熊本県 八代市 泉町(旧泉村) 五家荘
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雑文録

2017.12.24

「孤高の人」とは小説のタイトルで、戦前の登山家、加藤文太郎氏をモデルにした新田次郎の作品だ。加藤文太郎は単独行の登山家で神戸の六甲山から、日本アルプスの山々まで登攀した人だ。困難な山々のピークを次々と登頂し記録を作った。高校時代、友人の松ちゃんがえらく心酔して僕にもその本を紹介してくれた。要するに加藤文太郎は「孤高」で、えらくカッコいいわけだ。そして最後は劇的な死を山でとげる。それまで単独行しかしてこなかったのに、その冬山で初めてパートナーを組んだ結果の劇的な死なのだ。

僕は「孤高の人」を読んだ時の当時の感想なんてもちろん覚えてないのだけど、何か加藤氏の修行僧のような生き方、山の登り方はとてもついて行けそうな気がしなかった。そんな小説よりも月刊「山と渓谷」で掲載されていた、高田直樹氏の「なんで山登るねん」というコラムが大好きで、京都の登山家ならではの物事をちょいと斜めに見たような、高田氏曰く、東京の大学の山岳部チームは「出発(でっぱーつ!)」と気合を入れて出発するのに、関西(京都)のチームは「ほな、ぼちぼち、行きましょか」と出発するという、登山観の違いが面白く、僕は断然京都派だった。

僕も数十年ぶりに山登りを再開、「ぼちぼち派」の僕は加藤氏と同じく単独行が基本なのだけど、氏のように高みを目指す単独行ではなく、カメラ片手にぼちぼち、だらだら登る習性がゆえに、単独行をせざるをえないわけで、(正直…人との協調性もなく)僕はつまり「孤高の人」ではなく「孤低の人」なのだ。

で、山を通して知り合った五家荘の人々は「孤高の人」ほど、尖がっているわけでもなく、もちろん「孤低の人」でもなく、言わば「孤軍(奮闘)の人」が多い。秘境とも呼ばれるこの地では手助けしてくれる人が少ないわけで、何かやるには「孤軍奮闘」しかないのだ。

友人のNさんは「五家荘のおせち」を企画して販売を始めて今年で3年目になる。地元の宿の女将も巻き込み、山里ならではの食材を盛り付けて限定150食から200食を手作りしている。春先から山菜を集めほぼ1年がかり、最後は12月も末、雪の降る加工場で地元の女性陣を集めて深夜まで料理の仕込みに忙しい。

 

 

題して「五家荘の宝箱」。煮しめ、もみじ肉の角煮、ヤマメの燻製、うずらのごぼう煮、ヤマメの昆布巻き、ヤマメの卵(超珍味)、岩茸の酢の物、豆腐のもろ味漬け…こんなお節はどこにもない。

(極私的には豆腐のもろ味漬けが絶品なのだ)

ここまで手が込み、贅沢で、しかも限定200食で元が取れているのか。少し心配な点もある。しかし目先の利益を考えていては何も出来ない。このお節をスタートにして、地元が潤うような仕組みを考えなければいけないのだろう。

「出発(でっぱーつ!)」と気合を入れて出発したチームは途中で息切れして、みんなバテバテ。「ほな、ぼちぼち、行きましょか」と出発した京都チームは、後でそんなチームを追い越すのだ。必ず。

(※お節の写真はシモソヤマ氏)

2017.12.04

山行

今年の登山もぼちぼち終わりかと思いながら、日曜日の数を数えていたら、本当に登れる日が残り少なくなっているのに気が付いた。貧乏暇なし、わが事務所も「枯れ木も山の賑わい」…の年末で、登れてあと2~3回くらいなのだ。

ただ、秋に読んだ「のぼろ」(西日本新聞が発行している山の雑誌)の秋号が五家荘の特集号で、その中で山の達人M氏が寄稿した「天空の縦走路」が頭の片隅でずっと気になり、のぼろか、のぼるまいか悩んでいた。原稿のサブタイトルには「ここを歩かずして五家荘は語れない」とある(そこまで断言するか…)。確かに、壮大なルートである。五家荘の盟主「国見岳」から「小国見」「五勇山」「烏帽子岳」と標高1,600mから1,700m前後の稜線をぐるりと大きく円を描きながら渡り歩き、スタートに戻るものなのだ。歩行時間7時間30分、結構ハードなルートだ。今年最後の登山になるか、ならないか。なにしろ「ここを歩かずして五家荘は語れないのだ」。紅葉も最後だろうし、結局、思い切って出かけることにした。

海抜0mの家を出たのは朝の5時前。登山口には7時30分に着いた。五家荘の山はとにかく早く取り付くに限る。国見岳の登山はいきなりの急登から始まる。朝4時起きの体はまだ硬い。あえぎながら登るうちに、尾根は冷たい強風にあおられてきた。紅葉見物どころではない、まるでこの寒さは冬ではないかと、上着のフードを立てて登るに、向かいの尾根が白くなってきた。「まさか…雪?」と驚くに、今度はどんどんガスがかかり始め、なんとあたりは霧氷に包まれ始めてきたではないか。初めて見る景色だ。登れば登るほど銀世界。冬枯れの木々の枝が氷ついてくる。こうも山の表情が変わるものか。つい先週までは、赤や黄色の葉で景色が彩られていたのに、今や真っ白の凍てついた世界。夢中でシャッターを切るも、空も一気に白い霧で覆われ、視界も悪くなる。

ようやく国見岳の頂上に着くも、強風と霧で何も見えない。2組の登山者とすれ違うも、どちらもカメラをいじる私を置いて、先を急いだ。国見岳から見る、小国見の霧氷の景色は美しく、何度もカメラを構える。これで空が晴天であれば言うは事ないのだが。いつまで待っても、谷底から白い霧が現れては風に流されて行く。もう限界と道を下る。ここからの稜線は初めてのルートだ。そしてM氏が書くように、まさに「天空の縦走路」だった。時に、切り立つ岩場の刃の上を歩くようなルートもあり、自然林に覆われた稜線を辿るルートもあり、国見から五勇山、烏帽子岳の縦走は素晴らしいものだった。

途中で空も突き抜ける晴天に変わり、振り仰ぐと木々の枝が霧氷で白く凍り付き輝いている。気が付くと風も止み、寒さも感じない。五勇山頂では、もう一人の五家荘の達人、O氏のパーティと会う。O氏は逆回りで、道標を設置しながら登ってきたのだ。O氏は登山道整備プロジェクトのメンバーで、時間があれば五家荘の山々の迷い易い箇所に案内版を設置して登山をしている。10月の僕の遭難事件でも迷惑をかけてしまった。O氏曰く、烏帽子岳からの下りが道に迷い易い箇所があるとのこと。忠告通り、新しい道標がなければ、道が途中で分からなくなる箇所が多々あった。もし山を下りるのが夜になったり、ガスがかかっていたら、危険度ははるかに増すだろう。五家荘の山は、道がしっかり踏み分けられている方が少ない。しかも見晴らしも良くなく、尾根が複雑で、谷は深い。改めて五家荘の地図を見ると本当にややこしい。そこが魅力でもあるわけだが。(苦笑)

O氏は「(僕の遭難事件の)いつか「現場検証」ば、せないかんですな」と言いながら森の小道に消えて行った。「時間が合えばお願いします」僕もそれに答える。あの場所の現場検証は、O氏の力を借りなければ確かに無理だと思う。今回の(僕には珍しい、すんなりとした)下山も、O氏のパーティの作業のおかげなのだ。感謝。それで、スタート地点に何時に還れたのかというと、なんと午後4時30分だった。歩行時間9時間。(昼食、撮影時間含む)それにしても、長い時間山を歩いたものだ。

帰宅して、湯船に浸かりゆっくり体を伸ばす。山の神は僕に美しい霧氷の景色と、全身筋肉痛というプレゼントを与えてくれた。飴と鞭とはこのことなり。

2017.11.12

山行

11月3日、5日と五家荘の山へ。

九州百名山に選ばれた10座の山々で、残るはあと2座。山犬切(やまいんぎり・1,562m)と積岩山(つみいわやま・1,414m)を2日で登るのだ。この2つの山は、五家荘エリアの南部を東西に横切る稜線上にある。登山口(泉・五木トンネル)から急登してその稜線に出て、東に向かえば山犬切の頂上で、西に向かえば積岩山の頂上だ。3日に山犬切、5日に積岩山を登った。

◆11月3日

登山口から、稜線に出て石楠(しゃくなん)山西峰、石楠越、石楠山東峰、そして山犬切山頂、更に足を伸ばして、七遍(ひちへん)巡り山頂、水上越のルートを往復した。なだらかな稜線上のピークを辿るルートで、ちょうど紅葉の時期もあり景色も良かった。足元の枯葉をサクサク踏みしめながら、青空の下を秋風に吹かれながら一人歩く。

このルートの山頂の名称にはいわれがあり、今、石楠越は「しやくなんごし」と呼ばれる峠だけど、以前はその峠を越えるのはたいそう難儀したということから、百難「ひゃくなん」越と呼んでいたらしい。「ひゃくなん」がいつの間にか、山に咲く花の「しゃくなん」に変化したという。山犬切の山犬はオオカミのことで、昔、そこでオオカミを切り殺した場所とのこと。地元では山犬を、やまいぬではなく「やまいん」と呼ぶ。ちなみに、きつねは「のいん」、さるを「やいん」と呼ぶそうだ。

七遍巡りの由来は不明だけど、私見だが、平らなピークなのでガスがかかったりすると、道に迷いやすいので七回も堂々巡りをするから、そういう名がついたのかもしれない。水上越(みずかみごし)は、稜線南部の水上村から越えて来る峠のこと。峠と言っても、水上村側の斜面は断崖絶壁のような急坂で、よくこの坂を越えてくるものだと感心する。峠には目印になる巨岩があり美しい紅葉に彩られていた。(満月の夜に、この岩の上でオオカミが遠吠えをすれば、山の秋はいっきに深まったか。)

 

 

トンネルに無事下山するも、帰路の林道で車ごと道に迷い、またもや遭難しかける。もう恥はかきたくないと小道を強行突破すると、たどり着いたのは湯前町の温泉館の前だった。高速道を通り帰宅。

◆11月5日

登山口から、稜線に出て鷹巣山、蕨野山、岩茸山、積岩山を目指した。3日と同じく、なだらかな稜線上のピークを辿るルートだが、途中、馬酔木の茂みに覆われている箇所があり、それをかき分けながら進むと倒木に行く手を遮られ、左右に逃げているうちに道が分からなくなる。それでも何とかルートを修復し、稜線に戻りながら先に進む。

天然林を抜け、途中の表土がむき出しになった尾根では、紅葉に彩られた山々が遠望できて気持ちがいい。ただ今回は山犬切ルートと違い、時に信じられないくらいの天然林の巨木が根こそぎ倒れていて白骨化している。風当たりが強いのか、昨今の大雨で土が流出して根っこを浮き出させるのか、その枯れた骨をポキポキ踏み折りながら、歩みを進める。サンゴが温暖化で「白骨化」しているのと同様、今後は山上も荒れ地と化して、木々の枯れた白い骨で覆われて行くのだろうか。

◆鬼門の奥座向

いよいよ積岩山に着く。林の中のポッコリした小さなピークだ。時刻は11時53分。そのまま弁当を食べて、来た道を戻れば登山口に着くのは午後3時頃。積岩山の向こうには大きな尾根が北に伸びて、その向こうのピークが奥座向(おくざむき・1,240m)だ。

僕が10月に遭難したのは、奥座向から積岩山へ向かう途中、要するに今回と真逆のルートで道に迷ったのだ。いよいよリベンジの時…いや、そんな、山に向かって「リベンジ」とか言う言い方は良くないぞ…「検証の時」…どうもしっくりこないが…つまり、積岩山と奥座向を迷わずに往復する事で、自分がどこで道に迷ったのかも分かるし、極私的に自分に「落とし前」…いゃ、こんな言い方もいかん…「自分の気持ちを納得させる」…ために、あと往復2時間、頑張ってみるのか、みないのか。

実は僕は、アマゾンで読図の本まで買って学習していた。★5個のレビューのお墨付き、演習用の山の地図までついている良本を見つけたのだ。もちろん2万5千分の1の地図も買い込み、コンパス片手にここまでやってきた。当然赤いテープも参考にしたが、地図を何度も見直しながら積岩山のピークを踏んだのだ…何も自慢げにいうことではない、それが当たり前の登山なのだろうが…本に書いてあるとおり、平べったいピークほど、降りる尾根を間違えやすいのも再確認した。

さて、どうするか…ここまできたじゃないか。(そのつもりだったじゃないか、今更何を怖気づいている?)

ちゃんと帰れて、登山口には午後5時。すでにタイムリミットギリギリだ。自問自答の時…はたから見たら大の男が指を頬に当てて思案する姿は滑稽…そして決断、行こう、真っすぐ。今日しかない。

目の前の尾根を素直に下るだけだ。そして来た道を、素直に戻れば帰還出来る。僕は地図を何度も見直し、道を下り始めた。

…しばらくすると、倒木で道があやふやになりだす。道案内の赤いテープも見当たらない。単純に尾根に沿い、北北東に降りるだけだがどうも北に向かい、知らぬ間に谷に向かって道を下りだしている。見晴らしは良くない。雑木林の中、もう一度、尾根に向かい登りだす。途中で、奥座向への案内版を見つける。ホッとする。自分は間違っていない。その案内版に沿って先に進む。また、道が分からなくなる。地図を見る。現在地がつかめない。とにかく頑張って坂を登る。方角は間違っていないはず…茂みの向こうに、また看板が見える、太陽に反射して白く見える。あの看板を目指して、あとひと踏ん張り。

息を切らし、その看板の前に立ってその文字を見ると、そこには「積岩山」と書いてあったのだった。僕はおよそ30分近く、奥座向に向かうつもりが丸い円を描いて、もとの場所に戻ってきたのだった。

その瞬間、脳裏に浮かんだ言葉は、「帰ろう」。

奥座向は鬼門なのだ。山の神がこう言っている、「行くな」と。僕はそのまま引き返し、トンネルの登山口に午後2時44分に着いた。

 

やはり、五家荘の山は面白い、奥が深いなぁ…。(苦笑)

 

2017.10.29

文化

台風接近により、あいにくの雨。熊本市内から車で約2時間半、旅館樅木山荘に投宿、夕食を食べ、午後7時前に樅木天満宮に向かう。

五家荘の夜は闇だ。街灯もなく足元さえまったく見えない。懐中電灯の明かりを頼りに坂道を登る。雨がボタボタ降ってくる。足元の小道はぬかるみ、歩きにくい。暗がりの中、木の鳥居が見えてくる。ゴーッという音が響いてくる。少し行くとようやく灯りがともる場所に出る。車がびっしり停めてある。さっきの音の響きは、駐車場を照らす発電機の音だった。車の間を通り抜けると、遠くに樅木天満宮の社殿が見えてくる。暗い木立の中、社殿の明かりを頼りに足を進めると、あたりは明々としたライトの光が強くなり、僕は闇の世界から解放された。

天満宮の建物は予想に反し、古い木造の朽ち果てかけた建物で、まさかこんな場所で神楽があるとは思っていなかった。歴史のある樅木神楽だが、最近の地域おこしの予算とやらで、社殿くらい今風にリフォームされているのではないかと僕は勝手に想像していたのだ。まさに苔むした昭和のままの雰囲気だ。

中をのぞくと更に驚く。こんな天気にかかわらず、畳の上はすでに地元の観客でびっしりと埋め尽くされていた。その数100人近く。さっきの闇と静寂とは全然違う世界がそこにあった。今か今かと神楽の始まりを待ち受ける老人たち。出番を前に緊張した面持ちの子供たち。忙しく動き回る、神楽の実行委員の人々。玄関で傘をたたみ、一人一人中に入り顔を見せる度に、あちこちから驚きと喜びの声がかかる。年に一度の天満宮の大祭。祭りは山の人々の再開の場でもあるのだ。昔話に花が咲く。山の奥で、ぽつんと一つ灯る明かり。集落の人たちの心の中に、年に一度、神様が舞い降りるのだ。傘に隠れて、すでにこの世にいなくなった人たちもやってきて、観客に交じって歓声を上げている気配さえ感じる。

 

 

この場にとって、僕はカメラを肩にかけた異物だ。ブログで紹介するのが主な目的だが、事前に実行委員会に断りを入れた。

「昔、新聞記者がやって来て写真ば撮る時に、神楽の邪魔ばして揉めたもんな」

「邪魔にならんごつ、撮るならそれでよか」

祭りをマスコミで紹介しようと思えば、どんどん前に出しゃばり撮るしかない。場所が狭い、観客は多い、シャッターを切るには明かりが暗すぎる。新聞社のカメラマンにすれば報道してあげるのだから、自分の思うままにさせて欲しいと思ったのかもしれない。しかし、樅木神楽の大祭はそんじょそこらの、客に媚びたイベントやフェスティバルではないのだ。あくまでも集落に伝わる、神聖な祭りなのだ。異物は異物らしく邪魔にならぬよう振舞うべきなのだと僕は思う。

神事が終わり、いよいよ神楽が始まる。下手に太鼓があり、音はそれのみ。

 

 

「タンタカタカタン、ダンダカダカダン。」独自のリズムが奏でられるが、いろいろな音の表情がある。そして、リズムに合わせて詠うような祝詞、神楽の舞い手の鈴の音が「シャンシャン」と鳴り響き、白地に家紋が染め抜かれた衣装をまとった4人の体がくるり、くるりと、舞い始める。

時々、「さぁー」と合いの手が入る。4人の体は、繰り返し繰り返し…体を交差し、すれ違い、出会い、回転する。白い衣が翻り、鈴の音が響き、大祭の御夜が始まったのだ。

老人の神楽を見る懐かしいような、嬉しいような表情。御馳走をほおばり、酒を酌み交わし、鈴の音に負けないように笑い声が響く。

 

 

「タンタカタカタン、ダンダカダカダン。」「さぁー」

「タンタカタカタン、ダンダカダン。」「さぁー」

舞台奥には四角に区切られた、スペースがあり、その狭いスペースで神楽は舞われる。そのスペースの真上には、同じく四角い枠が設けられ、いくつもの御幣が飾られてある。この中が、神の領域なのだ。

同じリズム、同じ動きのようでも、見ていてまったく飽きない。

「タンタカタカタン、ダンダカダカダン。ドンドン」

次の舞は、太鼓と謡いから始まった。

雨が強まる。社殿のまわりの闇が更に深くなる。

子供の神楽も奉納される。地元の泉第八小学校の子供は総勢8名。ここでは小学校に入った時から神楽の修業が始まり、舞台ですぐに舞う。子供たちは小学校を卒業すると家を出て、中学校の寮に入る。そこで一旦、神楽の修業も途絶えるが、大祭になるとまた帰ってきて、飛び入りで神楽を舞う。体が覚えているのだろう。学業を終え、地元で仕事に就けばまた、舞い手の一人となるのだろう。何時まで舞うのかと聞けば、足が上がらなくなるまでとのこと。つまり6歳から50歳過ぎまで、長い人で約40年以上舞い続け、こうして江戸時代後半より伝承された樅木神楽は現代まで生き続けてきたのだ。

 

 

神楽はどんどん佳境に入っていく。鬼の面を被った神が、地上に舞い降り、いい娘はいないかと探し始める。時に棒の先であたりをつつき、額に手を当て遠くをながめながら、観客の中をかきわけて相手を探して歩く。そこで現れたのが角隠しで顔を隠した、和服姿の女性で、二人は手にとり舞台に戻り神楽を舞う。あちこちで笑いが起き、私を連れて行ってと、観客の中で自分をアピールする女性もいて大いに盛り上がった。

御夜が終わったのは、日付が変わった午前12時半。

雨の降り続く中、闇に溶けるようにして、宿に帰る。

翌日もあいにくの雨。杉木立の間を、大きな滴が降り続ける。朝、9時から神事があり、神楽の始まりだ。観客は出だしこそ少ないが、次第に増え続ける。おばあさんが傘を差し、参道のぬかるみの中、重箱を下げてやってくる、一人、また一人。昼前に食事の時間があり、祭りで用意された猪汁と合わせて、おばあさんたちが持ってきた御馳走もふるまわれる。神楽の舞い手が一升瓶を手に、酒をついで回る。子供たちが母親の料理に舌鼓をうつ。

 

 

本祭は日曜で、久しぶりに帰郷した人々も加わり大きな同窓会のようでもある。また、神楽が再開されると、客席の老婆が一緒に、祝詞を謡いあげ、さらに賑やかに祭りは進行する。祭りの終わりの予定は午後3時。

終わりまで居ようかと悩むが、用事もあり、残念だが途中で帰ることに。後日、山女魚荘の若女将にお礼の電話をすると、

「あれからが盛り上がったとよ。踊り手も最後だけん、より真剣になって、神楽も最高によかったぁ」と言われてしまった。

 

たった一夜の祭り。深い森の奥に一点、明かりが灯り、また消える。そしてまた一年が経ち、村にはいろんな出来事があり、明かりが灯る。異物の僕がその一瞬の明かりを見ることが出来たのは何と幸運だったか。

 

 

(そして何と残念なことよ、悔しいことよ。どんなことがあろうが、僕は最後まで居るべきだった。)

 

2017.10.15

文化

10年ぶりに高校の恩師N先生と話をする機会があった。先生は五家荘の自然はもちろん、民俗学や文化などを長年研究してきた人物で、これまでにたくさんの書物も出されている。ちょっと個性の強い(要するに近寄りがたいオーラに包まれている…)人柄で、話をするにも少し勇気がいる。師の持論は東京のモノサシで地方を見たらいかんというもので、そのモノサシのおかげで地方の文化は得体のしれないものに変容し、堕落し情けないと今でも気炎を吐かれている(70歳過ぎても昔のまま)。

例えば神楽だ。以前、NHK出身の鈴木健二なる者が、熊本の県立劇場の館長になり、阿蘇の神楽を劇場で演じさせ、その模様を世界中に配信したことがある。後継者不足で寂れかけた神楽が、ステージ上できらびやかに演出され、大好評を博した。(と、世間一般ではそう思われているのだけど)N先生は違う。「あれがきっかけで、阿蘇の神楽はメチャクチャになったとたい」と言う。そもそも神楽というものは、年に一度、山奥の集落に神様が降り立ち舞いまくるわけで、見る方はその激しい動きに蹴飛ばされるほどの距離で舞を見るわけである。舞い降りた神は時に卑猥な言葉を吐き、聖と俗がからまりながら、神も民も山の閉塞された日常からひと時解放される大事な催しなのだ。

先生は言う「そもそも、やーらしい言葉をステージでマイクを通して吐けるわけがなか」東京のモノサシで地方に何か面白いものないかと探され発見され、これぞ地方の伝承文化とスポットライトを浴びたとたん、その地域独特の泥にまみれた文化はシャワーで汚れを洗い落とされ、人畜無害の単なる神楽ショーとなり、これまで綿々と引き継がれてきた土俗の文化は、途絶えるわけだ。

先生はこうも言う。「田舎の文化は、寂れるものは寂れるとだけん、それでよか。無理して嘘までついて延命させんでよか。それが自然たい」確かに阿蘇の神楽は、それ以降、神楽館だのいろいろ施設は出来たけど、僕のイメージにあるのは神楽祭りとかフェスティバルとかのイベントばかりで、神楽なんて観光のついでに昼間に気軽に見るもので、現地での本物の神楽なんてわざわざ見たいとも思わなくなった。寂れて消えるのではなく、魂を抜かれて消費され続ける神楽とはどんなものか。

(今回の訪問は五家荘の森の文化について聞きに来たのだけど、すでに2時間近く経過…奥さんが昼食のスパゲティを作って来られて恐縮する)

今で言えば東京のモノサシは、全国各地に存在するゆるキャラであり、B級グルメであり、世界遺産でもある。地方創生とやらも国からの補助金で、東京からばらまかれたお金で、自発的にしかも自前で地方創生の活動を行っているグループなんてほとんど聞いたことはない。

話は変わるが、僕の家は宇城市で世界産業遺産の港の一角にある。毎年10月に地元の霧島権現宮という小さなお宮の祭りがあるのだけど、今や実行委員は10名にも満たず、今年で子供神輿もなくなった。港は今年開港130年ということで、このお祭りももしかしたら100年くらいの歴史があるのかもしれないが、風前の灯だ。多分僕の世代で幕を閉じるのだろう。鳥居を飾り、祭りの幟を立てる。しみじみと酒を飲み、しみじみとくじ引きをし、ビンゴゲームをして昼には解散した。我が集落の祭りもほとんど終わったのだ。

その祭りの1週間前、宇城市は港でJAZZコンサートを開催し公園を派手にライトアップした。(そんなイベント、世界産業遺産とは無縁だよな)その落差には苦笑いするしかないが、こんな田舎でも東京のモノサシでイベントが行われ、後には何も残らないのだ。

(昼食を食べ終えいよいよ本題)

つまり、先生に聞きたかったのは、五家荘の神楽の事だったのだけど、(僕は五家荘の山や花々も好きだが、文化にもとても関心があるのだ。)去年、ある講演会で鹿児島の大学の教授が五家荘の神楽はどことの接点もなく、これまで独自に伝承されてきたものだと僕は聞いたのだが、先生にそのことを尋ねると、「そんなことはなか、五家の神楽は、宮崎の神楽の流れをくむものたい。五家荘の文化は宮崎と接点があってな…」先生の話は奥が深い、五家荘の森のように。「そもそも五家荘の起源は、奈良時代前後から始まり、寺社を建立するために大陸から連れてこられたキジ師の全国の流浪の旅からはじまるとたい…」先生の話はいよいよ大縦走路のように果てしなくなって来た、もう聞く体力が続かない。

それから更に1時間、話は続いたのだけど時間切れ、また再会を約束して先生の家を出る。

来る10月21日、22日は五家荘で樅木神楽を見学することにした。今から本当に楽しみだ。

2017.10.06

山行

その日は朝から、何かがずれていた。早起きして、五家荘の積岩山(1,438m)に登ろうと家を出たのだが、途中でめまいがして車を停め、座席を倒し1時間近く目を閉じ、体を休めていた。このままなら登山は無理かと思ったが、頑張って運転を再開しているうちに、めまいの症状は軽くなり、もう大丈夫だとコンビニで冷たいコーヒーとその日の昼食としてホットドックとサンドウィッチ、ペットボトルの水を2本買った。

車は国道から峠を越え五木村を過ぎ、家から約2時間近くかけて五家荘の久連子(くれこ)集落に着いた。そこから峠のトンネル手前の登山口まで、荒れた林道を落石に気を着けながら車で登っていくのだが、中腹まで来たところでその林道は工事で全面通行止めになっていた。どうすることも出来ないので、同じ道を下り久連子集落に戻った。どんどん時間が過ぎていく。本来、通行止めでなければ、登山口からの急登で開けた稜線に出て、その稜線沿いに鷹巣山、蕨野山、岩茸山と三つのピークを登って、目的地の積岩山に着くはずだった。事前にその地区の山域全体を表した簡単な地図と、インターネットで写真付きの登山リポートを2件探し出し、そのコピーも用意していた。積岩山に登るにはその真逆のルートもあり、そのルートは久連子集落のすそ野から登り始めるもので、奥座向(1,240m)の山頂から次が積岩山で、あまり展望もなく、登られていないルートだった。五家荘の山の達人、Oさんからはそのルートは迷いやすいから止めておけとの忠告も受けていた。

時計を見るとすでに、10時30分を過ぎていた。天気は晴天、遠路やって来た僕にとって、このまま帰るのも惜しいのだ。結局僕は、その奥座向ルートから登り始めることにした。そして積岩山に着いたら目的終了、来た道を引き返せば、出だしが遅れても夕方4時過ぎには下山出来るだろうと思ったのだ。沢にかかる丸太橋を渡り登山開始、尾根を西に巻きながら、急な杉の植林地を登り続ける。高度が上がるに連れ、植生も自然林に変わり、まだ紅葉の進まない初秋の山道を、汗をかきながらたどり、12時41分、最初のピーク奥座向に着いた。

遅い昼食にてホットドックを食べ、13時には奥座向を出発する。そこから約1時間余りで積岩山の頂上のはずだ。道は単純で稜線をそのまま登れば着く予定だった。Oさんの忠告通り、他の山とは違い、次第に道案内の赤いテープが少なくなってくる。木が茂っていたり、倒木で道が通りにくくなったり、あまり登られていない山の特徴だ。テープを見失わないように何とか歩みを進める。ところが稜線を進む予定なのに、どんどん道が西へ下って行く。しかしこれは山にはよくあることで、下ればまた登りがあるものだと僕は思った。それでもどんどん尾根を巻くように斜面は下り、遠くに積岩山らしきピークは見えるものの、次第に離れて行くようで、1時間で着くものとは思われなかった。それでも赤いテープが時折みえて、更に下ると石灰岩の巨岩があり、その下には沢があった。

後で思うに、僕はすでにそこで道を間違えていたのだ。その赤いテープも昔の登山道に巻かれていたものだったかもしれない。沢で少し休憩を取り、今度は荒れたガレ場の急登が始まる。また小さな沢がある。その沢のあたりからまたテープが見えなくなり、それでも登り続ければ山頂に着くと思い込んで、時に這いつくばりながらも歩みを進める。突然、杉の保護の為の青いネットが見え、そのネットに沿うように急登を続けた。もう赤いテープはほとんど見られないまま、小さなピークに出る。そこから先に少し進んだが、木々の茂みに隠れ道はほとんど見られない。14時過ぎ、僕は来た道を引き返すことにした。すでに僕には帰り道はなかったのだけど。僕は茂みの中、来た道を探しながら歩いた。急な斜面を下る。小さな赤いテープを見つける。そのまま更に斜面を下る。すると沢の上流部に出た。この沢は先に見た巨岩のある沢の上部だと思い、相当急な斜面だが、思い切ってどんどん下り始める。この沢を下りればあの巨岩の道に出くわすものだと固く信じて。

どれだけ沢の道を下ったのか。沢は谷となり、水は岩の間をごうごうと流れ、いくつもの小さな滝が階段状をなして最後は落差10メートルくらいの滝に行き着く。滝の両脇は切り立ち、苔むした岩場が続いていた。僕は時に、木の根にぶら下がりながら、足元が崩れ落ちる前に、とっさにその横の木の根を掴み、更に足元の浮石が谷間に落ちて、それでも斜面に全身ではいつくばり、手を伸ばしその先の木の根を掴み、自分の体を引き寄せて進んだ。それでも時に体はずり落ち、岩で全身を激しく打った。陽がどんどん傾いてくる。緊張からか空腹感はなかった。その代わり、ひたすら谷の水を飲んだ。「まさか自分がこうなるとは。しかし、必ず、この谷を下れば久連子の集落に降りることが出来る。自分は尾根を間違えただけで、方角は間違っていない。あと1時間も下れば、地理的にも里に下りることが出来るはずだ。」時間のずれ、思い込み、勘違い、どんどん歯車が狂っていく。すでにその歯車はもとには戻らない運命の時を刻んでいた。

谷は更に、深く暗くなる。体は疲れ果てているのに、本能なのか、岩につまずき、よろめきながらも足だけが先に進もうとする。「僕は遭難したのか」「まさか」暗がりの中、こころは焦り始める。車のキーにつけた小さなライトを頼りに、暗がりを進む。もう今日中には帰れない。午後7時頃、恐る恐る携帯を取り出す。「道に迷ったけど、必ず明日帰るので、捜索願などは絶対出さないで欲しい」と家内にラインを打とうとするが、その瞬間、充電が切れて携帯の画面は切れた。すでにあたりは闇の中、激しい川の水の音だけがごうごうと唸り、時にどんどんと地響きがする。川の中の岩が動いているのだ。僕は崖の途中の小さな岩陰に身をよせ、少しでも寒さをしのごうとバックを抱き、ビバークすることにした。

川からの冷気で体の震えが止まらない。いつもなら雨具にヘッドライト、緊急用の保温シートもバックに入れておくのに、今回は違う小さなバックで来たので何もない。半袖のシャツにうすいパーカーで一晩、目を開けても閉じても、あたりは闇。夕食は取らないことにして水だけを飲む。空腹のせいか、急にしゃっくりが出て止まらない。胸やけが始まる。今は何時なのか。夜明けは5時くらいか。それまでの闇の時間の長いことよ。眠ろうとしても、寒さがそれを許さない。不思議と恐怖感はない。これは朝のめまいのせいなのか。体は疲れていても、気持ちは高揚している。

こんな時に何故か、仕事で頼まれた蜂蜜のラベルデザインの件を思い出す。「ああしたら、こうしたらどうなるか。里山の景色をベースに、シリーズとして箱にもイラストを入れ、繋げて並べたら、きれいではないか。」

また冷気が霧のように湧き上がってくる。死について意識はしなかったが、僕のうずくまるその真横に居て、黙って黒くきらめくような冷気を吐き続けているそれは、僕の冷えた体を違う闇の中に包み込もうとしていたのかもしれない。

眠れたのか、どうなのか、気が付くとあたりの木々の輪郭が見えてくる。夜明けだ。僕は先に進むしかない。サンドウィッチを半分食べて行動開始。また滝が出てくる。左の尾根をよじのぼり、下に川を見ながら、斜面を横切る。先の景色が明るく広がってきたような気がする。ドラム缶が捨てられ、茶色に錆びているのを見つける。どこかに人の通る道があるはずだ。夜明けからすでに4時間は経ったろうか、遠くにスーパー林道が谷を横切っているのが見えてくる。あの林道にたどり着けば助かる。カラカラの喉に水をふくませ、そこからまた、急な斜面をボロボロになりながらよじ登る。苔むした岩場の坂を滑落しないように草を掴みながら下る。ようやく林道の陸橋の下部が見えたかと思うと、目の前には大きな川が流れていた。川幅は20メートルくらいか。雨が降り始めた。川岸は岩場になっていて、その岩を慎重に下り、川の少しでも浅いところを見つけて向こう岸に渡ることにした。腰から半分、水流に押し流されながらも、対岸に着き、崖をよじ登り林道にようやく上がることが出来た。

僕は助かったのだ。体全体がずぶぬれで、そのまま林道を久連子に向かって歩く。そこは当初の思い込みとは真逆の方角の、五木村の上荒地トンネルの林道だった。

五木に向かう車を、大きく手を振り停め、携帯電話を借りて家に電話をする。午前10時過ぎ。警察の捜索隊はもう少しで出発するところだった。地元の消防団にも連絡が入っていた。Oさんは僕の登山ルートを推測し、その予想に従い友人のNさんは僕の車を探し登山口で発見した。家内は僕の山の資料をかき集め、現地に向かう準備をしていた。行方不明者の自力下山ということで、寸でのところで事は収まった。

心配や迷惑をかけた皆さんには軽率な行動のお詫びと、感謝の気持ちしかない。たった一枚、アナログの登山地図を準備していれば良かったと後悔する。登山リポートも必要だが、登山地図の味気のない等高線の波にこそ、その山の本当の表情が書かれているような気がする。(後で調べるに僕が間違って下った谷の名は中道谷で、ほぼ稜線から川の出合いまで降りたことになる。)

今回、僕は単に運が良かっただけなのだ。逆であれば途中で足をくじいたり、川に落ちて動けなくなった段階で、僕は誰も知らない深い森の中で体力を消耗し、息を引き取る運命だったのだろう。その時に何を思うか。「さっきまで元気だった俺がなんで?」と悔やみ続けるのだろうか。

夕方7時頃になると、仕事先の事務所の周りも暗くなる。同じ時間、あの谷の崖の途中、闇の中で体を丸めてうずくまる自分の姿を思い出す。耳の奥で川の音が聞こえてくる。

2017.09.24

山行

五家荘には九州100名山に選ばれた山が10座あって、熊本県最高峰の国見岳を筆頭に、烏帽子岳、白鳥山、積岩山、山犬切、雁俣山、上福根山、京丈山、保口岳、大金峰・小金峰と名を連ねる。僕はもともと登頂の数を目的に山登りを始めたわけではなく、ただ気に入った山が見つかればカメラを背に背負い、思うまま繰り返し登ってきただけなのだけど、今回、ある仕事をお手伝いするにあたり、せめて10座くらいは踏破せざる得なくなった。そんな機会がなければ当然、登ることもない山もあるのだろうけど、とにかくその10座を目指して僕は地図を眺め始めた。

それで今週は、仕事の合間を縫って大金峰・小金峰、保口岳を目指したのだった。両者ともガイド本を見るに、新緑、紅葉の景色は当然美しいのだろうけど、そんなに山野草がいくつも自生しているようではなさそうだ。目的はまず登ることなので、レンズの数も減らし、三脚もなしにした。日頃、ほとんど運動もしていない固い肉の塊のようななわが身だけど、ルートもそんなに難しくなさそうで、往復6時間、軽いザックを背に「たったった」と登ってしまうことが出来ると思い込んでいた。そして登山を始めると、すぐにそんな思い込みは無残にも崩れ、体全体の筋肉は引きつり(早起きの猫を飼育している宿命で、どんなにきつくても朝5時には起こされる!)慢性的な寝不足で、朦朧とした意識で登山道をよろよろと登り始めたのだった。「たったった」どころではない、「(青色吐息)だ、だ、だあ」なのである。

「大金峰・小金峰、保口岳…ファミリー向けの登山ルート」確かにそうガイド本には書いてあったような気がするが、僕にとってはどうして「長い、つらい」。とくに保口岳はカヤが生い茂り、帰りの林道の降り口を間違えて、えんえん山をさまようこと1時間半!相当な体力のロスとなった。

そんな無残な山行きを唯一いやしてくれたのが、アケボノソウで、傍目は湿地に生える雑草にしか見えないのだけど、上からのぞくとなんと美しいことよ!星形の白い花びらに黒い点々がまぶされ、黄緑の水玉が各々2個。その水玉は蜜腺で、虫を誘う蜜が分泌されているそうだ。山野草のなかでこんなデザインの花はこれまで見たことがない。いったい誰がデザインしたのか。アケボノソウ(曙)の名の由来も、黒い点々が星に見えるからという説があり、星形の花びらに、点在する小さな星々…そして黄緑の水玉惑星。

味気ない林道の中で、這う這うの体でへたり込む寸前の僕のこころは、彼女たちの美さに癒され、何とか帰路に着けたのだった。美しいデザインは力なり。

2017.09.03

山行

去年は椎原の川で、ヤマメ一匹何とか釣り上げたのだけど、今年の夏は一匹も釣れなかった。夏の終わり、折角釣りに行くのだからと、前日から必死で毛ばりを巻いて期待して出かけたのだけど、残念な結果に終わってしまった。五家荘の谷は深く、それに沿って流れる川の数は無限のように感じる。ヤマメはとても敏感で臆病で、人の足音、影にも気が付くと岩の陰から出てこない。つまりその川の上流に人がいると、その下流でヤマメを釣るのは困難となる。要するにヤマメの川は一人一本が理想なのだが、五家荘の川は当然のことながら何時行っても、独占状態だ。それでも釣れないのは、釣る人の腕が悪いのだろう。しかもフライフィッシングというスタイルで釣るのだから、わざわざ早朝から出かけていながら、自分で手かせ足かせ、ハンデを与えているようなものだ。

フライは鞭の要領で、いったん竿を後ろに返して、もとに戻す反動で川に針を落とす西洋式の釣り方だ。川幅が狭く、木々が両岸に生い茂る日本の川では、うまくいかないのは当たり前。竿を後ろに戻す段階で、伸びた釣り糸や針がすぐに木々の葉や枝に引っかかってしまう。そしてそのもつれた針をほどこうと背伸びをしているうちに、足がもつれ風がふいて、体に糸が絡みつき、老眼の自分は焦って眼鏡をはずすとどっと汗が吹き出し、うずくまり、山奥の川で一人、糸巻き虫のミイラのよう、ぐるぐる巻きになった悲惨な姿を、物陰に潜む猿や鹿にさらすことになる。

(熊本に今、いったいどれくらいのフライ人口がいるのか不明だ。今や専門店もなくなり、公に教える人もいない。僕はほとんど自己流だが、鞭の感覚で竿を操るのを覚えるのには相当時間がかかった。毛ばりにようやくヤマメが食いついても、それに合わせて糸を引くのもなかなか難しい)

で、その当日は、ミイラにまでならなかったが、行く川、行く川で、魚影見当たらず、毛ばりをくわえるアタリさえほとんどなかった。栴檀轟の滝の下部の川、椎原の川…そして最後にたどり着いたのが樅木のつり橋の上流の川。

この川は去年、紅葉を撮影に行く途中で見つけた川だ。民家の畑跡の空き地の向こうから川の音が聞こえ、草むらをかき分けていくと川に降りる小道を見つけたのだった。釣り道具一式身にまとい、(小道は途中で崩落していた)河原に(すべり)降り立つ。

目の前に広がる、ごうごうと苔むす岩々の間を清流が流れる美しい渓谷の景色。この川も、ほとんどアタリがない。主人公の見当たらない川。上流に向かうが、大きな岩が階段状に滝を作り、もう先には進めない。あきらめて引き返し、今度はカメラと三脚をもって同じ河原へ降り立つ。ヤマメは釣れなかったが、写真の収穫が数枚。

秋の紅葉時にまた来よう。この景色がどういうふうに色づくか今から楽しみなのだ。

「フライでヤマメが釣れるのはせいぜい、一日に一匹ですよ」これは負け惜しみではない、ミイラ同士が事実を語り合う言葉である。

2017.08.25

山行

8月11日は「山の日」ということで、誰が勝手にそう決めたのか、それなりの理屈はあるのだろうが、思うに、山の日以外にもいろんな記念日を誰彼ともなく言い出しているような気がして、世間の風潮も最近食傷気味なのだ。

「いい夫婦の日」とか、「いい買い物の日」とか。横文字の「プレミアムフライデー」とかもあるけど、そんな日は、つい「プレミアムモルツ」の日とかを連想して、金曜日にはビールを飲む人が増えることを期待した企業の商魂たくましい策略の一つのような気もする。

五家荘の山の達人、M氏とO氏も、折角だからと山の日に五家荘の登山の企画をし、早速フェイスブックで募集をかけた。「ゴカコヤノ谷を遡り、熊本県最高峰の国見岳の頂上を目指す」というコースで、正直、ゴカコヤノ谷とか僕はこれまで聞いたこともない。もちろん地図にも載ってないわけで、だいたい谷の名前からしてややこしそうではないか。もちろん僕はそんなヤバソウナ谷の登山なんて、キツイに決まっているので誘われたら断るつもりでいたが、別件の打ち合わせ時、ジョイフルで抹茶パフェをえぐるようにすくい食べながら(いい年こいたおじさんですよ!)長いスプーンを口にくわえたまま、低いかすれた声でOさんが僕に向かい、「Tしゃんも、行くとだろ?」という脅しともとれる一言に、僕も(心に魔が差して、意思とは逆に軽い声で)「もちろん、行きますよ」と答えてしまったのだった。

だいたいそんなコースに人が集まるのか?当日、3人だったら嫌だな。煮詰まるな。これはいよいよ、ヤバイ谷だと思いながらも時が過ぎるに、参加者はどんどん増え続け、当日の参加者はなんと総勢34名にまで膨れ上がったのだ。(参加者の平均年齢はたぶん60歳、最高齢は伝説の山ガール、オババ様75歳)たいした告知もせずにフェイスブックでこれだけの人を集めるなんて、2人の情報発信力はすごい。(新聞の記事でも数人来たらしいけど)この大人数で、地図にもない「ゴカコヤノ谷」を登るのだ。まさに「ガヤガヤの谷」である。広場でMさんが手際よく、全体を4班に分け、各班のリーダーを決める。点呼を取りいよいよ出発だ。僕はどの班にも属さない(意味不明の)フリーという扱いになった。

1時間程林道を歩き、国見岳の頂上近くの稜線を目指し、ゴカコカヤノ谷を登る。道なき道、苔むす倒木をくぐり、よじ登り、滑る坂を踏ん張り、どんどん高度を上げる。緑に包まれた原生林の中を、沢からの涼しい風に吹かれながら行軍は進む。時に大小の滝も連なり、全員の足が停まる。岩の間から噴き出す生まれたばかりの清冽な水しぶきを浴びる。この水のしぶきが清流川辺川の一滴となるのだ。順番待ちの間に、三脚を立てカメラのシャッターを切る。こんな森の奥深さは、県内では五家荘でしか見られない景色だ。撮影で多少列から遅れても、次の滝の登りで行軍に追いつくことができて、最初から足の遅い僕にとっては幸いだ。

 

登山開始から3時間過ぎ、昼食後、すぐに稜線に出て最後の登りを頑張ると、丁度12時に国見岳の山頂に着いた。天気は晴天、九州山地の連なる山々を眺めながら、全員で記念写真を撮り、列を作り下山する。下山のルートも通常の踏み跡の着いたルートではなく、森の中をかき分けて降りるルートで少し遠回りだが景色は良い。林道に午後4時頃到着。これで朝4時起きの僕の山の日のイベントは終わった。

「ガヤガヤ、ゴカコヤノ谷」の登山…全身汗びっしょりで疲労の極致、足は途中半分つりそうで、ズボンはドロドロ、ボロボロになっても、それでも楽しいのが「山登り」なのだろう。

熊本県最高峰、標高1,739メートルの山頂から海抜ゼロメートルの我が家まで僕が帰宅し、飼い猫どもに「何があった?」というような驚いた顔で出迎えられた後、スマホでO氏のフェイスブックを見ると、すでに民宿、佐倉荘での大宴会は始まっていた。「ゴカコヤ旅団」の残党の大部分は一泊し翌日も五家荘の山に登るのだ。この人達のエネルギーはどこから湧いて出てくるのだろうか。僕は冷蔵庫から(プレミアムモルツではない)一番搾りを取り出し、ぐいと飲みほした。8月11日は、いい山の日だった。

 

 

2017.08.06

山行

五家荘の山は希少植物の宝庫と言われる。これまで希少植物と言われても、全然ピンとこなかった僕なのだけど、いったんその存在を知ってしまうと、どうしても見たくなるのが人情だ。山の先人のMさんやOさんのブログ、フェィスブックを見るに、これまで見たこともない花々がその時期になると、どんどん出てくる。どれも開花期間が短く簡単に会えないものが多い。気候や山行の都合でタイミングが合わなければまた来年、ということになる。で、またダメなら再来年。つまりある程度の種類を集めようとすると、何年かかるか分からないのだ。咲いている場所も一緒に山に登れば教えてくれるが、机上では無理。体で覚えろ…というわけではないけど、そう簡単に教えるものか、そうして簡単に教えられると、教えられた方も誰かに簡単に教える気分になり、その情報の連鎖でいつしか盗掘者に伝わる可能性もある。これまで、花の盗掘の被害も結構なものだそうだ。

クマガイソウ、フガクスズムシソウ、ヒゴイカリソウ、ショウキラン…カタカナで書くと単なる記号にしか見えないが、漢字で書くと、熊谷草に富岳鈴虫草、肥後碇草、鐘馗蘭…一瞬で希少植物に変身する。

春先に熊谷草(クマガイソウ)…「クマガヤソウ」とも呼べるとのことで、つい僕は「クマガヤ」さんと言ってしまう…がOさんのフェイスブックに載っていたので、いてもたまらず山に出かけた。そのコメントを読むに、林道のすぐ脇の草むらに咲いているとのこと。その林道もどこかで見た林道である。つまり、労せずすぐに「クマガヤ」さんを見る事ができると僕は一人ほくそ笑んだのだ。

「クマガヤ」さんの野生種は、環境省のレッドリストにも指定されるほどの希少植物だ。なんとも古風な顔をしたラン科の植物で、ほっぺたがふくらみ、平安時代の絵巻に出てくる貴族のような面持ちだ。名前は源平合戦の武士、熊谷直実に由来しているとの事。

「ははーん、あのあたりか…」車をどんどん山の奥に進める。ところが天気が途中で一変、雨に変わる。(僕は結構な雨男なのだ)そして本降りに。しかし、雨がなんだ、風がなんだ、(仕事がなんだ)、来た以上は「クマガヤ」さんを絶対探すのだと、僕の決意は固い。

ところが、行けども行けども、全然見当たらない。馬鹿みたいに林道を駆け巡る。森の奥の十二単をまとったクマガヤさんは何処に…。雨脚はおさまらない、あたりは暗くなり写真どころではない、もう時間切れ。悔しさを胸に、僕は山道を帰路についた。

後日、Oさんにさりげなく、「クマガヤ」さんのことを聞くと、

「なーん、あの写真はほれ、林道じゃなか、※※さんの家の横に咲いとるとたい。林道の写真は、時間があったけんイタドリ(山菜)を取りに行った時の写真たい」とOさんは答えた。

一週間後、その※※さんの家に行くと、すでに花の落ちた扇型の葉だけ残った「クマガヤ」さんが居た。絶滅危惧種が民家の庭先に咲いているなんて。(そう言えば、カタクリの花も民家の庭先に咲き誇っていた)恐るべし五家荘。

Oさんにはその後もお世話になった。7月には富岳鈴虫草(フガクスズムシソウ)を探しに某山に登った。この草もよく盗掘されているようだ。その名のごとく花びらの色が茶色で鈴虫に似ていることから名前が付いたのだろう。富岳というのは最初に発見されたのが富士山麓だったことかららしい。しかしこの花は地味すぎる。咲く場所というのも自然林の幹に生える苔にくっ着いて咲くという珍しい咲き方で、探すにもそれらしき大木を見上げて回らないと見つからないのだ。とても素人が見つけられる代物でもない。そんな途方に暮れかけた僕の目の前に、ひょっこり現れたのがOさんだった。(Oさんはれっきとした社会人なのだが週に2回は山に登っている猛者なのだ)その日は、暇だから山をぶらぶらしていたとのこと。標高1,600メートルの山が暇つぶしとは驚くばかりだが、Oさんは気前よく鈴虫草の咲いている場所を案内してくれた。まだ咲き初めの時期で群生は見る事ができなかったが、そもそもOさんと出会わなければその日も徒労に終わったのだ。ありがたく花を写真に収め、一息ついていると「先に下山しますけん」とOさんは忍者のように目の前からスッと消えた。

僕の心の声…「あ、Oさん、ここどこ?花は見れたけど、登山道から大分、外れてしまったようで、だいいちここは迷いやすい場所で有名ってOさん言ってたじゃない…なんでいきなり消えるかなぁ」

それから僕はおよそ30分、山中の藪の中を彷徨ったのだ。一つ尾根を間違えると大変なことになる、恐るべし五家荘。

その日は、道の途中でこれまた珍しい、鍾馗蘭にも会えた。ショウキランも県によっては絶滅危惧種に指定されていて、調べるに「葉緑体を持たず菌類に寄生する腐生植物」とのこと。言い換えれば、腐った苔などに寄生しておりながら、花は造花のように派手なヤツ。しかも肉厚。このピンクの花が苔むした緑の中にニョキニョキと顔を出し群生していた。この異様な“花の家族”も1週間でしおれるらしい。会えて良かった。来年、同じ場所で会えるかどうかは分からない。

今回、お盆にOさんらが企画した、川の源流を訪ねる日帰り山行に参加することにした。言わば、大人の夏休みだ。総勢30名の大所帯。日頃は単独行が基本の僕は、山の学校に転入してきた転校生のこころもちである。道に迷いやすい僕は、みんなに迷惑をかけないようにしようと思う。(しかも、雨男だし)

Oさんは、その山行の次の日には、また違う山に幻の「肥後碇草」(ヒゴイカリソウ)を探しに行くそうで…Oさんは五家荘の希少植物ならぬ、希少人物なのだろう。

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