熊本県 八代市 泉町(旧泉村) 五家荘
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雑文録

2024.06.11

山行

 

また白鳥山に行く。前回の雑文録にたいそうに「幻視行」なんてタイトル付けたが、その名のごとく、日常でもふんわり幻を視ている気分になった。今回は峰越ではなく、その途中のウエノウチ谷から、谷をさかのぼり御池、白鳥山頂を目指すルートをとった。これも数年ぶり。峰越からのルートは白い霧に包まれるルートだけど、ウエノウチ谷のルートは緑に包まれるルート。これまでの大雨の被害はないかと、恐る恐る沢の道の岩の上を歩く。一旦、谷に入るとそこは一気に新緑の中に体が溶けるような道となる。一瞬で、白鳥山の緑の世界に取り込まれるのだ。見渡す限り自然林の景色がひろがる。白鳥マジック。見あげると若葉と若葉が重なり合い、緑の影を織りなしている。

 

ただ残念なのは、これまでは苔むすブナの大木にはびっしり、緑の苔やギボウシなどの山野草が絡みつき、豊かな森の植生が見られたのに、今回は大風や大雨の影響なのかすっぴん。そういう景色は見られなかった。更に登り続けると、いつも休憩する谷の景色も一変、滝の上の大岩が崩落し、落差のある滝の景色が階段状の岩の落ち込みに変身していた。

しばし休憩、岩の間の小道に登ろうとしたが、緑の谷は一瞬にして白い霧に包まれ、風が吹き、小雨が降り始め雨脚が本降りに代わって来た。体が冷えてくる。このまま、御池まで登り詰めても仕方ない。運転役の家人も寒さで元気がないし、思い切って引き返すことにした。僕は遠距離の車の運転が出来なくなったのだ。不思議な事に、いつも気配を感じる森の神様の住まいが、穴の開いたまま、生気を感じる事が出来なかった。

また夏に来ます、山の神様。足元のタニキキョウだけが沈みがちな僕の心を慰めてくれた。

 

 

2024.06.06

山行

久しぶりに白鳥山に行った。樅木から峰越1480m(峠)を越え、宮崎の椎葉村に向かう車道が崩落し、長らく通行止めになっていたのがようやく解除されたのだ。ただ通行可能になったからと言って、荒れた道が整地されたのはともかく、崩落した場所は簡単な応急措置…というか、ほとんどが赤いコーンを立てただけの放置、ガードレールはだらんと垂れ下がり、谷底まで切り落ちて下を見るとぞっとする。そろり、そろり、なんとか車を山側に寄せて、進入禁止のロープすれすれに回避するような道ばかりなのだ。

白鳥山周辺に群生する芍薬の花の開花情報に誘われ、今年こそはと早起きし、頑張って山に向かった。峰越の登山口から尾根を伝い、芍薬の群生地に向かうルートにする。ところが、下界の天気予報は晴れにもかかわらず、峠に近くなればなるほど尾根には不気味な、もくもくとした濃い白雲が湧き上がり、まさかまさか、峠に着いた時は辺りは暴風と霧に包まていた。

連休でもあり、駐車場にはいくつものテントが張られ、数人の若い男子に出くわした。みんな山の雑誌から出て来たようなおしゃれな格好に半ズボンのいで立ち、ステイックを握りディパックを背負い、笑いながら順番にスタートした。あの格好では絶対寒いと思うのだけど。トレイルランなのか、走っているうちに体も温まると思って居るのだろう。後には、彼らと同じ今風の派手な登山ファッションで固めた老夫婦も続いた。みんなの姿はそうして、しゃわしゃわと湧き出した白い霧に包まれ、あっという間に姿を消した。

峰越登山口から白鳥山への尾根道は、それ程登り下りの激しいルートではなく、登山と言うより、僕にとっては山歩きと言った方が正しい。もちろん、その先の山に向かう人たちは登山なのだろう。天気が良ければ、しっとりとした湿り気のある小道で、歩きにくい岩もなく膝にも優しい。本来ならばこんな楽しい山歩きはないというルートなのだ。しかも、その先には、芍薬の白く清廉で、蓮のつぼみのような美しい群生が待っている。ただ今回のように突然、白い霧に包まれるのも白鳥山で、五家荘の山の中でも人気の山の分、たくさんの踏み跡もあり、その霧に包まれふと、踏み跡からはみ出すと、どれがどの道やら、一気に方角を失い、自分の居場所が分からなくなる危険な山でもある。ぐるりと見回してもうっそとした樹々の茂み、道を塞ぐ倒木の姿がある。白鳥山のやさしく白い鳥達は居なくなり、入れ替わり白い霧達がじわじわ忍び寄ってくる。気温は一気に下がり、風が吹くと、さらに体温が奪われる。7、8年前の5月に訪れた時はブナの木の根にいくつもの積雪があった。

今回久しぶりに歩いていて、尾根筋に根を生やしていたはずの倒木の多さに気が付いた。なんと悲しい事か。以前は巨木のまわりに、たくさんの苔やギボウシ、フガクスズムシソウなどがからまり、珍しい山野草の新芽が見られていたのに、その母なる巨木本体が倒れている姿があった。昔の豊かな森の記憶が、寂しい景色に上書きされる。森の小道を、花々を探して歩き、彷徨う、至福のひと時は過去のものか。海抜ゼロメートルの自宅から、2時間近くかけてやって来たのだから、先を急ぐのはもったいない。岩に腰を下ろし当たりを見渡す時間は僕だけのものにしたい。以前は先ばかり急いで歩いていた自分が、最近の山歩きでは遠くで物音が聞こえる度に立ち止まるようになった。

僕は夢想する。何本ものブナの巨木がもんどり打って倒れる。木々の葉が揺れる、枝がばきばき折れ飛び散る。鳥の黒い影が空に飛び立つ、鹿が跳ね起きる。何体も何体も、森を支える巨人、緑の巣があおむけに倒れて行く。そういう景色は想像できても、何故かその沈む音を聞くことができない。だから耳を澄ますのだろうか。この自然の森も死が近いのだろう。味気ない人工の森が足元まで迫っている。

 

 

峠から先行した老夫婦が引き還して来る。「芍薬はどこですか?」ヤマップのルート図が映る携帯を突き出す。携帯ではこの深山も小さく手の平に乗るサイズ、その地図では数センチで芍薬の群生地に着くはずだ。「あと1時間近くはかかりますが」五家荘で僕に道を聞くのは極めて危険だがね。夫婦は待ちきれず「帰ります」と言って山を下りて行った。

一瞬消えた白い霧が、また湧き上がって来る。白鳥山ではそんな景色が最高の景色でもある。ようやくドリーネの近くまで来る。ドリーネとはサンゴ礁が化石化しすり鉢状にへこんだた地形の名称。水に侵食されて奇岩が付き出したりしている。今は山の中でも古代ではここは海だったのだ。もともとはサンゴの白が、いまは緑の苔におおわれて、白鳥山のドリーネの景色は、巨大な白い像の背骨の群れが重なっているように見える。ドリーネの地形は鍾乳洞とも関係があるらしい。足元では丸く苔むす岩が転がり、小さな丘が出来てその岩々に白い可憐な芍薬の花が顔を出し始める。風が吹き、霧が晴れ、当たりを見渡すといくつもいくつも、両手で丸く手の平を合わせたような花弁が顔を出す、幻のような景色が見える。

柵で保護された、白い巨像のようなドリーネの森が見えて来る。リュックから三脚を出し、カメラを構えシャッターを押す。小道からはみ出し、岩の間に足を踏み入れ、芍薬を追いかけカメラを構える。踏み込んだ足元の枯葉の下に、空洞がありはしないか、時に恐怖を感じる事がある。石灰岩は硬そうでもろい。足を踏み込んで、ごぼっと空洞に落ちはせぬか。とっさにつかんだ岩が崩れ、自分が落ちた穴をふさぎはしないか。深い深い、岩の穴。助けを呼ぼうにも道から外れ、そう誰も気が付くはずはない。ドリーネの下には鍾乳洞がひっそり口を開けているのかもしれない。

 

 

白鳥山は謎の多い山でもある。ドリーネの横の湿地帯は御池と呼ばれ、雨乞いの行われた神聖な土地と言われていた。雨乞いが行われていた当時は今のような湿地ではなく、もっと深い沼地ではなかったか。今は泥で埋まっていても、場所により、深い穴が口を開いてはいまいか。雨乞いの神事は誰が行ったのだろう。椎葉から上がって来た修験者なのだろうか。

古代から神が降臨する場所は、磐座(いわくら)という岩場で、白鳥山の御池の磐座はこの大きなドリーネに注連縄(しめなわ)が張られ、自然の神、雨を降らす神を出迎えたのかもしれない。神秘の山、伝説に満たされた白鳥山。積み重なる歴史の山は昔、蒼い海底だった。

よく語り継がれる言い伝えで熊本側の話では山頂から5本の矢が放たれ、五家荘の地名になったと言われ、宮崎側からすれば、源氏の追っ手から逃れた平家の落人が山頂の白いドリーネの景色を見て、もはやこれまでと諦め自刃したとも言われる。この言い伝えは椎葉山一揆の悲しい伝承とも重なり、山人の暮らしの困難さはかなさを思わずにいられない。

五家荘の山で不思議なのは、国見岳、白鳥山と連なる烏帽子岳も、西の岩の尺間山、更に釈迦院まで修験の跡があるのに、これと言った石仏や摩崖仏の姿が見られない。地形や人口の少なさもあるのだろうけど、そういう仏様の姿は、時の流れに霧散したのだろうか。

気が付くと、足元にざわざわと緑のバイケイソウ群れが攻めて来た。こんな広く大きなバイケイソウの大群落は見たことがない。バイケイソウは、全草に有毒アルカロイドを含有し加熱しても毒は消えず誤食したら命の危険もあるそうだ。気温が上がるとバイケイソウの緑の葉からアルカロイドが発散されるのか、群生地のあたりは命の気配はなく、しんと静まり返っている。

 

 

こんな事を考えながら山に居ると峰越からドリーネまで、普通なら片道1時間少しの道のりを、たっぷり2時間以上かかってしまった。御池から先に進む意思は僕にはない。弁当を食べ帰路に就く。

尾根に倒れ、枯死した巨体の幹にギボウシ(?) の若葉が開いていた。ギボウシは緑の葉の間から茎を伸ばし、白いユリのような可憐な花を咲かせる。僕は山に咲くギボウシの花が大好きなのだ。巨樹の死体に芽生えた緑の若葉。これは希望なのか、絶望なのか。

 

 

2024.04.16

山行

3月末に五家荘の花の写真を撮りに行った。お目当てはカタクリの花なのだけど、満開の写真が撮れるかどうかは運次第。山も本格的な春の到来となる。今年は気候変動の影響か、山桜も満開であったり、すでに散ってしまったり、開花状態が色々。悲しいかな、年来の大雨で山道も荒れ、春になっても山の疲れも取れてない気がして、何か辛い気がする。(そう感じるのは僕だけか…)

今や僕の定番の散歩道はハチケン谷の周辺。時々、石が遠くの崖から音もたてず飛んで来るのでヘルメットは必携。気が付くと頭上の木の枝が揺れている。林に踏み入ると、ヒトリシズカが緑の葉を開き、シズカに開花。岩の影をこっそりのぞくと、コバイモ、ネコノメソウもこっそりと咲いている。左側の崖のむき出しの岩の間に咲く、タチツボスミレと目が合う。今回は何故かスミレの淡い紫色の集団にたくさん出くわした。

たかがスミレと言うなかれ、写真を撮るのと一緒に、その花の性質も調べると面白い。今回あんまりきれいに見えたので、以前買った本をあらためて読む。

 

不思議な事にスミレは2種の花を咲かせるそうなのだ。(全然知らんかったな)今の大きく紫に咲いた花を開放花と言い、いろんな虫を迎え入れ、(新しい遺伝子を得る為)受粉する仕組みになっている。花にある線の模様は蜜に至るルートを示す道標(みちしるべ)ならぬ蜜標と呼ぶそうな。

スミレの2段構えの術。なんと裏技がある。開放花が咲き終えた後、秋遅くまで、地味で目立たない、ストローのような閉鎖花を咲かせる。開放花でいろんな蜂や虫に「いろんな遺伝子、みんな集まれ!」と叫び、生き延びるための強い遺伝子を集め、閉鎖花では手堅く100%受粉し、スミレの遺伝子をキープ。低コストで子孫を残す仕組みになっている。

開放花、閉鎖花、どちらの実も熟すと裂けて、種を弾き飛ばし、実験では最大飛距離2メートル飛んだそうだ。更に更に、種には蟻に運ばせるためにエライオソームという甘い物質をつけ、更に種子を遠くに運んでもらう。植物は移動できないので、色々考えて、自分らが生存する為に、真剣に工夫をしているのだなとその本を読んで改めて感心した。研究者の熱意はすごい。スミレの語源は大工道具の墨入れ。つぼみの形が似ているから。

昔、ギンリュウソウの生態系を研究した人の論文を読んだことがある。その人は光合成をしない銀色透明の銀ちゃんの栄養素を誰が運ぶのか、数年間、這いつくばって研究した。(とんでもないオタク、その人、銀ちゃん以外、友達いないだろうな、多分)

…さて、肝心の「カタクリ」の花

 

 

某所で何とか撮影できたけど、カタクリの生態も不思議…というか、カタクリは耐えに耐えて、暗い木陰に花を咲かせるのだなと感心した。カタクリは春の妖精とも言われ、他の植物が開花する前に花を咲かせ光合成し、実が熟すと葉は溶け消え、種と球根が次の年の春まで地中でひっそり眠って過ごす。短期の光合成ではキチンと成長するには大変で、種から芽生えたカタクリの最初の葉は糸のような葉。翌年は少し広めの葉を広げ、球根にでんぷんを蓄え、7,8年後、ようやく葉を2枚だし開花するそうだ。(と、いうことはカタクリの研究者は少なくとも8年は研究を続けたわけだ)

花の中心近くの紫色のMの模様は虫に蜜のありかを示す蜜標。スミレと同じように、種子にはゼリー状の脂肪酸が付いていて、蟻に種子を運んでもらう。そのゼリーが運んでもらうためのオマケだそうだ。今年のカタクリは撮影のタイミングが遅く、ちょっと疲れた顔しか撮影できなかった。

 

カタクリの花園の近くの川沿いの小道を踏み進むと、ヤマメ釣りのフライフイッシングの二人組に会う。川は荒れ、以前ならヤマメが潜んでいた淵もなくなり、苔むす岩も流され、平坦で釣果はなしとの事。二人は山や川が荒れているのに嘆きながらも、川にゴミが不法投棄されている光景を嘆く。こんな小川の奥にゴミを捨てなくてもいいのにね。

 

山から下りて、自宅近くの漁村の海岸の近くの小道をぶらぶらする。海岸も牡蠣殻、漂着したごみ、ペットボトルが異臭を放っている。

その小道の脇には、スミレの花も、もちろんカタクリの花も咲いてはいないが、まだ名も知らない、野草がたくさん咲いていた。小さく尖がった黄色に、丸い紫、朱色に青色の点々の花たちが、春風にゆらゆら揺れている。

有名、無名…花には関係なし。みんな、みんな、花たちに春が来たのだ。

 

※勝手に引用、意訳しました。 参考文献 野に咲く花の生態図鑑 多田多恵子著 筑摩書房

2024.02.28

山行

五家荘の山の番人Oさんの

フェイスブック情報で

久連子(くれこ)の福寿草の開花が始まったよ

との情報があり

2月18日深山に春を告げる

金色の花に会いに行った。

 

頑張って午前中に着き、

這いつくばり、金色の花に

カメラを向けるけど、

何故かみんな機嫌が悪そうだ。

 

この子はどうだろう、この子は?

残念ながら、みんなそっぽを向いて

顔をしかめる。

 

たまに大きく花弁を開いた子もいるが、

顔中、冷たい水滴で覆われ

寒さに青ざめている。

 

花と花の間の、柔らかい土の上を

根を踏まぬようにそっと気を付けて歩く。

 

なかなか満足のいく写真が撮れない。

大体写真は自己満足なのだし、

誰かに喜んでもらうつもりで

写真を撮るわけでないのだけど。

 

小学生の頃、僕は校内の

写生大会でいつも特賞だった。

何故かと言えば、

大人がさぞ喜ぶような絵のかき方を

要領よく覚えたからだ。

 

だから終いには、

絵を書くことが

全然面白くなくなった。

 

先生は聞く、どうしたの?

急に絵が下手になって、

何があったの?

 

だから絵を書くのが

全然、面白くなく、

退屈になったからなのです、先生。

 

(そもそも小学校の6年間が長すぎる…

海沿いの道を2キロとぼとぼ歩いて帰るのだ)

 

結果、こうして下手な写真を撮るのも

自分が満足いくか、いかないかだけなのだ。

 

ただ今回だけは、

どうも花に嫌われているような気がした。

(大げさ) 僕は途方に暮れた。

土の上にへたり込み、ぼんやりする。

たいして動いても居ないのに、何だか疲れた。

 

時計を見るともう11時、昼前ではないか。

そうして、汗を拭い、空を見上げると

谷間にもだんだん明かりがもれてきた。

 

 

やわらかな春の陽ざしが、

久連子の谷、全体に射してくる。

 

ふと足元を見ると、

さっきまで不機嫌だった子が

金色に輝く花となり、

顔をもたげ嬉しそうだ。

 

あちらこちらの花たちも

一斉に光を浴びて輝きだす。

黄色い歓声があちこちで

聞こえる。

 

 

「春植物」と言われる彼らには

今、この瞬間しかないのだ。

 

もうしばらくすると、谷間にも

たくさんの花々、木々が生い茂り養分が奪われる。

 

今のうちに、太陽からの養分をため込まないと

生きてはいけない。

そして地中深く眠りに着く、春の妖精。

 

この花の家族たちは谷にやってきて、

どのくらいの時間が経つのだろうか?

 

 

久連子に来たら、

一緒に寄るのが兵隊さんの像。

 

小さな坂を上った場所に、

日中戦争時、村から出征され

戦士された兵隊さんの姿を形作った

等身大の像が4体ある。

 

これらの像は昭和12年に建立され、

除幕式には村民200名が集まり、

戦果を讃え、死を悼んだと当時の新聞記事。

 

僕が兵隊さんらに会って10年近く。

毎年会う度にみんなの姿はほろほろと、

生まれ故郷の土の上に

零れ落ちて行くようだ。

 

背中の重たい背のう、

もう降ろされてもよいのに。

脇に立てかける銃剣も、刃がぼろぼろ。

それでもすっと背筋を伸ばし、

凛々しい顔で、

真っすぐ前を見つめている。

 

「人影もほとんどなくなりましたが、

今年も久連子の谷に春が来ました。

小さな谷間に、いつものように

金色の花が咲きましたよ。」

 

真昼の静寂。時間がとまる。

 

ふいに、向かいの山から

鹿の声が響き、また時間が動き出す。

 

2024.01.28

文化

今年、日本石仏協会に入会した。石仏協会はその名のごとく、日本全国の石仏の愛好者、研究者の集まりで東京に本部がある。1977年に開設、なんと47年の歴史のある会で日本唯一の石仏についての民間と研究者の集まり、オタク集団なのだ。年会費を払うと年に3冊、立派な会報誌が送られてくる。そんな協会を知るきっかけは、いつもの上通の古書店、河島書店の書棚でたまたま「熊本の石仏特集号」を見つけた事。協会は超専門的な内容から、素人向けの石仏探訪必携ハンドブックまで発刊している。ハンドブック1冊さえあれば、いつも通る道に鎮座する石仏の見方がよく分かる。石仏の解説はもちろん、石塔、石祠、石灯篭、梵字の解説…都市部ではシンポジウム、石仏見学ツアーまで企画されている。会員はほとんどが年配者だろうけど、みんな石仏に元気をもらっているらしい。(僕も)

石仏ファンというのは、自然の景色の中で、みんなの安全平和を願い、悪霊を追いはらってくれる素朴な仏像を愛でる人の事を言う。その石仏はきれいでもなくてもよい。長い間風雨にさらされ、目も欠け、鼻も欠けぼろぼろになり石の姿に戻ろうとも、その想いは美しい。博物館などで金ぴかに磨かれ拝められる仏像とは違うのだ。ひねくれた自分がそんな事をこのブログに書くのは、そんな野仏様に自分の煩悩を払い落として欲しい、邪念があるだけなのだけど。

去年まで僕は日本修験道協会にも加入していた。ただ修験道協会からは何の資料も送付されず、中央では頻繁に研究会、見学会が開催されているけど、熊本ではそういう催しも一切なく、うらやましいだけの会に終わった。日本石仏協会のフェイスブックには毎日のように会員からの投稿が湧いてくる。全国津々浦々の石仏ファンがネット世界でも頑張って居るのだ。石仏見てまわるにかかる費用は交通費だけ。石仏を眺め愛でて、みんな、朽ちた石仏を撫で、ぼんやり良い気持ちになり、帰路に就くだけのとてもよい趣味なのだ。

古代の人は山や巨岩、巨木に自然の神が居ると信じていた。要するに原始的山岳信仰というもの。古代の人々は、自然から自分たちも生まれて来て、死ぬという信仰なのだ。言葉がないの(仮説)で、ひたすら体全体で自然の神に祈った。この降り続く、冷たい雨が止みますように。日照りの乾いた焼けるような野原に雨が降りますように。ごうごうと頭上を吹きすさぶ風がやむように。山の木々に実がたわわに実りますように。死んだ人が生き返りますように。

日本に仏教が伝来したのは700年前後。自然の神を信仰するみんなに、お坊さん達は仏の教えを信じたら心が救えます、そのシンボルとして仏像があります、この教えをみんなで声を合わせてつぶやけば、元気になりますよ。さて仏像にもいろいろなランクがありまして…とかなんとか。その宗派の流れのいくつかが山岳信仰が密教と合体し、修験道という流れも生まれ、聖なる山で修行を積み、祈祷を行い、山に寝るから山伏と言い、山伏は各地の山を順番に拝んだで教えを広めた。もちろん五家荘の地域にも修験の道もあり、仏の道もあり、時にキリスト教の道もあったようだけど、遠い昔のことでそれらの道を辿ることは今ではなかなか困難なようだ。

ちなみに僕の住む町の隣の天草は相当数の修験の史跡があり、仏教からキリスト教、密教、修験道が混在している。熊本市内の研究者がその資料を去年、大著「天草の民俗信仰」にまとめられた。世界文化遺産の崎津の集落の中には、天草の乱から明治維新まで、修験の山伏さんが地域の面倒を見ていた場所がある。潜伏キリシタンが信仰していたのはキリスト教ではなく、マリア観音教なのだ。明治維新から数年後、信教の自由となった天草の潜伏キリシタンの信者のほとんどはカソリックに改宗されたが、それを拒否し、自分たちのマリア観音様の教えを守り、今は信仰も途絶えた「今富」という集落がある。今富の潜伏キリシタンの指導者「トクジ」さんは山伏なのだ。

僕は特定の宗教を信じない。何事も信じすぎるとロクなことはない。何千年経っても異教徒は殺し合ったし、宗派が違うと戦争しても平気なのだ。今でも虐殺されている人を助けるどころか、虐殺している方を応援したりしながら、平気な顔をしている宗教がある。あんまり歯向かうと平気で原爆落とすし。都合が悪くなると、神のせいにする。

去年の夏、栴檀の滝の下流で写真を撮っていた。緑の谷の奥に流れる清流の表情を写真に収めるのはとても難しい。(自己満足な写真ばかりな自分だけど、自己流ではどうしても水の写真は難しい。水は流れ、動き、揺らぎ、反射し、周りの景色を写すから、その瞬間が定まらない) 結果、思う写真は撮れずに、小さな滝でその白いしぶきが打ち付ける流れに、うずくまる白い仏さまを見つけた。単なる、三角形の岩に水が流れるだけに見えるけど、修験の人の滝行の姿はこんな姿に映るのだろうかと感じた。その滝へ向かう小道にはある観音様が祀られている。

 

去年の9月に自分の不注意、思い上がりの結果として、またもや五家荘で遭難し皆さんに多大な迷惑をかけてしまった。広々とした道があるのに、頭の記憶回路が暑さですっ飛んで帰り道がどうしても思い出せなかった。何度もレスキューポイントを往復したが、手を打てない。ここは何処か?突然小雨も降り始め、遠雷の音も聞こえてきた。結果、馬酔木の茂みに赤いテープを見つけそのテープをたどり、枝を掻き分けると、杉林の間、足元の向こうに茶色の林道の筋が見えた。道に迷った時に出て来る赤いテープは魔物なのだけど…そうと分っていても足が進む。方向は逆だが、この林道は遠回りながらも国見岳登山口から樅木集落に向かう林道と確信し、杉林の中を駆け降りる。

まだ昼過ぎ。荒れた林道を膝をがくがくさせながら歩いて降りる。途中、爪でひっかいたような、谷底へ落ちる崩落の箇所があるが、木の根を頼りに体を引き上げ、足元がぼろぼろ崩れる中、一気に崖をよじ登る。もういいだろう勘弁してくれと、曲がり角を曲がると、又、激しい崩落地。突き刺さる杉の大木を梯子代わりによじ登り、崖の突端にしがみつき這い上がる。しばらく行くと又、崩落地、また足元の岩がぼろぼろ、崩れる前によじ登る。さっきまで明るかった林道の向こうの山の稜線に太陽は沈みかけ、ぼんやり夕暮れが僕の体を包み込み始める。残り5キロの標識を過ぎたところで道に大量の杉が重なるように横倒しになっている。その杉の木の間を這いつくばり、潜り抜け、幹のすきまに見えたのは林道が途絶えた、ものすごい、地滑りの跡だった。もしかしたら、何かの弾みでうつぶせの自分の体もごっそり杉と一緒に谷底に崩れおちるのだろうか、不意に恐怖心が湧き上がり、杉の枝に引っかかりながらも至急撤退!後ずさりした。

もう数メートル前の景色も見えなくなる。もう夜なのだ。最後の頼みと、いつも迷惑をかけているOさんの携帯に電話すると、奇跡的にこれまで圏外だった電話がつながり、現状を伝える。自宅にもラインをする。「とりあえずは無事だが、今日は帰れない」と。

もうじたばたしても仕方ない。山のふところ深い場所で、夜が明けるまで待つしかない。長い夜…何度時計を見ても時間が進まない。えーぃと合羽を着込み腕を組み、林道の真ん中に体を横たえる。頭上の木々の影の間からきれいな星が見える。途中、しとしと小雨が降って来たり、又やんだり…雨が落ちる音以外、不思議と物音がしない。さすがに9月でも山の夜は冷える。体から水分が抜けたのか、どうしてものどが渇いてくる。筋肉がこわばり硬くなった体を起こし、水の湧き出る、崖の近くまで歩こうと思い立ち上がる。バッテリーが消費するので携帯は使えない。暗がりの中をうろうろ歩き、倒木につまずきそうになる。メガネが曇る。

寝ていた場所まで戻る途中の道の真ん中に、丸くうずくまり、ぼんやり白い光を放つ老婆の後ろ姿がある。ドキリとする。崩落した大きな白い岩の姿なのだろうか?いゃ、さっきまではそこには何もなかった。その場に居続けるのは流石にまずい。「すいません…」と言いながら、僕はその白い老婆の横を急ぎ足ですり抜けた。後ろを振り返ると絶対ダメだと念じ、次の曲がり角まで急ぐ。更に夜の時間は長くなった。

縁起でもない話だけど、人は死ぬ。僕もリアルに考える歳になった…僕が死んだら、子供の頃、泳いだ海岸で石を3個拾ってきて欲しいと家族にお願いしている。生まれた町に立派な海水浴場なんてないから、子供の頃は家の前の海で適当に泳いで遊び、甲羅干しをした。そのどこにでもある海岸から、手の平に乗るくらいの大きさの石を3個拾ってきて、墓の代わりに置いてほしいと伝えている。そのうち1個は、裏山の見晴らしのいい空き地に置いて欲しい。小学生の頃、仲の良かった浜口ヤスオ君が大阪に転校する前の日に、丘の上から集落を二人眺め、一緒に弁当食べたあの場所に。1個は20代を過ごした京都の鴨川の河原のどこか、出町柳の橋の下でいい。悶々と、過ごした京都の夏。誰も知らない3畳半の間借りから僕の京都暮らしはスタートした。出町柳の駅から電車に揺られ、民家のすきまを縫うように電車は揺れながら、元田中、茶山、そして一乗寺駅。降りると名画座、京一会館があった。

最後の1個は、五家荘の白鳥山の谷の緑深い、森のふところに置いてもらうように。春になればたくさんの花が咲き、生まれたばかりの清流が岩の間を走り、頭上では春の到来を喜ぶ、冬に耐えた山鳥達の鳴き声が谷に響いて飽きない。アサギマダラも飛んで来るだろう。

五家荘の山々には、仏さまが居るのだ。これからは谷に咲く山野草と共に眠る、仏様も僕は写真に収めて行きたいと思う。何しろ日本石仏協会の会員なのだ。

 

仏体にほられて石ありにけり

 

僕が敬愛する、自由律俳人 尾崎放哉の句集で見つけた1句。

僕はそのまんまの石で充分なのだ。

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