熊本県 八代市 泉町(旧泉村) 五家荘
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雑文録

2021.10.20

山行

昨日、久しぶりに五家荘の山の先輩、守護神、Oさんからメッセージが届いた。最近雑文録を更新しないので、どうしていますか?と聞いてこられた。前回の雑文録の内容が少し、危ない内容だったので心配していただいたのかもしれない。ありがたいことであります。

確かに夏は暑いし、その暑さと景気の悪さのせいで、僕の頭は危うくなっていた。ここ数年、脳内で「般若心経」を解毒する活動を密かに行い「般若心経」とやらの解説書で小銭を稼ごうとしている輩の本を読破、放り投げ、「色即是空、空即是色」の意味を自分なりに理解したのはある夏の夜明け、窓の外が、限りなく透明に近いブルーに染まる朝だった。僕は身体を起こしはたと膝をたたき、膝の上でまどろんでいる飼い猫の寛太を放り投げ、手のひらを嚙まれてしまった。寛太は爪でひっかかずに、噛むから「寛太」と言う…つまり、大勢の猫に囲まれて僕は「般ニャー心経」の大義を会得したのだった。

この意味は大きい。この大義を会得するには五家荘の森の奥の迷走…いゃ、瞑想が必要なのだ。「色即是空、空即是色」…すなわち「ガラスのコップ理論」…いや誰にも分らなくていい…自分に分かりさえすれば、仏の教えなんてのは、つまりそんなものなのだ。

そういう、暑さと思い込みと、気圧の急変でオーバーヒートした頭を冷やすには水に浸かるしかない。60を過ぎてもなお僕は夏に1回は海に浸かっていた。僕は60数年前、海を前にした小さな集落で生まれ育った。田舎が嫌で高校卒業と同時に家を御出て、数か月、帰省時にローカル線の無人駅に立った時、僕は生臭い、潮の香を感じた。残念ながらそれ以降、何度も駅のホームに立ったけど、その時の潮の香を感じたことはない。その香は、僕の体の中をくすぐる、自然の生きる力というか、体の芯を揺する波長のような力だった。それから僕は毎年、泳ぎに行かなくても、一度は海か川に浸かり、自然の力で身を洗うことを儀式としていた。つい数年前まで近くの海水浴場で、ライフジャケットを着てプカンと波間に漂っては夏の終わりを懐かしんだ。

そして今年は海には行かず、五家荘の川に浸かることにした。浸かりに行ったのは9月の20日。9月の末に五家荘の川のヤマメ釣りは禁漁となる。僕は山に登る前はヤマメ釣りをしていて、当時は五家荘の川のローラー作戦を実行していた。目を皿のようにして、ヤマメ君が居そうな川を見ると車を停め…たいがいヤマメが居る川にはこっそり、瀬に降りる小道があり、ビールの空き缶があり、一升瓶が転がっている…そんな川を見つけては、竿を出し道具を抱えて、小枝に行く手を阻まれながらも、降りて一日、釣れない日々を過ごすのだった。

今は、釣り竿の代わりに、カメラと三脚をからげ、木にぶら下がりながら、はいつくばりながら瀬に降りて川の写真を撮っている。20日は行けども行けども、先客がいて好きに川には降りれなかったが、前から目を付けていた、ある大きな川の橋の下に降りた。さすがに川幅は広いし大きな岩もゴロゴロしていて景色に変化がある。奥の茂みには朝日が差し込み樹々の間から、光の線が降り注いでいる。緑の淵の下にはヤマメ君も身を潜めているだろう…しかし、川の水の流れが相当強い。ウェーダーを着て腰まで浸かり、大きい方の三脚を背にからい、川の真ん中に三脚を立てるがビンビン、川の流れの圧力がかかる。もう少し前にもう少し…透き通る足下の砂のすり鉢状のくぼみに、自分の足がずぶずぶ沈み始める…体が斜めになる…危ない…この川の景色を撮るには、川の水量が減り、樹々に光が当たるためには、もう少し川幅が広い方がいい、陽があたらないと景色がぼける‥‥当然、自然は僕の都合のいいような景色に変身してくれるわけでなし、自分が目の前の自然に合わせて写真を撮るしかないのだ、とその日はあきらめて撮れたのは1枚だけ。釣りをしたとしても、僕の実力はせいぜい1匹だけなのだけど。(苦笑)

その後、他の川も徘徊したが何か気が合わずに断念。怪しいキノコ2本写真に撮って、昼から昔からの友人、五家荘の通訳H氏の家にアポなし訪問した。運よくH氏は在宅中で、二人、久しぶりに五家荘談議に時間を費やした。氏はもともと観光協会の仕事をしていて、今は外国からの観光客相手に観光ガイドと通訳を行っている。氏はすでに五家荘の住人であり、僕のような適当な来客者ではない。森の奥から転げ落ちた屈強巨大な、ひげの生えたようなどんぐり然とした風貌をしていて、そんな氏が英語をペラペラしゃべるのも海の向こうの観光客からすれば土着感があっていいのだろう。そんな男が五家荘の未来について熱く語るのだ。

五家荘の未来は、地区に住む子供たちの未来のことでもある。氏はこれまでの観光協会での経験も深いし、地元民の考えを無視した予算消化の為だけのイベントを否定する。(行政のイベントは、今も予算消化の為だけ…一過性のものではないか)

つまり「地域おこしって何?」という定義から議論しないと、何をやっても根付かないのだろう。

僕の案としては、11月の紅葉の時期に、五家荘に五か所、地元のおにぎりと漬物の紅葉弁当を作り販売するアイデァというものだ。日本杉の東山本店、緒方家、左座家、吊り橋のたもと…おしゃれでなくてもいい。素朴な田舎の紅葉弁当。その包み紙には観光案内などを使う。五家荘は飲食店はほとんどないし、あったとしても受け入れることが出来るの人数には限界がある。おにぎりはもちろん僕が握るのではない。地元の有志が一堂に握り、語り合うのだ。弁当にはみんなの手紙や、紅葉した葉を、しおりにしてサービスする。何も宣伝なんかしなくていい。遠路来た人に販売するだけでいいのだ。弁当が売れた数で五家荘のファンの数もつかめる。紅葉弁当がうまくいけば、春には新緑弁当も販売する。たかが弁当というなかれ。

今年は川に浸かりに行って良かった。もうあの頃の潮の香りを嗅げないことは分かっているのだ。H氏も久しぶりに五家荘について語ることが出来て嬉しかったようで、またふらりと、寄らせてもらおうと思った。氏には五家荘の川の秘密の撮影ポイントを教えようかとも思う。

すべては般ニャ―心経、「ガラスのコップ理論」に帰結するなり。

先生に叱られに行った。(2021年、夏の回顧録 その2)

寝返りをうつ。

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