熊本県 八代市 泉町(旧泉村) 五家荘
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雑文録

2018.11.13

秋も終盤。五家荘の紅葉情報もフェイスブックや何やらで、どんどん入ってくる。みんな紅葉の森の中でたっぷり秋を楽しまれ、なんとうらやましいことか。二本杉の峠の状況はどうの、大金峰、小金峰はどうの。当方、病気で2年間の運転禁止の身。海抜ゼロメートル、家の窓からは秋の陽射しを銀色に反射する、波のうねる景色しか見えない。裏山の紅葉もちらほらだが、昨今の塩害の影響で、こころもち色がくすんで見える。

仕事に出るのも週に3日。休みの日は、ふらふら杖を突きながら、近くを散歩する。近所の目も気になる日々だ。「竹田さんとこ、ちょっとおかしかばい」「車も停まったまま」「仕事は辞めらした?会社首にならした?」「何か杖ついて、病気だろか?」「それにしても猫が多か(家に6匹)」「何匹飼ったら気が済む?(裏玄関に最低4匹)」「脳の病気?何をするか分からん人」これまで、これまで朝から夜までほとんど居ない人間が突然存在し、辺りをうろつきまわると特に目立ってしまうのだ。(自意識過剰、被害妄想的でもある…)

ついにたまらず、家人に懇願し、山まで車で運んでもらう。いきなり五家荘は無理で、五木村の入り口、大通り峠を降り、大滝まで紅葉狩りだ。まだ五木の山の紅葉は遅く、カメラを持つ気にならない。五家荘ならすごいだろうに。大滝に向かう小道に添った小川に降りて、それらしき景色を撮る。時間ばかりかかり、あきらめる。家人はひたすらドングリを拾い始める。山の空気を吸えるだけでも今は幸せか。

そういえば去年歩いた、石楠越から、山犬切、七遍巡り、水上越の紅葉は良かった。登山道に黄色く積もった落ち葉を足でかき分けながら、進むたびに、深山の秋は深まり、秋空を見上げると、両手を広げた木々の色づいた葉の隙間から秋陽が射し込み目に染みる。帰路の途中、林道の空き地に車を停め、車いすの人が画板を立て、赤や黄色に染まった稜線の景色を眺めながら絵筆をふるっている姿に気が付いた。つい僕も車を停め、その景色を写真に撮ろうとした。その人はコーヒー片手に、山のひと時を楽しんでいた。僕の下手な写真は一瞬で終わるが、画人の絵に流れる時は永遠のようだ。彼は今年も山に向かったに違いない。山は登らずともそんな楽しみ方もあるのだろう。

ほとんど収穫のない山行だったけど、気が付くと家の玄関の石榴の木にたくさんの実がなっていた。子供のころはその実をちぎって、よく食べていた。秋が深まると、裏山の三角岳にもアケビやうべの実がなり、小学校の友人達と、ナップサックを背負い、千切りに出かけたものだ。今、そんな季節だが、もう裏山には人影さえも見ない。僕一人、故郷に改めて帰ってきた気分なのだ。

今年の秋の色は赤く、口に入れるとなつかしく、すっぱい。

 

 

2018.10.30

山行

2月のクモ膜下出血時、集中治療室のベットの上、僕の開頭手術は2日後になり、時間つぶしに家人がテレビをレンタルしてくれた。点滴だのいろいろな治療具やチューブが下がるわずかな隙間、レンタルしてくれたテレビの画面は僕の左の頭の真横にあった。何を見るか、基本NHKしか見ないので、たまたまつけた番組がタモリと芸人作家の又吉直樹氏が人間の脳内を探索するものだった。スタジオには脳内を模したセットが作られていて、その模様はまるでうっそうとしたジャングルだった。至る所に樹々が生い茂り、二人の頭上には様々な蔦や枝が絡まり、まっすぐ歩くこともできない。それが脳の血管や神経なのだ。そんな二人の背後から雷鳴が響き、フラッシュのような赤い灯、青い灯が瞬間明滅する。解説ではその光の明滅が、人の脳にアイデァがひらめいた時の光景だそうだ。作家の又吉氏の脳裏に物語がひらめくと、氏の脳内の神経の森にはいくつも光が明滅するのだ。

なんと皮肉な番組か、2日後、僕の額の右の頭蓋骨は丸く開頭され、血だらけの脳の中から、丸く大きく膨らんだ二つの動脈瘤の首がつまみ出され、三か所チタンのクリップで止められ、また閉じられたのだ。10時間にも及ぶ手術は成功し、奇跡的に僕の体は起き上がり、点滴を下げながら、ゆらゆら病院内をうろつき回った。それから1か月後、僕は熊本市内の病院を退院し、故郷の海を臨む丘の上の病院に転院し、リハビリを1ヶ月終えて、また日常生活に戻った。周りのみんなはそんな僕を温かく迎え入れ、口をそろえて「無理をしないように」と諫めた。命拾いをした僕だが、どこまでが無理で、無理でないか分からない。いつのまにか、これまで通り車を運転し、五家荘の山に向かい、酸欠で急坂は登れないにしても、何とか山歩きはできて、これまでもたくさんの美しい花々と出会うことができた。

そして11月。五家荘の山々が最も色付く最高の季節となる。五家荘図鑑の写真集の基礎作りも終わり、あと半月で完成する予定で、写真の整理を依頼していたJスタジオの徳永さんの事務所を出る時だった。僕は左頬の筋肉が固くなり、顔が崩れるのを感じ、その場で全身硬直し、倒れた。頭の上で徳永さんが「救急車!」と叫ぶ声が何度か聞こえた。

診断はクモ膜下の傷が原因だろうか、「てんかん」だった。てんかんの強直発作は発作の中でも一番激しく、脳には電気が流れているが、強直発作は脳全体の神経細胞のスイッチが一斉にオンとなり、過剰な興奮状態で意識が無くなり、体のコントロールも効かない状態になるとのことだそうだ。

悲しいかな、これから2年間は僕は車の運転は禁止となる。そしててんかんを抑える薬を飲み続ける必要もある。僕の脳は手術前のテレビの場面のように、いったんスイッチが入ると、脳神経の茂みの中には雷鳴が響き渡り、土砂降りの雨のぬかるみ状態となるのだ。往復2時間の通勤時間、何が起こるか分からない。まぁ、生きているだけで幸運と言うべきか、去年の遭難騒ぎから僕は3回も命拾いをして、今度は他人に迷惑をかける事は避けなければならない。

僕はベットに体を横たえ、ある谷の景色を思い出す。夏の日、苔むした流木の上に生い茂る緑の茂みの中に、僕は黄色い花弁の花を見つけた。今や希少となった、キレンゲショウマの花が二つ。峠の下にはネットで保護された群生地があるけど、自然の森の中のキレンゲショウマの花を見るのは初めてだ。僕は写真を撮るため、流木を抱きしめよじ登り、泥だらけでそっと這い上がり、無理な姿勢でシャッターを切った。翌週、僕はまた同じ森の中に居た。盗掘されていませんように。鹿に食べられていませんように。

黄色い蕾はすでに開花し、花びらが二組、緑の苔の上に散っている。僕はそっと指先で拾い上げる。周りをみると、そばにはまだ、青い蕾がある。緑の森で開花する天然のフェルトのようなキレンゲショウマの花の開花をどうしてもカメラに収めたい。純白ではない、純黄のやさしい花びら。僕は2年後、五家荘の山で、その蕾を探すだろう。雷鳴が鳴ろうが、雨が降ろうが、森で迷うことはない。そこは僕の秘密の場所なのだ。

※ぼくがてんかんを発症するとき、脳の外にも怪しい電波を発生するらしい。徳永さん曰く、僕を救急車で済生会病院に送り込んだ日の夜、激しい金縛りにあったそうである。電話で謝意を伝えたら、氏から「頼むから当分、大人しくしといてくれ」と懇願された。

2018.10.21

山行

五家荘図鑑というタイトルはハッタリである。正式な図鑑と勘違いして見知らぬ人にサイトに来てもらうための姑息な手段である。ホームページを見てもらい、なあんだ、これは図鑑ではないじゃないかと、期待を裏切る、俗に言う炎上商法である。が、なかなかサイトをみる人の数が増えない。と、いうことはそもそも五家荘に関心のある人、図鑑に関心のある人が少ないからではないかと最近自分を慰め言い訳をする。炎上どころか、枯れ葉がくすぶってのろしのような白い煙が一筋立っているように見えなくもない。それで、更に言い訳を考えたのが「極私的」というサブタイトルだ。(極道的ではない)何も誰から補助金もらっているわけなく、すべて自費、自己責任で極私的に勝手にします。

結果、11月に発行予定の五家荘図鑑アナログ版(写真集)では五家荘の花の名前(属、科、目)を表記しないことにした。本気で図鑑にしようと思い写真を撮ると、ピントを全体に合わせ、花だけでなく葉の形も正確に撮る必要がある。つまり、本物の図鑑片手に写真を撮る必要があるのだ。ピントの甘い、イメージ優先の僕の写真は、図鑑には絶対不向きだ。花の名前の検索も読者に一任。更に言えば、山の名前も滝の名前も記載しません。人工的、観光用のつり橋、建築物も写真集には掲載しません。山や森、花の写真で充分でしょう。五家荘がどこにあるのか、ルートも詳しく説明しません。時間通りに事が運ばないのが山の魅力なのです。

半信半疑で、事務所のI君が、「本当に写真集を出すんですか?と真顔で聞く」「もちろん本気と」答えると、「そんなお金どこにあるんですか?」と心配そうだ。「確かにないものは、ない。家猫も一気に3匹増え、合計6匹、彼らの食費も大変なのだが」「僕の葬式で販売し、暴利をむさぼる。みんな同情してたくさん買ってくれるかもしれない」「儲かったとしてもその時、僕は故人なのだがね」「そもそもすでに香典払わされていますから、そりゃあ押し売りですよ」とあきらめ口調のI君。(すでに、手伝わされるのを覚悟している)嗚呼、お金のことを考えると、頭がよけいずきずきするなぁ。(仮病ではない)

五家荘図鑑の写真集の中で、唯一、名前の表記がある標本写真がある。それは僕の事だ。図鑑の標本箱の中で、ガラス越しに、なんとも言えぬ、標本一人。ピンに止められて、山の森羅万象、みんなと一緒に閉じられる人生があれば、こんな嬉しいことはない。

こんなくだらない、あとがき書いて、実は長生きするつもりだが、そればかりは運命。何時どうなるか、わからない事情を脳に抱えて、これから紅葉の五家荘の山歩きのプランを楽しみに考えているのだ。写真に熱中しすぎて道に迷い、落ち葉に埋もれないように。

2018.10.12

山行

ひと月近くも山に足が向かないと流石に、気分が落ち着かなくなる。昨日はあいにくの雨だったが仕事のついでに五家荘に向かった。もちろん土砂降りの雨は苦手だが、昨日のようなしとしとと、濡れた雨は嫌いではない。まだ山には紅葉の気配がない。仕事のついでといいながら、自宅の宇城市から、二本杉(東山本店でいつもフキの佃煮を買う)、樅木の山女魚荘さん、椎原、五木 (山奥に突然!現る、新興振興住宅地!)を通り、山を降り、人吉駅の温泉観光組合で仕事をする古くからの知人Nさんに会いに行くというのが、僕の壮大な、自分勝手な仕事のルートである。五家荘の山道を運転する途中で、運よくいろいろな花々を見かけた。みんな、やさしい雨にしっとり濡れていい顔をしていた。その顔を写真に撮らせてもらう。そんなひと時が、僕にとっては本当に貴重な心穏やかな時間なのだ。カメラは二代目、ニコンのD7200に交代となる。先代のD300は僕の不注意から、ほんの一瞬で壊れた。病気を言い訳に最近僕は、しょっちゅうミスをする。しかし愛機D300 の故障はショックだった。大事なカメラが一瞬で壊れるとは。D7200は中古ながら、僕を慰めるように、カシャリカシャリと軽いシャッター音を響かせてくれる。山女魚荘の女将曰く、今年の樅木神楽は10月27日らしいが、残念ながら、今回ばかりは大事をとり家で大人しくすることにした。

五家荘から、五木までの途中、思い出の場所にたちよる。ほぼ20年前の春、僕は家族でたまたまその谷間の小さな木造の小学校に立ち寄った。運動場には大きな桜の木が一本、満開だった。木造二階建の校舎の廊下には小さな水槽があり、山女魚が泳いでいた。童謡に歌われるような夢のような景色だ。小さな娘は、その不思議な世界に浸るように校庭を駆け回った。その年の夏、我が家はその場所を再訪し、河原でキャンプをした。火をたくと孵化したばかりの羽虫が集まり、裏山では鹿が鳴いた。校門横では「花いっぱい運動」で表彰された、自慢の花壇に季節の花が咲き誇っていた。今でも悔やむが、その時、写真は一枚も撮っていない。その悔しさの分、当時の景色が壊れかけた僕の記憶に鮮明によみがえる、穏やかで幸せなひと時。翌春、桜の満開の景色を期待して訪れた僕の目の前に広がった景色は信じられないものだった。(その小学校の廃校の様子はNHKの番組でも特集されていた。)今回もわざわざ、その場所に僕は降り立ち、その時と唯一不変の錆びついた橋を写真に撮る。そして、花壇跡に咲く、名も知らぬ、ひっそりと咲く花の写真を撮った。がれきの山に封印された、人々の穏やかな時間。その場だけに生い茂るセイタカアワダチ草の黄色い花がお供えの花となる。長い長い寄り道。人吉に着いたのは夕方。相変わらずNさんは元気で、彼ならこの街をきっと豊かな街にしてくると信じて、高速道に乗り、帰路に就く。

 

 

2018.10.08

最近、天候や仕事の都合もあり、中々山に登れずにいる。山に登るというよりも、実際は病気の都合で、”山歩き”なんだけど。仕事に出る前に途中の宇土市のオコシキ海岸の道の駅に車を止め、頑張ってなんとか30分歩く。朝、ほとんど人は居ないので、時々瞑想しながら芝生の上を歩き、気が付くとグラウンドの周辺に植えられた棕櫚(シュロ・ヤシ)の樹に衝突しそうになる。夏から週に2回から3回、道の駅で朝の準備に追われる人からみたら、帽子を被った変な親父がふらふら歩いている姿を怪しんでいるにちがいない。30分の瞑想歩きは気持ちがいいものなのだ。その30分間で、僕の体内は海から生まれた酸素で満ちあふれることになる。

瞑想の師、小池龍之介氏(東京・月読寺住職)の指導によると、氏の座禅(瞑想)呼吸法は鼻で息を吸い、鼻で息を吐く。鼻からすった空気が脳を回り、体内に入り、お腹をぐるりと回り、また逆方向に鼻から出ていくものです(そして心が浄化される!)とのことだが、未熟者の僕は、流石にそんな感覚にはならない。更に師が言うには、この瞑想は鬱や精神的に不安定な方には不向きと書いてあったが、もう遅い、始めてしまったものだから仕方ない。

最近、毎晩パキシル一錠飲んでからでないと、眠れない状態が続く。飲み忘れると深夜、頭の中が熱くなりいろいろな思いが重なり、とても眠れなくなる。さすがに手術した傷跡は痛まぬが、頭が重い時は朝からパキシル一錠飲んで仕事に行く。30分の海の酸素はあっという間に会社に着く頃は消え失せ、雑務に追われることとなる。

ああ、もうちょっと、体調、気分が整えば、山に行けるのに。そして山の空気を吸いながら瞑想し、僕の体は山の酸素に満たされるのだ。去年の10月3日、僕は山で一人遭難し、奇跡的に自力で帰還を果たした。老いた母は動転し、親戚中に電話をかけまくっていた。帰宅すると僕はまるで浦島太郎のような気分になるくらい、家の中は騒々しかった。今から思うに、10月3日は母の誕生日だった。

去年の遭難、2月のクモ膜下手術、2度の危機を乗り越え、命拾いした僕だが、3回目はどうなるか分からない。どうなるか分からないから、時間だけは大事にせねばと思う。人も生き物も、生まれたことは良かった、良かった。それだけを受け入れる。僕が瞑想中にぶち当たりかける、公園の棕櫚の大木の枯れた葉の長い重なりのすきまからは、スズメたちのさえずり、語り合う声が聞こえる。そして晴れた空に向かい、鳥たちは一斉に飛び出し始める。解き放たれる黒い丸い影たち。今年の秋は何度も台風が襲ってきたが、その大きな台風の強風、大雨からも、小鳥たちは枯れた葉の中でひそやかに身を摺り寄せ、お互い台風が去るのをじっと待ったのだろう。良かった、良かった。僕も良かった、君たちも良かった。僕はこんな年になって、そういうことにようやく気が付いた。

2018.09.24

山行

 

五家荘図鑑を写真集として発行することに。極私的なので、もちろん私費での発行とナリマス。ホーページなので、写真をどんどん放り込めばいいのだけど、それと同時に過去の写真もどんどん消えていくような気がして、ここらで一区切り、アナログで残して自己満足に浸るのもいいかと思った次第。幸運にもネットで検索して、熊本でとても細やかで優秀な編集者の方と接点ができて、彼女なら丸投げもいいかと思ったのだ。五家荘図鑑の「図鑑」というタイトルで山野草の正式な図鑑と誤解される恐れもあるけど、極私的ということで勘弁してもらおうと思う。

そもそも図鑑を作るために山の花々の写真を撮っても、堅苦しい写真になるに違いない。あくまでも僕の頭脳の中に浮かび上がる図鑑なのだ。僕は植物について無知で、ツユクサを撮影して、この宇宙からやってきたような、厚化粧の女のような花はなんだと、(少し)感動したほどである。写真集の花に名前以外はつけないようにするつもり。見る人に、「これはなんだと思って欲しい」のだ。その花の注釈に、山間部の林道の周辺によくみられる花。多年草(要するにそんな珍しい花ではないもんね、気が付けば毎年咲くよ)とか書いてあったら興ざめではないか。自分できれいとおもったから写真に撮り紹介するのだ。あれこれ言う人は、それこそ正式な図鑑、写真集を買って下さいね。

ここ一年は体調管理の都合で、「山登り」ではなく、「山歩き」に徹することにした。山頂を目指してばかりいると、森に鳴く、鳥たちの声をじっくり聴けない気がする。スマホの録音機能も品質が高く、たまに録音して楽しむことにした。

昨今、報道されているスポーツ界のパワハラ問題だが登山は他のスポーツに比べて「健康的」だと思う。速さを競うのではなく、みんな各人で汗をかき、景色を眺め、写真を撮り、無事に帰還できれば成功なのだ。ヒトはそもそも自然に勝てないのだから。

そんな登山界でも過去にはパワハラ事件が多々あった。実は僕は、高校時代山岳部(宇土高校)だったのだ。(なんと40年前!)その当時、登山ブーム全盛で、今と違い山に登るのはほとんどが若者だった。たまたま入部した山岳部では、猛特訓の日々。同級生やブロックを背負い、近くの山に登る・・・我が、宇土高校山岳部の伝統を汚すわけにはいかないと言うわけだ。今は見かけることもない「キスリング」という、厚い帆布でできた別名「カニ」と呼ばれる横長のリュックサックにパンパンに荷物を入れ、重い革靴を履いて、山道を登るのだ。(電車の改札を通るのに、キスリングでは必ず順番に引っかかったっけ)

そんな無敵な山岳部で、僕は阿蘇、九重、屋久島と3年の夏まで、九州の山々を登った。今から思い返すにその当時の「登山そのもの」について楽しい思い出なんかほとんどない。それを証拠に、その当時のメンバーで登山を続けているのは、わずか2、3人なのだ。(僕だって数年前に、登山を再開した)高校を出て京都に行き夏に一人で北アルプスを縦走した時の楽しさよ。もう伝統も、先輩も居ない!喉が渇いたら好きに水が飲めるのだ!荷物は重いが心は軽く歩みを進めると、異様な集団発見!全員丸坊主、細くて急な登山道を蟻のようにあえいで登る「カニ集団」その大きな甲羅にはマジックで「忍耐」「努力」「根性」と大書してある。その「忍耐」「努力」「根性」も文字がゆらゆら、僕の目の前で坂を登るのだ。これは登山ではない、訓練だ。(大人のバカな体験ビジネススクールでは今も見かける光景!)

そして、足下を見ると、雪渓を同じような荷物を背負い、あえぎ、登る大学山岳部!最後尾にフラフラしながら、山のような荷物を背中に積みながら、集団についていくのに必死な新入生・・・のお尻をピッケルで激しく叩きながらけしかける大先輩(は背中には軽いディパック…)そんなサイクルでの登山ブームが長続きするはずがない、若者をみんなでよってたかって、登山を嫌いにさせていたのだから。だから今の、逆襲ともいえる中高年の楽しい登山を僕は「健康的」だと思うのだ。

高校時代で登山に絡む、唯一、馬鹿で楽しい話を思い出す。仕事で知り合った原山さんも僕と同級生で、たまたま鹿本高校の山岳だった。原山さん曰く、「ほら、県内の山岳部が合同でキャンプする大会があったでしょ。その当時の慣例で、夜になると各高校のテントに訪問して、お菓子屋らジュースやら、楽しい話をするひと時があったでしょ」僕曰く「うちはそんなことは絶対禁止やった」原山氏デレデレ思い出しながら、「そら残念やねー」それで、僕らは第一高校女子山岳部のテントを訪問したわけ」「こんばんわーって、お菓子やミカンもって」「ほんで楽しい高校生同志の夜の会話も終わり、夜も更けて」「テントに帰ろうとすると、僕らのテントがないとよ、炎上してたんだよ。折角顧問の先生にお願いして買ってもらった最新型のドーム型のテントに、ランタンが倒れて大炎上、もちろん先生からは大目玉やった(当然やろ!)

原山氏と山の話をすると決まって出る思い出話。大企業の社員でもうすぐ定年の原山さん。

さりげなく僕に定年後の生活の心配をする。「なぁんもすることは、なか」と言うが。僕がどうしてやることも出来ない。山登りを再開したらどうかと勧めてみようと思う。

 

2018.09.13

コロンブスの卵あり。あれこれいろいろ考えるより、素直に考えた時がよい時もある。「なぁんだそんな事か。それなら誰でも思いつくではないか。」そんな卵を見て、どこかで見たアイデァと言うのは易しい。そこで買ってきたのが佐賀のあるお店のコロンブスの卵なのだ。今夏は仕事でいろいろなアロマ(精油)と熊本特産の馬油を使った、モノづくりをした。(中国、台湾の人に人気)

そのアイデァもコロンブスの卵で、人に言わせれば「誰でも思いつくアイデァ」なのだけど。その作業中に、たまたま「ヒノキ」の精油を嗅ぐ事があって、その香りは、なんとも言えぬよい香りで緊張がほぐされ、気分がいやされるのだ。その精油の原料のヒノキは国産だけど、どこの山が産地なのかが分からない。ちょうどその時、五家荘の山の達人、Oさんのフェイスブックを見ていて、Oさんが登山中に、トトロや木霊の人形を森の中の苔の中に置いて写真を撮っているものがあった。そこで僕の壊れかけた頭の中に、ひらめいたのが、五家荘のヒノキや杉で精油が作れないものかというヒントだったのだ。

早速ネットで調べるに、熊本県内でも木材から精油を抽出しているところが2件あって、問い合わせをしたが、2件とも無理との答えだった。それでもしつこく検索するに、一番近いところで佐賀に「エコビト」さんと言う店があり、メールで質問したが丁寧に教えてくれて、近々店舗でアロマの抽出体験をするので来ませんかとのことだった。

僕はなんで飯を食っているのか自分でもわからない時があるのだが、そんなフリーの立場の僕は、早速申し込みをし、台風の中、高速を通り、愛車イグニス号とともに強風にあえぎながら3時間かけてエコビトさんにたどり着いたのだった。アロマ体験の素材は、ホウショウという、クスノキの仲間で、甘く芳醇な 香りが特徴の貴重な原料だった。鼻に頭まですーっと刺すような刺激臭が残る。幸運なことに若い女性の講師の人と二人の体験で、とても丁寧に教えてもらい、1時間かけて自分オリジナルのホウショウのオイル1ミリ(わずか!)を手にした。装置は一番シンプルで単純な装置だった。体験後、店舗の裏の工場も見学してくれて、なんとその店舗の親会社は大きな材木店だった。昼食は僕の柄になく、上品な自然食のランチ。(僕のような者が、隣のテーブルのカップルに怪しまれないようにするには緊張と努力が要る)。そこでお土産に買った一部がこの卵だった。下に精油を入れる穴があり、今もホウショウの香りを楽しむことが出来る。

エコビトさんのコンセプトは明確でとても分かりやすい。材木から出た材料を精油にして、自然食レストラン、ケーキ店、会社全体の事業が大きな自然のサイクルになっている仕組みなのだ。このアイデァを誰かが持ち帰り、五家荘でも真似しようと思ってもその卵は道の駅で売られる単なるお土産品で終わるだろう。何の価値もない。お土産品は飽きられたら単なるゴミだ。この卵を前にじっと考えなくては。五家荘の森に産み落とされた卵で、どこにもない、美味しい料理をどう作るのか。

間違ってもアイデァの卵をあの「クマ」に渡したらいけない。熊本の単純な県民性にわをかけて思考停止にしたのがあの「クマ」のゆるキャラだ(※くまモンのこと)。僕はそのキャラの害獣ぶりとその飼い主を登場時から激しく憎んだ。家人がそこまで言わなくても!と諭すのだけど。ここだけの話。(瞑想をはじめてから、憎むのを辞めた)
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2018.08.22

文化

先週はリハビリ、撮影も兼ねて、烏帽子岳のへ道を歩いた。烏帽子岳の標高は1692メートル。峰越より約3時間、延々と尾根道を歩くのが一般的なルートとなる。急な坂もないが体力勝負の山なのだ。(僕は草食恐竜の長い背を歩く気分となる)高度のある稜線ルートで、天候も急変しやすく、陽の当たる快適な登山道が、一瞬にして白い霧の中、谷から冷たい雨風が吹き上り、体も冷えこみ、逃げ道もなくなる時がある。山頂付近は春先のシャクナゲの群落が有名だけど、残念ながら僕はその開花には出くわしたことはない。カメラの三脚がシャクナゲの枝にひっかかってひっくり返りそうになった記憶しかない。

今回は峰越から約20分、ぼんさん峠の往復までにした。ぼんさん峠(越)その名の通り、五家荘の地区にお坊さんが居ない時期、どこかの家に不幸があるとその峠を越えて家の者か、村の若者が椎葉村のお寺まで、お坊さんを迎えに行き、代わりに荷物を背負い、越える難儀な峠の名称なのだ。里からいきなり高度1500メートルの峠を越えるのは、相当きついことに違いない。樅木神楽の由来も、椎葉村の神楽の流れをくむとのこと。峠を境にいろいろな文化の交流があったのだろう。昨年僕が見学した樅木神楽にも椎葉の神楽の人が来賓(?)で楽しそうに神楽を奉納されていた。

宮崎県椎葉村は日本民俗学の大家、柳田国男氏が明治に訪問した村で、柳田国男は秘境に伝わる山の神の信仰、伝承されてきた文化に感動し、聞き書きして「後狩詞記(のちのかりことばのき)」を著した。それは日本民俗学の誕生とも言える名著とのこと。僕の恩師(いつも激怒、ののしられている・・・最近、怖くて訪問できず)永田先生が刊行された「五家荘 森の文化」も、後狩詞記を底本にされたようで、中身の濃い、時間と手間暇かけた、力作なのだ。しかし、残念なことに、「五家荘 森の文化」は平成23年に刊行された比較的新しい本なのだが、今の五家荘で、すでに失われ、見ることの出来なくなった文化の記述がある。又、先生の友人の江口司氏(故人)は、柳田国男が当時宮崎、熊本を訪問した足取りを追体験された「柳田国男を歩く」というタイトルの本を発刊された。まさに柳田の背中にぴったりと張り付いたように、後を追いかけながらも、柳田が残したわずかな軌跡まで綿密に調べられ実証された熱意はすごいものがある。江口氏は大学の民俗学の教授でも公務員でもなく、市井の人(看板屋)で、もともと釣りが好きで五家荘の渓流に入り込み、30を過ぎて民俗学に取りつかれ、亡くなるまでフィールドワークをされていた人だ。もし氏が存命ならば、永田先生と並んで僕はそのいい加減さを徹底的に追及されたに違いない。五家荘は自然はもちろん、知れば知るほど文化、民族の分野でも奥が深いものがある。

今回、何故僕が「ぼんさん峠」まで歩こうとしたか。「後狩詞記」を読み、「柳田国男を歩く」を読んだ以上、どうしても僕は行かざるを得ない気持ちになった。そして、その日のぼんさん峠から里に続く山道はしっかりと踏み分けられていた。

※僕が健康体であるならば、ぜひ一度、真冬に夜通し演じられる椎葉村の神楽を見に行きたいと思う。また、柳田国男の山島民潭集にある全国の河童の伝説や、だいだらぼっちの軌跡をたどりたいものだ。

地域おこし、世界遺産もひと時の賑わいで、そりゃあみんな楽しかろうが、あまり地域の文化伝承をショーアップしてはいけない。一時期、県内で●●館などの建設ラッシュがあったが、今は、どうなのか。イベントを見慣れた観光客やマスコミは、さらに刺激的な見世物を探してひと時のネタを探すのに忙しい。要するに見飽きたイベントはもう見に行かないのだ。人の来なくなった●●館は、今では維持運営費を稼ぐのに必死なのだ。

今回の山行で、僕は山の神様からささやかなご褒美をもらった。烏帽子ではなく、ある山域を一人さまよっていると、苔むした倒木の上、隠れるように、緑色の線の入ったスカートをはき、首をうなだれ、うつむき何か泣いているような面長の超美人と出会うことができた。その花の名は、「ギボウシ」…か弱さ、美しさには似ても似つかぬ名前である。

ネットで検索するに、園芸店でポットに入って通販されている「ギボウシ」さんと似ても似つかぬ別人、美人だ。園芸店の彼女達はまさに、コピー商品。なんの感動も起こらない。

深い森の中で風に揺れて涙を流すギボウシさんだからこそ、美しく、泣いている理由は分からぬが、背中をそっと抱いて慰めたくなる。

だからさ、●●館というポットで栽培され、演じられ販売されるコピー文化商品を僕は見に行かない、行っても何の感動もないからね。地域おこしとやらに、お付き合いで相槌を打ち、感動した振りするのも疲れるだけ・・・嗚呼、僕もぼんさん峠を降りて、椎葉村の神楽が見たいものだ!

2018.08.12

山行

8月11日は山の日で、五家荘の先人O氏とM氏は昨年同様、山の日記念、登山のイベントを企画された。両氏の情報発信力はものすごく、フェイスブックなどであっという間に約30人近い山好きが五家荘に集合した。車のナンバーを見るに、熊本はもちろん鹿児島、宮崎、久留米の山好きが遠路はるばる集まったのだ。2人が立派なのは五家荘の宿に宿泊して登山するように企画されること。マイクロバスでやってきて、トイレだけ借りて、地元に何も落とさないのは何かよそよそしい。毎夜繰り広げられる大宴会の様子が一人一人の旅の思い出になるのだ。宿泊しない僕でも、五家荘に来たら、必ず帰りは二本杉の東山(とうやま)本店でふきの佃煮やら、フキのみそ漬け、山椒のオリーブオイル漬けを土産に買うようにしている。

で、何とか家の用事をすまし、2日目の山行き参加させてもらった。Oさんは地元の消防署の司令塔でもあり、日頃は五家荘の山の遭難事故の受付窓口のような役割を果たされ、遭難歴(苦笑)のある僕の山行きに、いつも反対する家人も猫も、今回ばかりは同意をせざえを得ない。もちろん問題なのは僕の体調だ。こんな怠け者の自分でも、よなよな瞑想で日頃の雑念を払い、毎朝、おこしき海岸の公園で(店員に怪しまれながらも)20分のウォーキングを行い、体力を鍛えて来たのだ。それでも万が一、途中でおかしくなったら、登山隊の行軍を邪魔しないよう、一人、自力で帰れるように特別に登山口に愛車イグニスを置かせてもらった。

久しぶりの白鳥山、ウエノウチ谷からの出発だ。やはり来てよかったなぁと、人目はばからず深呼吸をする。林道のわきにはわれらを歓迎してくれるように「ソバナ」の群生だ。星形の白い花、紫の花が下に垂れて風に揺れ可憐で美しい。僕は登山隊の最後尾に着く。最初の休憩まで、もくもくと川沿いの道を登る我ら山の旅団。あたり一面、白鳥山ならではの苔の世界が広がる。で、新ルートに入り、いきなり急坂に道が変わる。しばらくすると、どうも体の調子が悪い。体は動こうとしても、息が苦しく、どうにも、前に進まない。深呼吸しても、息がいっぱいで、体がどんどん重く動かなくなる。酸欠・・・。これでは頑張りようがないではないか。どう見ても先はない。新ルートを登り始めて数分。あっという間に、ギブアップ。Oさんの了解を得て、一人、引き返す。なんだか学校の遠足にはぐれ、自由行動になった気楽さもあるが。川沿いで写真をとろうとしたら、ツリフネソウの花の葉の上に、カゲロウだかなんだかの幼虫が羽を休めていた。カゲロウ君は「おっちゃん、またおいで(なんで関西弁か?)」と失意の僕を慰めてくれているようだった。

 

林道に出るとナナフシダカヒトフシだか「おっちゃん、がんばりや」といい、

 

ソバナを見ると蝶だと思うが「おっちゃん、元気でな」と言ってくれてるようで、日ごろはなかなか出会わない、山の生き物に会えて少し嬉しい帰路になった。

白鳥山はいつ来てもいい。次回からは酸素ボンベ必携か。こんな美しい、きれいな空気の中で。

 

2018.08.10

山行

物事には何でも最初と最後がある。生まれた時の最初の一息、息を引き取る間際の最後の一息。生まれて最初に登った山、最後に登った山。もちろんそんな最初も最後も誰も記憶にないはずだけど。特に最後の一息は、最後の最後でみんな死んでしまい、記憶どころか、何も残らない。さて、たまたま写真を始めた僕だの最後の一枚はどんなものか。最後の山行は当然五家荘の山になるはずだが、国見岳か白鳥山か、どちらになるのだろう。

ぼくはプロの写真家でもないが、仕事の都合上、何人かのプロのカメラマンを知っている。熊本でのプロのカメラマンというと、広告用の写真や団体の記念撮影がほとんどで、個展など写真で表現活動をしている人は少ない。僕の行きつけのカメラスタジオにはジャッドスタジオのTさんが居る。Tさんは熊本で自他ともに認める一番の腕前のカメラマンである。で、何が一番かというと、オヤジギャグの腕が一番で、残念ながらカメラの腕前ではない。Tさんに撮影を頼んだ人間はお客さんの前で歯に衣をきせぬTさんのギャグ、暴言で身を凍らせる体験をすることになる。僕の思い出したくない体験からというと、ある大会社の社長から会社の記録写真を頼まれ、社長室に通された僕とTさんは、その社長と向き合い、打ち合わせ時に、Tさんは社長の目の前(もちろん僕の目の前で!)いきなり、「社長のぼけ、ボケ、ボケ・・・」と言いながら口ごもったのだ。その瞬間、社長室は一気に氷ついた。その社長の頬は(何を言い出すかと)苦笑いしながら痙攣していた。それでも相変わらず、Tさんは「社長のボケボケ、ボケっ!」(僕は生まれて初めての土下座を覚悟した!)「あーっ!なんととんでもないことを!」Tさん曰く、「社長の体を引き立てるためには、社長の周りのボケ具合が肝心ですもんねっ!」と言い放った、のだ。理論的にはその意見はちろん正しく、人の姿を立体感を出すにはまわりは少し、ボケ気味にして絞りを調節するのが定番なのだが、いきなり社長の向かってボケとはなかろうと肝を冷やした。知人に聞くに僕と同様の凍り付く体験をした者は限りなく、Tさんは熊本でも写真より有名な写真家となった。すでに付き合いは20年近くになるけど、こんな不景気の中でもTさんが生き残っていけるのにはわけがある。氏はある時思いついて、大型のポスターの出力機や最新型のパソコンを仕入れてその人柄を生かして、撮影以外に力を入れたのだ。Tさんの事務所のスケジュールボードはいつみても撮影の予定は書かれておらず、いつも真っ白。Tさん曰く、「今日も静か御前ですたい」仕事の電話一本も鳴らない。しかし午後になると、不思議とカメラ好きのおじさん、おばさんのたまり場になり、持ち込まれた画像データをパソコンで加工しプリントしたり、パネルにしたり、本にしたりして時に賑わいを見せているのだった。

そんなある日、僕はTさんの事務所で一人のよれよれよぼよぼの老人(失礼、後で知ったが60過ぎ)とすれ違った。Tさん曰く、先程の人物は僕の先輩と言う。「先輩とは?」僕が聞き直すと、その老師は「二回も撮影中に脳梗塞で倒れ、今もリハビリ中とのこと」「僕はクモ膜下だし」「似たようなもんでしょう」「まぁそういわれれば、そうですがね」老師は有名なプロカメラマン、コンテンポラリーアート作家の田中栄一氏で、」氏のフレーザー島の砂の世界を大型カメラで捉えた作品は、オーストラリア、クイーンズランド州立美術館、熊本現代美術館にも所蔵されているほどの作品なのだ。そんな氏も去年暮れに2回目の脳卒中で、生活もなかなか大変らしい。それでも今はコンパクトデジカメで自宅の周りを写真に収めているそうだ。僕はその時、写真が本当に好きな人に生まれて初めて出会えた気がして、何か嬉しかった。Tさんは田中さんの暮らしの再建のサポートをしているのだ。次回田中さんを紹介してもらう約束をして、僕はお盆休みとなる。

今の僕の最後の一枚は、7月中旬、五木の仰烏帽子(のけえぼし)へ向かう途中の一枚だ。
山道は荒れ果て、道ではなく荒れた崩落した岩だらけの枯れた川をひたすら上り詰める山行で、体力は落ち、しびれた足でバランスを崩しながら、浮いた岩の上を歩き続けるのはさすがに辛かった。途中、ロープを伝い、崩れたガレ場を登る個所がある。よく持ちこたえたものだ。1時間過ぎ、とうとう撤退を決める。満足のいく写真も一枚も撮れていない。引き返すとき、一枚の若葉を見つけ、その若葉をバックに深い森と巨木を撮ろうと思った。そんなポスターのような写真が撮れるわけがない。若葉自体がそんなきれいな絵になるような葉の形をしていないではないか。ただ、僕はその時、そんな写真を撮りたかったのだ。全身、汗だらけ。何度もシャッターを押すが、何故か手が震えてカメラや三脚がぶれてしまう。あたりは森の中、スローシャッターでようやく明るく撮れるのだ。悩んでいるうちに、森の樹々の間から、奇跡的にその葉に向かい光が差し込む。緑の葉だけがようやく明るく映る。帰宅してパソコンで見るに、正直ひどい。だけど、その一枚が僕の最後の一枚なのだ。今のところ。

今度のお盆休みに、撮りに行く。もう一枚。もう一息。

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