熊本県 八代市 泉町(旧泉村) 五家荘
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雑文録

2021.12.27

山行

今年最後の五家荘。12月26日が2021年最後の五家荘行きだった。右肩の腱板の痛みも、整形外科のリハビリのおかげで、だいぶマシになったし。行く前には貼るカイロを、左右の肩、腰、首に、パンパン貼り付けた。ネットでゴム製のタイヤチェーンも買った。

家人から言わせれば「馬鹿じゃないの」という雰囲気、予定としたら、白鳥山の内の谷の登山口から少し谷を登り、すぐ帰る、という極めて軟弱な思想に基づいたルートにした。ところが週末は九州でも数年に1度の寒波到来との事。大雪も怖いが、この寒波が五家荘にとっては曲者なのだ。積雪はないが、路面はカンカンに氷つき、白い粉のような氷の塊は風にサーッと流れて、車から降りるも怖い、テカテカ光る路面の氷道なのだ。以前は普通のチェーンを巻いていたが、林道の走行中に合間、合間に顔を出す氷道の度に1日に5回も6回もチェーンの着脱の作業が面倒で仕方ない。スタッドレスタイヤを履けば済むことだが、毎週、山に行くことはないし、もちろん金もないので、間を取ってゴム製のチェーンを買った。

で、さっそく出かけるに、大通り峠のトンネルを過ぎると、すぐ100メートルくらいの白い氷の道が出てきた。早速、買ったばかりのチェーン装着作業開始。最初なので中々手間がかかる。案の定、しゃがむ僕の冷風に捲れた腰、半ケツを冷たい風が吹き上げる。肩も痛いがそんなこと言っておられない。何度も何度も氷りついた風が吹きまくる、その悪戦苦闘中の僕の真横を、地元のおばさんの運転する軽自動車が横目でさりげなく通り過ぎる。爺さんの運転する軽トラが憐みの顔をしながら、坂を登り行く。スタッドレスのタイヤのコマーシャル、こんなシーンがリアルだと思うけどなぁ。

結果、こんなありさまでは白鳥山に、何時たどり着けるか不明。行きは良くても帰りはもっと怖い。パンパンに膨らんできた右肩、曲がった指先を見ながら、今回は白鳥山は断念、椎原経由で、梅ノ木轟の滝の見学の後は、二本杉から雁俣山の散策ルートに変更することにした。五木村の物産館で原木椎茸を買い込む。(誰も来れないから、美味しい椎茸が山積み) 駐車場で冷たいおにぎりを頬張る。時計を見るともう昼前でないか。この気候の状態で行くと、梅ノ木から二本杉まで向かうの長い登坂は、白く激しく凍結間違いなし。チェーンの作業はあと1回は必ず必要となる。

いったん、梅ノ木轟の吊り橋に着くと、現金なもので「もっと雪が降らないと写真が撮れないではないか」と勝手にわがままを言いだす。とにかく寒い。誰もいない。滝の写真と、霜柱の写真を撮り、帰路に着く。空は曇り、峠までの氷道の入口で予想通り、チェーン装着。繰り返し、吹き上げる冷風。またも半ケツ。腹が急に冷える。峠に着くも雁俣山を散策する体力すでになし。

 

 

もう、自分には昔のような勢いはない。(今から思うと冬場でもぞっとする無謀な行動をしていた。) しかし、今年一年を振り返るに白鳥山には峰越ルートから何度も登ることが出来て楽しかった。国見岳については大雨で登山口までの道路が崩壊し、なかなか登る事が出来なかったのが心残りだが、自分としては登山口まで、林道をうだうだ1時間でも2時間でも、歩くだけでも良かったなと後悔している。

そんな登山 (?) のどこが、楽しいのか?と問われても、そのうだうだ歩きが自分は楽しいだけと、答えるしかない。

2021年を表わす一時が「金」との事。これはオリンピックの「金メダル」の事を指したいらしい、審査員が空気を読んで選んだ一文字だろうが、読みはどう考えても「金 (かね) 」だろう。

最近、過去に受けた頭の手術のせいか、加齢のせいか、とても音に敏感になってきた。音と言うのは、人の言葉でもあり、人の作る雰囲気、空気の事でもある。

僕から言わせれば今年は、「騒」の1年だった。いや「騒」でなくてもいい。「偽」でも、「虚」でもいいではないか。「愚」でも「醜」でも「悪」でも。そんな騒がしい言葉に取り囲まれた1年だった。

オリンピックに反対する人は、オリンピックを見るなと、某国会議員が発言していたが、その議員の言う通り、僕はたまたまニュースで流される報道以外、自分の意思でオリンピックを1秒も見なかった。(だから、オリンピックの1兆円を超す赤字はこの議員が払って欲しい) ※開催の収支決算の公表は開催1年後の来年、夏頃だそうだが、世間様の様子を見て公表するのだろう。もしくは偽証、準備中。

そんな落ち着かない、僕の心の空騒ぎが、五家荘に行くと、山の鳥たちの声、風の音、水のせせらぎで、ぱっと止まり「静」かな時が流れ始める。だから登山口までの1時間だけでも、歩いているだけで楽しいひと時になる。

そのひと時を写真のシャッターで切り取るのが、僕の今の山行なのだ。(もう登山とは言えない) 来年1回目の山は何時頃になるか、楽しみでもある。

2021.11.29

山行

霊感がどうの、守護霊がどうの (熊本市内の事務所の近くにある、某教団から無料の本がしょっちゅう送られてきて迷惑) 信じるタイプではないが、山を歩いていて「何か」を感じる時がある。その「何か」とはその場の磁力かもしれないし、なんらかの波動かも知れない。実際、登山用の磁石は目に見えない力で正確に北を指すのだ。

以前、ヤマメ釣りをしていた頃、いろいろな川を見つけては、道を降り、川に針を落としていた。ある日、某農業高校の分校近くの車道のわきに、車一台通れるくらいの古道を見つけ、川に降りて行った。舗装が途切れた道の先は緑の樹々に覆われた広く薄暗い淵になっていて、ちょうど川がえぐられたように膨らみ、蛇行しているその水たまりのスペースは釣りには恰好の場所だった。

昔の大雨の被害の跡だろうか、橋の欄干の一部が残っていて、この道は川を挟んで集落間の生活の行き来に使われていた形跡がある。淵は苔むし、水の色は深い緑で大きくうねっていた。この淵の深い奥底、岩の影にヤマメは息を潜め、居るはずだと、僕は何度も竿を振りあげ、岩から滑り落ち白く水が泡立つポイントに毛バリを落とした…しかし、うねる流れに乗り白い毛バリがふわふわ流されていくが、いっこうに魚のアタリの気配がない。気配がないどころか川に生気が感じられないのだ。何だか体全体がズーンと重く、気分が悪くなる。何度も何度も、針を落としても上手くいかない。その時は、その場をあきらめ、次の川を探しに坂を戻った。ところが次の休みの日も、僕は同じ場所に呼び戻されたように戻り、同じ場所に立ち竿を川に振りあげた。全然当たりがないのが悔しいのか、その淵に何か誘われた気がしたのだろうか。そして途中、前回と同じように体全体が重く、動きが取れなくなった。その場にいるのも耐えられず、しかし場所を変えるのではなく、重い体を動かし、その川をさかのぼることにした。ヤマメ釣りは本来、釣り上がるのが基本なのだ。ひざ下まで川に浸かり、転がる岩を避けながら上流を目指す。川の水深は浅く、流れは想像以上に早く足をとられそうになる。やはり、全然魚のいる気配がしない。釣りどころではない、早く陸地に上がれそうな場所を探さないと、すでに両岸は荒れた竹林に覆われ這い上がる道も見えない。また、体全体がズーンと鉛を背負うように重くなる。ふと、足元を見ると、水の色は透明で、白くさらさらと流れ、川底の石も手に取るようにくっきり見え、その石の横に細い白い骨が見えた。おそらく猪か鹿の骨なのだろうが…僕の体は驚き、跳ね上がろうにも川の流れに足をとられ、ここがどこだか、更に重く動かなくなって流れにたちすくんだのだ。

ハチケン谷も同じく、谷に向かう途中の林道で、僕の体は重くなる時がある。車に乗っていても同じハンドルが重く、一昨年、何かを感じた時に車の後ろのタイヤがバーストして、完全に動かなくなった。荒れた竹林に覆われた廃屋のトタンふきの屋根を見た時だった。普通、タイヤがパンクするのは落石の尖った先を踏んだ時なのだが、そんな形跡はまったくなく、ナイフで切り裂いたようなタイヤの傷口は側面に10センチほどの長さだった。(レッカー車を呼ぶのにえらい高い費用と時間を要した)。それにもこりず、ハチケン谷に向かうたびに、同じ場所で「何かを感じる」ので、最近はその道を通らず、本線からの分岐の前の空き地に車を停め、景色を眺めながら歩いて谷のゲートに向かう事にしている。

ハチケン谷は川に沿って峠に向かう林道があり、度々の水害でその林道は壊滅状態になった。今春久しぶりに訪れると、その荒地は見事改修され、ほどよい登山道に変身した。切り開かれた林道の左右の新緑の景色を眺めながら坂を登り、峠の近くになると杉林の斜面に山芍薬の姿が見られた。白くまるい、拳くらいの芍薬の花ビラは妖しく瞳のように大きく開き、不思議な空間を作りだしていた。芍薬だけではない、ヒトリシズカや、蘭、山野草が花の蜜の香りとともに、林道のあちこちに咲き誇り、深山の春のひと時を楽しむことができたのだった。

そして、秋のハチケン谷の紅葉の景色も楽しみだと僕は期待した。夏も過ぎると、紅葉の前に「トリカブト」の群生が見られると、山の先輩のフェイスブックにトリカブト独特の花の写真が載り始める。(これらの花は違うルートで山に登り撮影されたものだったのか) 残念ながら、トリカブトの開花時期は逃したが、10月30日、少し早いが山の紅葉の景色だけでも一人楽しもうと思い、僕はハチケン谷の入口のゲートをくぐった。

そこで見たのは、紅葉どころではない、夏の大雨で崩壊され尽くした谷の景色があった。5分も登ったところで、道はなだれうち押し寄せる、丸い大きな岩の塊に埋め尽くされていた。僕の足元には初めて見る黄金色のキノコが傘を開いていた。その色は、この先キケン立ち入るなとの警告だったのかも知れない。

 

 

ふと耳の奥に、「バーン」「バーン」と音が弾き、響いてくる。何の音か?その音は鳴りやまない。遠くをみても道は見たらず、押し寄せる岩と崩落した茶色の山肌しか見えない。思うに、その「バーン」「バーン」と言うのは崖からまだ崩れ落ち続ける岩の音なのだ。不気味に谷のあちこちから音が聞こえてくる。「この先、危険」万が一、その岩がこっちに向かってはじけ飛んできたら逃げようはない。通常の登山道でも、ガレ場を登っていて、足元の小石が崩れ落ち、たとえその石が小さな石でも、次に大きな石に当たり、ガレ場全体が崩落する危険がある。ハチケン谷は大きな岩がはじけ飛んで、僕のあしもとまで押し寄せて来ていたのだ。

過去に山で遭難した時も、闇の中でゴロゴロ、ゴロゴロと岩の転がる音がしていた。川の中で、岩が流れに押されて転がり落ちる音が響いていた。山はそうして、木がなぎ倒され、谷が崩れ、岩がはじけ飛んで形相が変わっていく。

ハチケン谷はキケンだ。シャレを言っている場合ではないぞ。

帰ろうと、振り返り坂を下る途中、僕はコンクリートの苔むした道に足を滑らせ、右肘を強打した。とっさにカメラを守り、肘をつくことでカメラを守った。(最近、病気の後遺症で足元がふらつき平行感覚がつかめない)

そして、ひじをついた足元に「トリカブトの花」を見つけた。こんな時期になっても半分枯れかけた茎に咲く紫の花が三輪…猛毒とも言われる異形の花「トリカブト」が目の前に現れた。僕は痛みとしびれる指先でシャッターを切った。

 

 

2021.11.21

山行

五家荘の自然は山野草、生き物の宝庫と言われるのに情けないが、僕は今もって山野草の名前はともかく、樹木の名前が覚えられない。写真の撮り始めはツユクサを珍しい花と思い、地べたにはいずりながら写真を撮っていた。町の草むらのどこにでも咲いている花で、そんなことも知らないのかと周りからさんざん馬鹿にされていたのだけど、標高800メートルの草地にも咲いているのだから、珍しい花だと信じてなにが悪いと言い返してしまう。これもツユクサ族の生命力の強さ、気候変動の遠因にもよる者なのだ。だいいち可愛いではないか。青い大きな耳を広げ、黄色い目をして口を尖がらせている姿はチャーミング、宇宙人の変身した姿とも感じる。ともかく無知の力、珍しいと思ったらシャッターをどんどん切っていた。

しかし、じっとしている山野草はともかく、生き物にはなかなか出会う事はない。時々、谷でカエルに出会うが、そんな彼らのじっとしている姿もお互い様。じっと見つめあう。こっちが見ていると、相手も見ている気がする。樅木の川で岩の上に這い上がってきたカエルと見つめ合う。最後は相手が根負けして、すごすごと川に落ちたが、落ちた場所が気に入らないらしくまた、岩に這い上がってきた。山で写真を撮っているうちに、彼らとは何か以心伝心、心が通うひと時がある。

そんなこんなで山をうろついていて、蝶に出会うのはうれしいものだ。平家の紋章は黒アゲハ。アゲハは大型の蝶の部類で、春先、偉そうに、あまり逃げもせず、堂々と蜜を吸う姿はなかなかたいしたものだ。何しろ自分の姿が五家荘の家紋なのだから。

蝶たちは決まった場所に行けば必ず会えると決まったわけではない。そんななかで、今話題の「アサギマダラ」はそれなりに居そうな場所が分かる。「そんなの時期」に「あんな場所」に行くと出会う確率が高いとしり車を走らせる時は、本当にわくわくする。

そのつもりで、今年の夏は2度も3度も出かけたが、全部、雨。見かけたとしても頭上はるか上。ネットで見るに、アサギマダラは上昇気流に乗るすべを持ち、あっという間にはるか山の上を舞い上がり、また、遠くへ滑り落ちて、何千キロも旅をするのだ。日本列島、東北から台湾まで。海の渡り方も同様で気流に乗り、滑り落ちる。漁師さんの証言では、波間に漂うアサギマダラを手に取ろうとすると、また空へ飛び立ったそうだ。

漂流しながら体を休めているらしい。時には岸から陸地に這い上がる姿も目撃されている。彼ら彼女らはいったい何が目的でそんな旅をするのだろうか。生き物は自分の種を残すためにいろいろな行動をするわけで、旅する行為が「アサギマダラ族」の生き延びる知恵なのだ。以前、僕はアサギマダラに会うにはは隣町の某所に行けば会えることを知った。標高1500メートルから隣町の標高10メートルもしない場所へ。蝶の道がある。更に、天草の半島の某所でも乱舞する場所を知った。天草灘の向こうは、台湾なのだ。

今年会えたのは夏の終わりどころか、秋の始め10月3日。その日もあきらめて帰路につくとき、車の上をよぎる影。即座に車を停めると、一羽、小さな滝のわきに咲く花の蜜を吸いに現れた。

そして僕の為に、ジーッとしてくれたのだ。僕は少し興奮しながらシャッターを切った。

自慢ではないが、カエルと同じ、以心伝心、何か気持ちが通い合う一瞬なのだ。

数キロ離れた隣町で会うのではなく、僕は五家荘で彼ら彼女に会いたいのだ。行きかえりにラジオで「子供科学電話相談」を聞く時があるが、何だか最近、子供たちの質問もつまらないし、先生の答えもつまらない。小賢しい質問はスマホで検索すればいい。子供がわざわざ聞きたいのは、「どうして生き物は生きているの?」「なんで僕はここにいるの?」という根源的な疑問があるからなのだろう。そこのところを共有しないと面白くない。アサギマダラの行動は研究でいつか明らかになるだろうが、実際、言語が通じないお互い同士、細胞レベルまで調べたとしてもお互い、何を考えているのかわからないではないかと思う。

数年前、電話相談室で「人間死んだらどうなるの?」「こころはどこにあるの?」という久々によい質問があったが、その問いに答える事が出来そうなのは、研究者の中には、もちろん誰もいなかった。脳の構造がどうの説明しだした脳学者もいたが、無味だった。

そうして10月も終わり、熊本市内の事務所の近くの公園で、僕は足を止めた。僕の足の前には、羽が破れた蝶の死骸があった。アサギマダラだった。

五家荘であった一羽が会いに来てくれたのだ。そう信じて何もおかしくはない。その姿をスマホで写真を撮り、僕は胸に収めた。

2021.11.09

文化

「先生」とは五家荘図鑑の雑文録に出てくるN先生のこと。N先生は五家荘の自然、文化、歴史研究の第一人者で、これまでにたくさんの研究書や文献を発行されて来た。はるか40年以上前、僕が通っていた田舎の高校の山岳部の顧問で、その当時から熊本の高校山岳界では怖れられている存在だった。(こんなこと書くと、次回会う時は殴られるかもしれない)…ちょうど4年ほど前、地域の観光振興のお手伝いで、「五家荘の山」という冊子の制作をお手伝いすることになった。五家荘の山は、九州100名山の中に10座も選ばれているという事で、その10座を踏破し(途中、遭難もしたけど…)なんとか、五家荘の山々や自然を紹介する冊子を仕上げる事ができた。冊子の完成前にN先生にも挨拶するのがスジと、それこそ30年ぶりくらいに僕は先生の家の門をたたいた。先生はとうに僕のことは忘れていても五家荘への熱意は変わらず、雑文録にあるように、僕に山への熱意を語られた。

「五家荘の山」の編集と並行し、「五家荘図鑑」の大まかな編集もスタートしていて、本の中の雑文録にN先生のことも書かせていただいた。その後、僕はクモ膜下を発症。悪運強く数か月後に社会復帰、まだ額の穴がふさがらないまま、先生に先に完成した「五家荘の山」を手渡した。

それから数か月後、「極私的五家荘図鑑」が完成。しかし後遺症が出て車の運転が2年間禁止となり、ようやく運転の許可が出たので9月に先生に届けに行ったのだ。ちょうど不在で奥さんに本を預かってもらったが、その翌週ようやく先生に会えた。

もちろん先生は雑文録も読まれていて、玄関先でいきなり叱られてしまった。その内容は先生の誤読によるもので、まったく僕の書いている内容とは正反対のことでもあったのだが、高校以来、先生からの雨あられのような、怒りの言葉を浴びているうちに、反論する気もうせ、ただただ玄関先に立ち尽くすだけだった…まるで言葉のサンドバック…(なんだか気持ち良くなるもんだなぁ)…その誤読の内容については語るまい。

先生は元生徒の心底に棲む「いい加減さ」を見抜き、攻撃してこられた…いゃ、このこともこの場で書く気もしないので書くまい。

ただ、「ヒトの話をよく聞け」と何度も言われた。まずは地元に出向き、地元の人の話をよく聞けと。これは民俗学のイロハのことだろう。そのことで何かが得るものがあり、その積み重ねが成果となるのだろう。軽々しい僕の文章は「なぁんも、地元の人の話を聞いとらんたいっ!」てな、ことになるのだ。(だから極私的なんだけど…)

そして、石楠花越(しゃくなんごし)の話になる。石楠花越しという地名の本当の呼び名は「百難越し」という。石楠花が咲く越(峠)のことではない。「よかかい、山の人にとって、峠を越えることはなんでンなか、普通の峠越えなんて、屁でもなか。片足とびでもぴょん、ぴょん、超えていきよる。そんだけ、山ん人は強かったい。そがん強か人が、あの峠だけは「百難(ひゃくなん)」…ものすごいきつか峠越えて言いよる。五家荘の中で「ひゃくなん」越していう峠は、ここしかなかと。

その意味は、久連子(くれこ)集落※に不幸のあったときに、若い衆が、峠の向こうの水上村からぼんさんも連れて、抱え上げて、荷物も一緒に葬儀に間に合うように峠ばこえないかん事情があったとたい。帰りは帰りで土産ば持たせないかん。

「なんでん書くのはあんたの勝手、自由だが、その前になんで俺に原稿ば見せんとか、間違った情報があるかもしれんたい…」(書くのは勝手に書けと言いながら、先に原稿を見せろって…先生…)

もともと性格に「百難あり」の自分で、先生、僕はどうしても人と話ができないのです…嗚呼、五家荘の山に入るのがあと10年早ければ。今の、五家荘も他の地域と同様、過疎化、風化が進んで話を聞くにも、なかなか人と出会えないのが現実なのです。

正直に言うと、「極私的五家荘図鑑」に書いた文化や歴史の内容は先生がまとめた書物がルーツで、地元の話を聞く機会が少なくなった今、その本の追体験をしているわけなのだ。

悪運の強い僕なのだ。たまたま市内の古書店「汽水社」をのぞいた帰りに、向かいの古書店に立ち寄り、郷土史の下の棚に五家荘関連の書物が、きちんと肩をそろえて並んでいるのが目についた。まるで僕が来るのを待っているかのように。「泉村誌」「泉村の自然」「五家荘森の文化」…と並んで、「秘境五家荘の伝説」(山本文蔵著)と、あと一冊。

「秘境五家荘の伝説」は昭和44年初版。当時に伝承された伝説や、平家の家系図などが詳しく紹介されている。その中に久連子の事も。

※久連子集落…久連子集落に残る五家荘に残る唯一の寺院が正覚寺。この寺院には平家代々の24名の位牌が保存されている。久連子の人口過剰により他に居住した門徒は今なお正覚寺と交流をしている。水上村15戸、五木村・梶原37戸、入鴨3戸…現在、正覚寺の住職がこの地に赴いている。

先生の言う通り、久連子の若い衆は不幸があると百難越を超え、水上村、五木村の門徒を故郷久連子まで連れ帰り、法事に案内する義務があったのだろう。令和の今、すでに正覚寺は建物だけが残っている。

79歳になられた先生は今も悔しそうに僕に語る。「あんとき、正覚寺の過去帳を見せてくれとお願いしたが、どうしても見せてくれんだった…。」

2021.10.20

山行

昨日、久しぶりに五家荘の山の先輩、守護神、Oさんからメッセージが届いた。最近雑文録を更新しないので、どうしていますか?と聞いてこられた。前回の雑文録の内容が少し、危ない内容だったので心配していただいたのかもしれない。ありがたいことであります。

確かに夏は暑いし、その暑さと景気の悪さのせいで、僕の頭は危うくなっていた。ここ数年、脳内で「般若心経」を解毒する活動を密かに行い「般若心経」とやらの解説書で小銭を稼ごうとしている輩の本を読破、放り投げ、「色即是空、空即是色」の意味を自分なりに理解したのはある夏の夜明け、窓の外が、限りなく透明に近いブルーに染まる朝だった。僕は身体を起こしはたと膝をたたき、膝の上でまどろんでいる飼い猫の寛太を放り投げ、手のひらを嚙まれてしまった。寛太は爪でひっかかずに、噛むから「寛太」と言う…つまり、大勢の猫に囲まれて僕は「般ニャー心経」の大義を会得したのだった。

この意味は大きい。この大義を会得するには五家荘の森の奥の迷走…いゃ、瞑想が必要なのだ。「色即是空、空即是色」…すなわち「ガラスのコップ理論」…いや誰にも分らなくていい…自分に分かりさえすれば、仏の教えなんてのは、つまりそんなものなのだ。

そういう、暑さと思い込みと、気圧の急変でオーバーヒートした頭を冷やすには水に浸かるしかない。60を過ぎてもなお僕は夏に1回は海に浸かっていた。僕は60数年前、海を前にした小さな集落で生まれ育った。田舎が嫌で高校卒業と同時に家を御出て、数か月、帰省時にローカル線の無人駅に立った時、僕は生臭い、潮の香を感じた。残念ながらそれ以降、何度も駅のホームに立ったけど、その時の潮の香を感じたことはない。その香は、僕の体の中をくすぐる、自然の生きる力というか、体の芯を揺する波長のような力だった。それから僕は毎年、泳ぎに行かなくても、一度は海か川に浸かり、自然の力で身を洗うことを儀式としていた。つい数年前まで近くの海水浴場で、ライフジャケットを着てプカンと波間に漂っては夏の終わりを懐かしんだ。

そして今年は海には行かず、五家荘の川に浸かることにした。浸かりに行ったのは9月の20日。9月の末に五家荘の川のヤマメ釣りは禁漁となる。僕は山に登る前はヤマメ釣りをしていて、当時は五家荘の川のローラー作戦を実行していた。目を皿のようにして、ヤマメ君が居そうな川を見ると車を停め…たいがいヤマメが居る川にはこっそり、瀬に降りる小道があり、ビールの空き缶があり、一升瓶が転がっている…そんな川を見つけては、竿を出し道具を抱えて、小枝に行く手を阻まれながらも、降りて一日、釣れない日々を過ごすのだった。

今は、釣り竿の代わりに、カメラと三脚をからげ、木にぶら下がりながら、はいつくばりながら瀬に降りて川の写真を撮っている。20日は行けども行けども、先客がいて好きに川には降りれなかったが、前から目を付けていた、ある大きな川の橋の下に降りた。さすがに川幅は広いし大きな岩もゴロゴロしていて景色に変化がある。奥の茂みには朝日が差し込み樹々の間から、光の線が降り注いでいる。緑の淵の下にはヤマメ君も身を潜めているだろう…しかし、川の水の流れが相当強い。ウェーダーを着て腰まで浸かり、大きい方の三脚を背にからい、川の真ん中に三脚を立てるがビンビン、川の流れの圧力がかかる。もう少し前にもう少し…透き通る足下の砂のすり鉢状のくぼみに、自分の足がずぶずぶ沈み始める…体が斜めになる…危ない…この川の景色を撮るには、川の水量が減り、樹々に光が当たるためには、もう少し川幅が広い方がいい、陽があたらないと景色がぼける‥‥当然、自然は僕の都合のいいような景色に変身してくれるわけでなし、自分が目の前の自然に合わせて写真を撮るしかないのだ、とその日はあきらめて撮れたのは1枚だけ。釣りをしたとしても、僕の実力はせいぜい1匹だけなのだけど。(苦笑)

その後、他の川も徘徊したが何か気が合わずに断念。怪しいキノコ2本写真に撮って、昼から昔からの友人、五家荘の通訳H氏の家にアポなし訪問した。運よくH氏は在宅中で、二人、久しぶりに五家荘談議に時間を費やした。氏はもともと観光協会の仕事をしていて、今は外国からの観光客相手に観光ガイドと通訳を行っている。氏はすでに五家荘の住人であり、僕のような適当な来客者ではない。森の奥から転げ落ちた屈強巨大な、ひげの生えたようなどんぐり然とした風貌をしていて、そんな氏が英語をペラペラしゃべるのも海の向こうの観光客からすれば土着感があっていいのだろう。そんな男が五家荘の未来について熱く語るのだ。

五家荘の未来は、地区に住む子供たちの未来のことでもある。氏はこれまでの観光協会での経験も深いし、地元民の考えを無視した予算消化の為だけのイベントを否定する。(行政のイベントは、今も予算消化の為だけ…一過性のものではないか)

つまり「地域おこしって何?」という定義から議論しないと、何をやっても根付かないのだろう。

僕の案としては、11月の紅葉の時期に、五家荘に五か所、地元のおにぎりと漬物の紅葉弁当を作り販売するアイデァというものだ。日本杉の東山本店、緒方家、左座家、吊り橋のたもと…おしゃれでなくてもいい。素朴な田舎の紅葉弁当。その包み紙には観光案内などを使う。五家荘は飲食店はほとんどないし、あったとしても受け入れることが出来るの人数には限界がある。おにぎりはもちろん僕が握るのではない。地元の有志が一堂に握り、語り合うのだ。弁当にはみんなの手紙や、紅葉した葉を、しおりにしてサービスする。何も宣伝なんかしなくていい。遠路来た人に販売するだけでいいのだ。弁当が売れた数で五家荘のファンの数もつかめる。紅葉弁当がうまくいけば、春には新緑弁当も販売する。たかが弁当というなかれ。

今年は川に浸かりに行って良かった。もうあの頃の潮の香りを嗅げないことは分かっているのだ。H氏も久しぶりに五家荘について語ることが出来て嬉しかったようで、またふらりと、寄らせてもらおうと思った。氏には五家荘の川の秘密の撮影ポイントを教えようかとも思う。

すべては般ニャ―心経、「ガラスのコップ理論」に帰結するなり。

2021.09.21

山行

今年の夏はあっという間に消えてしまった。8月、お盆前後の長雨は激しく山を荒らし、登山どころではなくなった。五家荘の盟主、国見岳も登山口までの林道が崩落し、登るに登れなくなった。(最近の僕は山を登るのではなく、ただ歩くだけが多い)

それでも、8月の終わりに見ておきたい花が一株あった。それは白鳥山の某所で数年前に見た大きなギボウシの花で、苔むした大木の大きな枝のわきから、「すうぅーっ」と長く伸びた茎の先に白く開く大きな花びらと、長い雄しべの茎と、涙を落としそうな1本の長いめしべの姿だった。ギボウシは街中にも咲く花でたくさんの種類があるようだけど、五家荘のギボウシは違った。同じ花でも野生化するとこうも違うものかと、初めて見た時は驚いた。

今年の夏は陶芸家の平木師匠に焼いてもらった「森の雫」というオブジェを森の中で撮影し、極私的美術展を開催し、自己満足するという計画があったのだけど、すでにあきらめた。

暗い緑の世界の中で、雫型のオブジェがどんな景色を映すのか、真ん中の穴の奥には何が見えるのか。こればかりはやってみないと分からない。しかし、その雫を背負って谷を登るのは一人ではなかなか大変なので、お盆に里帰りする娘をだまくらかして撮影する予定だったが、その動きは娘に察知されコロナを言い訳に彼女は帰省しなかった。そんなバカの一行がうろうろされたら、森の生き物たちにとってはいい迷惑なんだろうけど。

何とか29日は、朝から晴れたので思い切って車を走らせた。時には、山犬切や、他の山にも行くと何か発見があるかもしれないと思いつつも、つい白鳥山に向かい、緑の谷を遡るのだ。大雨の後、谷の形相も変わり、お目当てのギボウシの姿はなかった。もう会えないかもしれない。キレンゲショウマの花もすでに散った後だった。

その日の目的はそれだけで、特に山頂を目指すわけでなく、コンビニの弁当を開き、岩の上に腰かけ、森の空気を吸った。

街中では、息を吸うこと自体が、コロナと言う「毒を吸い、毒を吐く」行為となるのだろうが、森の中は違う。自分にまとわりついた毒を森の空気で浄化するような気分になる。

弁当を食べ終わり、木の上に座り、背筋を伸ばし、瞑想する。

森の空気を吸い、体を通し、また吐く。鳥の声がする。小川の流れる音がする。頭の上を気流が流れる。けものの気配を感じるが、誰もいない。鹿の警告音が時に響く。

森はいい、自然はいい…と思うが、都合のいい時だけのこのこやってきて、自然が良いと思うなかれ。大雨も自然、大風も自然、夜の深い闇も自然だ。自然は怖い。得体が知れない。夜も眠れない。風がうるさい。誰も居ない。いつ夜が明ける?誰かがやってくる。せっかく瞑想しながら、最後はそんな興ざめな事を考え始める。自然を全部、受け止めようとすると、畏れしか残らない。瞑想だの何の、どこかで聞いたようなことするから、気持ちが悪いのだ。

 

えーぃ、土の上に寝っ転がってみる。自分の勝手だ。

背中がぬくい。それだけでいいではないか。

そう思って、また寝返りをうつ。

2021.08.19

山行

8月7日にコロナワクチン1回目を接種した。事前に何か悪い予感がしていたのだけど、その予感が的中した。田舎の小さな町だから、接種会場に行くと知り合いばかりだった。中にはサポート役の人まで同じ町内の人で忙しく立ち回っていた。ワクチンの情報として僕の友人の半分に副反応が出た。40度近い熱が連続して出たとか、肩が数日上がらないくらい痛いとかいう人が多かったので、何だか嫌な予感がしていた。いよいよ自分の番、左肩に注射を打ってもらいその場で15分程度待機となり、その後、次の予約を確認するために椅子の列に並んだ。数分後、僕の体に異変が起きた。脳の中の血管がジーンと鈍く震え始めるのが分かり、体が硬くなる。これはいかんと看護師さんを呼び、別室で両足を上げ(意味不明)横になった。血圧が150を超えていた。お医者さん、看護師さん曰く「緊張されたのでしょう」とのことだったが、僕の普段の血圧は100前後なのだ。薬で抑えているのだけど。それがわずか15分で1.5倍の150を超えると、それはマズいでしょう、看護師さんと思った。車を運転していなくて良かった。幸い血圧が元に戻り帰宅、昼食。それにしてもなんだか左肩が硬く痛い。

 

そして夜。ふと、右の額に手をやると、ふっくら「たんこぶ」が!手のひらに包まるくらいの丸いたんこぶが出ていた。3年前にクモ膜下の開頭手術で開けた右の額の頭蓋骨の穴の上に、ぷくんとふくらみが出たのだ。この「たんこぶ」が出るのは年に2回程度。自転車を無理して漕いだり、忘年会で、大声で会話した夜に、彼は静かにやってくるのだ。素人考えだけど、一時的に脳の血管の血圧が高まり、脳の髄液が押し出され、骨のすきまから漏れ出し、皮膚にたんこぶを出すのだろう。この推理は脳外科の先生に話したが、先生は否定も肯定もしなかった。要するに原因不明との事。いちいちたんこぶくらいで開頭し、脳の血管を1本1本ピンセットでつまんで調べるリスクは誰も背負いたくない。間違って神経に傷が入ったら、どうなるか…そのたんこぶの髄液を抜くのも超危険だし、間違って脳内に細菌がはいったらとんでもない…まぁ原因不明で様子を見ましょう…何かもっと重大な危険が起こるまで、お互い様てな事なのだ。久しぶりの脳の膨らみを何度もさすりながら…これからどうなるか、いつものようにひっこめばいいが、どんどん膨らんだらどうなるか…夜中の薄暗がりの中で忍び寄る恐怖…。

 

翌朝、なんとか「たんこぶ」はお利口さんにも脳に帰っていった、ひとまず安心。※この体験は事実だが、こんな事象は僕のような、体質、極めて珍しい原因不明の症状の持ち主だからこそ語れる事であり。ほとんどの人に当てはまるわけではない。当然、何もない健康体の人であれば、100%僕はワクチンの接種をお勧めします。

 

翌8日は、地区のお宮の掃除となった、たんこぶくらいで地区の行事を休むわけにはいかない。蚊に刺されまくりながらも、朝8時から全員集合。鎌で枯れた草を刈り、集め捨てる‥‥前日、ワクチン接種で合わせたメンバーが心配してくれている。顔をひきつらせながら無事を装い、掃除に精を出し帰宅しシャワーを浴びる。さっさと早く寝る。

 

9日は祝日で、いつもの山に山野草の写真を山に撮りに行く。天気予報は雨のち曇り。台風前に撮るなら「今」しかない。五家荘の山野草の開花の時期は短い、キレンゲショウマ、ソバナ…、片道3時間の強行軍だ。峠では猛烈な風雨にやられる。“うわん、うわん”と暴風雨が吹き荒れる。樹々がそのリズムでたわみ、飛び散った葉や、木の枝が道に吹き散らかされる。これは持久戦じゃい。昼過ぎに、スッと雨風が止む。サッとカメラにタオルを巻き、花に近づく。雨に濡れ、杉木木立に、うつむく黄色いキレンゲの花とつぼみ。蜂が蜜を吸おうと、つぼみに忍び寄る。運よく、写真が数枚撮れる。奇遇にも自分の脳内のような、幾重にも小さな花が弾け、広がり白い花火を打ち上げたような、ぼんやりしたような、ふわりとした花(名前は忘れた)の重なりのアップが撮れた。またしばらくすると暴風雨。帰りにソバナに近づくと風が吹き止まない。雨に濡れた紫色の薄いガラスのような花弁が大きく首を振る。

 

「撮るなら今しかない」と言うのは「たんこぶ」のせいでもある。後遺症で右手の指先が少し震え、目もかすみ、写真のピントも合わない。①これは下手な写真撮る人が体調の悪さを理由にする言い訳の一つ。ただ、水平の感覚がおかしいのは間違いない。何度撮っても水平感覚が傾いて、右か左に傾くのだ。おまけに風で花弁が揺れて、揺れて…②これも下手な写真を自然のせいにする言い訳の二つ目。

 

まぁいい。誰かに褒めてもらいたくてシャッターを押すわけではないのだから。③これが最後。下手な写真撮る者の最後の開き直り。

 

逆にどれだけ上手いと評価されても、自分の気に入らない写真は写真。そんな写真を調子に乗って人前にさらすことは、みっともない。‥‥が、そんなこと言っていたら僕の写真は1枚もこうして五家荘図鑑に出せなくなるではないか!

 

震える指先でシャッターを押せば押すほど、何だか、シャッターを押す右手のひとさし指の先だけ取り残され、体が透明になってくる不思議な感覚がしてくる…吹く風が、体を通り抜けていく。

 

もちろん、8月28日予定の2回目のワクチンはキャンセルした。同じことが起こる可能性は高いし、短期間で「たんこぶ」が2度出る経験はこれまで受けたことがない。「たんこぶ」のことで頭がいっぱいになるより、山野草や、山の歴史のことで頭がいっぱいなる方が僕には幸せなのだ。

 

2021.07.28

山行

僕が五家荘で一番好きな山と言えば、白鳥山。(標高1638m)

登れば登るほど好きになる山と言ってもいいくらい。以前、乗っていた車(トヨタ・フィルダー)の名も車体が白で、自分では「シラトリゴウ」と呼んでいた。優雅な名前の割には、すり傷とへこみだらけだったけど…。

白鳥山の魅力は残された自然と、山にまつわる哀しい歴史にある。山麓一帯は、ブナなどの自然林に囲まれ、谷から川筋を登るもよし、峰越(峠)から尾根伝いに歩くも良し、登山道に入ると、いきなり濃い白鳥ワールドに踏み入ることになる。

四季折々、いろいろな植物、苔の世界が待っていて、いつ訪れても何かの発見や出会いがある。あまり成果がない時は、少し脇道にそれ、苔むした巨木の後ろに回ると、森は違う表情を見せてくれる。僕にとっては宝さがし。

敢えて山に登らなくても、古書をたどると、山にまつわる哀しい歴史に足元をとられることになる。五家荘の山々には古道が存在し、昔は行き来のあった作業道や集落をつなぐ道も、人が途絶えると草に覆われ姿を消してしまっているけど、歴史を調べると消えた道もよみがえる時がある。

白鳥山は尾根を通る道は踏み後もしっかりして、それだけ、長い時間、踏みしめられた道でもある。歩く道の下には落ち葉とともに、古人の生活の足跡がいくつもの層のように積み重なり合っている。

峰越は宮崎県との県境であり、北に下ると宮崎県の椎葉村の領域になる。峠から烏帽子岳に向かい山道を少し歩いた場所に「ぼんさん峠」があり、五家荘の樅木に不幸があると、村の若い衆が椎葉村から「ぼんさん」を背負って、着替えやらなにやら一式とともに葬儀に間に合うために通ったと言われる峠が存在する。それほど五家荘と椎葉村との関係は深いそうなのだ。

白鳥山の別名は御池(みいけ)さん。山頂前の湿地帯の以前の姿は池で、雨乞いの神聖な場所だった。白鳥神社も存在したそうで、その時期と同じ時期かどうかは分からないけど、平家の落人が住んでいたという伝説も残っている。

御池の周辺は、ぼやぼやしていると、時に天候も急変、踏み固められた山道もあたり一帯ガスがかかり、白いモヤに一気に包まれる時がある。ここで焦りは禁物、じっとしているのが一番、焦るあまり、幾重にもつけられた踏み後を進むと、迷った挙句にまた迷い自分の位置も方角も分からなくなる。冷たいガスに体温も奪われ、真夏でもヒンヤリ肌寒い。

前回の山行も(僕は結構な雨男…)小雨が降りだし、ガスに変わり、体温を保つために体を丸くしてうずくまる目の先、その先には白いモヤの中を、人の形のような薄暗い影たちが歩き始める幻を見た。気が付くとさっきまで「ケンケン」とかん高い警告音を鳴らしていた鹿の声も、おしゃべりな鳥たちの鳴き声も途絶え、頭上を気流のゴーッ、ゴーッという声か通り過ぎる。両手を広げ叫ぶ人影、地べたにうずくまる人影、倒れた像が這い上がる…モヤが消え去ると、その影の正体は、苔生す枯れ木の姿であったり、倒木の編まれた網のような根の塊にすぎないのだけど。そういった景色の中で雨乞いの儀式が行われていた姿を想像すると時空を超えて、森は僕をますます謎めいた気分にさせてくれるのだ。

白鳥山は五家荘の発祥の地とも言える。泉村誌によれば、追っ手を避け、白鳥山にたどりついた平家の落人はこれから生きるための祈りをささげた時に、一羽の白鳥が飛来して、足元に5枚の羽根を落としていった。これを彼らは神の加護と思い、この羽で五本の矢を作り人が棲めそうな方角に矢を放った。一の矢が樅の木にささりその場を「樅木」と名付け『白鳥神社』を祀って住むことにし、二の矢は、ニタ摺りをしているイノシシの尾に当たり、これはめでたいとその地を「仁田尾」、三の矢は行方不明、樅木と仁田尾の間でそれぞれの地を出し合い繋いで「葉木」、四の矢も行方不明…子孫が幾久しく暮らせる願いを込め「久連子」、第五の矢は椎の木に当たり「椎原」となづけられたといういわれがある。第二の矢までが「それなりの言い伝え」として理解できるけど、残りの矢が行方不明とは、嘘っぽくなくて面白い。いくらあいまいでも、確かに五本の矢の言い伝え通り、五家荘には五の地域が確かに存在している。

ところがこの言い伝えも、尾根の反対側の宮崎の椎葉村の言い伝えでは真逆の内容になる。

追っ手を逃れた平家の残党が御池の周辺で陣地を張っていた時に、山頂付近の石灰岩(白い巨石群がある…)の白い姿を源氏の白旗と見誤り、もう逃げられないと自刃したとの言い伝えが残り、なんと同じ山頂でも、消滅と再生、真逆の伝説があるという不思議な地なのだ。

壇ノ浦の戦いは、平安時代末期、1185年の戦闘。栄華を誇った平家が滅亡に至った最後の戦いで、その残党が九州の山地を転戦したどり着いたのが九州山地の真ん中、椎葉村、五家荘のエリア、すでにその戦いから900年近くの長い月日が経っていて、その打ち寄せる時間の中で、洗い出され、残されたのが落人伝説なのだし、それが残るには何らかの理由がある。黙して語らぬ山の神さんはその真相すべてを知っているのだろうけど。

僕は素人ながら、五家荘の平家伝説のモデルは平家の落人伝説と、椎葉山一揆の残党、生き延びた人の伝説との合作ではないかと推察している。そもそも椎葉地区には平家の残党が生き残り集落を形成し、平和な暮らしを営んでいたのを、豊臣秀吉へ見栄を張るために当時の山の主たちが内輪もめ、結果、政府から討伐の命令が下り、椎葉山一揆(1619年)…山で平和に暮らしていた人々は皆殺し、悲しい結果となる。その人々の残党が必死に白鳥山に逃げ延び、身を潜めて暮らしていたのではないかと思ったりする。山一揆で生き延びた人たちが、生きるすべとして敢えて、平家の残党と名のったのかもしれない。

椎葉山一揆は今から500年前、事の顛末は、幕府側の資料としてきちんと記されている。一揆後は幕府の天領となってその後人吉の相良藩に預けられた。こうして資料を読んだりしていると白鳥山の名前がなんと切なくも感じられてしまう。何しろ皆殺しなのだから。白い羽が多くの人の流す血で赤く染まったり、侍の刃で倒された山人たちの屍の周りには芍薬の白い花が、乱れ咲いている景色もあったろうし、御池の暗いよどみも、よけい深く感じてしまう。奇しくも五家荘も別の理由で天領となり幕府が管理するという同じ運命を背負った。

樅木から峰越、椎葉村への林道は1986年に5年掛けで開通した林道で、その道のおかげで、白鳥山へはすぐにでも入ることができるようになった。開通に際しては樅木、椎葉地区の住人の喜びようは大変だったようで、ネットの検索にはいろいろな交流イベントが開催されていた。(ぼんさん峠も不要になった)林道はつまり、林業の為の道路でもあり、残念な事と言えば、白鳥山の宮崎県側は自然林が伐採され、杉林に変わり、結構なスペースの自然は消滅してしまった。

今から何百年も前の話、どう思おうが、その人の自由、感じ方次第。今年も雨でも数回、白鳥山に出かけ、散々な目にも遭ったがそれも僕の自由でもある。馬鹿は治らない。

昔の白鳥号はどんどん優雅に(!)急な坂を登ってくれたけど、いまのパジェロミニ(車体の色は黒…愛称、クロちゃん)はさすがに、坂をうんうんあえいで登る。雨が降っても下手にワイパーのスイッチは入れられない…前回、原因不明の故障で止まらなくなった…おまけで付いているカーナビも相当怪しく、時に場違いな山鹿の地図が表示されるし、ピンポンと音が鳴り、驚いたのは、峰越に着いたとたん、「まもなく、踏切です…用心してください」と助言してくれた。ここは峠だよ黒ちゃん!

電波が混線しているのか、つまり、そんな黒ちゃんを運転する僕の脳も相当混線しているらしく、この前は本当に、キリに包まれ座り込み、御池を前にカメラを構え撮った一枚に、僕の脳は何かを感じ、そのあとしばし、動けなくなったのだった。

 

 

2021.06.27

山行

終活とか断捨離とか…変な名前つけなくてもいい。いかにも人の老いを商品化しているみたいで(よく、そんなタイトルのセミナーでお客を集めて、保険の勧誘とかリフォームの勧誘リストに使ってそうで気味が悪い)、日本全国、言葉が軽い。

単純に考えて、遠くに住む娘らが、僕の遺品の後始末に困らないように、ちょいと荷物を整理する行為だけなのに…「終活」より僕には「店じまい」とう言葉の方がしっくりくる。

カビだらけのレコードなんて捨てるしかないではないか (苦笑)。まず迷惑なのは家人だろうし、少しクセのあるレコードは、クセのある人に渡したい。昔のフォーク、ジャズなど、すでにCDで復刻盤が出ているものはレコードで保管の必要はないし、若かりし頃に聞いたフォーク、ジャズ、ロックなんやかや。押入れの奥にしまっていた段ボールの中を整理し売りに行くことにした。

売りに行くのは、熊本市内上通りの古書店「汽水社」さん。ここの主とは奇遇にも縁があった。主は東京で古書店の修行をしていて、西荻で上上堂という古書店をしている友人丸ちゃんの、友人の友人なのだ。汽水社さんはここ数年前に出来た店で、熊本には珍しい垢ぬけて店内も広い。品揃えも僕の趣味に合うし、レコードも販売されている。要するにこの人ならすべてお任せと信じている。価値の分かる店に売り、価値の分かる人に古書をつないで欲しい。以前、まともに読みはしなかった「辻潤全集」を買い取ってもらった。

今回はレコードだけど、まぁ数枚珍しいのを入れていたので、買取額は2万近くになった。なんでも鑑定団のように、買取の理由を丁寧に説明してくれた。自宅から2時間近く。家人にも持ち込みを手伝ってもらったが、ふと、帰り際に本棚から僕の探していた「泉村の自然(1993年発行)」を発見した。これは掘り出し物、まさかサブカル!の書店の棚に収まっているなんて!

「泉村の自然」は3部構成になっていて、図書館には緑の表紙の本編しか置いてない。実は、別に資料編と称した目録と、封筒に入った地質図、現存植生図、概念図が付いている。価格は新品同様で5000円だった。本編には植物、動物、生物の資料が詳細に記録してあり、これ一冊で五家荘の自然をまとめた博物誌なのだ。更にしばらくして、今度は「泉村誌(2005年発行)」が汽水社さんから「見つかりましたよ~(いつもの事務的な声)」と連絡があったのだ。(また新品だった)泉村誌はそのまま、村の歴史や伝承された文化がびっしり詰め込まれている。値段は4000円(安い!)

熊本県立図書館にはもちろん県内の村誌、町史などがびっしり置いてある。しかし何度眺めてみても「泉村誌」はその内容の濃さからしたら一番だ。五家荘の山と同じで本の中に迷い込んだら彷徨しかない。僕のカビ生えたレコードがあっという間に、長年探していた本に変身した。

今年の梅雨入りは例年より早く、なかなか山にも入りにくい時が続いた。それでも強烈に晴れ男を自称する僕は天気予報が雨でも2度ほど、谷に入った。(もちろん雨に追い出された)

それでも景気つけに(何の景気つけやねん)…泉村の自然の本の中の蝶や虫たちを眺めていると、誰かに出会えそうでわくわくするのだ。泉村の自然の発行は1993年、今から28年前の自然を記録したもので、当然、当時の自然と今では大きな違いがある。もちろん、山を訪れる人間にも大きな変化があるに違いない。「泉村の自然」のおかげで、これまでは山野草ばかりに目が行っていたが、ここ数回の山行では、虫の気配を探すようになった。

県内で一番自然の豊かな地域は「五家荘」と言っても過言ではない。大雨、日照り…こればかりは人の力ですぐにどうのできないのは分かり切ったこと。五家荘の自然について、今のところ、人の出来ることは「何もしない」ことなのだと思う。

最近では「地球に優しい」とか「自然に優しい」とか、「太陽の畑 (熊本の某化粧品会社…)」とか虚言を吐き、豊かな雑木林を取り崩し、果てしなく平らに整地して生き物を追い出し、太陽光パネルを貼る事業が、雨のたびに土壌が流され周りの自然を破壊している事件がようやく報道されてきた。最近流行の「sdgs」とかいう虚言も同じ発想で、レジ袋ばかり言いながら、肝心のペットボトルや自販機の電気消費については一切言わない、言わせない嫌な言葉が蔓延してきた。

2012年の日本蝶類保全協会の図鑑には日本に土着している蝶の種類は約240種、環境省のレッドリストに載っているのはなんと69種。蝶の約29%が絶滅の危機とか。この図鑑も古書でその10年後の今、蝶の種類は更に減っているのだろう。

嗚呼、店じまい近いわが身。雨も楽し、雨に濡れるも楽し、五家荘。

 

2021.06.07

山行

五家荘図鑑と言う、誰も見やしない秘境のような個人のサイトの、更なる奥の誰も読みやしない雑文録と言う秘境ブログに、こんな残念な話を記録しておかなければならない。

花の窃盗団どもよ、我が雑文録に永遠に記録される、これは名誉な事だぞよ。このサイトが閉じられるまで、君らの記録も永遠に地球のネット上をさまようことになる。

前回の雑文録から1週間後、休日の時間を持て余した僕は又、ハチケン谷に向かった。それ程気に入った林道なのだ。登り始めた時間は昼過ぎ。カメラ片手に峠に向かうと、たくさんの登山者とすれ違った。山の景色の移り変わりは早い。芍薬の満開の時期はすでに過ぎ、芍薬の白い花びらはすでに落ち、道沿いに花は見られず、緑の葉だけが残っていた。登山者も山から下りてくる人がほとんどで、うだうだ花の写真を撮って坂を登るのは僕だけだった。

登り始めて、30分くらい。道が二手に分かれ、林道から右に分かれる作業道が川沿いにあり、そこに一人初老の男が立っていた。簡単な挨拶をして、僕はその男の足元の花の写真を撮り始めた。男は背中にリリュツクを背負い、片手に登山で使うピッケルのような長さ60センチくらいの金属の棒を持っていた。しかしそれはピッケルではなく何か鉱物を掘るような特殊な形をしていた。男は手の片方にはコンビニの弁当の空を下げていた。上品そうな笑顔で、仲間が下りてくるのを待っていると語った。僕は写真を撮り終わるとまた林道に戻り、峠に戻った。途中、また足元の山野草の花の写真を撮った。ヒトリシズカの群落はまだ花を咲かせていた。天気は晴天、樹々の緑は更に濃く、相変わらず野鳥の鳴く声は楽しく忙しい。それから20分は経ったろうか、僕はその日は早く帰るつもりだったので、林道を降り始めた。そこでまた、作業道の分かれ目で初老の男に再会した。そこには彼が待っていた二人の男の姿があった。

二人の男の年齢は50歳くらいで、とても人懐こい目をしている、顔は日に焼け、本業は農業か土建屋か。やはり手には金属製の特殊な棒を持っている。結果4人で山を下ることになった。二人の男はしきりに親しく話しかけてくるが、僕は時に花を見つけ写真を撮り三人を追いかけるような形になった。連中はとても嬉しそうで体も弾んでいる。僕が遅ればせながら気がついたのは二人の男に背に背負われた、芍薬の株だった。厚手のビニールの袋にびっしり、盗掘したての芍薬の株をひもでくくりびっしり詰め込んでいる。袋にうっすら白い花びらが透けて見えている。二人合わせて50株は近い。あの金属の棒は花の根からごっそりほじくり返し、芍薬を盗掘するためのプロの道具だったのだ。よく見るに格好も登山者の格好ではなく、靴も汚れたスニーカーで登山靴ではない。僕は花の盗掘団と楽しそうに語らい、山を下りているわけだ。

一人の男が、うすうす正体がばれたのに気が付いてきたようで、しきりに僕の住まいを聞いてくる。「山にはどれくらい登るのか?」「どこから来たのか?」「名前は?」後ろから写真を撮る僕の姿を見て、自分たちの姿を撮影されているのだと意識したのか。

僕は迷う。楽しい語らいの途中で「おたくら、今、芍薬の花の株を盗掘してきただろう?」いきなり聞くとどうなる?

人懐こい瞳ががらりと変わり「それがどうした?」と聞き返される。「何が悪い、これだけ咲いているのを盗って何が悪い?」とでも答えるか。「盗みは盗みだ」プロの窃盗団に素人の僕に出来ることは、すきを見て3人を谷に突き落とすことだ。その上から大きな岩を、転がし、痛い目にあわすことだ。あとは知ったことではない。しかし、そんなことができるか?出来なければ、僕がそんな目に遭う。今度谷に落ちたら、遭難ではない。二度と這い上がってこれない。

これまでの僕の人生経験から「人間は正体がばれたら、とんでもない人格に変わるという」ことをよく知っている。

笑顔で笑っていた瞳が、冷たく光る時に、人は無表情でどんな悪事でも働くことを。谷に突き落とすまではいかなくても、プロの窃盗団に「花の命を大切に…なんて」説教しても無駄だろう。彼らの背中で揺れる芍薬の首が悲しそうだ。あの時、どうしたら良かったのか、今も悔やみ自問する。

窃盗団は、来年の春もやってくるだろう。五家荘に限らず、県内の山々に。50株抜いたら、相当の面積で花は咲かなくなる。その繰り返しで、希少な山野草は消滅していくのだ。鹿の食害のせいではない、鹿はやむなく生きるために、山野草を食べるのだ。人間は貴重な山野草を自分だけ楽しむ、もしくは換金するために引き抜く。悩んでいくうちに、登山口の駐車場に着く。無力な自分にできることは彼らの盗みを告発することだ。しかし、今更、彼らの車の写真を正面から撮りにくい。わざと先に車を出し途中で止まり、窃盗団の車に追い越させ車の後ろのナンバーを控える。

採れたての山芍薬を、どこかの園芸店で売るのか、ネットで売るのか?何かの原料にするのか。

厳しい環境の中で、ようやく生きて花を咲かす花々の命を抜く…苔をはぎ取る、写真を撮るために樹を鉈で切りおとす、陶板に貼り付け陶芸品として販売する…野鳥を盗む。

「珍しいものを盗む」「美しいものを自分だけのものにしたい」もともと人の本性にはそんな気質が備わっているのだろう。本性を見抜かれるまで、人は人の良いふりをする。ついでに書けば「あいつは偽物か?本物か?」偉そうに言う奴に限って、ろくな奴はいない。

五家荘の山に登り始めて数年。今回が一番衝撃的な出来事だった。

窃盗団の車は、黒いミニバンで、ナンバーは熊本502■4529

肝心な■の文字のメモを忘れた。僕は忘れた■の部分の「ひらがな」を探して、これからも五家荘の山々をさまようことになる。

窃盗団よ、僕は堂々と君たちに名前を名乗った。今度は君たちが名のる番だぜ。

※熊本県には熊本県野生動植物の多様性の保全に関する条例があり違反者には罰金が科せられる。

(長々とした条例を読んだが、僕は条例で摘発された事例を聞いたことがない…)

‥‥‥‥‥‥‥‥

悲しき、原風景。

僕の住む田舎の駅は、昔は賑わい、列車が着くたびに旅行客が降り立ち、迎えの車や、島々を渡る船が行きかった。駅前の通りは人であふれ、食堂、本屋、旅館、パチンコ屋が軒を連ねた。それが僕の故郷の原風景だ。だから今の誰もいない灰色の殺風景な駅前の景色を見るたびに落胆し、昔の賑わいを思い出す時がある。今、町に住む若者にそんな話をしても誰も相手にしてくれない。それどころか若者たちは賑わいを探して、町を出る準備で忙しいのだ。

もし今の若者が五家荘の山で、汗をかいて山を登ったにも関わらず、峠の奥の山林に何の花も咲かず、荒れた岩だらけの景色を見たら、それが彼らの原風景となる。彼らの記憶にはそういう荒れた山の景色しか残らない。崩落した杉林の景色しか残らないのだ。いくら僕らの世代が、あの頃の山には春になると、辺り一面、白い天使のような芍薬の群生地があった、花の蜜の香りに酔いしれたと語ったとしてもそれは虚構の景色でしかない。彼らの脳裏にある荒地の原風景に花を咲かすことは不可能となる。窃盗団の悪業は山の未来の景色を消し去るのだ。

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