宇宙で超新星爆発 (星の死) が起こると、光を放つ記念碑になるそうだ。つまり何時超新星が爆発するかわからないけど、参加者はその光が放たれるまで、その白いガラスの物体を眺め、その時を想像し待ち続ける事になる。

それに刺激を受けたのが、我が「森のしずく1号」なのです。

1号は五家荘に降る、森の雨の雫、新緑の朝露のしたたり、苔むす岩の間からこぼれ散った生まれたての水源の一滴。生まれ死にゆく鹿や猪、獣たちの涙。山に住む人の汗と涙が、雫型のオブジェに凝縮されている。

 

 

そして真ん中に空いた風穴は、時の流れを行き来する風の通り道。

 

 

7月の半ば、天気予報は曇りのち晴れ…ということで、白鳥山に出かけ登り始めて1時間小雨が降ってきた。だいたい僕が白鳥山に行く時の天候は晴天より雨が多い。しかし夏の雨は気持ちよい。カッパを来て目標の小滝に到着、写真を撮る。(岩に足を滑らせ左足が膝までずっぽり川に浸かる) 雨の為、あたりは薄暗い。滝を前に写真を撮ると、どこかの怪しい酒のポスターのようだ。次は苔の上に寝かせ、写真を撮る。

うだうだしていて昼前になる。なんとか山頂前の御池(みいけ)に着き、苔むすブナの茂みをさまよう。白いガスが湧き始める。本来ならそのガスに包まれる1号の写真も絵になりそうだが、道迷いの名所でもあり、調子に乗らずに撤退を決める。

まだ極私的芸術祭は未完。いつの日か深い森に「森のしずく」を置き、月の光が差し込みポタリと緑に輝く写真を撮りたいものだ。

 

下界に長く住むと、足のつま先から脳内まで「デジタル」の電波に侵されていく。宇宙の超新星の爆発に刺激を受けるどころか、無駄な電波、ノイズに反応し脳神経が傷み、気がついたらもう遅い、脳が赤く点滅し疲労が降り積もり、思考回路が絶縁、息が詰まる。

森の精で深呼吸せねば、僕の「タマシイ」は救われない気がするんだなぁ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

※瀬戸内海国際芸術祭 2022

3年に1度、瀬戸内海の12の島と2つの港を舞台に開催される現代アートの祭典。2022年は4月14日開幕

※トムナフーリとは、古代ケルトにおける霊魂転生の場の意味。この場所で魂は次の転生までの長い時を過ごすと考えられている。

実際の参加作品(現在、メンテナンス中)

◆北川氏 談…(2016年)

正直言って、日本はすでに手遅れかもしれないとも思います。だから、伝統的コミュニティや文化的なインフラが残っているアジアの国々の人たちには日本のようにならないよう、何か少しでも支援できることがあったらしたいというのが、今の私の気持ちです。アジアの国々だったら、まだ間に合います。

2022.02.06

文化

金海山釈迦院は五家荘エリアの西に位置する大行寺山(標高956m)の山頂近く、杉の古木に囲まれ鬱蒼とした標高942メートルの森の中にある。宗派は天台宗。

五家荘の自然や文化に彷徨いこんだ自分がなぜ、今日まで釈迦院にたどり着かなかったかには理由がある。それは釈迦院イコール「日本一の石段3,333段」のイメージに拒否反応を示していたからだ。もともとスポーツとやらが苦手…いゃ、嫌いなひねくれ者の自分だし、汗を流すならそこらのグランドを走ればいいし、石段を登るどころかその速さを競うなんてもってのほか、誰が考えたか、どこぞのイベント会社の「地域興し」をネタにした企みに乗るもんかと思っていた。そもそも企画したのは隣の旧中央町。要するにネタ作りに釈迦院は利用されたのだ。建設当時、泉村では石段建設に反対する人も結構いたと聞く。

時は日本一運動の真っ盛り、マスコミはこの日本一とやらを大きく取り上げた。県内を回るたびに思う、笑うに笑えない日本一競争の祭りのあと。海に沈む夕陽を浴びて一人微笑む、日本一のエビス像の後ろ姿のなんと寂しいこと。エビス君の寂しい肩を抱く人間は誰もいない。日本一の大水車もあった。天草のキャンプ場にあった「大王丸」は完成時、日本一だったけど、湯前町の親子水車「みどりのコットン君」に首位を奪われ地に落ちた。悲しくも情けない、天下の日本一の水車は、わずか30年で解体されてしまった。良きライバルのコットン君も同じ運命をたどる。五木村のバンジー騒ぎもようやく収まり、谷に静けさが戻ってきた。県内、日本一の負の遺産だらけなのだ。

自分は、そんな3,333段を競う汗を嫌悪し釈迦院を敬遠していたが、大きな勘違いだった。階段と釈迦院は思うほど、つながりはなく、階段のゴールから釈迦院の本堂まで、約2キロ近く石畳の道を歩かないと釈迦院にはたどりつけない。実際、階段を登り終えたあと、更に石畳の道を歩き参拝しょうとする殊勝な人がどれだけいるのか。昔、信心深い地元の人は老いも若きも、ふもとから山道を歩いて登ってきていたのだ。(そっちの方が健康) 今もそういう古道が残っているなら自分でも登ってみたいと思う。

釈迦院の由来は延暦18年(799年)大地震で大地が震動し、地中から金の釈迦如来様が出て来て、その如来を地元の僧「薬蘭」が安置、釈迦院と名付けたことから始まる。その後の時の流れの中で釈迦院の全盛期は西の高野山とも呼ばれ、天台・真言・禅・浄土宗の道場、二寺、75坊中(僧の住む家)が並び立ち一大聖地になった。そこには一般の僧侶だけでなく修験者(山伏)なども居たらしい。そこまで権力、信仰を集めると、他の権力者にとっては脅威に映るのだろう。天正15年(1587年)隣のキリシタン大名小西行長が総攻撃、75坊は焼き払われ、釈迦院の苦難の歴史は始まる。当時のキリシタン大名も南蛮貿易で利益を得たいのと、力で民の心を抑えておきたかったのだろう。キリシタンと言いながら、やっていることは乱暴残虐な戦国大名と同じなのだ (今は宇土市のゆるキャラに転生)。

それでもなんとか釈迦院は加藤家、細川家のサポートにより復興、江戸時代末期まで地元はもちろん、肥後藩の中でも特に信仰を集めた名刹と言われていた。ただ資料を探しても、小西行長の焼き討ち事件から江戸時代末期までの復興までの資料はあまり見当たらない。

そして明治2年、維新政府の神仏分離、廃仏毀釈の発令が下る。当時の住職は帰農し、およそ1000年以上も続いた名刹の歴史も明治4年に廃寺となり息絶えた。寺の領地も官有地にされ、釈迦院消滅。問答無用、維新政府の暴挙。ところが、本尊(黄金の釈迦仏)は熊本市の川尻の阿弥陀寺に無事保護されていた。誰かが本尊を守るために抱きかかえ、命がけで山の坂道を下りたのだろう。

そもそも、日本の信仰のスタイルは神仏習合、神様も仏さまも、土着の神もみんな一緒に住み、一つの信仰の形になり、平和、豊作を祈ったのに、いきなり時の政府の都合の良い神(神道を国の宗教と定めた)を信じろという神仏分離には無理があった。特に修験道は神仏習合の典型とされ明治5年には「修験道禁止令」まで発令され、素朴な山の神を信じる修験道は禁止、すべての山伏は世間に帰され、失職。指導者ランクの山伏だけでも全国に12万人いたが帰農したり、露天商などになり全国を漂白する人や、寺院を持っている人は自宅に戻り仏僧になったそうだ。特に修験道のシンボル「権現」「牛頭天王」「明神」は狙い撃ちされ、道祖神、馬頭観音、石の地蔵は叩き壊され、土に埋められたり川に投げ捨てられた。

妖怪のモデルは地域の土着の神の仮の姿のような気がしてならない。もしくは修験者、山伏の姿で、天狗はもちろん、河童、油すまし、ぬらりひょん…そんな神々を廃棄し、明治政府は強引に近代化を進めたのだ。しかし明治政府の思惑通りにはことは進まず、神仏分離令は10年足らずで破綻した。ただし、その10年で文化財の9割は破壊された。

 

 

五家荘の山には釈迦院発祥の修験道の教え、伝承が残り、その山伏の足跡が蜘蛛の巣のようにいくつも編まれ、何か大きな模様が描かれている気がする。しかも、その道に平家の影が見え隠れすると、更にその模様は複雑なものになる。

国見岳、大金峰、小金峰、久連子岳、白鳥山、尺間神社、その尾根道は大きく円を描いている。二本杉から釈迦院に続く古道もあると聞いた。

妙見宮をきっかけに、これまで神仏習合、廃仏毀釈について机上の歴史物語と思っていたのが、釈迦院について調べていくうち、ますます関心が高まる。もちろん、本の情報を頭に詰め込んだだけの自分ではあるけど、いよいよ1月23日に、釈迦院への道をたどる事にした。

朝から結構雨足は強く、この天気なら、林道の雪、氷も解けているかと期待した。(家人は雨の中出かけていく僕の事を馬鹿と思った) 泉村支所を通り過ぎ、柿迫の集落を経て釈迦院への林道をうだうだ登る。予想通り、林道の雪はほとんど溶け、チェーンは不要だった。それでも釈迦院が近くなるに連れ、雪が残る道が出て来た。目の前が明るくなったと思ったら、山門の前。先客は車1台。老婆と娘らしき人物が傘を差し階段を降りて来ていた。雨が降り続く中カメラのシャッターを切る。山門をくぐり左右に仁王像を眺め本堂へ向かう。本堂の奥には金箔の御本尊が祀ってある。

線香の白い煙が辺りを漂う。お守りやお札を買う。住職も昼食時だったけど、丁寧に釈迦院の歴史を話してくれた。根ほり葉ほり話を聞く。今、釈迦院には檀家はいなくなったそうだ。その為全国からの有志の支えで寺は成り立っているとの事。数年前までは雨漏りがひどく、本堂の中にブルーシートを被せ、その下で、お経を読んでいたそうだ。修復は支援する人々のサポートでできたという。時に、境内の清掃をしていると、関東から出張できたという人も清掃に参加し、その人は金銭面でも大きな支えになり、黒くくすんだ御本尊も金箔に塗り替える事ができたと嬉しそうに話してくれた。

話を聞いて感じたのは住職の欲のなさだった。正面の扁額も金ぴかに大変身。なんとこの書は世界的に有名な書家、金沢翔子さんの書(大河ドラマ平清盛の題字)で、釈迦院の事情を聞くと代金は受け取らなかったそうだ。こういう支援する人の支えでこの釈迦院は成り立っていますと住職は淡々と話す。そういう話を聞いていると、自分の気持ちの中に漂う黒い雲に微かな光が差し込んできた気になる。地域お興しとか日本一とか、ここはまったく無縁の聖地なのだ。

 

 

古書店で手に入れた本にも釈迦院の話が書かれてあった。肥後五家荘風物誌 (昭和42年発刊) 作者の野島和利氏は大学の農学部林学科を経て八代農業高校泉分校の先生に就いた。当然植物に詳しく、その本に当時27歳の野島先生は五家荘をくまなく歩きながら歴史、文化、自然の草花を満遍なく調べ一冊の本にまとめ上げた。

野島氏はバスを降り、柿迫神社を経て釈迦院に登る。その途中で黒モジの杖を突いた老人数人とすれ違う。どこから来たかと聞くと、宮原町からと言う。お釈迦様の誕生日だから釈迦院にお参りしてきたそうで、野島氏はその信仰心に驚いてしまう。「釈迦院まで、登るのは大変でしょう」「そうですな、ゆっつら、ゆっつら登りますから」とその老人一行は答えた。風物誌には釈迦院にたどり着くまで道際の山野草の名前、生育状態がびっしり記されている。

野島氏が山門をくぐると、そこにはたくさんの参拝客がいて甘茶をふるまわれていた。宿泊場で80歳の老人から釈迦院の歴史を2時間ほど聞かされる。その老人は喘息に悩まされながら一人、敷地内に小さな小屋を建て住んでいるらしい。当時の豊かな五家荘の自然の中で、野島氏は様々な人と出会い別れた。

 

雨がまた激しく降りだしてきた…

住職はお守りを袋に入れ、僕に手渡しながら話す。「昔は、花まつりは、にぎおうたもんですな、境内には店も出て、学校も休みで子供もたくさん登ってきたです」

釈迦院は今後、後継者がなければ本当に廃寺になるのかもしれない。それも時の流れ、延命などされずに森の闇の中で静かに目を閉じられるのも、いいのかもしれない。森の鳥たちはお別れの歌を歌うだろう。獣たちは涙を流すだろう。

僕は「そうですな、ゆっつら、ゆっつら登りますから」という心境にいつか、なれるだろうか。

 

2022.01.24

文化

五家荘地区は行政の区割りでの名称は八代市泉町になる。平成17年に周辺の1市2町3村と合併し、八代郡泉村から八代市泉町になった。合併して良かったのはこれまで各々にある文化財が博物館などで一堂に見る事が出来るようになったこと。去年の暮れに八代市立博物館で開催された「妙見信仰と八代」という展覧会を見に行った。八代には江戸時代から伝わる「妙見祭」という祭りが秋にあり、僕は好んで毎年観に行っていたのだ。

 

妙見祭の出し物は、市内を練り歩く神幸行列と、華やかな笠鉾の巡礼、獅子舞、飾り馬の疾走、そして「亀蛇(キダ)」と言われる神獣の乱舞と盛りだくさん。特に体は亀、顔は蛇の亀蛇の舞が見ものなのだ。ちなみに地元では亀蛇のことを「ガメ」と呼んでいる。およそ5メートルの長さの甲羅に、伸び縮み自在の蛇と鬼のような顔つきのガメが、まさしく怪獣ガメラのように回転し、周りの見物客をなぎ倒し、観客席に乱入したりするのは壮観なのだ。突き倒されても、みんな祭りだからニコニコ笑っているのが良い。以前、大雨でさすがに、貴重な笠鉾などはビニールでカバーされながらしみじみと列を組んでいたが、最後のトサキの河原でのガメの乱舞は壮絶だった。祭りはもう中止になってもいいくらいの雨の降りようだったけど、河原に集まった観客はガメの乱舞を待った。傘をさし、立ちすくむ僕の前のおばさんは「ガメばださんかい、早くガメばださんかいっ」とずぶ濡れの姿でつぶやき続けていた。そう、本来ならば神獣ガメの上には菩薩様が乗っかり、人々の健康平和を願っているのである。おばさんの目にはそんな幻の菩薩の姿が見えたのかもしれない…と思いきゃ、ガメは河原に足を取られ、ずぶ濡れ、ひっくり返りそうに斜めに傾きながらも回転し客席に迫ってきた。

 

「妙見」というのは古代中国が発祥で北極星や北斗七星の天体を永遠と信仰することから始まったらしい。仏教の教えのひとつで、そのシンボル像として「菩薩」様が生まれた。その菩薩様の足元には神獣「ガメ」が居て、菩薩様を守り、近寄ると噛みつきそうなガメが居る。亀は菩薩様を背に乗せ中国からプカプカ海を渡り日本にやって来た。八代上陸後、数か所転々としたので、ガメは何匹か八代周辺の町にも息づいている。

展覧会では全国から集められた、ガメに乗った菩薩像や、巻物が展示してあった。その展示物のフィギュアがあれば、即買う(へそくり、1万円まで)自分だが、もちろんそんなグッズの販売はなく、資料本を数冊買って帰った。古代からの信仰について本の数冊読んだくらいで何も分かるはずはないが、まぁ読んでいくうちに、少しは頭の栄養になったような気がした。

ところで、八代には「妙見宮」というお宮も当然ある。福島県の相馬妙見、大阪府の能勢妙見と並んで、日本三大妙見の一つといわれている。妙見宮は今、「八代神社」と呼ばれているが、妙見菩薩は仏教の信仰であり、昔は神仏習合、神社も寺(仏教)も一緒になり庶民の信仰の対象になっていた。敷地内には神宮寺があり、妙見宮は神宮寺が取り仕切っていたのだ。それが明治元年に明治政府から、神社から仏教を追い出せとの命令(神仏分離令)が下り全国一斉に、無謀なお寺排除運動が断行された。当時は「妙見」という名称自体が問題とされ、妙見宮にあった仏教に関連する施設、仏像、仏具はすべて取り壊し、神宮司住職まで追い出された。一応、その程度の知識は持っていたが、妙見宮の事を調べるうちに、単なるイベントとしてこれまで見ていた祭りが、違う角度から浮き上がって来る。と言うか、激しい怒りが湧いてくる。最後の住職は自分の代で終わる役目を悔い、これまでの歴代の住職の名前を刻んだ位牌を作り、ゆかりのお寺に奉納した。その位牌も展覧会に展示してあり、巨大なまな板のような横幅の広い位牌に名前が順番に刻んであった。それくらい、悔やんだ事件だったのだろう。これまで何百年も地域を守ってきた妙見さんからいきなり、明治政府の紙切れ一枚で何から何まで破壊、遺棄されたのだ。維新政府は今でいう、アフガニスタンのイスラム原理主義のタリバンと同じ。タリバンは偶像崇拝を否定し(自分らこそイスラムという偶像崇拝してるくせに)大きな仏像の遺跡を破壊した。そんなこたぁ歴史小説「飛ぶがごとく」「竜馬が行く」には一切書かれてないのにな。西郷どんのおひざ元、鹿児島のお寺の仏教関連施設はことごとく破壊されたのだ。

ところが、廃棄、破壊されたはずの一部の仏像、仏壇、仏具などはこっそり保護され、違うお寺に隠されていた。博物館に展示されている仏像の一部は、そうして保護された仏像だった。

「神仏分離令」とは違う言い方をすれば「廃仏毀釈(はいぶつ・きしゃく)という。廃仏毀釈というのは、仏を廃止、毀釈(釈迦の教え)をぶっ壊せ、毀損しろという意味なのだ。どうやら博物館では廃仏毀釈という言葉は使いたくないようなのだけど。(役人だからお上の愚行の批判はしにくいのか。) 哲学者、梅原猛氏によれば廃仏毀釈が無ければ、国宝の数は今の3倍はあったと言われ、国宝級の仏像が斧で叩き割られたり、燃やされたり、建物は引き倒され、仏具は二束三文で売り払われた。

古くから伝わる「神も仏も一緒に信仰し、みんな幸せに暮らそうぜ、土着の変な神もみんな一緒」という日本人の信仰心を明治維新は粉々にした。結局、天皇は生きた神となり、戦争の神として利用された。

はて、そこで思うに、五家荘のエリアには「釈迦院(しゃかいん)」という、これまた有名な寺院があったと思いだした。 (何か僕を呼ぶ声がして…幻聴?)最近、両肩、左ひざの体調不良(自己責任)の為、あまり動けない自分は、再度「泉村誌」を読みこれまで訪れたことのない釈迦院へ初めて向かう事にした。

釈迦院に行くまでに僕の脳内はこういう、長いうんちくの道をたどる必要があったのだ。最近「維新」という言葉を聞くたびに、虫唾が走るせいもある。何が維新なもんかい。

2021.11.09

文化

「先生」とは五家荘図鑑の雑文録に出てくるN先生のこと。N先生は五家荘の自然、文化、歴史研究の第一人者で、これまでにたくさんの研究書や文献を発行されて来た。はるか40年以上前、僕が通っていた田舎の高校の山岳部の顧問で、その当時から熊本の高校山岳界では怖れられている存在だった。(こんなこと書くと、次回会う時は殴られるかもしれない)…ちょうど4年ほど前、地域の観光振興のお手伝いで、「五家荘の山」という冊子の制作をお手伝いすることになった。五家荘の山は、九州100名山の中に10座も選ばれているという事で、その10座を踏破し(途中、遭難もしたけど…)なんとか、五家荘の山々や自然を紹介する冊子を仕上げる事ができた。冊子の完成前にN先生にも挨拶するのがスジと、それこそ30年ぶりくらいに僕は先生の家の門をたたいた。先生はとうに僕のことは忘れていても五家荘への熱意は変わらず、雑文録にあるように、僕に山への熱意を語られた。

「五家荘の山」の編集と並行し、「五家荘図鑑」の大まかな編集もスタートしていて、本の中の雑文録にN先生のことも書かせていただいた。その後、僕はクモ膜下を発症。悪運強く数か月後に社会復帰、まだ額の穴がふさがらないまま、先生に先に完成した「五家荘の山」を手渡した。

それから数か月後、「極私的五家荘図鑑」が完成。しかし後遺症が出て車の運転が2年間禁止となり、ようやく運転の許可が出たので9月に先生に届けに行ったのだ。ちょうど不在で奥さんに本を預かってもらったが、その翌週ようやく先生に会えた。

もちろん先生は雑文録も読まれていて、玄関先でいきなり叱られてしまった。その内容は先生の誤読によるもので、まったく僕の書いている内容とは正反対のことでもあったのだが、高校以来、先生からの雨あられのような、怒りの言葉を浴びているうちに、反論する気もうせ、ただただ玄関先に立ち尽くすだけだった…まるで言葉のサンドバック…(なんだか気持ち良くなるもんだなぁ)…その誤読の内容については語るまい。

先生は元生徒の心底に棲む「いい加減さ」を見抜き、攻撃してこられた…いゃ、このこともこの場で書く気もしないので書くまい。

ただ、「ヒトの話をよく聞け」と何度も言われた。まずは地元に出向き、地元の人の話をよく聞けと。これは民俗学のイロハのことだろう。そのことで何かが得るものがあり、その積み重ねが成果となるのだろう。軽々しい僕の文章は「なぁんも、地元の人の話を聞いとらんたいっ!」てな、ことになるのだ。(だから極私的なんだけど…)

そして、石楠花越(しゃくなんごし)の話になる。石楠花越しという地名の本当の呼び名は「百難越し」という。石楠花が咲く越(峠)のことではない。「よかかい、山の人にとって、峠を越えることはなんでンなか、普通の峠越えなんて、屁でもなか。片足とびでもぴょん、ぴょん、超えていきよる。そんだけ、山ん人は強かったい。そがん強か人が、あの峠だけは「百難(ひゃくなん)」…ものすごいきつか峠越えて言いよる。五家荘の中で「ひゃくなん」越していう峠は、ここしかなかと。

その意味は、久連子(くれこ)集落※に不幸のあったときに、若い衆が、峠の向こうの水上村からぼんさんも連れて、抱え上げて、荷物も一緒に葬儀に間に合うように峠ばこえないかん事情があったとたい。帰りは帰りで土産ば持たせないかん。

「なんでん書くのはあんたの勝手、自由だが、その前になんで俺に原稿ば見せんとか、間違った情報があるかもしれんたい…」(書くのは勝手に書けと言いながら、先に原稿を見せろって…先生…)

もともと性格に「百難あり」の自分で、先生、僕はどうしても人と話ができないのです…嗚呼、五家荘の山に入るのがあと10年早ければ。今の、五家荘も他の地域と同様、過疎化、風化が進んで話を聞くにも、なかなか人と出会えないのが現実なのです。

正直に言うと、「極私的五家荘図鑑」に書いた文化や歴史の内容は先生がまとめた書物がルーツで、地元の話を聞く機会が少なくなった今、その本の追体験をしているわけなのだ。

悪運の強い僕なのだ。たまたま市内の古書店「汽水社」をのぞいた帰りに、向かいの古書店に立ち寄り、郷土史の下の棚に五家荘関連の書物が、きちんと肩をそろえて並んでいるのが目についた。まるで僕が来るのを待っているかのように。「泉村誌」「泉村の自然」「五家荘森の文化」…と並んで、「秘境五家荘の伝説」(山本文蔵著)と、あと一冊。

「秘境五家荘の伝説」は昭和44年初版。当時に伝承された伝説や、平家の家系図などが詳しく紹介されている。その中に久連子の事も。

※久連子集落…久連子集落に残る五家荘に残る唯一の寺院が正覚寺。この寺院には平家代々の24名の位牌が保存されている。久連子の人口過剰により他に居住した門徒は今なお正覚寺と交流をしている。水上村15戸、五木村・梶原37戸、入鴨3戸…現在、正覚寺の住職がこの地に赴いている。

先生の言う通り、久連子の若い衆は不幸があると百難越を超え、水上村、五木村の門徒を故郷久連子まで連れ帰り、法事に案内する義務があったのだろう。令和の今、すでに正覚寺は建物だけが残っている。

79歳になられた先生は今も悔しそうに僕に語る。「あんとき、正覚寺の過去帳を見せてくれとお願いしたが、どうしても見せてくれんだった…。」

2021.04.20

文化

これまで五家荘を車でさまように、どうしても気になっていたのが、道のわきからかいま見える木の鳥居や祠などだった。うす暗い杉林の奥に見える朽ち果てた木の鳥居。おそらく相当古い時代からその神社の神は祀られ地元の人々の信仰の対象、日々の心の支えになっていたのに違いないけど、時が進むにつれ、神社は残ってもそれを祀る人がいなくなれば、その山の神様も深い山に帰って行かれるのだろう。

僕が特に気になっていたのは西の岩地区に祀られる「尺間神社」だった。木の鳥居をくぐると林の暗がりに参道らしき道の名残がある。急坂には、落ち葉に埋もれ、ほとんど朽ち果てた木の階段が山頂に向かって続いている。その道の果てには神様のご本尊の棲む祠があると思い、とうとうたまらず、足元が崩れる中、僕は這いつくばって道を登り始めた。だんだん道が狭まり、杉林を抜けると乾いた小石だらけの小道になるが崩落が激しく、岩にしがみつきながら頂上を目指す。途中の木の根にワンカップのビンを見つける。お供えの残りなのだろう。しかし、どこまで行っても同じような坂道が続き、だんだん不安になってくる。痛めた左肩の筋肉にも張りがでてきて、残念だが引き返すことにした。何しろここは五家荘。地図も持たずに思いつきだけ、憶測だけで山に入ると痛い目に合う。ほんの少しのミスでも遭難につながる。(経験者は偉そうに語る) ※もう少し頑張れば、岩の上に建つ本宮も見れたのに。

帰路で草の上に置かれたような石の破片を見つける…灰色で長さちょうど20センチ位。石の斧のような形をして、刃先に指先を当てると今にも切れそうに薄く鋭い。単なる岩から剥離した断片のようだけど、(バチがあたるぞ!) 持ち帰ることにした。

泉村誌によれば、尺間神社にはフツヌシ・タケミカヅチ・ヒノカグツチという荒ぶる三柱の神が祀られ、神社の建立にはいわれがある。建立は明治37年。

 

(極私的翻訳・五家荘の方言ではありまっせん)

昔のはなしたい。左座家の4代目の亀喜さんが、わけの分からん病気にならした。たいぎゃな、ふとか病で、熱にうなされち、どがんもこがんも、しょんなかて。頭ば冷やしてん薬ば飲ましてん、どがんもなおらん。寝床で「きつかきつか」て言わす。もう家のもんは心配さして、大騒ぎて。おおごつ。もうたい、神さん、仏さんの力に頼むしかなかて、親類縁者が家で話し合わしたとたい。そんで、みんなでたいぎゃ、よか神社とかなかろかて、どこでん聞いてまわらしたてたい。そして、おおいたん、尺間神社の神さんならよかて、話は聞いてこらした。ほんで左座家では、中畑萬吉さんに無理ばゆうて尺間神社までお参りば頼んだてたい。ほなら神社の神さんから中畑さんにお告げがあったて。亀喜さんの病気のもとは、刀のたたりて言わしたてたい。おとろしか。左座家は庄屋さんだけん、昔からつがれた刀のたいぎゃあるてたい。そん刀のなかでん、備前長船ていう刀が二本、たいぎゃ大事にされとったて、そがんだけん、その長船て、座敷の一番よかところ、刀んかけてあるところに、飾ってあったてたい。ほんでたい、左座さんとこに泊まりにこらした人は、そん部屋で寝とらすと、夜中にうなされて頭のいとならすて。苦しか苦しかて、たまらんごてなって部屋ば替えてねらすと、ぱって頭の痛みとかとれらしたて。そっでたい、つぎん朝、亀喜さんの息子の5代目がそん人の泊まらした部屋にある長船ばみると、みょうなもんで、そん刀の二本とめ、鞘からぬかれとるてたい、ほんにみょうなか、おとろしかはなしたいね。そんでまた、次に泊まる人も同じ目にあわしてうなされらすて。なんかあっとだろね。刀だけん。

いろいろかんがえらしたばってん、5代目が、しょんなかておもわして、そん二本の刀ばもって、大分の尺間さんに収めにいかしたて。ほんでたい80日、そのお宮で山籠もりさして、きつか修行はさしたて。ほんに親思いばい。ほなら、いままで寝とらした亀喜さんの病気もうそんごて、ようならしたて。ほんで泊まりにこらしたひとも、うなされちことは、のうなったてたい。ほーら、尺間さんのおかげたい。みな、たまがった。ほんで左座家と西の岩んひとたちは、豊後の本宮に尺間さんの神さんの霊ば五家荘にわけてもらえんだろかてお願いして、あたたちが、そぎゃんいうならよかていわしたけん、西の岩に、尺間さんばまつらしたて。村んもん全員で、山に木ば切ったり、社殿ばくんだりにぎおうた。村にもほんなもんの山ん神さんのこらしたぞて。村んもんじぇんいん喜んでたい、そるから尺間神社さんに、だっでんお参りいくごてなったとたい。

やっぱ刀はおとろしかね、昔は人ば殺したり殺されたり、いろいろあったっとだろな。ばってん、今は、だるも、おらんごてならした。家も崩れてしもて、昔の賑わいはなか。あすこのじいさん、ばあさんもおらんごてならした。山の花もぬくなるといっぴゃ、さくばってん、だれもおらんけん、きれか花のさいてん、だるも見てくれんけん、花もさびしかていうごたる。尺間さんにのぼる人も、とうとおらっさんごてなった。おどんも、なんかいらんこて言うた気のするけん、なんか背中ん、ぞくぞくしてきたばい。もう山はぬくなったけど、寂しかね。おどんも足のわるなったけん、ようと歩ききらんと。きつかときは心のなかで、尺間さんばおがんどっとたい。わたしん、まもり神だけん。

 

普段から具合のわるい僕の脳内はいつも悪夢にうなされ、新たにうなされることもない。持ち帰った石の刀は、何を調べるでもなくまた、尺間神社の参道に埋めなおすことにした。ワンカップの酒を石刀にかけ草をかけ、自分なりの得体のしれない祈りの言葉…手を合したときに、意味不明の言葉が出た…お詫びと祈祷を行う。

改めて、五家荘ネットの情報をさかのぼって調べるに、20年くらい前は、近くの五家荘自然塾を基地に、地元の人々が尺間神社のいわれを語り聞かせたり、焼き畑時の「木下し歌」の披露もあったという。ぜひ、参加したかった。

五家荘はいくつもの神の棲む、神聖な山里でもあるのだな、と思う。今も、神を迎え神を舞う神楽の里でもある。熊本でも奇跡的に古代からの文化が残された唯一の地区、民俗学を学ぶ人(…そんな人熊本に居るのか?) にとって宝庫でもあるのだろうな、と思う。

地元の人たちで大事に残された文化・伝承は語り継がれて、風が吹くたびに朽ち果てていく。朽ち果てた参道…鳥居。民家の跡。人がそこに居たという、目に見えないぬくもりに、何かを感じて僕は山をさまようのだ。

帰路にカタクリの花を撮る。今年の開花は例年より半月ほど早く、最後の数輪を写真に撮れたのは運が良かった。一番美人な紫の妖精にカメラを向けると、その瞬間、草陰から黒い蛾(ミヤマセセリ)が花に留まり、蜜を吸い、はっと消えていった。

 

2020.11.13

文化

夏に山の大先輩O氏から、「脊梁小学校」の緑のTシャツをいただいた。O氏のこころ遣いには感謝しかない。小学校を休みがちな自分だが、せめて写真部員の役割だけは果たさなければならない。

今年の五家荘の紅葉は例年になく鮮やかだった。蛇行しながら進む崖沿いの細道の正面、突然、真っ赤に染められ立っている一本の樹に出会い、はっと驚く。例えは悪いが、緑の中に真っ赤な鮮血がほとばしるような光景があるのだ。赤でなければ、次は黄色、いっせいに尖った手のひらを開いている。晴天、青いスクリーンを張ったような空に、樹々の葉色は染みるように浮き上がる。

家人の運転する車で緒方家に向かう。緒方家は平家の落人伝説が残されている築300年の合掌作りの古民家。2階に隠し部屋などもあり観光スポットになっている。門をくぐり、庭に入ると驚くことに庭にはびっしり形のそろった黄色い葉が敷き詰められていた。まるで誰かが丁寧に葉をいちまい、いちまい並べてくれたように。運よく誰も居ないので部屋の中からも庭の写真を撮らせてもらう。

陰翳礼讃。これは僕の偏愛する作家、谷崎潤一郎の有名な随筆の作品名だ。昭和8年に書かれたもので谷崎は日本古来の翳と闇の世界を好み、その随筆の中で日本人独特の暮らしや感性をなつかしみ、その深い味わい方を記した。何回読んでも深く濃い。今回の雑文録は谷崎をまねた随筆調の下手な文章になってしまった。(苦笑)

随筆の中の有名な厠の話はさておき、建築についても谷崎は持論を述べている。

西洋の寺院のゴシック建築は、屋根を高く尖らしてその先が天をも刺すところに美しさを感じるのに比べ、日本の建物は建物の上に大きな屋根を伏せ、その庇が作り出す広い陰の中へ、全体の構造を取り組む構造になっている。

寺院にしても、庶民の住宅にしても、その庇の下に漂うものは濃い闇だと書く。まさに緒方家の作りがそうで、突き出た庇の下には日中でもほのかな闇の世界が漂う。

逆に言えば、西洋の考え、暮らしはみんな明るければいいというもの。食器にしてもなんにしても白さが目立ち、金属の皿でもなんでもみんな節操なくピカピカに磨いてしまう。(女体も白ければいい…) ところが翳の世界を味わうのが日本の世界。明かりもなく、電気もなく、ふすまや障子ごしに光がろ過され、部屋に柔らかな光が差し込む。部屋の隅にほのかな闇が存在している。薄暗がりの部屋の中、白い磁器が自分の手のひらの上で白く鈍く輝いている。漆器の黒が闇に溶け込む。料理と共に、その闇の世界を味わうのだ。

美食家で有名な氏の羊羹についての描写もすごい。

…あの色(羊羹)などはやはり瞑想的ではないか。玉のように半透明に曇った肌が、奥の方まで光を吸い取って夢見る如き、ほの明るさをかんでいる感じ、あの色合いの深さ、複雑さは、西洋の菓子には絶対見られない。クリームなどはあれに比べるとなんという浅はかさ、単純さであろう。だがその羊羹の色合いも、あれを塗り物の菓子器に入れて、肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めるとひとしお瞑想的になる。

…人はあの冷たく滑らかなものを口に含むとき、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で溶けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う。…

…僕の脳裏には、以前カタログで見た、東京の羊羹専門店「虎屋」の黒い羊羹の一切れが浮かぶ。あの羊羹の深い黒さが暗黒の甘い塊になっていると谷崎に描かれると、一刻も早く口に入れたくなってきてしまった。

谷崎は西洋風の明るい光の下で、さらされ、何の深みもなくなった日本古来の文化のありさまも嘆く。例えば文楽は今や、人形が西洋風のステージで明かりに照らされ、何の陰影もない表情に劣化し、観光客目当ての見世物になったけど、本来の文楽の人工的な白く冷たいお面はろうそくの揺らめく灯りの下でぼんやり浮き上がるからこそ、生きたようにも見えるのだ。明かりの下、見ている方もどうせ人形だからと思うと、最初から何も感動しようがない。

歌舞伎も同様、明るすぎて今やミュージカルショーカブキになったのだろうが、文楽の昔のように、ろうそくの灯りの元で演じられたら、全く違ったものに見えるのだろう。随筆が書かれた昭和の初期の段階で、すでに歌舞伎は明るすぎてダメだと氏に苦言を書かれていた。あの派手な金銀の衣装も闇の中で不気味に浮かびあがるからこそ、深く蠱惑的なものに見えると谷崎は嘆いている。

神楽もそうなのだろう。五家荘の神楽が闇の中で当時のように、わずかな光だけで演じられるシーンを想像するだけでたまらない。舞台の隅の暗がりに誰かいるような気配がする、神楽の鈴や鉦や太鼓の響きでみんなの肩の後ろの暗がりに本物の神が舞い降りて来ている気配がするに違いない。

今は更に更に「LED、ブルーライト」。明るければいい、早く結果を明らかにせよという時代になってきた。伝統を放棄し、明るく便利な暮らしを明治以来目指した日本人の哀れな結末はもう「見えた」。スマホ片手にゲームに興じる大人、子供の軽薄な明るさは救いがたい。ブルーライトは光の中でも一番波長が長く、網膜に直接届き、目を傷めるどころか、脳にも悪影響を及ぼすと専門医から警鐘を鳴らされている。(全然報道されないのはどうしたことか)

秋の五家荘の夕暮れは早い。午後4時には帰路に就かないと、途中で山道は暗く危険な道になる。逆にそんな秋の夕暮れに緒方家の誰も居ない部屋の中で一人座り、誰かやってくるのを待ちながら自分の姿が闇に包まれていくのを味わいたいものだ。

奥の床の間に飾られた墨絵の掛け軸の画も闇に溶け込み、花器に活けられた一本の紅い椿の花だけが、暗がりに妖しく浮かび上がる…床の間も日々磨かれて「床ひかり」するからこそ価値がある。その床に掛け軸も花器の花の姿もほのかに映されていなければならない…僕はひとり、床の間の前で枯れた山水画の世界の旅を夢想する。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

帰路、道路わきの紅葉は鮮やかだったが、お目当ての川の紅葉はすでに終わり、満足した写真は撮れなかった。しかし河原に降りると、風が吹き、一斉に赤や黄の葉がざーっと風に舞い、僕の頭に降り注いだ。

 

落ち葉の吹雪…川に落ちた葉は一斉に流される。もうこんな一瞬はやってこない。こんな奇跡のような景色を写真に撮る技術は僕にはないから、カメラをわきに置き、岩の上に座り、次の風が吹いてくるのを待つ。

五家荘は素晴らしい。秘境ゆえ、闇も光も、人の情けも、忘れ去られようとしている文化もほんのわずか残されている、ほんのわずか。どうか最後の葉の一枚が、軽薄な風に落ちませぬように。

 

2020.10.13

文化

巷では「学術会議」の任命問題がきっかけで「役に立つ、立たない」論争が起こっているらしい。はたから見れば「教養のある人々と」「ない人々」の論争、だから話がかみ合わない。かみ合わないから「教養のない人々側」は「教養のある人々側を」力でねじ伏せようと攻撃する。もちろん「学術会議の権威」のもとに居座る爺様、婆様もこの機会にぜひご退場いただきたい。

もう10年も前、たまたま京都大学の入学案内を手に入れた。その案内には学長からのメッセージがあって、当時の学長いわく「大学は教養を学ぶところ。本学は社会の即戦力になるような学生を絶対育成しまへん」と記されてある。「大したものだ」と僕は思った。さすが京大。

(僕は数年間、ニセ学生として京大に世話になっていた。)

 

今や、大学は就職率を競う専門学校になってしまった。高校も有名大学の入学者数を競う。折角大学に入ったのだから、元をとろうと、大企業に就職するため、勉強せずに2回生から就活するのだ。教養どころではない。そして大ブラック企業の兵隊となり即戦力の使い捨て、疲労し摩耗し役にも立たず、教養も得られず、最悪、精神を病み社会に帰らぬ人になる。教養のない人々の役に立つとはこういう事だぜ。

僕ごときが書くのもなんだけど学術や芸術を費用対効果で見たらだめなのだ。それらはそもそも数値化できない代物なのだから。ところが政治は違う。政治家のやってきたことがすべて数値化される。景気が悪いのもいいのも、1000兆円こえる国債も結果がすべて。なんの教養もない政治家に限って「何んーも、役に立たないのに税金!」と言いふらす。まず彼らこそ、AI人工知能に交代すべきなのだ。国会で居眠り、英会話を勉強する政治家の費用対効果はすざまじい。

 

嗚呼、最近怒りっぽくなった。これは「老化」のひとつらしい。(苦笑)

ネットで悪口、デマを飛ばす連中も無駄なプライドで脳が固まり「老化」しているらしい。

 

熊本の大手の製薬会社が「太陽の畑」とかなんとか言っちゃって、裏の壮大な面積の雑木林を全部刈り取り、森の生き物全部追い出し、ソーラーパネルを山一面にひき、自社の工場は全部自然エネルギーで「ゴミも分別してまーす」てな、脳みそを漂白された教養のないコマーシャルが僕は大嫌いなのだ。

豊かで、数えきれない生き物の命を育んできた雑木林と、ソーラーパネルの発電量を比較する愚かさ。全然エコじゃないじゃん。

五家荘はもちろん過疎地。森が役にたたないからと言って、自然林をなぎ倒してソーラーパネルを設置する人がどこにいるものか。五家荘の自然や文化は、そんな物差しで計れないものなのだ。

さて、現在停滞中の極私的芸術展の現状。もうダメなのかなと恐る恐る、陶芸家のH先生に連絡すると、現状の写真が送られてきた。僕のわがまま、無理な要望で、何度も取り組むも、うまくいかなかったのかもしれない。(無理な造形で、窯で割れるのか…) 先生も意地なのだろう。本気で取り組んでもらって本当に恐縮なのだ。

写真の奥の繊細なしずく状の造形…。設計通り、しずくの真ん中に丸い穴が開いている。手前に横たわるのはしずくの子供たち。焼き上がりはどんな色に仕上がるのだろうか?

極私的芸術祭、もうすぐ編。なんの役にも立たない極地。これらのしずくが出来たら、僕は一人森に入る。

そしてそのしずくの丸い穴から、向こうの世界を除くのだ。穴を通り向こうの森とこちらの森の空気が行き来する。穴はレンズか、過去と未来、時間のトンネルか?…そんなへ理屈考えなくていい…ただ穴を覗く。穴は「空」。その空の世界を覗いてみたい。

 

「空」とは般若心経で言う「空」の世界…

※多頭飼いで猫 ( 総勢 7匹 ) 世界化している我が家は、般ニャー心経

 

いつか、そのしずくが輝きだすのを待つ。

それだけで僕はよい、のだ。

 

2020.07.22

文化

(写真は京都・法然院)

7月になっても雨が続き、五家荘の山行きどころではなくなった。山に行けないストレスを解消するために、再度図書館から泉村誌を借りて読むが、内容が深く膨大でなかなか手ごわい。資料の山の迷路に彷徨い、出口が見えない。

 

ところで「極私的芸術祭はどうなった」と思い起こすに、立神峡の陶芸家、H氏から最近、何の連絡もない。

お互い人づきあいが苦手なほうで、特別な要件がなければメールさえしないのだが、私が発注したあの「しずく」のオブジェはどうなったのだろう。

 

一度、思い立って電話したが、「コロナ」問題で春に京都で予定していた陶芸の展示会も中止、生活も厳しく、いろいろな補助金の申請で忙しいと話していた。それにしても遅い…遅すぎると、気をもんでいたら、以心伝心、久しぶりにメールがくる。一応試作品ができたと、画像が送られてきた。

その画像とは…お願いしたものと、いゃ…ちょぃと違うような気がする…本体中央の穴は、僕の希望とおりにすると割れるかもしれないので丸い「トンネル状」にしたとある…その、トンネルの切り口があまりにもきれいで…機械的で、味がない…更に、色は、こんな色でどうですかって…濃い緑と書いて送ったのだが…この暗い、たとえようのない色は何だ…しかも色を聞く前に、自分で塗って焼いて…画像では確かに、すでに完成しているではないか…。

間に合うかと思い(…もう間に合わない)…色は緑に!と返信したが、その返事がない。再度電話するに、今度は携帯を無くして、これまでの携帯のデータが全部消えて、何の連絡も出来なかったとの事であった…先生…僕たちこれからどうしたらいいのでしょうか?

結果、予算を追加して、しずく2号 (2滴目) も制作してもらうことになった。

やはり造形は難しい…この世に存在していない形を自分の意志で生み出すのはそう簡単ではない。まず技術がないと粘土で丸い団子もつくれないし、短気な自分にはまず無理だ。土を何度も練り空気を抜き、指でするすると形を作る。その形に自分の思いを込め、焼き上げる。

般若心経的に言えば「色即是空、空即是色」だ。何もないところから、何かが生まれ、何かが生まれていそうで、実は何も存在していない。

 

森のしずく…森から滴る、しずくの一滴。その張り詰めた透明のしずくの中に、森の景色が映り、青い空に白い雲が流れ、鳥の声が封じ込められ、そしてポチャリ…消える。何万年もその繰り返し。ポタポタポタ…いくつもいくつも、しずくが落ちてははじけ、消える。

 

もうよい、まずはしずく1号をもって森に出かけようではないか…1号も、元は土からできた森の仲間ではないか。叩き割って、森に還すか。縄文土器のように、何かを包み込むため儀式の後、土器を地面に叩きつけて割るのだ。しずく1号を割り、その欠片を森に埋めた写真を撮ろう…。極私的に感じる、極私的芸術祭とはこのことじゃい。

しかし、こういう極私的芸術行為は他人に見られてはまずい。誤解を受ける恐れがある。しかし、ごみの不法投棄では断じてない。あくまでも芸術的な行為なのだ。(説明しても多分、誰にも分らぬ) 五家荘の山に自分のしずくを抱いて、パリンパリンと、叩き割り、こっそり、山に谷に、欠片を埋める。しずくの破片は時の破片。降り積もる木の葉に埋まり、土に埋まり、粉々になり森と同化する。…と、いう妄想を持ちながら山行きの準備をするにも、今年の長雨…まだやむ気配がない。

 

そんな雨の合間を縫い、ほぼ10年ぶりに京都に行く。

 

3泊4日、おじさんのふらり一人旅だ。宿は左京区浄土寺にある、2階建ての小さなホテルだった。地名から浄土寺。極楽浄土はすぐそばだ。その宿からは哲学の道、銀閣寺に道がつながるのだが、一番近いのは法然院だった。法然院には作家谷崎純一郎の墓があり、にわかファンの自分はその墓を見るのも旅の目的になった。早朝、大雨に打たれながらも参道を登り緑に苔むした山門をくぐる。山門を降りると、道の左右に砂山が見える。「白砂壇(びゃくさだん)」と呼ばれ、両側に白い盛り砂があり、水を表し、心を清めて浄域に入る意味があるとのこと、砂の上に書かれる文様は季節ごとに変わる。今回は丸い円が二つ。つまり雨のしずくなのだ。

水浸しの石の歩道を左に折れ、うっそうと垂れ下がった、緑の木々の奥に、石の塔があり、その奥に石で作られたオブジェ (何か安っぽく聞こえるな…) があった。

掌に乗るくらいの丸く磨かれた石が、天から垂直に降り、連なり、地面を連打している。

 

 

タタタタ、タタタ、タンタン、地球を打ったその丸い天体は、四方八方にしずくとなり、散らばる。ひたすらその繰り返し…僕にはそう見えた。

雨が降らなければ、その丸い天体は静かに天から舞い降り、静謐な景色を感じることができたかもしれない。

敷地内には、聞・思・得・修・信の板がある。これがこのオブジェの解説板なのだ。

 

雨がより激しくなる、山の斜面の竹林からひっきりなしに雨が降り注ぐ。…帰りに墓地に向かうが、とうとう谷崎の墓は見つからなかった。丸い自然石に直筆の「寂」という文字が刻まれているそうだが、早朝、一人「寂」の気分を感じることができてよい。稲垣足穂の墓もあると聞いたが、こんなに雨が酷ければ、好物のシガレットも湿気って、火もつけられなくて退屈だろう。

 

タタタタ、タタタ、タンタン…タン…タン…タン…

聞・思・得・修・信…

 

 

1

分類
新着順
過去記事一覧
  1. ホーム
  2. 雑文録