熊本県 八代市 泉町(旧泉村) 五家荘
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雑文録

2023.06.23

山行

 

前回の2023年極私的山開きから、あっという間に時間が経ってしまった。

(6月18日)天気予報は曇りのち晴れ…

これはあくまでも下界の天気予報。朝7時過ぎに家を出て、山に向かえば向かうほど

雨脚は強くなる。重く暗い空…とても晴れそうにない。だが、もともと雨男の自分だし、今の時期なら寒くもない。優しい春の雨と覚悟を決め峠を越える。

例年なら白鳥山に行くところ、林道の復旧にはあと数年かかるとの情報もあり、山に登るのはお休み。写真を撮りに行くのが目的なのだ。たまには川に降りていつもと違うアングルから写真撮影という選択肢もあるけど、流石五家荘。ここぞというポイントにはヤマメ釣りの車が居る。景色が良さそうな川のあちこち、木陰にこっそり、さりげなく停めてある。僕も過去は下手な釣り人だったが、ヤマメにのぼせると、多少の雨でもひたすら竿を降るのだ。そんな時釣り人の背中を見ると(怒りで)白い湯気が出ている時がある。(そう簡単に釣れやしないし、なにしろ漁券が高すぎる。球磨川エリアは1日2千円もする!)

まったく雨も上がる気配もないので、いっそのことと栴檀の滝に向かった。滝の精を浴びるのも良しと思ったのだ。森の中には「フィトンチッド」という木々が発する成分があり、動物のように自由に動くことのできない植物が、自分の身を害虫や有害な細菌から身を護る為に、発生する森の精気の事を言うそうな。その香り成分は、人の気持ちを落ち着かせる効果もあり、森林浴は身も心もリフレッシュさせてくれるとも言われている。

 

 

ただ僕から言わせれば「山の精」とは山に古代から棲む「精霊」の事なのだ。つまり五家荘の山々は間違いなく精霊の棲む山なのだ。

数年前から縄文時代のとりこになった僕は、「忙しい仕事の暇を見て」…ではなく、「暇な会社のスキを見て言い訳を作り」しばし短い旅に出た。2年続けて長野の尖石縄文考古館、井戸尻考古館…更に諏訪大社を回ったのだ。

7年に一度開催される、日本三大奇祭の一つ「御柱祭り」で有名な諏訪大社は、諏訪湖を挟み、本宮、前宮、春宮、秋宮があり、広大な諏訪湖を4本の御柱で囲み結界を結んでいるようにも見える。諏訪大社の祀る神は「タケミナカタのカミ」。実は諏訪大社は縄文時代と深い関係がある。諏訪大社の本当の神は森の精霊、「ミシャグジ」の神なのだ。

縄文時代は今から約1万5000年前に始まり、それから1万年以上も続いた。その1万年の期間は草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の6期に区分されている。その長い期間、縄文人は争いもせず、自然の恵みに感謝しながら共生社会を営んできた。森の中で狩りをし、木の実を取り、集落を作り、部族みんなで助け合って暮らしてきた。その暮らしの中で、世界に類を見ない土器・土偶が産まれたのだ。彼らの寿命はおそらく30歳から40歳。遺跡からは生まれた子供の足型を押した焼き物もたくさん出て来た。その足型には穴が開けられ、子供の成長に合わせて住処に飾っていた。(そんな足型が北海道の遺跡からはざくざく出てきている) そんな彼らの神が自然の神「ミシャグジ」の神なのだ。ミシャグジの神の姿は石柱か木偶の姿。日本書紀などで書かれた神が産まれる以前の話。

弥生時代になると、時代は一変。国が出来、貧富の差が出来、人が人を支配し争い領土を奪い合う。これまで海彦、山彦の昔話での物々交換でお互いの気持ちを伝えあう時代から、貨幣が出来て、貨幣が価値を決め集落は発展するが、殺伐とした時代となる。中国大陸から略奪、戦争が始まり人と人が殺し合う。佐賀の吉野ケ里遺跡も当時の遺跡がそのまま。戦で死んだ数えきれない村人の棺桶が地中に埋まったままになっている。僕は去年、初めて現地を見学したが鳥肌が立った。悲しいかな僕には弥生人の争いの姿しか見えてこない。(素人ながら断言…)弥生時代に縄文に勝るような表現の土器、土偶はない。卑弥呼なんぞ、どうでもいい。卑弥呼が死ねば、次の誰かが支配者になるだけ。それがどうしたと思う。

 

 

泉村の村誌によれば、村にも縄文の遺跡があった。乙川遺跡・柿迫坂木遺跡・椎原遺跡・矢山遺跡など。これだけたくさんの数が一つの村内にあるなんて!間違いなく、五家荘の山にもミシャグジ様は居たのだ。だから国見岳の山頂にも祭祀の跡がある。

古代人は時に山頂から山の神、自然の神に祈りを捧げたのだ。縄文関連の本を読むに、ものすごい山奥の山にも縄文人の祈りの跡があり、研究者はその跡は「狩のついでに立ち寄った、ついでの祈りではないか」と思っていたが、研究の結果、彼らはついでに祈ったのではなく、自然への祈りの儀式の為に、敢えて険しい山を登っていた事が分った。

3月に亡くなった音楽家の坂本龍一さんも縄文の大ファンで、「縄文巡礼」という本では、宗教学者の中沢新一氏と日本国内の縄文の史跡や諏訪大社、北は青森、南は奄美まで自然の神を探して巡礼されていた。坂本氏の知識は専門家並みで、中沢氏との会話も深い内容ばかりだった。坂本氏は晩年、自然が奏でる音を録音してみたり雑踏の音にも耳をすまし、作曲の参考にされていた。

まぁそんな事で、僕は滝つぼからのしぶきを浴び、空から雨の雫を受け、森の精霊の中でカメラのシャッターを押した。

濡れた体でのとぼとぼ、ぼとぼとの帰り道、枯れ草を踏み坂道を登ると、行きには気が付かなかった花が、道のわきに一輪咲いていた。この子らの、恥ずかしそうにうつむき花弁を開く姿に、僕は心救われた。山の精のご挨拶なのか。

 

 

坂本龍一さんの魂も、深い森の奥で音の精霊になられたのだな。

 

2023.05.03

山行

 

2023年4月30日が極私的山開きの日だった。

晴れの天気予報なるも朝から小雨が降り、二本杉は寒かった。

駐車場は多くの車が停まり、たくさんの登山客で賑わいを見せていた。

 

足ならしとして、雁俣山への道を辿る。

根性なしの自分は山頂を目指すのではなく、

某所で開花(?)予定の銀ちゃんこと「銀龍草(ぎんりゅうそう)」を探しに行くのだ。

今回は濡れた落ち葉の影で、白く輝くレインコートを羽織ったような、

おそらく身長3㎝くらいの銀ちゃんが顔を出し、頭をうなだれていた。

もう10日も経てば、たくさんの銀ちゃん家族の群生が出現し、

一つ目小僧のような顔をもたげるのだ。

 

 

「ユウレイソウ」という不名誉な別名を持つ銀ちゃんも、

もちろん植物の一種で、光合成をせずに育つので色は輝く白銀色。

栄養は或る森の昆虫から得ていると大学の研究者が発表している。

森には不思議な植物も多いが、その不思議君達を研究する不思議君も

多数いて、僕のような妖しい愛好家も多数居る。

そうして森をさ迷ううちに1時間は経過した。

 

ほとんどの登山者はカタクリの開花を目当てに

山頂を目指しているのだが、杉木立の暗がりで這いつくばる

僕の姿を怪しみながらも、さっさっと歩みを進めていた。

「カタクリの花は咲いてましたか?」と聞かれるたびに

返答に困る、銀ちゃん友の会代表の僕であった。

 

さて、次に目指すはハチケン谷。

ようやく雨も止み、空が曇って来た。

 

 

アケビの花は満開だった。

秋にアケビの実が弾けるような勢いで

雨に濡れたアケビの紫の花々が弾けている。

彼女らはとても元気なのだ。

このアケビの茂みは、見れば見る程、楽しく騒がしい。

そうして秋に、実がなるのを楽しみに茂みに向かうと

いつも先客が居て、アケビの殻だけが地面に落ちている。

(僕だけの秘密の場所と信じるのが大間違い!)

 

そうして、久しぶりのハチケン谷。

ゲート前の空き地は車で満車状態だった。

山芍薬の開花を目指して石の詰まった

固い林道を登る。

以前はゲート前のスペースは

花壇のように花が咲き乱れて

蝶も乱舞していたが今は静かだ。何もない。

 

 

歩みを進めて行くうちに

山芍薬の可憐な姿が、山の斜面に顔をのぞかせる。

 

 

平たく広げた緑の葉の上に

短くスッと白い花を咲かせている。

そっと丸く、手の平の上に包み込むような花弁。

白い花弁は薄く大きい、まるで蓮の花のようだ。

 

うす暗い杉木立の奥、

ごつごつ苔むした緑の岩の間に、

ぽっぽっと、白い「ともしび」が点灯する景色を想像する。

 

霧のかかる山道を歩くと、

その、ぽっ、ぽっという白い灯りが

幻想的にも見える。

 

聞くに、その花びらには、

紅く染まるものもあるそうで

白くかすむ景色の中に、赤く灯る印が点滅すると、

そこは森の精霊が棲む

神聖な場所の証なのかもしれない。

 

 

 

気が付くと、

登り始めて2時間は経っていた。

 

こんなゆるゆる山歩きの

極私的山開きの一日。

とても山頂に辿り着けそうにもないので、

林道を引き返す。

 

川底の白い石を洗いながら流れる川のせせらぎ。

最初から終わりまで頭上で聞こえる野鳥のさえずり。

 

水害で道が崩落し、

登れる山の数は減ったけど、

五家荘は林道を歩くだけでも

気分が癒される山なのだ。

 

山開きで、普段はみんなやって来るのに

今年は何故、誰も登って来ない?と

山の神様も寂しがっているのだろう。

 

2023.04.05

文化

テレビの「なんでも鑑定団」が好きなのだ。

熊本では毎週土曜・日曜の昼12時から放送される。再放送だけど。

好きな理由は、まだ知らぬ作家の作品を知るきっかけになる事。全然知らなかった人が、とんでもない作品を作っていたんだなぁと感心する。

それと、偉そうにしているオヤジが自信をもって鑑定に出す品が、結果ニセモノと分り「あちゃー」と悔しがる姿を見る事ができる事。

時に、素人が見てもニセモノだと分かる掛け軸を番組の最後までひっぱり、予想通り1000円の値段が出ると素直に嬉しい…が番組の悪意を少し感じる。

しかし、金の亡者のような人の鑑定品がとんでもない価格で評価されるのを見るのは悔しい。更にその人物がもっと値段が上がるまで売るのを待つ、なんて言うと、余計に腹が立つ。

(この人物はすでにテレビでゲスな人格が全国にさらされているわけで、高額な鑑定品と引き換えに、その人格が全国津々浦々に知れわたる罰を受ける事になる。彼の周りには金の亡者しか集まらない。)

 

五家荘はもう春。一年で一番輝かしい季節を迎えるけど、未だに山道の崩落被害で登れない山が多々ある。冬の巣ごもり期に僕は八代博物館が出版していた「八代郡内寺社資料調査報告書」を読んでいた。報告書の中には合併したばかりの八代郡の町や村の資料がモノクロ写真で紹介されてある。(平成24年発刊)

 

 

椎葉阿蘇神社に祀られてある木造男神坐像(天保9 年)…久連子神社の鉄造懸仏(室町時代)…などなど、すでに色のはげた仏像やら、錆びた鉄の懸仏やらが紹介されてある。

五家荘の仏像に限らず、発見・確認された物はすでに時の流れで、痛み、疲れた仏像が多い。それでも、その土着の神、仏様は村の奥の神殿や道端の小さな祠で祀られ、お参りされたものなのだ。

※明治元年維新政府の神仏分離令までは、仏様も(土着の)神様も一緒に祀られ信仰されて来た。仏様、山の神、海の神様もみんな一緒。明治維新前までは神社の多くは仏教僧により運営されて来たのだ。よく見る「権現宮」の「権現」は菩薩の仮の姿。天照大神の本来の姿は大日如来、愛宕権現の本来の姿は地蔵菩薩…。

樅木の白鳥神社(雨乞いの神)、祇園神社(牛頭天王が祭神、牛頭天王の本来の姿は薬師如来)…木造の苔むした鳥居をくぐり、崩落した参道を登る。ある場所でさりげなく置かれた木像を見つけ写真を撮る。目も鼻も、口もない、ただの古びた木のかたまりに見えるけど、まぎれもなく山の神様だ。

斜めに傾かれていたのでそっと、手を出し、立てかける。右手が「ビビッ」と感じる。

 

本来はおそれ多くも写真など取らないのだけど、博物館の学芸員の人に見てもらうためにシャッターを押す。

用心しないとその写真をネットなどで安易に公開すると、盗まれる可能性もある。

1月に訪問した球磨郡のあさぎり町の谷水薬師では運よく、年に数回の秘仏の開帳の日だった。地元の人が言うには昔、谷水薬師の仏像がマスコミで紹介されたら、即、大事な像のいくつかが盗まれ、いまだに帰ってこない仏様が居るとの事。※秘仏とは明治時代に失火で本堂が焼失し、焼けたご本尊の中から出て来た、数センチの小さな純金の菩薩像の事)

五家荘の釈迦院の秘仏もマスコミで紹介された後、収蔵庫をこじ開けられた跡があったそうだ。海外に売るために仏像を盗む輩の仕業なのだろう。

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数日後 (仕事のスキを見て!) 八代市の博物館に押しかけ、学芸員のTさんに写真をいくつか見てもらった。Tさんは「八代郡内寺社資料調査」に関わった本人だった。談論風発、さすが専門家、話は尽きないし面白い。釈迦院は一時、すたれかけたが、お寺の再建請負人が中央からやって来て、また再興された話。妙見祭も衰えかけた時代があったが、今で言うやり手のプロデュ―サーが登場し、祭りが賑わいを取り戻した話…聞いていて飽きない。

T氏は五家荘にはまだまだ秘仏がたくさん眠っているだろうと語る。ただ、時間と予算がない為に更なる調査には取り掛かれないのが現状らしい。

「文化財を観光の目玉、客寄せに使って成功した例はありませんよねー」

(一時的に脚光を浴びた後、その後、どうなったか…)

文化財に関心のない人が、たまたま田舎にやってきてスマホで写真撮り

「なーんもない、所ですね」と言い、トイレだけ借りて「なーんも、地元に落とさず帰っていく」

文楽だの神楽だの見たって「何の関心のない人にとっては退屈そのもの。なんも面白くない。」文化財ってそんなもの。漫画やショーではない。そんな人々に面白がってもらうために、地方が媚びる必要はないのだ。僕の住む「世界産業遺産 西港」とやらもその典型。過疎で疲れ果てている地元に、世界遺産だから何かやれと言うのは残酷な話だ。平均年齢70近いメンバーに地域振興の為に、石積の岸壁を100メートル全力疾走しろと言われても困る。

博物館のTさんの話のすきまに僕も応酬…天草の諏訪神社の事崎津の「ウランテラサマ」の事…今年の2月に長野県の諏訪神社に行った事…「みしゃくじ」信仰の事…頭に蛇が載った縄文土偶の事…気が付けば2時間経っていた…オタク同士の会話は永遠だ。

 

Tさんの元には時々問い合わせがあるそうだ。「町内で祀られて来た仏様に価値があるかどうか、見て欲しいと」人が居なくなりその仏様の世話をする人が居なくなって、どこかに保存してもらう前にその価値を見て欲しいようだ。

 

「その価値」とは何だろうか。今時、重文、国宝級のものがポンと出てくるわけでなし、大概、なんでも鑑定団的に言えば「無価値」のはずなのだ。しかし、だからこそ「価値」があるとT氏は言う。長い期間、地元で大事に手を合わせ、花を捧げ、祈る事そのものが本当の価値なんだよな。

目も鼻も、口もない、ただの古びた木のかたまりに見える五家荘の山の神様。

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去年夏、僕は京都に行く用事があり、ついでに奈良まで足を伸ばし法隆寺に行った。法隆寺には国宝の仏像オールスターズがずらりガラスのケースの中にひしめいて金色の光を放っている。仏教美術に関心のある人は狂喜乱舞するだろうが、僕は何も感動しなかった。この像はみんなの憧れであり、磨かれ抜いて、美しく造形された夢の形。極限の美。何の欠点もない。

僕のようなひねくれ者、どこか決定的に頭の部品を欠落した者にとっては、そのような美しい仏様のお姿に魂は救われませぬ。仏様が冷ややかに微笑まれているお姿の足元で、踏んづけられ、苦しんでいる邪鬼の救いのない顔につい微笑んでしまう。五重塔を建立から1300年もの間、風雨にさらされ柱の4隅で支え続ける邪鬼の労苦に僕は手を合わせた。

僕の魂は邪鬼に救われたのだ、少し。

 

2023.02.28

文化

2月も末、例年なら久連子あたりで福寿草の開花を見に行くところだけど、いろいろ所用があり出かける事が出来ないままでいる。残念。

さらに不運なのは、五家荘は去年の夏の豪雨被害で林道の修復工事が進まず、久連子に行くにも大きな遠回りが必要となった。例年なら、熊本はもちろん他県ナンバーの車で久連子は満車状態なのだけど。登山道も荒れ果て崩落地点多数、危険が伴う個所は用心が更に必要。先週は国道445線二合付近で大きな落石があった。

僕は5年前の病気の後遺症か、福寿草が待つ白崩平への細い斜面を横切る小道は、バランスが取れずに毎回苦労していた。今もって螺旋階段を登ることができないのもその病気の影響だろう。結果、今年初の五家荘行きは3月にした。これから山は花の時期で、福寿草の次は、カタクリ、そして臼ピンクや赤、白の華やかな「つつじ」がむんと香る季節になる。

僕の山に行けないストレス解消策として前回の雑文録と同じ、古書店での山巡りが恒例になった。自称「神の手」(苦笑)

古書の棚に並ぶ、書籍のぶ厚い地層の中から僕の右手のひとさし指は「すっく」と五家荘関係の本の背表紙の上を指さし、眠っていた過去の時間を手前につまみだす。先月は熊本の伝説の地域紙「暗河(くらごう)」の地層から1987年春号を発見、無事保護した。

その春号の中には、僕の高校時代の恩師、永田瑞穂先生の「五家荘の地名と風土」というタイトルの寄稿があったのだ。おそろしき再会、神の手のなせる技。

そこには昭和61年2月23日に開催された熊本地名研究会での講演内容が再録してある。永田先生は1960年頃から五家荘に入り、五家荘の民俗学、山や動植物の研究をされて来た。眼光鋭く、高校時代から僕らは恐れをなしていた。以前、「五家荘図鑑」をプレゼントしたが、玄関先でえらい怒られた悲しい思い出がある。(そんなに怒らなくても、よかとに…何もしとらんとに)

先生の講演内容で面白かったのは「ドウダンツツジ」の正体というもの。九州の山には「ツクシドウダン」と「ベニドウダン」というものがあり、先生はその「ドウダン」に気が付かれた。地元では「ドウダンバ見にこんね」と言われて見に行くとそれは「レンゲツツジ」で、そもそも「ドウダンツツジ」の歴史は明治から大正初めの話であり、元を辿って行くと、鉱山に関係があるとの事。鉱山技師が持ち込んだのが原因と先生は推察された。先生の調査によると、五家荘の椎葉にも銅山があり、鉱道の跡が残っている。(1987年当時) ドウダンツツジは北方系の草原性のツツジで人間が植えないとなかなか生き残れないとの事。「銅山つつじ」がつまり「ドウダンツツジ」へ名前が移っていったという。九州の鉱山には必ず技師が植えていったらしい。(その意味は不明…僕が思うには銅の採掘で山の自然破壊のお詫びの気持ちなのか)

ネットで検索すると確かに、過去の新聞のニュースで日本有数のツツジの群生地として知られる宮城県気仙沼市の 徳仙丈山 ( とくせんじょうさん )711mで約50万株のツツジが見頃を迎えていると書かれてある。徳仙丈山にはかつては銅を採掘した「徳仙鉱山」があった。愛媛の赤石山にもツツジが満開との記事もある。そこにも以前銅山があった。今はこうして「銅山ツツジ」と検索すると、すぐに、こういう情報が出て来るけど、永田先生の講演当時はそんな近道、ネットワークはないので、よく自分で調べられたものだと感心する。

更に面白いのは、「白鳥山」の名前の由来の話。山の頂上はもともと名前があったわけでなく、必要にかられて付けられる場合がほとんど。当時、白鳥山は今のように簡単に登山口までいける山ではなく、登る人も限られ、当時は昆虫や植物の採集が目的で登る人しかいなかったらしい。逆に言えば、昆虫の新種がどんどん発見される自然の宝庫で、新種が発見されたら、学会にその地名を付け「固有名詞」を付けて発表しなければならない。結果、そんなに山の名前にこだわらない学者の発表した「熊本県博物誌」には白鳥山は「ハクチョウザン」と書かれてあった。そこで学者と先生のやりとりがあり、植物学者曰く、学会に発表する期日までに「シラトリ山」なのか「ハクチョウ山」なのか、正式に決めないかん、急いでくれ!という事で、先生はとうとう居直り、「シラトリ山」にする!と決断したとの事。

先生曰く、白鳥(しらとり)大明神が各集落にあり、雨乞いがされていた。白鳥山の北側に御池(みいけ)があり、そこが雨乞いの大元の場所だったらしい。そういういわれから「白鳥山」の呼び名は「シラトリ山」になった。白鳥山の北部にある御池のもともとの地名は「池」で、それに「御」が付いて「御池」になり、最後は「お御池」さん。白鳥山は平家伝説もあり、熊本と宮崎の椎葉地区との境界線でもあり、いろいろな民俗、歴史、伝説が重なった魅力のある山なのだ。

次のテーマは「シャクナゲがないのに石楠花越」とは?その次は「峠の呼び名も難しい」などなど…先生の執念たるやものすごい。

リアルに五家荘で道に迷い遭難した自分だけど、今は過去の資料の山々に迷い込み遭難しているようだ。しかしそんな遭難の時間は楽しいものだ。先生の足跡が消えないうちに、踏み跡を辿らなければ。

 

わざわざ、古書店を巡らなくても、五家荘の動植物が満載の本がある。B4版で600ページを超える大書。その名も「レットデータブックくまもと2019」※県庁1階の情報プラザで閲覧、購入も可。サブタイトルは熊本県の絶滅の恐れのある野生動植物。海の動植物はともかく山に存在する、絶滅危惧種は植物も昆虫も五家荘のエリアが大半を占める。発刊からまだ5年も経たないけど、残念ながらすでに姿を消した植物も多々ある。

去年の山道のスプレー騒ぎの時に、レッドデータブックの版元の熊本県は何をしたのだろうか。財政難と言いながらも地域振興と言う名の自然破壊を続ける県は、五家荘のエリアをお隣の宮崎県の綾町のように「森林セラピー」などの基地に出来ないものかと思う。何も予算が要るわけではない。そのままの自然をそのままにしておくだけなのだ。(そういうと、彼らはまた、その基地に向かうための大きな道を作りたがる)※綾町は都会からの移住者が増えているという。

ツツジの花が咲く頃には、山に行こう。

(その前に白鳥神社に行かねば!)

2023.01.22

文化

今年の冬は五家荘は大雪だった。フェイスブックなどの情報で山の吹き溜まりで約40㎝、二本杉の東山本店まで行く道路は深い雪かアイスバーン。車高の高い4駆しか辿り着けない雪路との事だった。そうして辿り着いても東山本店はお休みなのだけど。

ここ5年で僕が乗り換えた車が3台、その度にチエーンを買いそろえ、結果、使ったのは各車数回程度だった。去年買ったパジェロミニの中古車は電気系のトラブルもあり、1年もたたずに廃車になってしまった。(後ろのワイパーが止まらない、やむなくコードを抜く!)ミニに、チェーンを付けたのは2回程度だった。とても気に入っていたのだけど、一般の道路はともかく、砥用から二本杉への坂道を息切れして登ってくれないのだ。いつ止まるか分からないまま林道を走るのは、別の意味で寒いものだ。過去に他の車(イグニス)でタイヤがバーストして保険会社に連絡し、当然レッカー車の手配となり、とんでもない割り増し料金を支払うはめになった痛い経験もある…。

 

更に、頭が急に冷えるのは命の危険を感じる。5年前に開頭手術を受けた右の額の奥の血管が寒さで「ビリリ」と来るのだ。ヤバい車に運転者もヤバい。山に春が来るまで、ガマンするしかない。自宅で座学…という事で、古書店巡りで五家荘についての古書を探して回って過去の五家荘への時間旅行へ出かける事になる。事務所の近くに熊本県立図書館もあるが、地元の古書店の方が、掘り出し物が多い。この前、熊本県の教育委員会が過去に細かい五家荘の文化史跡を調査、その結果をまとめた資料をこっそり見つけたが、学術調査の本で味も素っ気もないので…とりあえずひっそり、古書店の本棚の奥にしまっておいた。平成の合併で、五家荘地区も八代市に編入されたので、本来ならば八代市の博物館がもっと調査をしてくれればいいのにと思うけど、宝の山を前に人手不足なのだろう。

そんなこんなで年末に「店じまい」の準備をした。最近、年寄の身辺整理を巷では「断捨離」という…その言葉を僕は好きではない…何かカルチャーセミナーとか…そういうお上品な世の為、人の為、みんないい人でいましょう的なノリが自分には合わないのだ。自分には「店じまい」という言葉で充分。

そうして自分の「店じまい」でいろいろ本棚をみているうちに、「くまもと里山紀行」なる本を見つけた。平成2年7月10日・地元紙熊本日日新聞情報文化センターの発刊で191ページ。モノクロ。執筆は栗原寛志 記者。平成2年は今から33年前の事。ちょうど京都から帰熊したばかりの時に買った思い出がある。中には熊本県内の90座の里山が紹介されてある。嬉しい事に、紹介されてある90座の中で、五家荘・脊梁エリアの山々の数は40座、半分近い数を占めている。単なる登山ガイドではなく紀行なので、その山にまつわる文化史跡などが紹介してある。修験道がらみの史跡も多々紹介され山によっては石仏の写真が多いページがある。熊本の里山のあちこちに民間の信仰の跡がたくさんあるのだ。農業県でもあり、みんな山の神さんに豊作を祈願したのだろう。どんどん朽ち果てて行く石仏様の姿。地図はフリーハンドで書かれ、方角も示されてないアバウトなもの。低山といってもその手書きの地図を片手に山頂を目指したら大変、道迷いの可能性が高いのでご用心。(経験者は語る)

登山中のメンバーの写真も昔の時代を感じる。水木しげるの漫画の雰囲気。みんな首にタオルを巻き、作業ズボンに「いがぐり」頭。昼飯は懐かしいコッフェルでお湯を沸かし、弁当をぱくついている。記事を書かれたのは新聞社の記者の人だが、道に迷われたり、ゆるく書かれている記事も面白い。

・例えば、白鳥山。(原文を要約)

10年前ほど昔、白鳥山で道に迷った。小雨混じりの霧の中、御池の中で方向を失った。ミルクの中を泳ぐようで周囲の風景がまったく見えない。足元の踏み後たどって行くと林道に出た。林道をさらに下ると、山の中の一軒家と出会った。

その家は椎葉村尾手納地区最奥の小林の人家…

その主に道に迷ったことを伝えると

「よう熊本の人が山道に迷ってうちに下りてきなはる。もう日が暮れるけん、今夜はうちに泊まっていきなっせよ」そして、栗原さんは娘さんに靴ずれの足に赤チン塗ってもらい、風呂に入り、ビールと夕食のご馳走のもてなし」を受けられた。

更に、その主が言うには「この前も道に迷い下ってきた熊本の人が居て、その人は一晩お世話して送り出したら、夕方また道に迷いましたと下りてこられ、結局二晩うちに泊まられた」そうだ‥

なんともすごい話というか、猛者と言うか。

 

・新しい山道のルート開拓の話。

京丈山へのワナバルートは、昭和58年江口司さん(熊本市・故人)と民宿平家荘の松岡さんが協力して開かれたそうだ。当時、春には谷沿いには書ききれないほどの山野草が開花したと書かれてある。山頂では九州でもまれなカタクリの大群落がみられたとの事。

・平家山(1494m)の事

平成2年から7年ほど前…ヤマメ釣りと山登りの一団が、葉木谷の最上流のピークを勝手に「平家山」と名付けた。この集団が良く利用していた宿は平家荘。またその一団は、京丈山と国見岳をつなぐ縦走路を2年がかりで開かれたそうだ。行けども行けどもスズタケの密林に鎌をふるい一団は前進を続けた。目的は祖母・傾山に匹敵する縦走路を作るのが目的だったらしい。(実は著者もその開拓に参加したらしい)それから平成2年、その道はまたスズタケの占領に会い、消滅寸前…。

登山者、釣り人が元気なら、山も元気(迷惑?)な時代だったのだろうか。

 

・当時の花への思い

ゴールデンウィークが終わった頃、クマガイソウの谷に向かう。五月の原生林はきらびやかな若緑の世界だ。天を覆う新緑の中、谷沿いの踏み跡をクマガイソウの住む谷に向かう。目指す谷に向かうと猿面エビネの薄茶色の花、ヤマブキソウの鮮やかな黄色、そして白い花びらをほとんど脱ぎ捨ててしまったヤマシャクヤクなどが、沢のあちこちに顔を見せる。(中略)

前の年も、その前の年も、そしてその前の年も花を開いていたクマガイソウたちが今年も当たり前のように花を開いている。

(中略)

クマガイソウの沢に別れを告げ、麓に下りる。一年後「あのクマガイソウたちと再会できるだろうかーあの森があのままであって欲しい」そう祈るだけだ。

(※写真は「くまもと里山紀行から」転載)

 

残念ながら…栗原さん、五家荘にその森はありません。次の年も、その次の年も…

 

※クマガイソウの同属の「アツモリソウ」は種子は繊細で発芽に共生菌類が必要な為、自然発芽率は約10万分の1と低い。野生株は激減、環境省の絶滅危惧Ⅱ類。アツモリソウは近い将来絶滅する可能性が高い。それでも自生地からの盗掘はたたない。

一昨年、ある谷でヤマシャクヤクの盗掘3人組を見つけて、警察や県の自然保護課にも連絡したが警察はともかく、県の自然保護課は何の対策もとらなかった。レッドデーターブックばかり作るのが自然保護課の仕事ではないだろうに。盗掘者からみれば、何もできない行政の「足元を見て」やりたい放題、取りたい放題の山が五家荘。

そうして、わずか30年で絶滅する花々…

僕のようなおじさんが、昔は良かったと、若い人に山の話をいくらしても、彼らのスタートは、花も何も咲かない荒地からのスタートで、見たことも聞いたこともない昔話を彼らに話しても何も伝わらない。

五家荘近郊の自治体では地域振興とやらで、税金をどんどんつぎ込み自然を削り、道路、橋、観光施設を建設しているところがあるけど、山間地の地域振興は、箱ものより人材の育成に予算をかけるのが本道だろう。すでに絶滅したクマガイソウの代わりに人を育ててくれないものだろうか。でないとあなたたちも絶滅しますよ。

 

と、いう事で、五家荘の春が今でも待ちどうしい僕なのだ。

※水色のイグニス(イグちゃん)が僕の車に復帰した。車高が意外と高いので山道は良い。スペアタイヤはネットで買い、積載す。

2022.12.20

山は逃げたりしない。しかし山野草の花の開花時期は短い。タイミングがずれると、また来年ということになる。早春、福寿草だけは開花の時期に誤差はほとんどなく(感謝!)谷間に金色ピカピカの花を咲かせてくれる。しかし、だんだんお花畑も少なくなってきた。熊本で福寿草の群生を見る事が出来るのはおそらく五家荘だけ。今年は少し時期をずらして開花するセリバオウレンにも会いに行ったけど、残念、会う事は出来なかった。今にも溶けそうな森の白い妖精、セリバオウレン。この子もこのままでいけば、会う事ができなくなるのではと心配なのだ。

4月の山開きにハチケン谷の林道。春先の優しい雨にいい気分。真面目に山を歩いたのが、5月の烏帽子岳だった。日頃の怠け症の自分でも往復約5時間は歩いた。ただその尾根道の長さにバテバテ。道の途中で疲れ果て、バイケイソウの真ん中でひっくり返ってしまった。後ろからヒタヒタとやってくる若いグループ(特に山ガール達)の歓喜の声が近づいてくる。醜態を晒すまじと、立ち上がり這いつくばり山頂に着き、山ツツジの淡いピンクの群生と5月の温かい風に心慰められた。

白鳥山には何度も登った。この山だけは格別なのだ。僕のような体力不足のオヤジにも白鳥山は優しい。いつもたくさんの花たちが待ち受けてくれていて、行く度に新しい出会いがある。まさに植物図鑑。めくる季節のページ事に表情が変わる。

そうこうしているうちに、夏の大雨。林道は崩落、いまだに白鳥山や烏帽子だけに向かう道路は修復されないままにある。山に行けない分、五家荘の歴史や、謂れについて調べる時間があり、泉村誌で国見岳山頂にある古代の祭礼儀式の跡の発掘調査を知り、どこでどう道に迷ったか伝染したのか、巨石信仰の歴史への道に入り、釈迦院の歴史、修験道、廃仏毀釈の世界にまで迷い込んでしまった。五家荘の山には目に見えない歴史の案内板がたくさんある。(ついでに縄文時代にも入り込む)

我が家の近く宇土半島の突端には「権現さん」という神社があり、海の見張り役、阿蘇神社の支所、権現さんの大元は鹿児島の霧島神社なり。そもそも権現という言葉の意味は「権化(ごんげ)、つまり「仏様菩薩様の仮の姿」であり、権現さんは、昔、山の神と仏様が仲良くなった神仏習合、みんなの信仰の対象であり、民の幸せを願ってくれていたのだ。そして当時の仏様の教えを広めたのが修験道の山伏さん達。

ところで、今ネットで話題なのが、天草、旧倉岳町の倉岳。天草最高峰の標高682メートルの倉岳山頂には倉岳神社があり、ある祠の裏には大明神と刻まれてある。明神様というのも仏様の意味で(最初は仏様の側から神様側に敬意を評した言い方が、仏様と同じ意味になった)調べていくうちに不思議発見、棚底港には倉岳諏訪神社があり、諏訪神社の鳥居は海抜ゼロメートル、白い砂浜、打ち寄せる波の前に建立されてある。

全国の諏訪神社の総本山は長野県の諏訪大社。諏訪大社は上社本宮(諏訪市)、上社前宮(茅野市)下社春宮(下諏訪町)下社秋宮(下諏訪町)の4つの社殿がある。全国に1万社を越える諏訪神社の総本山。(あの坂からの木落としの祭りで有名、毎回わくわく、怪我人続出の御柱祭り)諏訪神社の大元の神は山の神なのだ。まさかその山神様が天草の倉岳にもあるなんて。※なんで僕が長野の諏訪神社の事を知っているかというと、6月に念願の茅野市の「尖石縄文考古館」の見学を(仕事を放りだし)強行したからなのだ。今もってその行為は事務所のメンバーから白眼視されている。その時、時刻表を読み間違え、たっぷり2時間、茅野駅で時間をつぶしている時に諏訪大社の事を知るきっかけになったのだ。

倉岳の諏訪神社は海の神、山の神の出会いの場だった。向かいの御所浦島から海の神が海を渡り、諏訪神社の鳥居をくぐり、石の仁王像に守られ、真っ直ぐ倉岳山頂の神社に向う。ちなみに諏訪神社の鳥居の下部では弥生式土器がたくさん発掘されている。当時の諏訪神社は天草四郎の乱で焼き討ちに会い焼失※本渡市、旧栖本町にも諏訪神社がある。

我ながら自分のしつこさには呆れてしまう。弥生式土器の話は古書店でたまたま見かけた倉岳町史の中で見つけた。(小遣いが少なく立ち読み)

今年最後の山行きの締めは12月18日の釈迦院への参詣の予定だった。再度、山の神様に両手を合わせるつもりが、こんなに大雪とは!

結句、水害などで山に行けない分、いろいろ古書店の小道をさ迷った1年だった。

 

神様、神様、もうすぐ正月。宝くじが当たりますように、神様。うちの神様は他所より偉い神様だぞ。パワースポットだぞ。日本、いや世界で一番、偉い神様だぞ。(そんな偉そうにする神様なんて本当はいない!)恥ずかしい事に、我が国の神社本庁は神社ごとに「別表神社」という「格付け」をしている。参詣者への利便性を測るという言い訳、爺様たちの大きな勘違い、罰当たり。その前にちゃんと会計はガラス張りにしなさいね。

庶民が信仰する神は、神と言っても名前もなく、神殿もなく、神主もなく、祝詞もなく、神道の神ではない。自然の神、霊魂、天狗や河童、龍神などの霊物も信仰の対象となる。修験道はそんな庶民信仰の神を祀るのに、仏教も神道も道教もミックスされても構わない宗教なのだ。世知辛い世の中、山の魑魅魍魎(天狗、河童、油すましなどなどに囲まれ)の世界の中で、ぶらぶら山歩きをしている方が心も解放され、気が楽になるものだ。

2023年もこの調子で、ぶらぶらしたいな、と思う。

 

◆僕は「五家荘図鑑」と並行して数年前から「note」というブログシステムで五家荘以外の日常を思うままに書いていた。

「note」はブログサービスのひとつで、大きな本屋のようなスタイル。みんな自分の記事を販売したり、何らかの意図がある記事を書いている。(僕のブログはもちろん無料)時に「note」には自治体が予算を使い、その地域の素晴らしさをプロのライターに記事を書いてもらい、観光誘致に利用していることに気がついた。その記事を見掛けると嫌になって只今「note」はお休み中。記事料を貰ったり、補助金でそんな記事を書いたら忖度まみれで、八方美人の観光パンフレットみたいでいやらしいではないか、と僕は思う。

★ 2022年最後の雑文録のおまけとして、今年書いた、「note」の山関係の記事はここ

◆くも猫ふわふわ日記 矢岳神社に行く。

◆くも猫ふわふわ日記 縄文考古館へ行く

嗚呼、よそものが要らん事、書きましたな。(五木村の原木椎茸大好きです。)

◆くも猫日記 ダムと悲しき五木村

2022.11.20

山行

今夏の水害で大きな被害を受けても、五家荘の山々は例年通り、鮮やかな深紅、黄の葉の色に彩られて飽きることはなかった。紅葉祭りの期間中、離合の為の一方通行の道路規制に加え、水害で寸断された道路は通行禁止の迂回路で大回り、複雑な紅葉巡りのルートになってしまった。

気の早い自分がまず、出かけたのが11月3日。もしかしたら樅木川の上流の自分だけの秘密の撮影ポイントの木々がすでに色づいているかもしれないと焦ったのだ。(そこに行くのは数年ぶり…) カメラを二台(珍しく気合が入る)をバックに押し込み、レンズ数本、三脚を無理に括り付け、非常食(スルメにチョコ)…これで大がかりな極私的撮影隊の出来上がり。万が一に備え、長いロープ(テープ)もそろえ、緊急時はこのテープを木に括り付け、谷に降りたり、這い上がるのだ…おっと、ウェーダーにも着替えないかん。面倒くさいが秋の川の水は冷たいぞ。

秘密の空き地に車を停め…ま、大掛かりな撮影隊の進軍の前に、まずは偵察じゃいと、スティック1本で坂を下る。さっさっ、ざっざっと木にしがみつきながら、枯葉の敷詰まる斜面を、川を目指して降り続ける。

と、意外と簡単に河原に着くも、はて?木がない…。

右の岸は背丈ほどの高さに地面がざっくりえぐられ、断層がむき出しになっている。左の岸は激流に洗われたのか、岩がむき出しになり、木々は流され、いつもの景色が消えていた。全部、流されたのだ。足元の水たまりには、茶色に枯れた葉が重なるだけ。僕はそんな景色の中を上流に向かって歩き始めたが、行けども、行けども同じ薄茶色の景色が続いていた。山の再生と同じく、川の再生にも何年かかるのだろうか。

決局、失意のまま、車に戻り五木経由で帰路に就いた。

 

(ついでに恥を語ると、帰路の途中、仁田尾神社に行ってみようと思い付き、途中まで車を走らせたのが、これまた恐ろしい道路で、さすがに車で行くのは危険と判断し徒歩に切り替え、長い長い、神社への道を歩いたのだが、この道が、とてつもなく怖い。崩落寸前の道路があり、ガードレール代わりに置かれた杉の大木の下は、目もくらむ谷底で、谷から吹きあがる冷風に汗も冷え、身も震え上がり、前進を断念…樅木川に次ぐ失意の連続の1日だった。)

 

今年の五家荘の紅葉のピークはおそらく11月5日~10日前後だったようだ。その肝心な期間に用事ができ、最後の撮影のチャンスは11月13日。しかも天気予報は雨。それでも土砂降りの雨以外は雨でなしと、五家荘に向かう。

今度は二本杉ルート経由で、水害の被害が少ないと思う「ハチケン谷」の紅葉が狙いだ。二本杉から大きな遠回りをして、ハチケン谷に向かう。京の丈山 山頂を目指すのではなく、登山口までの道沿いの紅葉を求めての山歩きとした。

 

 

残念ながら谷の紅葉は終演。落葉しきり…遅かった。

雨男を自任する自分だけど、時に、曇り空に日が差し、青空が見える…やっぱり来て良かった!と思うも、つかの間、雨は降り続く…

雨は雨でも山歩きは楽しと思えるのは、春の優しい細やかで暖かな雨、夏の熱さましのさっぱりした雨…さすがに11月の雨は重く冷たい。三脚が重い…結果、途中で進軍断念…。

極私的に満足して撮れたのが、車を停めた場所の足元の”1枚”だけだった。

 

 

 

 

2022.10.31

文化

今夏の台風、大雨は想像以上に五家荘の山々に被害をもたらした。下界に居て、宮崎の方が被害甚大かと思っていたが、熊本では五家荘、五木の山々が大きな被害を受けた。10月の末の段階でも、地域をつなぐ動脈となる県道、林道のあちこちが崩落し、地図には今も全面通行止めを表わす×のマークがいくつも付いている。(いよいよ紅葉シーズン、少しでも回復を願いたい)

 

夏の遭難事故で話題になった主峰「国見岳」も被害を受け、山頂の祠も「狂風」に飛ばされ崩壊したそうだ。(守護神Oさん情報) そもそも、その前の大雨で登山口までの林道が崩落したのに、工事もつかのま、更に山頂への道のりは困難になってしまった。僕が五家荘で一番好きな白鳥山への林道も崩落、当分、苔むす世界も見れそうにない。そもそも宮崎の椎葉村にも五家荘を経由していくことが無理になったのだ。人間で言えば、動脈が破断し緊急手術を受け、充分休養が必要な状態の山々になってしまった。

 

国見岳は山の神の棲む神聖な山。何が山の神の怒りに触れたのだろうか。

しばし紅葉の季節迄、五家荘の山に行く機会がないので、僕は実際の山道ではなく歴史の小道に迷い始めた。図書館を覗くと「山の神」「修験道」「山岳宗教」などの書物が棚の一角を占めている。事務所から県立図書館が近いものだから、昼飯食べたら、ちょっと出かけくる…と言って本を漁る日々。

 

今のうちに調べておかなければ、五家荘の修験道も草生し消え去り、分岐に置かれた石碑の文字も見えなくなる。(エラソーに書くが、馬鹿だからすぐ忘れる)

 

ところで、秋は神楽の季節。

本来ならば五家荘も神楽の鉦の音、鈴の音が響く季節で、泉村誌によれば五家荘には、岩奥神楽、本屋敷神楽、葉木神楽、樅木神楽の4っの神楽がある。村誌には各神楽の由来、歌詞、道具などが詳細に記されてある。

山間の集落のあちこちで神楽が奉納され、実りの秋を迎えた谷間に神が舞い降り、歓声が響く景色を想像すると、わくわくしてくる。特に樅木神楽は、泉第八小学校の先生の熱心な取り組みもあり子供神楽も盛んなのだ。※僕が樅木神楽を見学したのは2017年の10月だった。

 

修験道と合わせて神楽の系譜を調べてみる。

山の稜線を越え、日本の神楽の源流、宮崎の神楽の資料に目を向けると、宮崎の神楽には7つの大きな流れがあるとの事。「高千穂系」「延岡・門川系」「高鍋系」「宮崎・日南系」「霧島神舞系」「米良系」そして「椎葉系」

椎葉村には村内26か所に神楽が伝承され、その総称が「椎葉神楽」と呼ばれる。(平成3年国の重要無形文化財指定)

 

椎葉村のお隣、五家荘の神楽も「椎葉系」と推察される。神楽は山伏(修験者)が伝えたと言われ、やっぱりそこには山の神と、神楽と修験道が繋がってくるのだ。特に椎葉神楽は古い形の神楽が残っていて、他の神楽は「神道」が中心なのに、椎葉神楽は修験道の影響が強く、山の神も仏も一緒に祀る内容が特徴だそうだ。

僕がどうしても見たいのが「嶽の枝尾神楽」で、神楽の宿に蓑笠を付けた貧相な男が現れ、宿を借りたいと申しでる。宿主が最初はその男を山の神と分からず問答するところから、神楽は始まるらしい…なんと劇的な!

 

山を登るのは楽しいものだ。五家荘の山道は、山の神、神楽に修験道、例えて言えば、それらがみんな、1本に繋がってくる時空の山旅なのだ。僕が歩いた小道、立った頂上にも山伏の足跡が残っているに違いないと信じたい。道の途中で苔むす石碑を見つけると、消えかかる文字を指でたどり、ひたすら撫でまわしたくなる。

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山伏になりたければ、修行の前に山伏問答が行われる。

「山伏とは何か?」「修験道とは何か?」

山伏になる心得をわきまえているか問われるそうだ。そして宮崎のある神楽の中にも同じ問答がある。

・問い「※是生滅法(ぜしょうめっぽう)とは如何に?」

・答え「夏の霧」

※万物はすべて変転し生滅するもので不変のものは一つとしてないということ。

・問い「生滅滅已(しょうめつめつい)とは如何に?

・答え「秋の露」

※生と滅(=死)の関係がすべて滅び已(や)むこと。

・問い「寂滅為楽(じゃくめついらく)とは如何に?

・答え「冬の霜」

※迷いの世界から離れた心安らかな悟りの境地が、楽しいものであるということ。

仏教の教え「涅槃経」の中の「是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」の問答が神楽の中にあるらしい。

 

山伏には自ら谷に捨て身する究極の修行もあった。(平安時代)

自ら犯した罪と、世間の人が犯した罪、穢れを背負い、谷に身を捨てる修行(代受苦滅罪)で、そのことで山伏は永遠の精神を獲得しいつまでも衆生を救う事が出来るという修行、思想。それと同じ思いで、自分の精神を試し鍛える意味で、彼らは敢えて危険な崖を登ったり下りたりされているのだろうか。

 

今日も図書館で重いページをめくる…

「修験道の地域的展開」宮家準 著(持ち出し禁マーク付き)

※椎葉村と肥後の国境には烏帽子岳 ※別名蜜多羅山(1126m)があり、山頂の南に腹巻崖と言われる絶壁があり、鎖業場となっていた…

はて、標高が今の烏帽子岳とは違うけど、確かに絶壁はある…まさか、こんな場所で山伏は修行されていたのだろうか?(冷汗)

2022.09.19

文化

五家荘に鎮座する国見岳は標1739メートル。熊本県最高峰の山なのだ。熊本県民のほとんどが熊本の最高峰は阿蘇山と思っているが、そうではないし、そもそも阿蘇山という山は存在せず高岳、中岳という山々の総称なのだ。五家荘と同じ烏帽子岳という山もある。ついでに調べていくと、阿蘇には西巌殿寺(さいがんでんじ)という天台宗の寺院があり、古くから阿蘇山修験道の拠点として、九州の天台宗の中で最高位の寺格を持つ寺院だったそうだ。

五家荘の山々にも修験道の山があり、そこらも共通点がある。神仏習合、山の神さんがみんなの暮らしを見守ってくれていたのだし、みんなの気持ちは山の神さんと自然とともにあったのだろう。そして西巌殿寺は釈迦院と同じく、明治政府の廃仏稀釈で廃寺が決まり山伏は還俗(げんぞく)した。※還俗とは、戒律を堅持する僧侶が在俗者・俗人に戻る事。

 

泉村誌を読むに、国見岳は過去に大々的な調査が行われた。

※昭和62年(1987) 現地を視察した研究者が次のような指摘をした。

山頂にある山形の巨大岩は祭祀の拠点「磐座(いわくら)」とみられる。そして山頂付近の調査で西側の磐座の前に柱の穴らしきくぼみがあり、表土をさぐると、4か所の穴が確認された。

この結果を踏まえて、平成4年(1992年)5月の3日間、その4か所と中心部の穴跡の発掘調査が行われた。

◆調査主体者

国見岳の神籬(ひもろぎ)保存会会長・井伊玄太郎氏 (早稲田大学名誉教授)

保存会事務局 中島和子 (京都精華大学教授)

熊本県文化課、泉村教育委員会、などなどの面々

その後、再調査が平成14年(2002年)7月に行われた。

◆調査主体 NPO古代遺跡研究所 所長 中島和子

調査団 日本考古学協会。山鹿市立博物館長 隈昭志氏の面々

東西南北、深さ、6メートルのトレンチ調査が行われ、

結果は残念ながら、新しい発見はなく、

今後は更なる大々的な調査が求められる…と、書いてあるところで終わり。

…おそらく当時の詳しい調査結果はどこかに保存してあるのだろうが、僕には見る事はできない。

それ以上はネットで、国見岳に関連する情報を深堀りするしかない。

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そもそも※昭和62年(1987) 現地を視察した「研究者」とは誰か?

ついでに言えば、何故その研究者の氏名が記されていないのか?

 

単純に考えれば、平成4年に調査された、調査主体者の

国見岳の神籬(ひもろぎ)保存会会長・井伊玄太郎氏の事だと思うのだけど。

神籬(ひもろぎ)とは、神道において神社や神棚以外の場所で祭祀を行う場合、

臨時に神を迎えるための依り代となるもの。

国見岳山頂の巨岩を山の神様の代わり「神籬」として、当時の人々は山の神様に祈りを捧げていたのだろう。「神籬」は現代、地鎮祭などで用いられている。ちなみに、国見岳の神籬(ひもろぎ)保存会の情報は、ネットの検索にも出てこない。全国にも国見岳という名の山が多々あり、同名の「国見岳」のネットワークに何か深い意味があるのだろうが、井伊玄太郎教授の書かれた本に国見岳にまつわるものが見当たらない。

さて、次に出てくる方

国見岳の神籬(ひもろぎ)保存会事務局 中島和子(よりこ)氏

中島教授は2回目の調査主体のNPO古代遺跡研究所所長でもある。古代遺跡研究や、磐座についての論文を多数発表されているが、古代遺跡研究所の活動資料はインタ―ネットでは見当たらない。ただ、全国で古代遺跡、縄文についての講演活動をされていて(過去には熊本でも講演されていた)その参加者のブログなどで、多少の研究の内容をつかむことが出来た。

中島氏の略歴には、「古代における政治と祀り」をテーマに日本とアメリカ大陸先住民の古代文化を研究中。九州と六甲山・甲山周辺の磐座(いわくら)を守る運動を起こしていると書かれてある。

磐座(いわくら)とは、「神の鎮座するところ。神の御座」。「そこに神を招いて祭りをした岩石。その存在地は聖域とされた」との意味。

 

五家荘の国見岳の山頂、巨岩は、つまり磐座、神籬の場、

神の鎮座する場所でもあり、古代から神聖な祀りの場だったのだ。

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◆中島教授の講演の一部(講演を聞いた人のブログの要約)

 

漢文の古事記では日本語の言霊の真意は書き尽くせない。

(例)天地初発之時 於高天原 成神名 天之御中主神…

と漢文で書かれているが、日本語の言霊では

「あめつち はじめてひらけしとき たかまのはらに なれる

かみのなは あめのみなかぬしのかみ・・・」

 

つまり、漢文の「天地」は「てんち」てんとちという事なのが、

「あめつち」となると「あ」「め」「つ」「ち」の一つひとつの

言葉に沢山の意味が含まれている。

例えば

「あ」…目に見えない微粒子。宇宙に満ち満ちている。根源。純粋などの意味

「め」…芽。始め。動き。

「つ」…集い。つくる。

「ち」…凝縮。力の根源。

イワクラ…天津神に降りていただく所。だから、天に近い高いところにつくる。

古代の祈りは太陽の光の暖かさに感謝し、自然の恵みが豊かであることに喜び、個人のみでなく全てのものが豊かになるようにという思いがある。それなのに、現代の人間の祈りといえば自己の欲望や自分勝手な願いばかりが多く、神社でもそのような祈願が主流になっていることを中島教授は嘆かれていたようだ。

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磐座について深堀していくと、日本磐座学会というものにたどり着く。学会は全国の磐座についての情報を発信したり、講演活動もある。

フェイスブックも開設され「生きた」情報がどんどん公開されている。国見岳の神籬(ひもろぎ)保存会とは、かすかに道が繋がっているような気がする。

http://iwakura.main.jp/

 

国見岳がきっかけで、インターネットの情報の森の中、又僕は道に迷いつつある。(苦笑)

8月に国見岳での遭難事故があった。無事、救助されて良かったと思う。僕も同じく五家荘の山での遭難経験者だが、五家荘の山は深く、いったん間違って降りたり、落ちたりすると中々引き返せないのが実情なのだ。しかもその時は自分がどこにいるのかも分からなくなる。迷ったときは、その場所に戻るのが鉄則だが、谷底からその場所を見上げるに、そこまで戻るに相当な体力が居るので、そのまま、助かりそうな場所を目指して歩き始める、森の深みにはまるわけだ。

今、国見岳の登山口までの林道は崩壊し、僕の現状では捜索の手伝いに行くにも登山口までの林道の途中で体力が切れ、うずくまり、捜索メンバーから保護されるのも恥ずかしいので、捜索には参加出来なかった。つまり遭難された方の無事を祈るしかなかった。

 

8月の末に、たまたま坂本村で山好きの老齢の方と出会い、五家荘の山の話題になった。その方は数10年も前に国見岳に登った事があり、友人が山頂近くで遭難されたそうだ、友人は1日かかり谷底から這い上がり助かったそうだが、その時の国見岳の山頂は今の展望のいい山頂とは違い、うっそうとした森だったそうだ。今の五家荘は強風で尾根の樹々も倒れ、見晴らしもよくなったが、当時は深い森だったのかもしれない。その森の中に磐座は鎮座されていたのだ。国見岳で執り行われた神籬の儀式の景色を想像する。

中島教授の指摘の通り、現在の社寺、宗教で、人は物欲まみれの祈願ばかりで、逆に神も仏様も逃げ出してしまっているようだ。

古来、日本人は自然の山や岩、木、海などに神が宿っていると信じ、信仰の対象としてきた。古代の神道では神社を建てて社殿の中に神を祀るのではなく、祭りの時はその時々に神を招いて執り行った。その祭りのシンボルが今も国見岳に残っているのは、何ともこころ強いではないか。

もう、めったに山頂まではいけないが、山道を歩いていて見つける石ころでも、神が居ると信じたら、それが神と信じたいと僕は思いたい。それだけで古代の神と人と、交信できる気がする。

家で寝ていて、国見岳で執り行われた神籬の儀式の景色を想像すると、ぽっかり天井が開き、山の夜空が広がる幻想を一人、見る。

2022.08.21

文化

廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)…そう2月6日の雑文録(金海山 釈迦院)で書いた、薩摩藩らが、徳川政府との戦に勝つため、無理やり京都の天皇を政治利用し「錦の御旗」を掲げ、明治維新を達成、全国津々浦々、各集落毎にある神社を合祀しお寺を廃止、一町村一神社を標準とせよという無茶苦茶な事を庶民に押し付けた法律が「廃仏稀釈」なのだ。

明治元年(1868)明治政府によって出された神仏習合(しゅうごう)を禁じた命令で、全国に仏教排斥運動が起った。土着の神と仏様さまが仲良く暮らしていたのを追い出しこれから天皇を神とせよというもの。五家荘でも釈迦院が被害に遭い仏像が廃棄された(一部、かくまわれて復活) 。天皇は人から生きた神に大変身…

釈迦院は九州山地の修験道の拠点の一つ。全盛期は西の高野山とも呼ばれ、天台・真言・禅・浄土宗の道場、二寺、75坊中(僧の住む家)が並び立ち一大聖地だった。当時は尾根伝いに山伏が修行し時に山人の病気、ケガをなおし、仏様の教えを説いて回った。二本杉に祀られてあるのも、お大師様(弘法大師)の像。

五家荘の尺間神社の建立のきっかけは、五家荘の庄屋の一つ「左座家」にまつわる言い伝えにから。ある時、左座家の4代目の亀喜が原因不明の病気で突然、床に臥せてしまった。日夜、熱にうなされ、いろいろな治療に手を尽くすが容態は悪化するばかり。親戚縁者集まるに、病の原因は左座家に代々伝わる「備前長船」という刀でなはなかろかと誰かが言い出した。屋敷に泊まる人も亀喜と同様、夜な夜な熱が出て、悪夢にうなされる事が続いたのだ。奇怪なことに翌朝、うなされた人が床の間に目をやると、飾ってあった「備前長船」の白刃が鞘から顔をだしている。きっとこの妖刀の呪いが原因なのだ。

五家荘には庄屋だった左座家、緒形家の屋敷が今でも保存され、見学も自由となっている。薄暗い床の間には板で棚が架けられ長い板、短い板が上下平行して取り付けてある。聞くところによると、当時、争いなどが起った時に討ち取った敵の大将の生首を床の間の棚に置いて戦果を誇る習わしがあったという。首から流れ出た血が直接落ちて畳を汚さないように、階段状にその床の間の板を流れ落ちる仕組みらしい。このような事は当時の戦では当たり前なのだろうけど。

さて、4代目の病気をどうするか?いろいろ聞いて回るに大分の尺間神社 (1573年 天正元年建立 )の神様なら何とかなるのではないかという情報を左座家は得て、中畑萬吉という人に無理を言い大分の尺間神社までお参りを頼んだ。すると神社の神様から中畑さんに亀喜さんの病気のもとは、刀のたたりというお告げがあった。

そこで左座家の5代目は遠路、大分の尺間神社に行き神社に備前長船を収め、80日間山に籠もり荒行した。すると4代目の病気は嘘のように完治、旅人もうなされることはなくなった。その事がきっかけで地元の人々は本家・尺間神社に分祀をお願いし、今の西の岩の尺間神社が出来たのだ。村に本物の山の神様が来たとみんなは大喜びだったという。閉ざされた山里、五家荘。今のようにインターネットもパソコンもない。五家荘と大分の尺間神社をつなぐ役目は山伏、信仰心のネットワークが役目を果たしたのだろう。

僕に神のお告げがあったわけではないが、やはり、どうしても五家荘の尺間神社の事が気になる。釈迦院と尺間神社、当然大きな時間差があり、関係性は皆無だろうけど、閉ざされた山間地の宗教心を基に考えると、草むらに消えかけたもう一つの尾根の道が微かに見え隠れするような気がする。

そう思いながら、一度、尺間神社の鳥居をくぐるも体力不足、根性なしで断念、引き返した自分を恥じ、もう一度、尺間神社の本殿に向かう事にした。

その日は、山の神のお告げ、手助けか、鳥居をくぐると、崩落した参道の斜面に太い、黒と黄色に編まれたビニールのロープがするすると垂れ下がっていた。

体重70キロの重さに耐えながらも、崩落した急坂をロープにすがりながら登り始める。道の幅は一人分の幅しかない。時々、岩が顔を出し坂は更に狭く急になる。頭の上に樹々の枝が伸び、進行を邪魔する。ロープはとうとう本殿の手前まで繋がれていた。おそらく、地元の人々が参拝するために設置されたのだろう。左ひざを痛め、バランスのとれない僕の体は最後までロープにお世話になってしまった。

そうして、尖った岩山の上に、ちょうど4畳半くらいの木造の本宮があった。標高917メートル。もう体もフラフラなのだが本宮の周りを見るに、本当に岩場の頂上に置かれているのが分った。建物の周りをぐるり回ると基礎部分は平たく割られた岩を積み上げた薄い石垣の上にバランスよく建てられていたのだ。

足元を見ると、断崖絶壁。木の枝のすきまから苔むす岩の壁面が見える。足元から吹き上がる冷たい風に身も心も凍り付く。本宮の裏に回ると、岩場を少し降りる道があり、その向こうにも岩場の上に同じ大きさの建物奥宮がある。それにしてもよく、こんな場所で祈祷しているものだ。さすがに奥の宮まで怖くて行けない。恐怖で固まり、体が動けなくなる。カメラバックからスローモーションのような動作でカメラを出し、怖れながら写真を撮る。

※以前読んだ資料で、本殿は「びゃくらんの滝」の上にありますと記されていた記憶がよみがえる。つまりここは滝の最上部にあるのか…と思うと余計に怖い。しばし休憩、足元に気を付け、ロープにすがりながら帰路を急ぐ。

本宮への道など、地元の山人から言わせれば、なんでもない山道だろうし、恐れることはないのだろう。恐れているのは無信心、邪鬼の塊、罰当たりなよそ者の僕くらいだ。

嗚呼、尺間権現様…時代は大きく変わりました。人も少なくなりました。それでも、山の神様は山人の健康祈願、暮らしを見守ってくれているとみんなは信じております。

これからも、本宮から長いロープを一本、下界に垂らしておいてください。

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※尺間神社の本来の意味は、魔を払う意味の釈魔大権現。大権現の名称から尺間神社に変身(変名)したのは廃仏毀釈の影響だと思う。残念な事に今の尺間神社に電話するも愛想の悪い男の低い声で怪しまれ不快な思いをした。地元の文化施設の担当に聞いてもたらいまわしにされ、ほとんど情報はなかった。(苦笑)

五家荘の尺間神社の建立は、1904年(明治37年)。廃仏稀釈とは無縁で、山の神さんという事で信仰、親しまれてきたのではないか。大正に入ってからは、不合理な神社合祀がされることはなくなり1920年(大正9年)「廃仏毀釈」運動は終息した。

※九州で廃仏毀釈の被害を受けた有名な神社は英彦山

英彦山は、羽黒山(山形県)、熊野大峰山(奈良県)とともに日本三大修験山のひとつとされる。江戸時代の最盛期には3000人の衆徒と800の坊舎(宿泊場)があり九州地域の崇敬を集めてきた霊山。しかし明治維新の廃仏毀釈と神仏分離令、修験道禁止令によって、神仏習合および仏教に関わる文化財の多くは人為的に破壊され、口伝を主とする修験道文化の伝統はほぼ途絶えた。明治政府に反抗する多くの修験者が投獄され、亡くなった。

 

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