熊本県 八代市 泉町(旧泉村) 五家荘
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雑文録

2023.01.22

文化

今年の冬は五家荘は大雪だった。フェイスブックなどの情報で山の吹き溜まりで約40㎝、二本杉の東山本店まで行く道路は深い雪かアイスバーン。車高の高い4駆しか辿り着けない雪路との事だった。そうして辿り着いても東山本店はお休みなのだけど。

ここ5年で僕が乗り換えた車が3台、その度にチエーンを買いそろえ、結果、使ったのは各車数回程度だった。去年買ったパジェロミニの中古車は電気系のトラブルもあり、1年もたたずに廃車になってしまった。(後ろのワイパーが止まらない、やむなくコードを抜く!)ミニに、チェーンを付けたのは2回程度だった。とても気に入っていたのだけど、一般の道路はともかく、砥用から二本杉への坂道を息切れして登ってくれないのだ。いつ止まるか分からないまま林道を走るのは、別の意味で寒いものだ。過去に他の車(イグニス)でタイヤがバーストして保険会社に連絡し、当然レッカー車の手配となり、とんでもない割り増し料金を支払うはめになった痛い経験もある…。

 

更に、頭が急に冷えるのは命の危険を感じる。5年前に開頭手術を受けた右の額の奥の血管が寒さで「ビリリ」と来るのだ。ヤバい車に運転者もヤバい。山に春が来るまで、ガマンするしかない。自宅で座学…という事で、古書店巡りで五家荘についての古書を探して回って過去の五家荘への時間旅行へ出かける事になる。事務所の近くに熊本県立図書館もあるが、地元の古書店の方が、掘り出し物が多い。この前、熊本県の教育委員会が過去に細かい五家荘の文化史跡を調査、その結果をまとめた資料をこっそり見つけたが、学術調査の本で味も素っ気もないので…とりあえずひっそり、古書店の本棚の奥にしまっておいた。平成の合併で、五家荘地区も八代市に編入されたので、本来ならば八代市の博物館がもっと調査をしてくれればいいのにと思うけど、宝の山を前に人手不足なのだろう。

そんなこんなで年末に「店じまい」の準備をした。最近、年寄の身辺整理を巷では「断捨離」という…その言葉を僕は好きではない…何かカルチャーセミナーとか…そういうお上品な世の為、人の為、みんないい人でいましょう的なノリが自分には合わないのだ。自分には「店じまい」という言葉で充分。

そうして自分の「店じまい」でいろいろ本棚をみているうちに、「くまもと里山紀行」なる本を見つけた。平成2年7月10日・地元紙熊本日日新聞情報文化センターの発刊で191ページ。モノクロ。執筆は栗原寛志 記者。平成2年は今から33年前の事。ちょうど京都から帰熊したばかりの時に買った思い出がある。中には熊本県内の90座の里山が紹介されてある。嬉しい事に、紹介されてある90座の中で、五家荘・脊梁エリアの山々の数は40座、半分近い数を占めている。単なる登山ガイドではなく紀行なので、その山にまつわる文化史跡などが紹介してある。修験道がらみの史跡も多々紹介され山によっては石仏の写真が多いページがある。熊本の里山のあちこちに民間の信仰の跡がたくさんあるのだ。農業県でもあり、みんな山の神さんに豊作を祈願したのだろう。どんどん朽ち果てて行く石仏様の姿。地図はフリーハンドで書かれ、方角も示されてないアバウトなもの。低山といってもその手書きの地図を片手に山頂を目指したら大変、道迷いの可能性が高いのでご用心。(経験者は語る)

登山中のメンバーの写真も昔の時代を感じる。水木しげるの漫画の雰囲気。みんな首にタオルを巻き、作業ズボンに「いがぐり」頭。昼飯は懐かしいコッフェルでお湯を沸かし、弁当をぱくついている。記事を書かれたのは新聞社の記者の人だが、道に迷われたり、ゆるく書かれている記事も面白い。

・例えば、白鳥山。(原文を要約)

10年前ほど昔、白鳥山で道に迷った。小雨混じりの霧の中、御池の中で方向を失った。ミルクの中を泳ぐようで周囲の風景がまったく見えない。足元の踏み後たどって行くと林道に出た。林道をさらに下ると、山の中の一軒家と出会った。

その家は椎葉村尾手納地区最奥の小林の人家…

その主に道に迷ったことを伝えると

「よう熊本の人が山道に迷ってうちに下りてきなはる。もう日が暮れるけん、今夜はうちに泊まっていきなっせよ」そして、栗原さんは娘さんに靴ずれの足に赤チン塗ってもらい、風呂に入り、ビールと夕食のご馳走のもてなし」を受けられた。

更に、その主が言うには「この前も道に迷い下ってきた熊本の人が居て、その人は一晩お世話して送り出したら、夕方また道に迷いましたと下りてこられ、結局二晩うちに泊まられた」そうだ‥

なんともすごい話というか、猛者と言うか。

 

・新しい山道のルート開拓の話。

京丈山へのワナバルートは、昭和58年江口司さん(熊本市・故人)と民宿平家荘の松岡さんが協力して開かれたそうだ。当時、春には谷沿いには書ききれないほどの山野草が開花したと書かれてある。山頂では九州でもまれなカタクリの大群落がみられたとの事。

・平家山(1494m)の事

平成2年から7年ほど前…ヤマメ釣りと山登りの一団が、葉木谷の最上流のピークを勝手に「平家山」と名付けた。この集団が良く利用していた宿は平家荘。またその一団は、京丈山と国見岳をつなぐ縦走路を2年がかりで開かれたそうだ。行けども行けどもスズタケの密林に鎌をふるい一団は前進を続けた。目的は祖母・傾山に匹敵する縦走路を作るのが目的だったらしい。(実は著者もその開拓に参加したらしい)それから平成2年、その道はまたスズタケの占領に会い、消滅寸前…。

登山者、釣り人が元気なら、山も元気(迷惑?)な時代だったのだろうか。

 

・当時の花への思い

ゴールデンウィークが終わった頃、クマガイソウの谷に向かう。五月の原生林はきらびやかな若緑の世界だ。天を覆う新緑の中、谷沿いの踏み跡をクマガイソウの住む谷に向かう。目指す谷に向かうと猿面エビネの薄茶色の花、ヤマブキソウの鮮やかな黄色、そして白い花びらをほとんど脱ぎ捨ててしまったヤマシャクヤクなどが、沢のあちこちに顔を見せる。(中略)

前の年も、その前の年も、そしてその前の年も花を開いていたクマガイソウたちが今年も当たり前のように花を開いている。

(中略)

クマガイソウの沢に別れを告げ、麓に下りる。一年後「あのクマガイソウたちと再会できるだろうかーあの森があのままであって欲しい」そう祈るだけだ。

(※写真は「くまもと里山紀行から」転載)

 

残念ながら…栗原さん、五家荘にその森はありません。次の年も、その次の年も…

 

※クマガイソウの同属の「アツモリソウ」は種子は繊細で発芽に共生菌類が必要な為、自然発芽率は約10万分の1と低い。野生株は激減、環境省の絶滅危惧Ⅱ類。アツモリソウは近い将来絶滅する可能性が高い。それでも自生地からの盗掘はたたない。

一昨年、ある谷でヤマシャクヤクの盗掘3人組を見つけて、警察や県の自然保護課にも連絡したが警察はともかく、県の自然保護課は何の対策もとらなかった。レッドデーターブックばかり作るのが自然保護課の仕事ではないだろうに。盗掘者からみれば、何もできない行政の「足元を見て」やりたい放題、取りたい放題の山が五家荘。

そうして、わずか30年で絶滅する花々…

僕のようなおじさんが、昔は良かったと、若い人に山の話をいくらしても、彼らのスタートは、花も何も咲かない荒地からのスタートで、見たことも聞いたこともない昔話を彼らに話しても何も伝わらない。

五家荘近郊の自治体では地域振興とやらで、税金をどんどんつぎ込み自然を削り、道路、橋、観光施設を建設しているところがあるけど、山間地の地域振興は、箱ものより人材の育成に予算をかけるのが本道だろう。すでに絶滅したクマガイソウの代わりに人を育ててくれないものだろうか。でないとあなたたちも絶滅しますよ。

 

と、いう事で、五家荘の春が今でも待ちどうしい僕なのだ。

※水色のイグニス(イグちゃん)が僕の車に復帰した。車高が意外と高いので山道は良い。スペアタイヤはネットで買い、積載す。

2022.10.31

文化

今夏の台風、大雨は想像以上に五家荘の山々に被害をもたらした。下界に居て、宮崎の方が被害甚大かと思っていたが、熊本では五家荘、五木の山々が大きな被害を受けた。10月の末の段階でも、地域をつなぐ動脈となる県道、林道のあちこちが崩落し、地図には今も全面通行止めを表わす×のマークがいくつも付いている。(いよいよ紅葉シーズン、少しでも回復を願いたい)

 

夏の遭難事故で話題になった主峰「国見岳」も被害を受け、山頂の祠も「狂風」に飛ばされ崩壊したそうだ。(守護神Oさん情報) そもそも、その前の大雨で登山口までの林道が崩落したのに、工事もつかのま、更に山頂への道のりは困難になってしまった。僕が五家荘で一番好きな白鳥山への林道も崩落、当分、苔むす世界も見れそうにない。そもそも宮崎の椎葉村にも五家荘を経由していくことが無理になったのだ。人間で言えば、動脈が破断し緊急手術を受け、充分休養が必要な状態の山々になってしまった。

 

国見岳は山の神の棲む神聖な山。何が山の神の怒りに触れたのだろうか。

しばし紅葉の季節迄、五家荘の山に行く機会がないので、僕は実際の山道ではなく歴史の小道に迷い始めた。図書館を覗くと「山の神」「修験道」「山岳宗教」などの書物が棚の一角を占めている。事務所から県立図書館が近いものだから、昼飯食べたら、ちょっと出かけくる…と言って本を漁る日々。

 

今のうちに調べておかなければ、五家荘の修験道も草生し消え去り、分岐に置かれた石碑の文字も見えなくなる。(エラソーに書くが、馬鹿だからすぐ忘れる)

 

ところで、秋は神楽の季節。

本来ならば五家荘も神楽の鉦の音、鈴の音が響く季節で、泉村誌によれば五家荘には、岩奥神楽、本屋敷神楽、葉木神楽、樅木神楽の4っの神楽がある。村誌には各神楽の由来、歌詞、道具などが詳細に記されてある。

山間の集落のあちこちで神楽が奉納され、実りの秋を迎えた谷間に神が舞い降り、歓声が響く景色を想像すると、わくわくしてくる。特に樅木神楽は、泉第八小学校の先生の熱心な取り組みもあり子供神楽も盛んなのだ。※僕が樅木神楽を見学したのは2017年の10月だった。

 

修験道と合わせて神楽の系譜を調べてみる。

山の稜線を越え、日本の神楽の源流、宮崎の神楽の資料に目を向けると、宮崎の神楽には7つの大きな流れがあるとの事。「高千穂系」「延岡・門川系」「高鍋系」「宮崎・日南系」「霧島神舞系」「米良系」そして「椎葉系」

椎葉村には村内26か所に神楽が伝承され、その総称が「椎葉神楽」と呼ばれる。(平成3年国の重要無形文化財指定)

 

椎葉村のお隣、五家荘の神楽も「椎葉系」と推察される。神楽は山伏(修験者)が伝えたと言われ、やっぱりそこには山の神と、神楽と修験道が繋がってくるのだ。特に椎葉神楽は古い形の神楽が残っていて、他の神楽は「神道」が中心なのに、椎葉神楽は修験道の影響が強く、山の神も仏も一緒に祀る内容が特徴だそうだ。

僕がどうしても見たいのが「嶽の枝尾神楽」で、神楽の宿に蓑笠を付けた貧相な男が現れ、宿を借りたいと申しでる。宿主が最初はその男を山の神と分からず問答するところから、神楽は始まるらしい…なんと劇的な!

 

山を登るのは楽しいものだ。五家荘の山道は、山の神、神楽に修験道、例えて言えば、それらがみんな、1本に繋がってくる時空の山旅なのだ。僕が歩いた小道、立った頂上にも山伏の足跡が残っているに違いないと信じたい。道の途中で苔むす石碑を見つけると、消えかかる文字を指でたどり、ひたすら撫でまわしたくなる。

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山伏になりたければ、修行の前に山伏問答が行われる。

「山伏とは何か?」「修験道とは何か?」

山伏になる心得をわきまえているか問われるそうだ。そして宮崎のある神楽の中にも同じ問答がある。

・問い「※是生滅法(ぜしょうめっぽう)とは如何に?」

・答え「夏の霧」

※万物はすべて変転し生滅するもので不変のものは一つとしてないということ。

・問い「生滅滅已(しょうめつめつい)とは如何に?

・答え「秋の露」

※生と滅(=死)の関係がすべて滅び已(や)むこと。

・問い「寂滅為楽(じゃくめついらく)とは如何に?

・答え「冬の霜」

※迷いの世界から離れた心安らかな悟りの境地が、楽しいものであるということ。

仏教の教え「涅槃経」の中の「是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」の問答が神楽の中にあるらしい。

 

山伏には自ら谷に捨て身する究極の修行もあった。(平安時代)

自ら犯した罪と、世間の人が犯した罪、穢れを背負い、谷に身を捨てる修行(代受苦滅罪)で、そのことで山伏は永遠の精神を獲得しいつまでも衆生を救う事が出来るという修行、思想。それと同じ思いで、自分の精神を試し鍛える意味で、彼らは敢えて危険な崖を登ったり下りたりされているのだろうか。

 

今日も図書館で重いページをめくる…

「修験道の地域的展開」宮家準 著(持ち出し禁マーク付き)

※椎葉村と肥後の国境には烏帽子岳 ※別名蜜多羅山(1126m)があり、山頂の南に腹巻崖と言われる絶壁があり、鎖業場となっていた…

はて、標高が今の烏帽子岳とは違うけど、確かに絶壁はある…まさか、こんな場所で山伏は修行されていたのだろうか?(冷汗)

2022.09.19

文化

五家荘に鎮座する国見岳は標1739メートル。熊本県最高峰の山なのだ。熊本県民のほとんどが熊本の最高峰は阿蘇山と思っているが、そうではないし、そもそも阿蘇山という山は存在せず高岳、中岳という山々の総称なのだ。五家荘と同じ烏帽子岳という山もある。ついでに調べていくと、阿蘇には西巌殿寺(さいがんでんじ)という天台宗の寺院があり、古くから阿蘇山修験道の拠点として、九州の天台宗の中で最高位の寺格を持つ寺院だったそうだ。

五家荘の山々にも修験道の山があり、そこらも共通点がある。神仏習合、山の神さんがみんなの暮らしを見守ってくれていたのだし、みんなの気持ちは山の神さんと自然とともにあったのだろう。そして西巌殿寺は釈迦院と同じく、明治政府の廃仏稀釈で廃寺が決まり山伏は還俗(げんぞく)した。※還俗とは、戒律を堅持する僧侶が在俗者・俗人に戻る事。

 

泉村誌を読むに、国見岳は過去に大々的な調査が行われた。

※昭和62年(1987) 現地を視察した研究者が次のような指摘をした。

山頂にある山形の巨大岩は祭祀の拠点「磐座(いわくら)」とみられる。そして山頂付近の調査で西側の磐座の前に柱の穴らしきくぼみがあり、表土をさぐると、4か所の穴が確認された。

この結果を踏まえて、平成4年(1992年)5月の3日間、その4か所と中心部の穴跡の発掘調査が行われた。

◆調査主体者

国見岳の神籬(ひもろぎ)保存会会長・井伊玄太郎氏 (早稲田大学名誉教授)

保存会事務局 中島和子 (京都精華大学教授)

熊本県文化課、泉村教育委員会、などなどの面々

その後、再調査が平成14年(2002年)7月に行われた。

◆調査主体 NPO古代遺跡研究所 所長 中島和子

調査団 日本考古学協会。山鹿市立博物館長 隈昭志氏の面々

東西南北、深さ、6メートルのトレンチ調査が行われ、

結果は残念ながら、新しい発見はなく、

今後は更なる大々的な調査が求められる…と、書いてあるところで終わり。

…おそらく当時の詳しい調査結果はどこかに保存してあるのだろうが、僕には見る事はできない。

それ以上はネットで、国見岳に関連する情報を深堀りするしかない。

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そもそも※昭和62年(1987) 現地を視察した「研究者」とは誰か?

ついでに言えば、何故その研究者の氏名が記されていないのか?

 

単純に考えれば、平成4年に調査された、調査主体者の

国見岳の神籬(ひもろぎ)保存会会長・井伊玄太郎氏の事だと思うのだけど。

神籬(ひもろぎ)とは、神道において神社や神棚以外の場所で祭祀を行う場合、

臨時に神を迎えるための依り代となるもの。

国見岳山頂の巨岩を山の神様の代わり「神籬」として、当時の人々は山の神様に祈りを捧げていたのだろう。「神籬」は現代、地鎮祭などで用いられている。ちなみに、国見岳の神籬(ひもろぎ)保存会の情報は、ネットの検索にも出てこない。全国にも国見岳という名の山が多々あり、同名の「国見岳」のネットワークに何か深い意味があるのだろうが、井伊玄太郎教授の書かれた本に国見岳にまつわるものが見当たらない。

さて、次に出てくる方

国見岳の神籬(ひもろぎ)保存会事務局 中島和子(よりこ)氏

中島教授は2回目の調査主体のNPO古代遺跡研究所所長でもある。古代遺跡研究や、磐座についての論文を多数発表されているが、古代遺跡研究所の活動資料はインタ―ネットでは見当たらない。ただ、全国で古代遺跡、縄文についての講演活動をされていて(過去には熊本でも講演されていた)その参加者のブログなどで、多少の研究の内容をつかむことが出来た。

中島氏の略歴には、「古代における政治と祀り」をテーマに日本とアメリカ大陸先住民の古代文化を研究中。九州と六甲山・甲山周辺の磐座(いわくら)を守る運動を起こしていると書かれてある。

磐座(いわくら)とは、「神の鎮座するところ。神の御座」。「そこに神を招いて祭りをした岩石。その存在地は聖域とされた」との意味。

 

五家荘の国見岳の山頂、巨岩は、つまり磐座、神籬の場、

神の鎮座する場所でもあり、古代から神聖な祀りの場だったのだ。

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◆中島教授の講演の一部(講演を聞いた人のブログの要約)

 

漢文の古事記では日本語の言霊の真意は書き尽くせない。

(例)天地初発之時 於高天原 成神名 天之御中主神…

と漢文で書かれているが、日本語の言霊では

「あめつち はじめてひらけしとき たかまのはらに なれる

かみのなは あめのみなかぬしのかみ・・・」

 

つまり、漢文の「天地」は「てんち」てんとちという事なのが、

「あめつち」となると「あ」「め」「つ」「ち」の一つひとつの

言葉に沢山の意味が含まれている。

例えば

「あ」…目に見えない微粒子。宇宙に満ち満ちている。根源。純粋などの意味

「め」…芽。始め。動き。

「つ」…集い。つくる。

「ち」…凝縮。力の根源。

イワクラ…天津神に降りていただく所。だから、天に近い高いところにつくる。

古代の祈りは太陽の光の暖かさに感謝し、自然の恵みが豊かであることに喜び、個人のみでなく全てのものが豊かになるようにという思いがある。それなのに、現代の人間の祈りといえば自己の欲望や自分勝手な願いばかりが多く、神社でもそのような祈願が主流になっていることを中島教授は嘆かれていたようだ。

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磐座について深堀していくと、日本磐座学会というものにたどり着く。学会は全国の磐座についての情報を発信したり、講演活動もある。

フェイスブックも開設され「生きた」情報がどんどん公開されている。国見岳の神籬(ひもろぎ)保存会とは、かすかに道が繋がっているような気がする。

http://iwakura.main.jp/

 

国見岳がきっかけで、インターネットの情報の森の中、又僕は道に迷いつつある。(苦笑)

8月に国見岳での遭難事故があった。無事、救助されて良かったと思う。僕も同じく五家荘の山での遭難経験者だが、五家荘の山は深く、いったん間違って降りたり、落ちたりすると中々引き返せないのが実情なのだ。しかもその時は自分がどこにいるのかも分からなくなる。迷ったときは、その場所に戻るのが鉄則だが、谷底からその場所を見上げるに、そこまで戻るに相当な体力が居るので、そのまま、助かりそうな場所を目指して歩き始める、森の深みにはまるわけだ。

今、国見岳の登山口までの林道は崩壊し、僕の現状では捜索の手伝いに行くにも登山口までの林道の途中で体力が切れ、うずくまり、捜索メンバーから保護されるのも恥ずかしいので、捜索には参加出来なかった。つまり遭難された方の無事を祈るしかなかった。

 

8月の末に、たまたま坂本村で山好きの老齢の方と出会い、五家荘の山の話題になった。その方は数10年も前に国見岳に登った事があり、友人が山頂近くで遭難されたそうだ、友人は1日かかり谷底から這い上がり助かったそうだが、その時の国見岳の山頂は今の展望のいい山頂とは違い、うっそうとした森だったそうだ。今の五家荘は強風で尾根の樹々も倒れ、見晴らしもよくなったが、当時は深い森だったのかもしれない。その森の中に磐座は鎮座されていたのだ。国見岳で執り行われた神籬の儀式の景色を想像する。

中島教授の指摘の通り、現在の社寺、宗教で、人は物欲まみれの祈願ばかりで、逆に神も仏様も逃げ出してしまっているようだ。

古来、日本人は自然の山や岩、木、海などに神が宿っていると信じ、信仰の対象としてきた。古代の神道では神社を建てて社殿の中に神を祀るのではなく、祭りの時はその時々に神を招いて執り行った。その祭りのシンボルが今も国見岳に残っているのは、何ともこころ強いではないか。

もう、めったに山頂まではいけないが、山道を歩いていて見つける石ころでも、神が居ると信じたら、それが神と信じたいと僕は思いたい。それだけで古代の神と人と、交信できる気がする。

家で寝ていて、国見岳で執り行われた神籬の儀式の景色を想像すると、ぽっかり天井が開き、山の夜空が広がる幻想を一人、見る。

2022.08.21

文化

廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)…そう2月6日の雑文録(金海山 釈迦院)で書いた、薩摩藩らが、徳川政府との戦に勝つため、無理やり京都の天皇を政治利用し「錦の御旗」を掲げ、明治維新を達成、全国津々浦々、各集落毎にある神社を合祀しお寺を廃止、一町村一神社を標準とせよという無茶苦茶な事を庶民に押し付けた法律が「廃仏稀釈」なのだ。

明治元年(1868)明治政府によって出された神仏習合(しゅうごう)を禁じた命令で、全国に仏教排斥運動が起った。土着の神と仏様さまが仲良く暮らしていたのを追い出しこれから天皇を神とせよというもの。五家荘でも釈迦院が被害に遭い仏像が廃棄された(一部、かくまわれて復活) 。天皇は人から生きた神に大変身…

釈迦院は九州山地の修験道の拠点の一つ。全盛期は西の高野山とも呼ばれ、天台・真言・禅・浄土宗の道場、二寺、75坊中(僧の住む家)が並び立ち一大聖地だった。当時は尾根伝いに山伏が修行し時に山人の病気、ケガをなおし、仏様の教えを説いて回った。二本杉に祀られてあるのも、お大師様(弘法大師)の像。

五家荘の尺間神社の建立のきっかけは、五家荘の庄屋の一つ「左座家」にまつわる言い伝えにから。ある時、左座家の4代目の亀喜が原因不明の病気で突然、床に臥せてしまった。日夜、熱にうなされ、いろいろな治療に手を尽くすが容態は悪化するばかり。親戚縁者集まるに、病の原因は左座家に代々伝わる「備前長船」という刀でなはなかろかと誰かが言い出した。屋敷に泊まる人も亀喜と同様、夜な夜な熱が出て、悪夢にうなされる事が続いたのだ。奇怪なことに翌朝、うなされた人が床の間に目をやると、飾ってあった「備前長船」の白刃が鞘から顔をだしている。きっとこの妖刀の呪いが原因なのだ。

五家荘には庄屋だった左座家、緒形家の屋敷が今でも保存され、見学も自由となっている。薄暗い床の間には板で棚が架けられ長い板、短い板が上下平行して取り付けてある。聞くところによると、当時、争いなどが起った時に討ち取った敵の大将の生首を床の間の棚に置いて戦果を誇る習わしがあったという。首から流れ出た血が直接落ちて畳を汚さないように、階段状にその床の間の板を流れ落ちる仕組みらしい。このような事は当時の戦では当たり前なのだろうけど。

さて、4代目の病気をどうするか?いろいろ聞いて回るに大分の尺間神社 (1573年 天正元年建立 )の神様なら何とかなるのではないかという情報を左座家は得て、中畑萬吉という人に無理を言い大分の尺間神社までお参りを頼んだ。すると神社の神様から中畑さんに亀喜さんの病気のもとは、刀のたたりというお告げがあった。

そこで左座家の5代目は遠路、大分の尺間神社に行き神社に備前長船を収め、80日間山に籠もり荒行した。すると4代目の病気は嘘のように完治、旅人もうなされることはなくなった。その事がきっかけで地元の人々は本家・尺間神社に分祀をお願いし、今の西の岩の尺間神社が出来たのだ。村に本物の山の神様が来たとみんなは大喜びだったという。閉ざされた山里、五家荘。今のようにインターネットもパソコンもない。五家荘と大分の尺間神社をつなぐ役目は山伏、信仰心のネットワークが役目を果たしたのだろう。

僕に神のお告げがあったわけではないが、やはり、どうしても五家荘の尺間神社の事が気になる。釈迦院と尺間神社、当然大きな時間差があり、関係性は皆無だろうけど、閉ざされた山間地の宗教心を基に考えると、草むらに消えかけたもう一つの尾根の道が微かに見え隠れするような気がする。

そう思いながら、一度、尺間神社の鳥居をくぐるも体力不足、根性なしで断念、引き返した自分を恥じ、もう一度、尺間神社の本殿に向かう事にした。

その日は、山の神のお告げ、手助けか、鳥居をくぐると、崩落した参道の斜面に太い、黒と黄色に編まれたビニールのロープがするすると垂れ下がっていた。

体重70キロの重さに耐えながらも、崩落した急坂をロープにすがりながら登り始める。道の幅は一人分の幅しかない。時々、岩が顔を出し坂は更に狭く急になる。頭の上に樹々の枝が伸び、進行を邪魔する。ロープはとうとう本殿の手前まで繋がれていた。おそらく、地元の人々が参拝するために設置されたのだろう。左ひざを痛め、バランスのとれない僕の体は最後までロープにお世話になってしまった。

そうして、尖った岩山の上に、ちょうど4畳半くらいの木造の本宮があった。標高917メートル。もう体もフラフラなのだが本宮の周りを見るに、本当に岩場の頂上に置かれているのが分った。建物の周りをぐるり回ると基礎部分は平たく割られた岩を積み上げた薄い石垣の上にバランスよく建てられていたのだ。

足元を見ると、断崖絶壁。木の枝のすきまから苔むす岩の壁面が見える。足元から吹き上がる冷たい風に身も心も凍り付く。本宮の裏に回ると、岩場を少し降りる道があり、その向こうにも岩場の上に同じ大きさの建物奥宮がある。それにしてもよく、こんな場所で祈祷しているものだ。さすがに奥の宮まで怖くて行けない。恐怖で固まり、体が動けなくなる。カメラバックからスローモーションのような動作でカメラを出し、怖れながら写真を撮る。

※以前読んだ資料で、本殿は「びゃくらんの滝」の上にありますと記されていた記憶がよみがえる。つまりここは滝の最上部にあるのか…と思うと余計に怖い。しばし休憩、足元に気を付け、ロープにすがりながら帰路を急ぐ。

本宮への道など、地元の山人から言わせれば、なんでもない山道だろうし、恐れることはないのだろう。恐れているのは無信心、邪鬼の塊、罰当たりなよそ者の僕くらいだ。

嗚呼、尺間権現様…時代は大きく変わりました。人も少なくなりました。それでも、山の神様は山人の健康祈願、暮らしを見守ってくれているとみんなは信じております。

これからも、本宮から長いロープを一本、下界に垂らしておいてください。

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※尺間神社の本来の意味は、魔を払う意味の釈魔大権現。大権現の名称から尺間神社に変身(変名)したのは廃仏毀釈の影響だと思う。残念な事に今の尺間神社に電話するも愛想の悪い男の低い声で怪しまれ不快な思いをした。地元の文化施設の担当に聞いてもたらいまわしにされ、ほとんど情報はなかった。(苦笑)

五家荘の尺間神社の建立は、1904年(明治37年)。廃仏稀釈とは無縁で、山の神さんという事で信仰、親しまれてきたのではないか。大正に入ってからは、不合理な神社合祀がされることはなくなり1920年(大正9年)「廃仏毀釈」運動は終息した。

※九州で廃仏毀釈の被害を受けた有名な神社は英彦山

英彦山は、羽黒山(山形県)、熊野大峰山(奈良県)とともに日本三大修験山のひとつとされる。江戸時代の最盛期には3000人の衆徒と800の坊舎(宿泊場)があり九州地域の崇敬を集めてきた霊山。しかし明治維新の廃仏毀釈と神仏分離令、修験道禁止令によって、神仏習合および仏教に関わる文化財の多くは人為的に破壊され、口伝を主とする修験道文化の伝統はほぼ途絶えた。明治政府に反抗する多くの修験者が投獄され、亡くなった。

 

2022.07.24

文化

3年に1回開催される、瀬戸内海国際芸術祭にあこがれたのは何時の頃からか。

芸術祭は2010年度からスタートし瀬戸内海の大小さまざまな島を舞台に世界中から芸術家が参加し、島民を巻き込み作品の展示がされ、全部見て回るには最低1週間はかかる芸術祭。

熊本から見学に行くには遠く、時間がかかる。(当然、仕事はホッタラカス事になる)

会社定年になってから、じっくり行こうとか、(こちとら自由業なり、死ぬまで稼がないかん)、いつか行こうとか、(そんなこと言うてたら、死ぬまでいけない)…

そんじょそこらの屋外(イベント)芸術祭とは次元が違う。瀬戸内国際芸術祭総合ディレクター北川フラムさんの本を読むと、準備に相当な時間をかけ、島民の方への説得、理解を得るのも大変だったらしい。(経緯を書いた本まで出ているくらい!)…

で、今年がその開催の年なのだが、やっぱり行けなかった。(仕事をホッタラカシて長野の縄文博物館に行った) せめて2年前に立神峡の陶芸家平木先生に、製造してもらったオブジェ「命名・森のしずく1号」を持って五家荘の山に向かった。2022年極私的芸術祭の極私的スタートである。

森のしずく1号の発想の起源は、瀬戸内芸術祭の本で見た、※「トムナフーリ」という作品で、「トムナフーリ」は森万里子氏の作品で、豊島の森の小さな池の真ん中に置かれた白いガラス質の米粒のような形のオブジェ。(高さ3メートル)

「トムナフーリ」は樹々の生い茂る暗い沼の中で、スーパーカミオカンデと接続し、宇宙で超新星爆発 (星の死) が起こると、光を放つ記念碑になるそうだ。つまり何時超新星が爆発するかわからないけど、参加者はその光が放たれるまで、その白いガラスの物体を眺め、その時を想像し待ち続ける事になる。

それに刺激を受けたのが、我が「森のしずく1号」なのです。

1号は五家荘に降る、森の雨の雫、新緑の朝露のしたたり、苔むす岩の間からこぼれ散った生まれたての水源の一滴。生まれ死にゆく鹿や猪、獣たちの涙。山に住む人の汗と涙が、雫型のオブジェに凝縮されている。

 

 

そして真ん中に空いた風穴は、時の流れを行き来する風の通り道。

 

 

7月の半ば、天気予報は曇りのち晴れ…ということで、白鳥山に出かけ登り始めて1時間小雨が降ってきた。だいたい僕が白鳥山に行く時の天候は晴天より雨が多い。しかし夏の雨は気持ちよい。カッパを来て目標の小滝に到着、写真を撮る。(岩に足を滑らせ左足が膝までずっぽり川に浸かる) 雨の為、あたりは薄暗い。滝を前に写真を撮ると、どこかの怪しい酒のポスターのようだ。次は苔の上に寝かせ、写真を撮る。

うだうだしていて昼前になる。なんとか山頂前の御池(みいけ)に着き、苔むすブナの茂みをさまよう。白いガスが湧き始める。本来ならそのガスに包まれる1号の写真も絵になりそうだが、道迷いの名所でもあり、調子に乗らずに撤退を決める。

まだ極私的芸術祭は未完。いつの日か深い森に「森のしずく」を置き、月の光が差し込みポタリと緑に輝く写真を撮りたいものだ。

 

下界に長く住むと、足のつま先から脳内まで「デジタル」の電波に侵されていく。宇宙の超新星の爆発に刺激を受けるどころか、無駄な電波、ノイズに反応し脳神経が傷み、気がついたらもう遅い、脳が赤く点滅し疲労が降り積もり、思考回路が絶縁、息が詰まる。

森の精で深呼吸せねば、僕の「タマシイ」は救われない気がするんだなぁ。

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※瀬戸内海国際芸術祭 2022

3年に1度、瀬戸内海の12の島と2つの港を舞台に開催される現代アートの祭典。2022年は4月14日開幕

※トムナフーリとは、古代ケルトにおける霊魂転生の場の意味。この場所で魂は次の転生までの長い時を過ごすと考えられている。

実際の参加作品(現在、メンテナンス中)

◆北川氏 談…(2016年)

正直言って、日本はすでに手遅れかもしれないとも思います。だから、伝統的コミュニティや文化的なインフラが残っているアジアの国々の人たちには日本のようにならないよう、何か少しでも支援できることがあったらしたいというのが、今の私の気持ちです。アジアの国々だったら、まだ間に合います。

2022.02.06

文化

金海山釈迦院は五家荘エリアの西に位置する大行寺山(標高956m)の山頂近く、杉の古木に囲まれ鬱蒼とした標高942メートルの森の中にある。宗派は天台宗。

五家荘の自然や文化に彷徨いこんだ自分がなぜ、今日まで釈迦院にたどり着かなかったかには理由がある。それは釈迦院イコール「日本一の石段3,333段」のイメージに拒否反応を示していたからだ。もともとスポーツとやらが苦手…いゃ、嫌いなひねくれ者の自分だし、汗を流すならそこらのグランドを走ればいいし、石段を登るどころかその速さを競うなんてもってのほか、誰が考えたか、どこぞのイベント会社の「地域興し」をネタにした企みに乗るもんかと思っていた。そもそも企画したのは隣の旧中央町。要するにネタ作りに釈迦院は利用されたのだ。建設当時、泉村では石段建設に反対する人も結構いたと聞く。

時は日本一運動の真っ盛り、マスコミはこの日本一とやらを大きく取り上げた。県内を回るたびに思う、笑うに笑えない日本一競争の祭りのあと。海に沈む夕陽を浴びて一人微笑む、日本一のエビス像の後ろ姿のなんと寂しいこと。エビス君の寂しい肩を抱く人間は誰もいない。日本一の大水車もあった。天草のキャンプ場にあった「大王丸」は完成時、日本一だったけど、湯前町の親子水車「みどりのコットン君」に首位を奪われ地に落ちた。悲しくも情けない、天下の日本一の水車は、わずか30年で解体されてしまった。良きライバルのコットン君も同じ運命をたどる。五木村のバンジー騒ぎもようやく収まり、谷に静けさが戻ってきた。県内、日本一の負の遺産だらけなのだ。

自分は、そんな3,333段を競う汗を嫌悪し釈迦院を敬遠していたが、大きな勘違いだった。階段と釈迦院は思うほど、つながりはなく、階段のゴールから釈迦院の本堂まで、約2キロ近く石畳の道を歩かないと釈迦院にはたどりつけない。実際、階段を登り終えたあと、更に石畳の道を歩き参拝しょうとする殊勝な人がどれだけいるのか。昔、信心深い地元の人は老いも若きも、ふもとから山道を歩いて登ってきていたのだ。(そっちの方が健康) 今もそういう古道が残っているなら自分でも登ってみたいと思う。

釈迦院の由来は延暦18年(799年)大地震で大地が震動し、地中から金の釈迦如来様が出て来て、その如来を地元の僧「薬蘭」が安置、釈迦院と名付けたことから始まる。その後の時の流れの中で釈迦院の全盛期は西の高野山とも呼ばれ、天台・真言・禅・浄土宗の道場、二寺、75坊中(僧の住む家)が並び立ち一大聖地になった。そこには一般の僧侶だけでなく修験者(山伏)なども居たらしい。そこまで権力、信仰を集めると、他の権力者にとっては脅威に映るのだろう。天正15年(1587年)隣のキリシタン大名小西行長が総攻撃、75坊は焼き払われ、釈迦院の苦難の歴史は始まる。当時のキリシタン大名も南蛮貿易で利益を得たいのと、力で民の心を抑えておきたかったのだろう。キリシタンと言いながら、やっていることは乱暴残虐な戦国大名と同じなのだ (今は宇土市のゆるキャラに転生)。

それでもなんとか釈迦院は加藤家、細川家のサポートにより復興、江戸時代末期まで地元はもちろん、肥後藩の中でも特に信仰を集めた名刹と言われていた。ただ資料を探しても、小西行長の焼き討ち事件から江戸時代末期までの復興までの資料はあまり見当たらない。

そして明治2年、維新政府の神仏分離、廃仏毀釈の発令が下る。当時の住職は帰農し、およそ1000年以上も続いた名刹の歴史も明治4年に廃寺となり息絶えた。寺の領地も官有地にされ、釈迦院消滅。問答無用、維新政府の暴挙。ところが、本尊(黄金の釈迦仏)は熊本市の川尻の阿弥陀寺に無事保護されていた。誰かが本尊を守るために抱きかかえ、命がけで山の坂道を下りたのだろう。

そもそも、日本の信仰のスタイルは神仏習合、神様も仏さまも、土着の神もみんな一緒に住み、一つの信仰の形になり、平和、豊作を祈ったのに、いきなり時の政府の都合の良い神(神道を国の宗教と定めた)を信じろという神仏分離には無理があった。特に修験道は神仏習合の典型とされ明治5年には「修験道禁止令」まで発令され、素朴な山の神を信じる修験道は禁止、すべての山伏は世間に帰され、失職。指導者ランクの山伏だけでも全国に12万人いたが帰農したり、露天商などになり全国を漂白する人や、寺院を持っている人は自宅に戻り仏僧になったそうだ。特に修験道のシンボル「権現」「牛頭天王」「明神」は狙い撃ちされ、道祖神、馬頭観音、石の地蔵は叩き壊され、土に埋められたり川に投げ捨てられた。

妖怪のモデルは地域の土着の神の仮の姿のような気がしてならない。もしくは修験者、山伏の姿で、天狗はもちろん、河童、油すまし、ぬらりひょん…そんな神々を廃棄し、明治政府は強引に近代化を進めたのだ。しかし明治政府の思惑通りにはことは進まず、神仏分離令は10年足らずで破綻した。ただし、その10年で文化財の9割は破壊された。

 

 

五家荘の山には釈迦院発祥の修験道の教え、伝承が残り、その山伏の足跡が蜘蛛の巣のようにいくつも編まれ、何か大きな模様が描かれている気がする。しかも、その道に平家の影が見え隠れすると、更にその模様は複雑なものになる。

国見岳、大金峰、小金峰、久連子岳、白鳥山、尺間神社、その尾根道は大きく円を描いている。二本杉から釈迦院に続く古道もあると聞いた。

妙見宮をきっかけに、これまで神仏習合、廃仏毀釈について机上の歴史物語と思っていたのが、釈迦院について調べていくうち、ますます関心が高まる。もちろん、本の情報を頭に詰め込んだだけの自分ではあるけど、いよいよ1月23日に、釈迦院への道をたどる事にした。

朝から結構雨足は強く、この天気なら、林道の雪、氷も解けているかと期待した。(家人は雨の中出かけていく僕の事を馬鹿と思った) 泉村支所を通り過ぎ、柿迫の集落を経て釈迦院への林道をうだうだ登る。予想通り、林道の雪はほとんど溶け、チェーンは不要だった。それでも釈迦院が近くなるに連れ、雪が残る道が出て来た。目の前が明るくなったと思ったら、山門の前。先客は車1台。老婆と娘らしき人物が傘を差し階段を降りて来ていた。雨が降り続く中カメラのシャッターを切る。山門をくぐり左右に仁王像を眺め本堂へ向かう。本堂の奥には金箔の御本尊が祀ってある。

線香の白い煙が辺りを漂う。お守りやお札を買う。住職も昼食時だったけど、丁寧に釈迦院の歴史を話してくれた。根ほり葉ほり話を聞く。今、釈迦院には檀家はいなくなったそうだ。その為全国からの有志の支えで寺は成り立っているとの事。数年前までは雨漏りがひどく、本堂の中にブルーシートを被せ、その下で、お経を読んでいたそうだ。修復は支援する人々のサポートでできたという。時に、境内の清掃をしていると、関東から出張できたという人も清掃に参加し、その人は金銭面でも大きな支えになり、黒くくすんだ御本尊も金箔に塗り替える事ができたと嬉しそうに話してくれた。

話を聞いて感じたのは住職の欲のなさだった。正面の扁額も金ぴかに大変身。なんとこの書は世界的に有名な書家、金沢翔子さんの書(大河ドラマ平清盛の題字)で、釈迦院の事情を聞くと代金は受け取らなかったそうだ。こういう支援する人の支えでこの釈迦院は成り立っていますと住職は淡々と話す。そういう話を聞いていると、自分の気持ちの中に漂う黒い雲に微かな光が差し込んできた気になる。地域お興しとか日本一とか、ここはまったく無縁の聖地なのだ。

 

 

古書店で手に入れた本にも釈迦院の話が書かれてあった。肥後五家荘風物誌 (昭和42年発刊) 作者の野島和利氏は大学の農学部林学科を経て八代農業高校泉分校の先生に就いた。当然植物に詳しく、その本に当時27歳の野島先生は五家荘をくまなく歩きながら歴史、文化、自然の草花を満遍なく調べ一冊の本にまとめ上げた。

野島氏はバスを降り、柿迫神社を経て釈迦院に登る。その途中で黒モジの杖を突いた老人数人とすれ違う。どこから来たかと聞くと、宮原町からと言う。お釈迦様の誕生日だから釈迦院にお参りしてきたそうで、野島氏はその信仰心に驚いてしまう。「釈迦院まで、登るのは大変でしょう」「そうですな、ゆっつら、ゆっつら登りますから」とその老人一行は答えた。風物誌には釈迦院にたどり着くまで道際の山野草の名前、生育状態がびっしり記されている。

野島氏が山門をくぐると、そこにはたくさんの参拝客がいて甘茶をふるまわれていた。宿泊場で80歳の老人から釈迦院の歴史を2時間ほど聞かされる。その老人は喘息に悩まされながら一人、敷地内に小さな小屋を建て住んでいるらしい。当時の豊かな五家荘の自然の中で、野島氏は様々な人と出会い別れた。

 

雨がまた激しく降りだしてきた…

住職はお守りを袋に入れ、僕に手渡しながら話す。「昔は、花まつりは、にぎおうたもんですな、境内には店も出て、学校も休みで子供もたくさん登ってきたです」

釈迦院は今後、後継者がなければ本当に廃寺になるのかもしれない。それも時の流れ、延命などされずに森の闇の中で静かに目を閉じられるのも、いいのかもしれない。森の鳥たちはお別れの歌を歌うだろう。獣たちは涙を流すだろう。

僕は「そうですな、ゆっつら、ゆっつら登りますから」という心境にいつか、なれるだろうか。

 

2022.01.24

文化

五家荘地区は行政の区割りでの名称は八代市泉町になる。平成17年に周辺の1市2町3村と合併し、八代郡泉村から八代市泉町になった。合併して良かったのはこれまで各々にある文化財が博物館などで一堂に見る事が出来るようになったこと。去年の暮れに八代市立博物館で開催された「妙見信仰と八代」という展覧会を見に行った。八代には江戸時代から伝わる「妙見祭」という祭りが秋にあり、僕は好んで毎年観に行っていたのだ。

 

妙見祭の出し物は、市内を練り歩く神幸行列と、華やかな笠鉾の巡礼、獅子舞、飾り馬の疾走、そして「亀蛇(キダ)」と言われる神獣の乱舞と盛りだくさん。特に体は亀、顔は蛇の亀蛇の舞が見ものなのだ。ちなみに地元では亀蛇のことを「ガメ」と呼んでいる。およそ5メートルの長さの甲羅に、伸び縮み自在の蛇と鬼のような顔つきのガメが、まさしく怪獣ガメラのように回転し、周りの見物客をなぎ倒し、観客席に乱入したりするのは壮観なのだ。突き倒されても、みんな祭りだからニコニコ笑っているのが良い。以前、大雨でさすがに、貴重な笠鉾などはビニールでカバーされながらしみじみと列を組んでいたが、最後のトサキの河原でのガメの乱舞は壮絶だった。祭りはもう中止になってもいいくらいの雨の降りようだったけど、河原に集まった観客はガメの乱舞を待った。傘をさし、立ちすくむ僕の前のおばさんは「ガメばださんかい、早くガメばださんかいっ」とずぶ濡れの姿でつぶやき続けていた。そう、本来ならば神獣ガメの上には菩薩様が乗っかり、人々の健康平和を願っているのである。おばさんの目にはそんな幻の菩薩の姿が見えたのかもしれない…と思いきゃ、ガメは河原に足を取られ、ずぶ濡れ、ひっくり返りそうに斜めに傾きながらも回転し客席に迫ってきた。

 

「妙見」というのは古代中国が発祥で北極星や北斗七星の天体を永遠と信仰することから始まったらしい。仏教の教えのひとつで、そのシンボル像として「菩薩」様が生まれた。その菩薩様の足元には神獣「ガメ」が居て、菩薩様を守り、近寄ると噛みつきそうなガメが居る。亀は菩薩様を背に乗せ中国からプカプカ海を渡り日本にやって来た。八代上陸後、数か所転々としたので、ガメは何匹か八代周辺の町にも息づいている。

展覧会では全国から集められた、ガメに乗った菩薩像や、巻物が展示してあった。その展示物のフィギュアがあれば、即買う(へそくり、1万円まで)自分だが、もちろんそんなグッズの販売はなく、資料本を数冊買って帰った。古代からの信仰について本の数冊読んだくらいで何も分かるはずはないが、まぁ読んでいくうちに、少しは頭の栄養になったような気がした。

ところで、八代には「妙見宮」というお宮も当然ある。福島県の相馬妙見、大阪府の能勢妙見と並んで、日本三大妙見の一つといわれている。妙見宮は今、「八代神社」と呼ばれているが、妙見菩薩は仏教の信仰であり、昔は神仏習合、神社も寺(仏教)も一緒になり庶民の信仰の対象になっていた。敷地内には神宮寺があり、妙見宮は神宮寺が取り仕切っていたのだ。それが明治元年に明治政府から、神社から仏教を追い出せとの命令(神仏分離令)が下り全国一斉に、無謀なお寺排除運動が断行された。当時は「妙見」という名称自体が問題とされ、妙見宮にあった仏教に関連する施設、仏像、仏具はすべて取り壊し、神宮司住職まで追い出された。一応、その程度の知識は持っていたが、妙見宮の事を調べるうちに、単なるイベントとしてこれまで見ていた祭りが、違う角度から浮き上がって来る。と言うか、激しい怒りが湧いてくる。最後の住職は自分の代で終わる役目を悔い、これまでの歴代の住職の名前を刻んだ位牌を作り、ゆかりのお寺に奉納した。その位牌も展覧会に展示してあり、巨大なまな板のような横幅の広い位牌に名前が順番に刻んであった。それくらい、悔やんだ事件だったのだろう。これまで何百年も地域を守ってきた妙見さんからいきなり、明治政府の紙切れ一枚で何から何まで破壊、遺棄されたのだ。維新政府は今でいう、アフガニスタンのイスラム原理主義のタリバンと同じ。タリバンは偶像崇拝を否定し(自分らこそイスラムという偶像崇拝してるくせに)大きな仏像の遺跡を破壊した。そんなこたぁ歴史小説「飛ぶがごとく」「竜馬が行く」には一切書かれてないのにな。西郷どんのおひざ元、鹿児島のお寺の仏教関連施設はことごとく破壊されたのだ。

ところが、廃棄、破壊されたはずの一部の仏像、仏壇、仏具などはこっそり保護され、違うお寺に隠されていた。博物館に展示されている仏像の一部は、そうして保護された仏像だった。

「神仏分離令」とは違う言い方をすれば「廃仏毀釈(はいぶつ・きしゃく)という。廃仏毀釈というのは、仏を廃止、毀釈(釈迦の教え)をぶっ壊せ、毀損しろという意味なのだ。どうやら博物館では廃仏毀釈という言葉は使いたくないようなのだけど。(役人だからお上の愚行の批判はしにくいのか。) 哲学者、梅原猛氏によれば廃仏毀釈が無ければ、国宝の数は今の3倍はあったと言われ、国宝級の仏像が斧で叩き割られたり、燃やされたり、建物は引き倒され、仏具は二束三文で売り払われた。

古くから伝わる「神も仏も一緒に信仰し、みんな幸せに暮らそうぜ、土着の変な神もみんな一緒」という日本人の信仰心を明治維新は粉々にした。結局、天皇は生きた神となり、戦争の神として利用された。

はて、そこで思うに、五家荘のエリアには「釈迦院(しゃかいん)」という、これまた有名な寺院があったと思いだした。 (何か僕を呼ぶ声がして…幻聴?)最近、両肩、左ひざの体調不良(自己責任)の為、あまり動けない自分は、再度「泉村誌」を読みこれまで訪れたことのない釈迦院へ初めて向かう事にした。

釈迦院に行くまでに僕の脳内はこういう、長いうんちくの道をたどる必要があったのだ。最近「維新」という言葉を聞くたびに、虫唾が走るせいもある。何が維新なもんかい。

2021.11.09

文化

「先生」とは五家荘図鑑の雑文録に出てくるN先生のこと。N先生は五家荘の自然、文化、歴史研究の第一人者で、これまでにたくさんの研究書や文献を発行されて来た。はるか40年以上前、僕が通っていた田舎の高校の山岳部の顧問で、その当時から熊本の高校山岳界では怖れられている存在だった。(こんなこと書くと、次回会う時は殴られるかもしれない)…ちょうど4年ほど前、地域の観光振興のお手伝いで、「五家荘の山」という冊子の制作をお手伝いすることになった。五家荘の山は、九州100名山の中に10座も選ばれているという事で、その10座を踏破し(途中、遭難もしたけど…)なんとか、五家荘の山々や自然を紹介する冊子を仕上げる事ができた。冊子の完成前にN先生にも挨拶するのがスジと、それこそ30年ぶりくらいに僕は先生の家の門をたたいた。先生はとうに僕のことは忘れていても五家荘への熱意は変わらず、雑文録にあるように、僕に山への熱意を語られた。

「五家荘の山」の編集と並行し、「五家荘図鑑」の大まかな編集もスタートしていて、本の中の雑文録にN先生のことも書かせていただいた。その後、僕はクモ膜下を発症。悪運強く数か月後に社会復帰、まだ額の穴がふさがらないまま、先生に先に完成した「五家荘の山」を手渡した。

それから数か月後、「極私的五家荘図鑑」が完成。しかし後遺症が出て車の運転が2年間禁止となり、ようやく運転の許可が出たので9月に先生に届けに行ったのだ。ちょうど不在で奥さんに本を預かってもらったが、その翌週ようやく先生に会えた。

もちろん先生は雑文録も読まれていて、玄関先でいきなり叱られてしまった。その内容は先生の誤読によるもので、まったく僕の書いている内容とは正反対のことでもあったのだが、高校以来、先生からの雨あられのような、怒りの言葉を浴びているうちに、反論する気もうせ、ただただ玄関先に立ち尽くすだけだった…まるで言葉のサンドバック…(なんだか気持ち良くなるもんだなぁ)…その誤読の内容については語るまい。

先生は元生徒の心底に棲む「いい加減さ」を見抜き、攻撃してこられた…いゃ、このこともこの場で書く気もしないので書くまい。

ただ、「ヒトの話をよく聞け」と何度も言われた。まずは地元に出向き、地元の人の話をよく聞けと。これは民俗学のイロハのことだろう。そのことで何かが得るものがあり、その積み重ねが成果となるのだろう。軽々しい僕の文章は「なぁんも、地元の人の話を聞いとらんたいっ!」てな、ことになるのだ。(だから極私的なんだけど…)

そして、石楠花越(しゃくなんごし)の話になる。石楠花越しという地名の本当の呼び名は「百難越し」という。石楠花が咲く越(峠)のことではない。「よかかい、山の人にとって、峠を越えることはなんでンなか、普通の峠越えなんて、屁でもなか。片足とびでもぴょん、ぴょん、超えていきよる。そんだけ、山ん人は強かったい。そがん強か人が、あの峠だけは「百難(ひゃくなん)」…ものすごいきつか峠越えて言いよる。五家荘の中で「ひゃくなん」越していう峠は、ここしかなかと。

その意味は、久連子(くれこ)集落※に不幸のあったときに、若い衆が、峠の向こうの水上村からぼんさんも連れて、抱え上げて、荷物も一緒に葬儀に間に合うように峠ばこえないかん事情があったとたい。帰りは帰りで土産ば持たせないかん。

「なんでん書くのはあんたの勝手、自由だが、その前になんで俺に原稿ば見せんとか、間違った情報があるかもしれんたい…」(書くのは勝手に書けと言いながら、先に原稿を見せろって…先生…)

もともと性格に「百難あり」の自分で、先生、僕はどうしても人と話ができないのです…嗚呼、五家荘の山に入るのがあと10年早ければ。今の、五家荘も他の地域と同様、過疎化、風化が進んで話を聞くにも、なかなか人と出会えないのが現実なのです。

正直に言うと、「極私的五家荘図鑑」に書いた文化や歴史の内容は先生がまとめた書物がルーツで、地元の話を聞く機会が少なくなった今、その本の追体験をしているわけなのだ。

悪運の強い僕なのだ。たまたま市内の古書店「汽水社」をのぞいた帰りに、向かいの古書店に立ち寄り、郷土史の下の棚に五家荘関連の書物が、きちんと肩をそろえて並んでいるのが目についた。まるで僕が来るのを待っているかのように。「泉村誌」「泉村の自然」「五家荘森の文化」…と並んで、「秘境五家荘の伝説」(山本文蔵著)と、あと一冊。

「秘境五家荘の伝説」は昭和44年初版。当時に伝承された伝説や、平家の家系図などが詳しく紹介されている。その中に久連子の事も。

※久連子集落…久連子集落に残る五家荘に残る唯一の寺院が正覚寺。この寺院には平家代々の24名の位牌が保存されている。久連子の人口過剰により他に居住した門徒は今なお正覚寺と交流をしている。水上村15戸、五木村・梶原37戸、入鴨3戸…現在、正覚寺の住職がこの地に赴いている。

先生の言う通り、久連子の若い衆は不幸があると百難越を超え、水上村、五木村の門徒を故郷久連子まで連れ帰り、法事に案内する義務があったのだろう。令和の今、すでに正覚寺は建物だけが残っている。

79歳になられた先生は今も悔しそうに僕に語る。「あんとき、正覚寺の過去帳を見せてくれとお願いしたが、どうしても見せてくれんだった…。」

2021.04.20

文化

これまで五家荘を車でさまように、どうしても気になっていたのが、道のわきからかいま見える木の鳥居や祠などだった。うす暗い杉林の奥に見える朽ち果てた木の鳥居。おそらく相当古い時代からその神社の神は祀られ地元の人々の信仰の対象、日々の心の支えになっていたのに違いないけど、時が進むにつれ、神社は残ってもそれを祀る人がいなくなれば、その山の神様も深い山に帰って行かれるのだろう。

僕が特に気になっていたのは西の岩地区に祀られる「尺間神社」だった。木の鳥居をくぐると林の暗がりに参道らしき道の名残がある。急坂には、落ち葉に埋もれ、ほとんど朽ち果てた木の階段が山頂に向かって続いている。その道の果てには神様のご本尊の棲む祠があると思い、とうとうたまらず、足元が崩れる中、僕は這いつくばって道を登り始めた。だんだん道が狭まり、杉林を抜けると乾いた小石だらけの小道になるが崩落が激しく、岩にしがみつきながら頂上を目指す。途中の木の根にワンカップのビンを見つける。お供えの残りなのだろう。しかし、どこまで行っても同じような坂道が続き、だんだん不安になってくる。痛めた左肩の筋肉にも張りがでてきて、残念だが引き返すことにした。何しろここは五家荘。地図も持たずに思いつきだけ、憶測だけで山に入ると痛い目に合う。ほんの少しのミスでも遭難につながる。(経験者は偉そうに語る) ※もう少し頑張れば、岩の上に建つ本宮も見れたのに。

帰路で草の上に置かれたような石の破片を見つける…灰色で長さちょうど20センチ位。石の斧のような形をして、刃先に指先を当てると今にも切れそうに薄く鋭い。単なる岩から剥離した断片のようだけど、(バチがあたるぞ!) 持ち帰ることにした。

泉村誌によれば、尺間神社にはフツヌシ・タケミカヅチ・ヒノカグツチという荒ぶる三柱の神が祀られ、神社の建立にはいわれがある。建立は明治37年。

 

(極私的翻訳・五家荘の方言ではありまっせん)

昔のはなしたい。左座家の4代目の亀喜さんが、わけの分からん病気にならした。たいぎゃな、ふとか病で、熱にうなされち、どがんもこがんも、しょんなかて。頭ば冷やしてん薬ば飲ましてん、どがんもなおらん。寝床で「きつかきつか」て言わす。もう家のもんは心配さして、大騒ぎて。おおごつ。もうたい、神さん、仏さんの力に頼むしかなかて、親類縁者が家で話し合わしたとたい。そんで、みんなでたいぎゃ、よか神社とかなかろかて、どこでん聞いてまわらしたてたい。そして、おおいたん、尺間神社の神さんならよかて、話は聞いてこらした。ほんで左座家では、中畑萬吉さんに無理ばゆうて尺間神社までお参りば頼んだてたい。ほなら神社の神さんから中畑さんにお告げがあったて。亀喜さんの病気のもとは、刀のたたりて言わしたてたい。おとろしか。左座家は庄屋さんだけん、昔からつがれた刀のたいぎゃあるてたい。そん刀のなかでん、備前長船ていう刀が二本、たいぎゃ大事にされとったて、そがんだけん、その長船て、座敷の一番よかところ、刀んかけてあるところに、飾ってあったてたい。ほんでたい、左座さんとこに泊まりにこらした人は、そん部屋で寝とらすと、夜中にうなされて頭のいとならすて。苦しか苦しかて、たまらんごてなって部屋ば替えてねらすと、ぱって頭の痛みとかとれらしたて。そっでたい、つぎん朝、亀喜さんの息子の5代目がそん人の泊まらした部屋にある長船ばみると、みょうなもんで、そん刀の二本とめ、鞘からぬかれとるてたい、ほんにみょうなか、おとろしかはなしたいね。そんでまた、次に泊まる人も同じ目にあわしてうなされらすて。なんかあっとだろね。刀だけん。

いろいろかんがえらしたばってん、5代目が、しょんなかておもわして、そん二本の刀ばもって、大分の尺間さんに収めにいかしたて。ほんでたい80日、そのお宮で山籠もりさして、きつか修行はさしたて。ほんに親思いばい。ほなら、いままで寝とらした亀喜さんの病気もうそんごて、ようならしたて。ほんで泊まりにこらしたひとも、うなされちことは、のうなったてたい。ほーら、尺間さんのおかげたい。みな、たまがった。ほんで左座家と西の岩んひとたちは、豊後の本宮に尺間さんの神さんの霊ば五家荘にわけてもらえんだろかてお願いして、あたたちが、そぎゃんいうならよかていわしたけん、西の岩に、尺間さんばまつらしたて。村んもん全員で、山に木ば切ったり、社殿ばくんだりにぎおうた。村にもほんなもんの山ん神さんのこらしたぞて。村んもんじぇんいん喜んでたい、そるから尺間神社さんに、だっでんお参りいくごてなったとたい。

やっぱ刀はおとろしかね、昔は人ば殺したり殺されたり、いろいろあったっとだろな。ばってん、今は、だるも、おらんごてならした。家も崩れてしもて、昔の賑わいはなか。あすこのじいさん、ばあさんもおらんごてならした。山の花もぬくなるといっぴゃ、さくばってん、だれもおらんけん、きれか花のさいてん、だるも見てくれんけん、花もさびしかていうごたる。尺間さんにのぼる人も、とうとおらっさんごてなった。おどんも、なんかいらんこて言うた気のするけん、なんか背中ん、ぞくぞくしてきたばい。もう山はぬくなったけど、寂しかね。おどんも足のわるなったけん、ようと歩ききらんと。きつかときは心のなかで、尺間さんばおがんどっとたい。わたしん、まもり神だけん。

 

普段から具合のわるい僕の脳内はいつも悪夢にうなされ、新たにうなされることもない。持ち帰った石の刀は、何を調べるでもなくまた、尺間神社の参道に埋めなおすことにした。ワンカップの酒を石刀にかけ草をかけ、自分なりの得体のしれない祈りの言葉…手を合したときに、意味不明の言葉が出た…お詫びと祈祷を行う。

改めて、五家荘ネットの情報をさかのぼって調べるに、20年くらい前は、近くの五家荘自然塾を基地に、地元の人々が尺間神社のいわれを語り聞かせたり、焼き畑時の「木下し歌」の披露もあったという。ぜひ、参加したかった。

五家荘はいくつもの神の棲む、神聖な山里でもあるのだな、と思う。今も、神を迎え神を舞う神楽の里でもある。熊本でも奇跡的に古代からの文化が残された唯一の地区、民俗学を学ぶ人(…そんな人熊本に居るのか?) にとって宝庫でもあるのだろうな、と思う。

地元の人たちで大事に残された文化・伝承は語り継がれて、風が吹くたびに朽ち果てていく。朽ち果てた参道…鳥居。民家の跡。人がそこに居たという、目に見えないぬくもりに、何かを感じて僕は山をさまようのだ。

帰路にカタクリの花を撮る。今年の開花は例年より半月ほど早く、最後の数輪を写真に撮れたのは運が良かった。一番美人な紫の妖精にカメラを向けると、その瞬間、草陰から黒い蛾(ミヤマセセリ)が花に留まり、蜜を吸い、はっと消えていった。

 

2020.11.13

文化

夏に山の大先輩O氏から、「脊梁小学校」の緑のTシャツをいただいた。O氏のこころ遣いには感謝しかない。小学校を休みがちな自分だが、せめて写真部員の役割だけは果たさなければならない。

今年の五家荘の紅葉は例年になく鮮やかだった。蛇行しながら進む崖沿いの細道の正面、突然、真っ赤に染められ立っている一本の樹に出会い、はっと驚く。例えは悪いが、緑の中に真っ赤な鮮血がほとばしるような光景があるのだ。赤でなければ、次は黄色、いっせいに尖った手のひらを開いている。晴天、青いスクリーンを張ったような空に、樹々の葉色は染みるように浮き上がる。

家人の運転する車で緒方家に向かう。緒方家は平家の落人伝説が残されている築300年の合掌作りの古民家。2階に隠し部屋などもあり観光スポットになっている。門をくぐり、庭に入ると驚くことに庭にはびっしり形のそろった黄色い葉が敷き詰められていた。まるで誰かが丁寧に葉をいちまい、いちまい並べてくれたように。運よく誰も居ないので部屋の中からも庭の写真を撮らせてもらう。

陰翳礼讃。これは僕の偏愛する作家、谷崎潤一郎の有名な随筆の作品名だ。昭和8年に書かれたもので谷崎は日本古来の翳と闇の世界を好み、その随筆の中で日本人独特の暮らしや感性をなつかしみ、その深い味わい方を記した。何回読んでも深く濃い。今回の雑文録は谷崎をまねた随筆調の下手な文章になってしまった。(苦笑)

随筆の中の有名な厠の話はさておき、建築についても谷崎は持論を述べている。

西洋の寺院のゴシック建築は、屋根を高く尖らしてその先が天をも刺すところに美しさを感じるのに比べ、日本の建物は建物の上に大きな屋根を伏せ、その庇が作り出す広い陰の中へ、全体の構造を取り組む構造になっている。

寺院にしても、庶民の住宅にしても、その庇の下に漂うものは濃い闇だと書く。まさに緒方家の作りがそうで、突き出た庇の下には日中でもほのかな闇の世界が漂う。

逆に言えば、西洋の考え、暮らしはみんな明るければいいというもの。食器にしてもなんにしても白さが目立ち、金属の皿でもなんでもみんな節操なくピカピカに磨いてしまう。(女体も白ければいい…) ところが翳の世界を味わうのが日本の世界。明かりもなく、電気もなく、ふすまや障子ごしに光がろ過され、部屋に柔らかな光が差し込む。部屋の隅にほのかな闇が存在している。薄暗がりの部屋の中、白い磁器が自分の手のひらの上で白く鈍く輝いている。漆器の黒が闇に溶け込む。料理と共に、その闇の世界を味わうのだ。

美食家で有名な氏の羊羹についての描写もすごい。

…あの色(羊羹)などはやはり瞑想的ではないか。玉のように半透明に曇った肌が、奥の方まで光を吸い取って夢見る如き、ほの明るさをかんでいる感じ、あの色合いの深さ、複雑さは、西洋の菓子には絶対見られない。クリームなどはあれに比べるとなんという浅はかさ、単純さであろう。だがその羊羹の色合いも、あれを塗り物の菓子器に入れて、肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めるとひとしお瞑想的になる。

…人はあの冷たく滑らかなものを口に含むとき、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で溶けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う。…

…僕の脳裏には、以前カタログで見た、東京の羊羹専門店「虎屋」の黒い羊羹の一切れが浮かぶ。あの羊羹の深い黒さが暗黒の甘い塊になっていると谷崎に描かれると、一刻も早く口に入れたくなってきてしまった。

谷崎は西洋風の明るい光の下で、さらされ、何の深みもなくなった日本古来の文化のありさまも嘆く。例えば文楽は今や、人形が西洋風のステージで明かりに照らされ、何の陰影もない表情に劣化し、観光客目当ての見世物になったけど、本来の文楽の人工的な白く冷たいお面はろうそくの揺らめく灯りの下でぼんやり浮き上がるからこそ、生きたようにも見えるのだ。明かりの下、見ている方もどうせ人形だからと思うと、最初から何も感動しようがない。

歌舞伎も同様、明るすぎて今やミュージカルショーカブキになったのだろうが、文楽の昔のように、ろうそくの灯りの元で演じられたら、全く違ったものに見えるのだろう。随筆が書かれた昭和の初期の段階で、すでに歌舞伎は明るすぎてダメだと氏に苦言を書かれていた。あの派手な金銀の衣装も闇の中で不気味に浮かびあがるからこそ、深く蠱惑的なものに見えると谷崎は嘆いている。

神楽もそうなのだろう。五家荘の神楽が闇の中で当時のように、わずかな光だけで演じられるシーンを想像するだけでたまらない。舞台の隅の暗がりに誰かいるような気配がする、神楽の鈴や鉦や太鼓の響きでみんなの肩の後ろの暗がりに本物の神が舞い降りて来ている気配がするに違いない。

今は更に更に「LED、ブルーライト」。明るければいい、早く結果を明らかにせよという時代になってきた。伝統を放棄し、明るく便利な暮らしを明治以来目指した日本人の哀れな結末はもう「見えた」。スマホ片手にゲームに興じる大人、子供の軽薄な明るさは救いがたい。ブルーライトは光の中でも一番波長が長く、網膜に直接届き、目を傷めるどころか、脳にも悪影響を及ぼすと専門医から警鐘を鳴らされている。(全然報道されないのはどうしたことか)

秋の五家荘の夕暮れは早い。午後4時には帰路に就かないと、途中で山道は暗く危険な道になる。逆にそんな秋の夕暮れに緒方家の誰も居ない部屋の中で一人座り、誰かやってくるのを待ちながら自分の姿が闇に包まれていくのを味わいたいものだ。

奥の床の間に飾られた墨絵の掛け軸の画も闇に溶け込み、花器に活けられた一本の紅い椿の花だけが、暗がりに妖しく浮かび上がる…床の間も日々磨かれて「床ひかり」するからこそ価値がある。その床に掛け軸も花器の花の姿もほのかに映されていなければならない…僕はひとり、床の間の前で枯れた山水画の世界の旅を夢想する。

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帰路、道路わきの紅葉は鮮やかだったが、お目当ての川の紅葉はすでに終わり、満足した写真は撮れなかった。しかし河原に降りると、風が吹き、一斉に赤や黄の葉がざーっと風に舞い、僕の頭に降り注いだ。

 

落ち葉の吹雪…川に落ちた葉は一斉に流される。もうこんな一瞬はやってこない。こんな奇跡のような景色を写真に撮る技術は僕にはないから、カメラをわきに置き、岩の上に座り、次の風が吹いてくるのを待つ。

五家荘は素晴らしい。秘境ゆえ、闇も光も、人の情けも、忘れ去られようとしている文化もほんのわずか残されている、ほんのわずか。どうか最後の葉の一枚が、軽薄な風に落ちませぬように。

 

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