2021.06.07
山行
五家荘図鑑と言う、誰も見やしない秘境のような個人のサイトの、更なる奥の誰も読みやしない雑文録と言う秘境ブログに、こんな残念な話を記録しておかなければならない。
花の窃盗団どもよ、我が雑文録に永遠に記録される、これは名誉な事だぞよ。このサイトが閉じられるまで、君らの記録も永遠に地球のネット上をさまようことになる。
前回の雑文録から1週間後、休日の時間を持て余した僕は又、ハチケン谷に向かった。それ程気に入った林道なのだ。登り始めた時間は昼過ぎ。カメラ片手に峠に向かうと、たくさんの登山者とすれ違った。山の景色の移り変わりは早い。芍薬の満開の時期はすでに過ぎ、芍薬の白い花びらはすでに落ち、道沿いに花は見られず、緑の葉だけが残っていた。登山者も山から下りてくる人がほとんどで、うだうだ花の写真を撮って坂を登るのは僕だけだった。
登り始めて、30分くらい。道が二手に分かれ、林道から右に分かれる作業道が川沿いにあり、そこに一人初老の男が立っていた。簡単な挨拶をして、僕はその男の足元の花の写真を撮り始めた。男は背中にリリュツクを背負い、片手に登山で使うピッケルのような長さ60センチくらいの金属の棒を持っていた。しかしそれはピッケルではなく何か鉱物を掘るような特殊な形をしていた。男は手の片方にはコンビニの弁当の空を下げていた。上品そうな笑顔で、仲間が下りてくるのを待っていると語った。僕は写真を撮り終わるとまた林道に戻り、峠に戻った。途中、また足元の山野草の花の写真を撮った。ヒトリシズカの群落はまだ花を咲かせていた。天気は晴天、樹々の緑は更に濃く、相変わらず野鳥の鳴く声は楽しく忙しい。それから20分は経ったろうか、僕はその日は早く帰るつもりだったので、林道を降り始めた。そこでまた、作業道の分かれ目で初老の男に再会した。そこには彼が待っていた二人の男の姿があった。
二人の男の年齢は50歳くらいで、とても人懐こい目をしている、顔は日に焼け、本業は農業か土建屋か。やはり手には金属製の特殊な棒を持っている。結果4人で山を下ることになった。二人の男はしきりに親しく話しかけてくるが、僕は時に花を見つけ写真を撮り三人を追いかけるような形になった。連中はとても嬉しそうで体も弾んでいる。僕が遅ればせながら気がついたのは二人の男に背に背負われた、芍薬の株だった。厚手のビニールの袋にびっしり、盗掘したての芍薬の株をひもでくくりびっしり詰め込んでいる。袋にうっすら白い花びらが透けて見えている。二人合わせて50株は近い。あの金属の棒は花の根からごっそりほじくり返し、芍薬を盗掘するためのプロの道具だったのだ。よく見るに格好も登山者の格好ではなく、靴も汚れたスニーカーで登山靴ではない。僕は花の盗掘団と楽しそうに語らい、山を下りているわけだ。
一人の男が、うすうす正体がばれたのに気が付いてきたようで、しきりに僕の住まいを聞いてくる。「山にはどれくらい登るのか?」「どこから来たのか?」「名前は?」後ろから写真を撮る僕の姿を見て、自分たちの姿を撮影されているのだと意識したのか。
僕は迷う。楽しい語らいの途中で「おたくら、今、芍薬の花の株を盗掘してきただろう?」いきなり聞くとどうなる?
人懐こい瞳ががらりと変わり「それがどうした?」と聞き返される。「何が悪い、これだけ咲いているのを盗って何が悪い?」とでも答えるか。「盗みは盗みだ」プロの窃盗団に素人の僕に出来ることは、すきを見て3人を谷に突き落とすことだ。その上から大きな岩を、転がし、痛い目にあわすことだ。あとは知ったことではない。しかし、そんなことができるか?出来なければ、僕がそんな目に遭う。今度谷に落ちたら、遭難ではない。二度と這い上がってこれない。
これまでの僕の人生経験から「人間は正体がばれたら、とんでもない人格に変わるという」ことをよく知っている。
笑顔で笑っていた瞳が、冷たく光る時に、人は無表情でどんな悪事でも働くことを。谷に突き落とすまではいかなくても、プロの窃盗団に「花の命を大切に…なんて」説教しても無駄だろう。彼らの背中で揺れる芍薬の首が悲しそうだ。あの時、どうしたら良かったのか、今も悔やみ自問する。
窃盗団は、来年の春もやってくるだろう。五家荘に限らず、県内の山々に。50株抜いたら、相当の面積で花は咲かなくなる。その繰り返しで、希少な山野草は消滅していくのだ。鹿の食害のせいではない、鹿はやむなく生きるために、山野草を食べるのだ。人間は貴重な山野草を自分だけ楽しむ、もしくは換金するために引き抜く。悩んでいくうちに、登山口の駐車場に着く。無力な自分にできることは彼らの盗みを告発することだ。しかし、今更、彼らの車の写真を正面から撮りにくい。わざと先に車を出し途中で止まり、窃盗団の車に追い越させ車の後ろのナンバーを控える。
採れたての山芍薬を、どこかの園芸店で売るのか、ネットで売るのか?何かの原料にするのか。
厳しい環境の中で、ようやく生きて花を咲かす花々の命を抜く…苔をはぎ取る、写真を撮るために樹を鉈で切りおとす、陶板に貼り付け陶芸品として販売する…野鳥を盗む。
「珍しいものを盗む」「美しいものを自分だけのものにしたい」もともと人の本性にはそんな気質が備わっているのだろう。本性を見抜かれるまで、人は人の良いふりをする。ついでに書けば「あいつは偽物か?本物か?」偉そうに言う奴に限って、ろくな奴はいない。
五家荘の山に登り始めて数年。今回が一番衝撃的な出来事だった。
窃盗団の車は、黒いミニバンで、ナンバーは熊本502■4529
肝心な■の文字のメモを忘れた。僕は忘れた■の部分の「ひらがな」を探して、これからも五家荘の山々をさまようことになる。
窃盗団よ、僕は堂々と君たちに名前を名乗った。今度は君たちが名のる番だぜ。
※熊本県には熊本県野生動植物の多様性の保全に関する条例があり違反者には罰金が科せられる。
(長々とした条例を読んだが、僕は条例で摘発された事例を聞いたことがない…)
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悲しき、原風景。
僕の住む田舎の駅は、昔は賑わい、列車が着くたびに旅行客が降り立ち、迎えの車や、島々を渡る船が行きかった。駅前の通りは人であふれ、食堂、本屋、旅館、パチンコ屋が軒を連ねた。それが僕の故郷の原風景だ。だから今の誰もいない灰色の殺風景な駅前の景色を見るたびに落胆し、昔の賑わいを思い出す時がある。今、町に住む若者にそんな話をしても誰も相手にしてくれない。それどころか若者たちは賑わいを探して、町を出る準備で忙しいのだ。
もし今の若者が五家荘の山で、汗をかいて山を登ったにも関わらず、峠の奥の山林に何の花も咲かず、荒れた岩だらけの景色を見たら、それが彼らの原風景となる。彼らの記憶にはそういう荒れた山の景色しか残らない。崩落した杉林の景色しか残らないのだ。いくら僕らの世代が、あの頃の山には春になると、辺り一面、白い天使のような芍薬の群生地があった、花の蜜の香りに酔いしれたと語ったとしてもそれは虚構の景色でしかない。彼らの脳裏にある荒地の原風景に花を咲かすことは不可能となる。窃盗団の悪業は山の未来の景色を消し去るのだ。
2021.05.18
山行
4月25日は五家荘の山開きの日だった。この雑文録を書いている日からすでに大分時間が経ってしまった。今、熊本地方は例年より1か月も早く梅雨入りしたとしきりにテレビやラジオで言っている。晴れだろうが雨だろうが、何にしても人間の暮らしは自然の中にある。
その山開きの日はとても天気も良く、吹く風も春の陽気を帯びて、それまでの寒々しく重い日々から解放され、春の到来を喜ぶ気持ちで山野は満たされた。花たちは一斉に咲き始め、蜜蜂はさっそくぶんぶんと開いたばかりのつつじの花の赤や白の花々を渡り歩く。甘い蜜の香りも吹く風に交じり、鼻をくすぐり僕の頭も陽気でぼうとする。頭上の野鳥たちのかけあう鳴き声もうるさいくらいだ。
その日の僕の足は何故かハチケン谷に向かった。ちょいと覗いてみようという気で。ハチケン谷の林道は大分前にイベントのお手伝いで京ノ丈山に登るルートとして何度か歩いた事があった。林道の終点の峠には春には杉木立の中に芍薬の群生地があり、お椀のような白い花が咲き、秋はタンナトリカブトの群生地に紫の異形の花が咲き誇る。その当時の林道はなんとか車も通うことができて、イベントの参加者の緊急用の送迎ルートとして使用された。思い出すのは参加者の宿として利用した谷の奥の民宿「平家荘」から主のMさんが客を乗せて運転するランドクルーザー(年代物!) をMさんの愛犬、ラブラドール・リトリバーの「マル」ちゃんが巨体を揺らしながら岩だらけの林道を駆け、ひたすら追いかけて来たことだ。結果僕は、その「マル」を峠で紐でつなぎ、ペットボトル(シャレ)の水を垂れ下がる長い舌に含ませ、迎えが来るまで待っているだけのお手伝いしか出来なかったのだけど。
その後、度々の水害でハチケン谷の林道は車の通行どころか、大規模な崩落が相次ぎ、道や川は土砂や倒木でとんでもない荒地に変わってしまった。自然の力による大規模自然破壊とでもいおうか。
そんな記憶しかないハチケン谷が、今回ゲートを通ると、見事な林道に変身していて驚いた。崩落個所は多少残るものの、道をふさいでいた岩は取りのぞかれ、誰でも自然を楽しむことのできる山道に変身していたのだ。これなら左膝のじん帯に古傷のある僕でもぼちぼち歩くことができ、春ののどかな森林浴を楽しむことができ、おかげでいくつもの春の花々を写真に収めることができた。ただ林道を上り詰めると、京ノ丈山への登山口から左にコンクリートで固められた立派な林道が新装オープンしていたのだけど…。結果、林業用のトラックが行き来できるように道が整備されたのだった。自然の力で破壊された自然が、人力で再度整備され、林道が出来、その恩恵で自然を楽しむことができるとは…何とも複雑な「自然」のこと。
その日撮った写真は数々あれど自分で一番お気に入りの一枚は、入口のさび付いたガードレールの下でふと見つけた、「タニギキョウ」のそよそよ族。新入生の彼女らは春の風に吹かれ、みんなで白い花びらを揺らしながら、先生の振るタクトに合わせ首を右に左に振りながら、彼女たちは楽しそうに歌を歌っているようだった。そよそよ合唱団の一枚は、山開きからもう1か月近く経つけど、画像をスマホに転送し、コロナ過の中、すさんだ気持ちで日々を送る自分をいやす一枚にしていた。やっぱり、山はいいものだな。
2021.04.20
文化
これまで五家荘を車でさまように、どうしても気になっていたのが、道のわきからかいま見える木の鳥居や祠などだった。うす暗い杉林の奥に見える朽ち果てた木の鳥居。おそらく相当古い時代からその神社の神は祀られ地元の人々の信仰の対象、日々の心の支えになっていたのに違いないけど、時が進むにつれ、神社は残ってもそれを祀る人がいなくなれば、その山の神様も深い山に帰って行かれるのだろう。
僕が特に気になっていたのは西の岩地区に祀られる「尺間神社」だった。木の鳥居をくぐると林の暗がりに参道らしき道の名残がある。急坂には、落ち葉に埋もれ、ほとんど朽ち果てた木の階段が山頂に向かって続いている。その道の果てには神様のご本尊の棲む祠があると思い、とうとうたまらず、足元が崩れる中、僕は這いつくばって道を登り始めた。だんだん道が狭まり、杉林を抜けると乾いた小石だらけの小道になるが崩落が激しく、岩にしがみつきながら頂上を目指す。途中の木の根にワンカップのビンを見つける。お供えの残りなのだろう。しかし、どこまで行っても同じような坂道が続き、だんだん不安になってくる。痛めた左肩の筋肉にも張りがでてきて、残念だが引き返すことにした。何しろここは五家荘。地図も持たずに思いつきだけ、憶測だけで山に入ると痛い目に合う。ほんの少しのミスでも遭難につながる。(経験者は偉そうに語る) ※もう少し頑張れば、岩の上に建つ本宮も見れたのに。
帰路で草の上に置かれたような石の破片を見つける…灰色で長さちょうど20センチ位。石の斧のような形をして、刃先に指先を当てると今にも切れそうに薄く鋭い。単なる岩から剥離した断片のようだけど、(バチがあたるぞ!) 持ち帰ることにした。
泉村誌によれば、尺間神社にはフツヌシ・タケミカヅチ・ヒノカグツチという荒ぶる三柱の神が祀られ、神社の建立にはいわれがある。建立は明治37年。
(極私的翻訳・五家荘の方言ではありまっせん)
昔のはなしたい。左座家の4代目の亀喜さんが、わけの分からん病気にならした。たいぎゃな、ふとか病で、熱にうなされち、どがんもこがんも、しょんなかて。頭ば冷やしてん薬ば飲ましてん、どがんもなおらん。寝床で「きつかきつか」て言わす。もう家のもんは心配さして、大騒ぎて。おおごつ。もうたい、神さん、仏さんの力に頼むしかなかて、親類縁者が家で話し合わしたとたい。そんで、みんなでたいぎゃ、よか神社とかなかろかて、どこでん聞いてまわらしたてたい。そして、おおいたん、尺間神社の神さんならよかて、話は聞いてこらした。ほんで左座家では、中畑萬吉さんに無理ばゆうて尺間神社までお参りば頼んだてたい。ほなら神社の神さんから中畑さんにお告げがあったて。亀喜さんの病気のもとは、刀のたたりて言わしたてたい。おとろしか。左座家は庄屋さんだけん、昔からつがれた刀のたいぎゃあるてたい。そん刀のなかでん、備前長船ていう刀が二本、たいぎゃ大事にされとったて、そがんだけん、その長船て、座敷の一番よかところ、刀んかけてあるところに、飾ってあったてたい。ほんでたい、左座さんとこに泊まりにこらした人は、そん部屋で寝とらすと、夜中にうなされて頭のいとならすて。苦しか苦しかて、たまらんごてなって部屋ば替えてねらすと、ぱって頭の痛みとかとれらしたて。そっでたい、つぎん朝、亀喜さんの息子の5代目がそん人の泊まらした部屋にある長船ばみると、みょうなもんで、そん刀の二本とめ、鞘からぬかれとるてたい、ほんにみょうなか、おとろしかはなしたいね。そんでまた、次に泊まる人も同じ目にあわしてうなされらすて。なんかあっとだろね。刀だけん。
いろいろかんがえらしたばってん、5代目が、しょんなかておもわして、そん二本の刀ばもって、大分の尺間さんに収めにいかしたて。ほんでたい80日、そのお宮で山籠もりさして、きつか修行はさしたて。ほんに親思いばい。ほなら、いままで寝とらした亀喜さんの病気もうそんごて、ようならしたて。ほんで泊まりにこらしたひとも、うなされちことは、のうなったてたい。ほーら、尺間さんのおかげたい。みな、たまがった。ほんで左座家と西の岩んひとたちは、豊後の本宮に尺間さんの神さんの霊ば五家荘にわけてもらえんだろかてお願いして、あたたちが、そぎゃんいうならよかていわしたけん、西の岩に、尺間さんばまつらしたて。村んもん全員で、山に木ば切ったり、社殿ばくんだりにぎおうた。村にもほんなもんの山ん神さんのこらしたぞて。村んもんじぇんいん喜んでたい、そるから尺間神社さんに、だっでんお参りいくごてなったとたい。
やっぱ刀はおとろしかね、昔は人ば殺したり殺されたり、いろいろあったっとだろな。ばってん、今は、だるも、おらんごてならした。家も崩れてしもて、昔の賑わいはなか。あすこのじいさん、ばあさんもおらんごてならした。山の花もぬくなるといっぴゃ、さくばってん、だれもおらんけん、きれか花のさいてん、だるも見てくれんけん、花もさびしかていうごたる。尺間さんにのぼる人も、とうとおらっさんごてなった。おどんも、なんかいらんこて言うた気のするけん、なんか背中ん、ぞくぞくしてきたばい。もう山はぬくなったけど、寂しかね。おどんも足のわるなったけん、ようと歩ききらんと。きつかときは心のなかで、尺間さんばおがんどっとたい。わたしん、まもり神だけん。
普段から具合のわるい僕の脳内はいつも悪夢にうなされ、新たにうなされることもない。持ち帰った石の刀は、何を調べるでもなくまた、尺間神社の参道に埋めなおすことにした。ワンカップの酒を石刀にかけ草をかけ、自分なりの得体のしれない祈りの言葉…手を合したときに、意味不明の言葉が出た…お詫びと祈祷を行う。
改めて、五家荘ネットの情報をさかのぼって調べるに、20年くらい前は、近くの五家荘自然塾を基地に、地元の人々が尺間神社のいわれを語り聞かせたり、焼き畑時の「木下し歌」の披露もあったという。ぜひ、参加したかった。
五家荘はいくつもの神の棲む、神聖な山里でもあるのだな、と思う。今も、神を迎え神を舞う神楽の里でもある。熊本でも奇跡的に古代からの文化が残された唯一の地区、民俗学を学ぶ人(…そんな人熊本に居るのか?) にとって宝庫でもあるのだろうな、と思う。
地元の人たちで大事に残された文化・伝承は語り継がれて、風が吹くたびに朽ち果てていく。朽ち果てた参道…鳥居。民家の跡。人がそこに居たという、目に見えないぬくもりに、何かを感じて僕は山をさまようのだ。
帰路にカタクリの花を撮る。今年の開花は例年より半月ほど早く、最後の数輪を写真に撮れたのは運が良かった。一番美人な紫の妖精にカメラを向けると、その瞬間、草陰から黒い蛾(ミヤマセセリ)が花に留まり、蜜を吸い、はっと消えていった。
2021.03.24
山行
スマホのカメラ性能は格段に進化した。登山者は登山に集中し(当然…)、撮影はスマホで充分。思うに「スマホ」と「カメラ」の違いは何かというと、「スマホ」は記録用カメラ、「カメラ」は覗きカメラという違いがある。足元にきれいな花が咲いているとしゃがんでスマホで何パターンか撮って胸ポケットに収めておしまい。スマホはあくまでも記録用。その点「覗きカメラ」は違う。ファインダーごしにああだ、こうだといろんな角度からレンズを通して、その花の世界を覗き見る行為が気持ちいいと感じるのだ。なんといやらしく“変態”なこと。
カメラマンはみんな変態なのだ。変態でないカメラマンは存在しない。シヤッターを切るたびに脳内に変態性の麻酔成分が分泌され、最後はみんな脳関係の病気になる。以前、一世を風靡した有名な風景写真家の竹内大先生もそうだし、熊本の大写真家の田中氏は三度、脳梗塞に倒れ今はリハビリ中なのだ。極私的写真家の僕の「くるくるパー」の原因は自業自得だが、性格はやはり変態なのだ。
そんなことをうだうだ考えながら、先日も五家荘行きのハンドルを握り、某所の林の中で物色するに、幸運にも春の妖精「コバイモ」に出会う事ができた。「コバイモ」はもともと本州に咲くユリ科の多年草。調べるに、コシノコバイモ、アワノコバイモ、イズモコバイモ、トサノコバイモ、ホソバナコバイモ、カイコバイモなどたくさんの種類がある。絶滅危惧種的な扱いのわりには、親戚兄弟が多いのだ。大まかな形態はみな似ていて、顔はうつむき、釣鐘状、花の模様は褐色にモザイク、点々の柄が多い。みんな恥ずかしがり屋なのだなぁ。
彼ら彼女らは、福寿草、カタクリと同じ春植物、春の妖精で、他の植物が育つより一足先に林の暗がりでわずかな太陽の光を浴びて花を咲かせ実を着け、球根に栄養をため込み、あとは地中で休眠する。
コバイモは九州にも自生していて本州のコバイモと柄や形態が違う。ネットで調べ比較するに僕は熊本のコバイモが一番美人で、質素で魅力的だと感じる。ふっくら丸い本州、四国型と違い、熊本のコバイモはスリムで何しろおしとやか。花びらを顔に見立てると、髪を風に揺らしうつむく女性の横顔にも見える。(残念ながら熊本の人間の女性でそんな人に会ったことはない。) 阿蘇に群生地があるそうだけど、五家荘での群生はあまり聞いたことはない。五家荘のコバイモは杉林の暗がり、一人一人、枯葉の中からすっと立ち上がり花を咲かせている。一期一会…僕はそんな春の妖精に、もう二度と会えないようなはかなさを感じるのだ。
春の陽だまりの中、コンビニのおにぎりを食べ終わると、もう一度、彼女たちに会いたくなり林に戻る。今度はカメラを手にしながらも、ファインダーを覗かずに、自分の瞳でうつむく横顔を眺め、彼女と同じ時間を過ごすために。
もうすぐ、五家荘の森の中にはやさしいピンク色のうつむく妖精、カタクリの花が顔を出す季節になる。
2021.02.25
山行
前回の雑文録の通り、Oさんの「森の妖精ば見に行かんですか?」と言う誘いにまんまと乗り森の妖女・妖婆と一緒に白崩平に福寿草を見に行き、楽しい登山を楽しんだ僕だが、残念ながらその日は森の妖精と出会うことは出来なかった。
森の妖精とは「セリバオウレン」のことであり、おそらくここ2週間が開花時期で、次回、五家荘で会うためには1年待たなければならない。妖精との出会いのチャンスはそんなはかないものなのだ。(さらに日頃の品行方正が必須条件…) だから、どうしても会いたいと思ったら、会いたいもので、ちょうど翌週、2月21日 (日曜) に別件で五家荘に行く用事が出来、これ幸いと、その用件とは全然違うルート、久連子を経由してぐぃーんと、はるか遠回りして要件を済ました。(品行方正ではなかった… ) つまり、その日も森の妖精とは会うことが出来なかった。
そうしているうちにOさん、Mさんのフェイスブックには、セリバオウレンの写真がアップされているではないか。これはいいかん、たまらない、どうしても今、会いに行かねば妖精は消える…
そして23日の朝、幸運にも仕事は休み (日頃からほとんどしていない…周りから、霞でも食っているのではないか?と疑われている自分だが) 一念発起して海の見える自宅から愛車パジェロミニを揺り動かし、五家荘に向かったのだった。妖精をOさん、Mさん、おじさんだけのものにしたらいかんのだ。
そうして林道のわきを長い間、カメラバックを背負い、うろつく一人の妖しいオヤジに変身した僕の目の前にも妖精は顔を出してくれたのだ。なんとやさしいことよ。
花の大きさは1センチにも満たない。その小さなゆりかごの中に妖精は棲む。
セリバオウレンはキンポウゲ科の花で、花言葉は、変身、揺れる心。
セリの花言葉は、貧しくても高潔、清廉で高潔、清廉潔白。
そんな花言葉に恐れることなくカメラを構えるに、手が震えピントが合わない…
しかもかすかに吹く風にも森の妖精のゆりかご、白い花弁は揺れるのだ。
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今日 (2月25日) は年に一度の脳のMRIの検査の日だった。3年前、脳の動脈に挟まれたチタン製の3個のクリップがパソコンのモニターに鮮明に映し出される。いつもの若い先生が言うには問題はないとの事で安心した。
先生に「これまで1年に2回ほど、額の傷跡が小さな餃子大に膨らむのが不安なんですが…」と相談する。先生曰く、「興奮して髄液が漏れているかもしれませんね…」「しかしすぐに引っ込む程度なら安静にして様子を見ておいてください」「はい…」「しかし、その膨らみが破裂するようなことがあればすぐに連絡くださいね」「この (餃子が!) 膨らみが破裂するんですか?」「小さな傷から破裂することもあります…めったにないですが…その時はすぐに連絡をしてくださいね」「も、もちろんですとも、そんな時は一大事!頭の餃子が破裂したら、そりゃあもう!」
森の妖精にのぼせ上り、連続して五家荘に…最後は一人、片道3時間の林道を休みなしで爆走!したとは、言えなかった。
そうして、右の額の餃子の膨らみを、そっと指先で確認する自分だった。
2021.02.10
山行
五家荘の山を知り尽くす救援隊・隊長O氏から登山の誘いがあったのは数日前の事。
「今度の日曜、白崩平(しらくえたいら)に福寿草を見に行かんですか?」との事だった。白崩平は五家荘の山々の中で福寿草の有名な群生地で、その名の通り、白い石灰岩の岩が点在する山腹の平地なのだが、とっさにO氏のフェイスブックの、去年の水害で被害を受けた登山道の崩落現場の写真を思い出した。
崩落というより地滑り、鉄砲水、山崩れに近い状況で林道は崩壊、砂防ダムは倒木、落石、巨岩の山々…川沿いのコンクリートの歩道は深くえぐられ、見るも無残、極めて危険な状態のままなのだ。
更にこの寒さで1年間に痛めた左ひざの靱帯も傷み、左の額の穴も隙間風…少し膨らんで来た具合(髄液もれ?)…しかも今月末に脳のMRIの定期検査がある…いったん断ろうとしたがOさん、
「福寿草はもちろん…森の妖精「セリバオウレン」も開花して見られるですよ」と、たたみかけてくる。
森の妖精?…「セリバオウレン?」はて?…検索するに確かに美しい…純白の細く尖った花びらが開き、白い雄しべも花びらに沿い飛び散るさまは、白い線香花火とでも言おうか。冬の終わり、森の中にチリチリと咲く花火。風が吹けばすぐに消えさるようなはかない火花が「セリバオウレン」なのだ。これを写真に収めないわけにはいかない。
本来、体調の事情もあり、断るべきだが…森の妖精、妖女、妖艶…妖魔、妖術、夢魔、夢幻…妖怪、錯乱、錯誤、魔界転生、ドグラ・マグラ…なんともそういう言葉に弱い自分なのだ。
更に「竹田さんは山には登らんで、よかですたい…きつかなら、そのあたりをぶらぶらするだけでよかです。私も都合で昼過ぎに帰らんといかんです…」山に登らなくていい、そこらへんをぶらぶらするだけでいい?とはさて面妖な…O氏の誘い、そそのかし。
確かに久連子に行けば、山に登らなくても福寿草が咲く場所も分かる。(奥座向の登山道のあの当たり) 一度、山道をゆっくり散策するのも楽しいかもしれないと思い、今回の不思議な登山計画に参加することにした。
集合はふもとの温泉施設の駐車場に6時半…海抜ゼロメートルの我が家を朝4時半に出る。(気合が入りすぎて30分早く到着) 時間になると、するすると当日のメンバーの車がやってくる。Oさん、Sさん、そして最後の車からドアを開けスッと出てきたのは、五家荘の伝説のオババ様、Nさんだった。森の妖精に会う前に、いきなり森の妖婆に出くわしてしまった。オババさまは白髪にバンダナ…金色の短い杖を2本持っている。年齢は定かでないが昭和18年生まれと答えた。適当な答え方が怪しい。
Oさんの車は4人を詰め込み8時前に久連子に到着。待っていたのは泉・五家荘登山道整備プロジェクトのメンバーの山師の面々だった。中には子連れ山師の夫婦も居た。彼らの背中にはロープ、アルミの梯子にバン線…ラジェット…ツルハシが詰め込まれ…(やはりこれは普通の登山ではない…)と気が付いたがすでに手遅れ、全員のやる気に満ちた緊張感の中で一人、ぶらぶらするわけにはいかない。結果、膝を曲げ、靴紐を結ばざるを得なくなった。
オババ様の前後には整備プロジェクトのうら若き女性2名がサポートにつき、いよいよ介護登山の始まりとなった。(すでにOさんの策略にはまった僕は、この若い娘たちの前で膝が痛いだの、帰りたいだの弱音を吐くことはできない…最後まで二人には「誰?この人?」と怪しまれた。
おこば谷(オババ谷ではない)の登山道までの道は、もちろん崩落していた。飛び込み台のようにえぐられたコンクリートの先にSさんが赤いスプレーで「キケン」と書いて行く。その「キケン」の文字を冗談で踏むと、忍者屋敷の落とし穴のように奈落に落ちる。一行はその横の階段状の法面の段差を通路にし、その段差の幅20センチくらいの、苔で足が滑りそうな道を通る。
登山口から森の中に入り急坂を登る。雑木林の中、時に樹の根をつかみ、固定されたロープを頼りにしながら、体を持ち上げ坂を登る。えぐられ荒廃した沢筋へ降りる箇所には手際よく、アルミの梯子が伸ばされ固定されていく。山師の手際は素晴らしく、ザッザっと岩を掘り出し、岩をガンガン積み上げ、梯子までの足場を瞬時に作る。
杉林を抜け、昼前に標高990メートルの白崩平に着く。雪こそ残っていなかったが、あちこちの岩陰に金色の花が首を伸ばし咲き乱れている。陽の光を浴びると、その金色の花弁は更に輝きを増す。地味な山野草の中で、これほどの輝きを持つ花はない。咲き方もお花畑のような蜜の状態ではなく、福寿草の咲き方は家族、夫婦のような小さな集団で肩を寄せ合い、冬の寒さを耐え、陽に向かい首を伸ばし、金花を咲かせている気がする。
眺めているうちに、山の向こう、岩宇土山の中腹にあるお地蔵さんの姿をふと思い出す。そのお地蔵(母)さんは、しっかりと子供を抱きしめているのだ。岩の風化は進んでもその姿は消えることはない。
軽い昼食をすまし、各自、花を写真に収め、帰路に就く。登山整備プロジェクト軍団の活躍のおかげで、危険場所も難なくおりることが出来た。帰りに、こんもり丸く小さな椎茸が付いた人の腕ほどの太さの古木を肩に担いで急坂を降りた猛者も居た。
軟弱な自分が無理とあきらめていた白崩平の登山を無事クリアできたのは、森の妖女、オババ様のお陰でもある。若かりし頃、北アルプスの剣岳登山の経験もあるという猛者、妖女は、「わたしゃ、絶対自分のペースは崩さん」と豪語する。後ろから見ると、見事な足さばきだった。どんな道も「逆ハの字」にスタスタとリズム良く歩く。しかも無駄な力みも何もなく、両手の金のステックでバランスを取りながら進んでいく。ただし、膝が上がらないのでそんな個所は後ろから誰か押してあげる介護、下りも落ちないようにする介護は必要だが。この妖女のペースで僕も進んでいたので、膝の痛みも頭の痛みも胸のつかえもなかった。この頑固なスローペースを、早く頂上を目指したい人は待ちきれないだろうが。
久連子に戻り、いよいよみんなで森の妖精、セリバオウレンを探す。全員一列になり、道路沿いの苔むす斜面を探す。結果、残念ながら妖精は姿を見せなかった。草むらの中、目を皿のようにして探す、メンバーの妖気に恐れをなしたのだ。
車中の会話で、昔、オババ様も大病されたようで「脳の血管に血のコブが何個所か見つかってですな、昔手術ば受けたとですたい」「まさか (自分と同じではないか) 手術とは?」「開頭手術ですたい」「で、今薬か何か?」オババ様は答える。「薬の代わりに、いつも球磨焼酎(じょうちゅうと言う)ば、飲みよると」
五家荘の山々の妖しい魅力とは、森の妖精はもちろん、何気ないところに、妖女が居ることなのだ。(妖女使いのO氏の妖しい誘いにも用心)
もちろん自分も、妖しいオヤジそのものなのだが。
2021.01.13
山行
もうあっという間に、年が明けてしまった。雑文録も更新していなかったので、死んだと思われているかもしれない…まだ、生きています…との信号でも送っておこうと思います。
昨年暮れ、五家荘図鑑のネットサイトを構築してくれた会社の担当者のY氏と久しぶりに会った時に、Y氏は僕の顔を見て恐る恐る…「五家荘図鑑…まだ、書かれているんですか?…」と聞いてきた。いや君の会社が構築したサイトだから、書かれているかいないか、自分で確かめれば分かるのに、と言いたかったが、止めた。
Y氏は温厚で、とても優しい性格で (そして、僕の存在を心の底で恐れている…) 何も言うことはないのだけど、実際「まだ●●やっているのですか?」という質問は、人に対してとても失礼な質問なのだ。聞き方によっては面と向かい「あなた、まだ生きているのですか?」と平気で言われるのと同じ意味に聞き取れるのだ。
新年そうそうの雑文録が、半分愚痴になってしまった。やはり五家荘の山の空気を吸わずに家に引き籠るとよくない。
山の先輩Oさん、Mさんのフェイスブックには、山の樹氷、霧氷の写真がどんどん送られてくる。五家荘の山は例年、膝まで雪が積もるのだ。熊本で雪山と言えば阿蘇の草千里などの冬景色が定番として報道されるが、五家荘が紹介されることはめったにない。そもそも軟弱なテレビクルーに取材できやしないのだ。(中途半端に紹介され人が押しかけたら大変。絶対チェーンは要るし、道のほとんどが白いアイスバーン、滑り出したら止まらない。山で遭難の可能性もある。) そんな白い世界に行きたくてヤマヤマなのだが、僕の壊れた頭に寒さは脅威なので、冬場は右の額の穴を冷やさないように毛糸の帽子を被ってぶらぶらするしかない。
今年の写真の予定は、まずは昨年からの懸案の極私的芸術祭の実行だ。昨年末に、氷川町の立神峡の陶芸家、平木師匠に仕上げてもらった「森の雫シリーズ」の写真を撮らなければならない。
雫の尖がった先は森の空を突き抜け、胴体に空いた穴は緑のトンネル。穴の向こうの世界と、僕の現在の時間の流れを繋ぎ、(望遠鏡で遠い宇宙の星を眺めるように、宇宙の時間をワープするように) 森を流れる時間のひずみをつなぐ…写真を撮るのが本来の目的ではなく、その穴から向こうの世界を覗く行為が、僕の「極めて私的」な世界なのだ。(こんな妄想、誰も相手にしない)
平木師匠には僕のわがままに散々付き合ってもらい、雫を造形してもらった。口には出さぬが実際は相当苦労されたらしい。「穴」の原型は円筒でろくろを回す時に、円の空気の流れができ、本体の基本も先のとがった円錐形で、実際は本体の中にも空気の流れが出来ている。要するに、お腹の中の穴にらせんの空気の流れを抱えながらも、本体にも螺旋の空気の流れがあり、燃え立つ窯のなかで、その重なる螺旋がせめぎ合い、少しバランスが悪いと空気が膨張し、終には本体が破砕する…そんな炎の中で取り出された森の雫たち…が、本当の森の時間の螺旋軸の中で、どんな世界を見せるのか…ビートルズで「丘の上のバカ」という歌があるが、ぼくは「森の奥のバカ」でいい。
そもそも五家荘の伝説を考えたらいい。平家伝説はどうだろう。霧の中、白く消えかかるような熊笹の道の向こうの茂みを「あるスコープ」で覗くと、時空を超え、平家の白い旗がはためく様子が見えるかもしれない。風の音に混じり、落人の息遣いが聞こえてくるかもしれないではないか。ザッザッと霧の向こうのうごめく黒い影の足音が聞こえてくるかもしれない。
村で今も舞いつがれる神楽は神の舞、舞い手がぐるぐる軽やかに舞う、身のこなしは何時しか神が宿る姿そのものになるのだ。舞えば舞うほど、時間のねじれは解かれ、結界で仕切られた四角い舞台は、斜めに傾いていく。緒方家の縁側のふすまに映る影。開けると庭園の茂みの奥に光る二つの赤い目がある。梅の木轟のつり橋で、雨上がり谷底から湧き上がる白い雲の姿に、だいだらぼっち(だいだら法師)を見たことがある…山でも、里でも五家荘が秘境と言われる本当の所以はそこにある。結局、僕の五家荘は山頂を目指す登山ではなく、深い森の小道の霧の中をさまよう、(本当に遭難しました) ひとときの旅のようになってしまった。
…この前、中古の車を買い換えに行った。三菱のパジェロ・ミニの黒にした。
山では車でも以前、痛い目にあった。夕暮れ二本杉方面に帰路の途中、つい欲が出て、八軒谷に寄って帰ることにした。八軒谷の登山道のゲート近辺の林道を少し歩けば、何か珍しい花に会えそうな気がしたのだ。薄暗くなった荒れた狭い道を走っている途中、左の斜面の廃屋、竹林の茂みから落人の霊がいきなり前輪左のタイヤに刀を突きさした。車は急停車。完全にタイヤはバーストして、動かない。ゴリゴリと無理して本道まで降りて小雨の中、電話しようにもつながらない。雨に濡れながら、電波の届くところまで歩き、保険会社に電話する。オペレーターは都会に住む、テレビのコマーシャル通りのさわやかな対応だが、まったく事情がつかめない。「お客様の現在地をお教えください」「五家荘」「ごかのしょう?そんな地名はございませんが…」「えーと、八代市、泉町・ご・か・の・ショー…」「お客様、お客様…少し聞こえにくいのですが…」彼女に僕がどんな山奥で苦労しているかをとぎれとぎれの電話で伝えるのは至難の技だった。結果、熊本市内からのレッカー車がくるまで長い時間を無駄にし、それから市内の工場まで1時間以上。後日、タイヤ代はもちろん、とんでもない追加料金をとられた。落人を甘く見てはいけない。山のパンクは落石のせいではない。
パジェロはすでに販売製造中止の車で、中古というよりも老古車。本当は四駆が欲しかったが予算がないので2駆の車になった。走行距離10万キロのポンコツで相当疲れている。まるで僕の存在そのものではないか。あと何年走れるか?替えの部品も心もとない。しかし気のいい中古屋さんが「ピカピカに磨いておきますけん」と言ってくれた。僕の寿命の範囲内で頑張って一緒に山の坂道を登ってくれるに違いない。(納車は1月16日)
「まだ、五家荘に行っていますよ!」と春になればクラクションを鳴らしたい。
2020.12.02
山行
僕の生まれた町は小さな港町で、家の前の海岸には魚市場が2軒あり、子供の頃には獲れたての魚が水揚げされ、木箱に並べられ競りにかけられていた。夏休みには、積み上げられた大きな生け簀の中で漫画を読んだり、かくれんぼをしたり、将棋をして遊んだ。生け簀の板のスキマからのぞく海はいつもギラギラ輝きうねっていた。その市場は後継者がいなくて平成になると無機質に公園化され敷地はただの駐車場になった。漁船のポンポンポンポンというエンジン音も、海から生け簀を吊り上げるギリギリした機械の歯車の音も、セリで賑わう声も聞こえない。市場が無くなると次第に漁船の数も減り、今や岸壁に繋がれた漁師の漁船は数えるほどになった。(僕の知るかぎり3艘しかない)
そんな時代の中で、僕より少し年上の漁師の実さんは、わが集落のリーダーだった。真っ黒に日焼けした顔、大柄な体。髪は縮れ、瞳はまさに人懐こいどんぐりまなこの持ち主だった。実さんは中学を卒業し、定時制に通いながら漁師の後を継いだ。祭りになると実さんの船の底から渡り蟹が網で掬われ、宴会の料理の主役になった。他の漁師からも天然の鯛やヒラメが提供され年に一度の祭りの夜は大賑わいだった。老いも若きも焼酎を酌み交わし、宴は深夜まで続いた。こんな光景は一昔前、どこの港町でも見られた光景なのだろう。
賑わいは思い出の中にしか残っていない。実さんは癌に侵され、長い闘病の末、亡くなった。船長のいない漁船「実栄号」はしばらく港につながれ波に寂しそうに揺れていた。
ある時、実さんが僕に「五家荘て、知っとうね?」と聞いてきた。
「もちろん知とるです」と答えると、実さんはどんぐり眼を光らせて「あぎゃん、遠か山に行っとると?」と驚いて聞き返した。実さんたち漁師は、「豊かな海を作る」ためには「豊かな森を作れと」山にどんぐりを植えに行ったそうなのだ。森の栄養分が川を伝い、海をうるおし、海が豊かになる…なんとも気の遠い話だけど、どんぐりの話は漁師みんなのこころを動かした。このままでは海は荒れるという危機感が芽生えたのだ。
当時、実さんたちは長崎の諫早湾の干拓に反対するために、対岸の熊本から漁船デモの応援に参加した。干拓地に近づくと濃い藍色のラインと干拓で汚染された茶色く濁ったラインの色がはっきり分かれていたと実さんは怒りと驚きの声で僕に語った。「こぎゃん、海の色が変わるものかと」
1997年の排水門のギロチンは一瞬。排水門の開門裁判は2020年の今でも未決のまま。海の腐臭が死臭に変わった。
五家荘の森も相当傷んできたらしい。風の当たる尾根筋は近年の大雨でどんどん地表が流され、大樹の根を洗う。繰り返しの大風で更に本体が揺すられ、雨でさらに踏ん張る根も弱る。大樹が根こそぎ倒れた根の後は、丸くえぐられ大きな窪地になっている。大樹の亡骸は更に風雨に洗われて、白く乾燥してほどけ森に棲む大きな恐竜の骨のように横たわる。谷筋の大樹も同じ運命をたどる。大水で谷がえぐられ、沢には大きな岩が顔を出し転がり跳ね、樹をなぎ倒す。ついに崖が崩れ同時に、谷に根を張る大樹も流されもんどり倒れる。森が荒れると川も荒れる。
11月も末、いつもの谷の入り口から道を登る。すでに紅葉の時期は終わり。森は静かだ。足元の茶色い枯葉を踏みながら歩く。珍しく鳥の声も聞こえないし、沢のせせらぎの音、風の音もしない。無音の空間が森を占める。
何も聞こえない不思議な時間の中に僕は居た。葉の落ちた木々の間には秋の終わりの青い空が突き抜ける。
「森の大樹が倒れる時はどんな声を立てるのだろうか?」変な想像をする。一本一本の樹も生き物であり、森の精が宿っているはず。であれば何か声を立てるはずだ。人の耳に聞こえるはずはない…だから、想像するのだ「樹が倒れる時はどんな声をたてるのか?」
帰り道、沢をまたいで倒れた樹を見つける。彼は谷が崩れる途中に巻き添えをくい、流されたのだ。まだ若いのに両手を大きく広げ倒れているように見える。胴回り、3メートルくらいか。なんとも名残惜しそうなのだ。僕は何度もシャッターを切る。そんな彼の気持ちを写真に残すのは難しい。
実さんたちのどんぐりは、遠い、遠い森の奥で、まだ眠り続けているような気がする。
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◆熊本県は川辺川ダム建設へ転換。
豪雨被害の検証委員会は2回で終了。蒲島県知事は30回に渡り住民ら延べ約500人から意見聴取したが、参加者は農協などの団体代表や自治会長ら「地域代表」が多数を占めた。
潮谷義子前知事時代の01~03年に計9回の住民討論会が開かれ、延べ1万2千人の人が参加して議論したのと比べて民意は限定的だったと言わざるを得ない。
【毎日新聞11月19日・要約】
流水型の川辺川ダムの建設を国に求めると表明した蒲島知事が20日上京し、赤羽国土交通大臣に直接、ダム建設を要望しました。
【熊本放送ニュース11月20日・要約】
熊本県の蒲島郁夫知事は23日、球磨川支流の川辺川での流水型ダム建設容認について、水没予定地のある同県五木村役場を訪れ2008年のダム「白紙撤回」からの方針転換を謝罪した。蒲島知事は09年に県が創設した「五木村振興基金」を10億円増額する方針を表明した。
【西日本新聞11月24日・要約】
2020.11.13
文化
夏に山の大先輩O氏から、「脊梁小学校」の緑のTシャツをいただいた。O氏のこころ遣いには感謝しかない。小学校を休みがちな自分だが、せめて写真部員の役割だけは果たさなければならない。
今年の五家荘の紅葉は例年になく鮮やかだった。蛇行しながら進む崖沿いの細道の正面、突然、真っ赤に染められ立っている一本の樹に出会い、はっと驚く。例えは悪いが、緑の中に真っ赤な鮮血がほとばしるような光景があるのだ。赤でなければ、次は黄色、いっせいに尖った手のひらを開いている。晴天、青いスクリーンを張ったような空に、樹々の葉色は染みるように浮き上がる。
家人の運転する車で緒方家に向かう。緒方家は平家の落人伝説が残されている築300年の合掌作りの古民家。2階に隠し部屋などもあり観光スポットになっている。門をくぐり、庭に入ると驚くことに庭にはびっしり形のそろった黄色い葉が敷き詰められていた。まるで誰かが丁寧に葉をいちまい、いちまい並べてくれたように。運よく誰も居ないので部屋の中からも庭の写真を撮らせてもらう。
陰翳礼讃。これは僕の偏愛する作家、谷崎潤一郎の有名な随筆の作品名だ。昭和8年に書かれたもので谷崎は日本古来の翳と闇の世界を好み、その随筆の中で日本人独特の暮らしや感性をなつかしみ、その深い味わい方を記した。何回読んでも深く濃い。今回の雑文録は谷崎をまねた随筆調の下手な文章になってしまった。(苦笑)
随筆の中の有名な厠の話はさておき、建築についても谷崎は持論を述べている。
西洋の寺院のゴシック建築は、屋根を高く尖らしてその先が天をも刺すところに美しさを感じるのに比べ、日本の建物は建物の上に大きな屋根を伏せ、その庇が作り出す広い陰の中へ、全体の構造を取り組む構造になっている。
寺院にしても、庶民の住宅にしても、その庇の下に漂うものは濃い闇だと書く。まさに緒方家の作りがそうで、突き出た庇の下には日中でもほのかな闇の世界が漂う。
逆に言えば、西洋の考え、暮らしはみんな明るければいいというもの。食器にしてもなんにしても白さが目立ち、金属の皿でもなんでもみんな節操なくピカピカに磨いてしまう。(女体も白ければいい…) ところが翳の世界を味わうのが日本の世界。明かりもなく、電気もなく、ふすまや障子ごしに光がろ過され、部屋に柔らかな光が差し込む。部屋の隅にほのかな闇が存在している。薄暗がりの部屋の中、白い磁器が自分の手のひらの上で白く鈍く輝いている。漆器の黒が闇に溶け込む。料理と共に、その闇の世界を味わうのだ。
美食家で有名な氏の羊羹についての描写もすごい。
…あの色(羊羹)などはやはり瞑想的ではないか。玉のように半透明に曇った肌が、奥の方まで光を吸い取って夢見る如き、ほの明るさをかんでいる感じ、あの色合いの深さ、複雑さは、西洋の菓子には絶対見られない。クリームなどはあれに比べるとなんという浅はかさ、単純さであろう。だがその羊羹の色合いも、あれを塗り物の菓子器に入れて、肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めるとひとしお瞑想的になる。
…人はあの冷たく滑らかなものを口に含むとき、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で溶けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う。…
…僕の脳裏には、以前カタログで見た、東京の羊羹専門店「虎屋」の黒い羊羹の一切れが浮かぶ。あの羊羹の深い黒さが暗黒の甘い塊になっていると谷崎に描かれると、一刻も早く口に入れたくなってきてしまった。
谷崎は西洋風の明るい光の下で、さらされ、何の深みもなくなった日本古来の文化のありさまも嘆く。例えば文楽は今や、人形が西洋風のステージで明かりに照らされ、何の陰影もない表情に劣化し、観光客目当ての見世物になったけど、本来の文楽の人工的な白く冷たいお面はろうそくの揺らめく灯りの下でぼんやり浮き上がるからこそ、生きたようにも見えるのだ。明かりの下、見ている方もどうせ人形だからと思うと、最初から何も感動しようがない。
歌舞伎も同様、明るすぎて今やミュージカルショーカブキになったのだろうが、文楽の昔のように、ろうそくの灯りの元で演じられたら、全く違ったものに見えるのだろう。随筆が書かれた昭和の初期の段階で、すでに歌舞伎は明るすぎてダメだと氏に苦言を書かれていた。あの派手な金銀の衣装も闇の中で不気味に浮かびあがるからこそ、深く蠱惑的なものに見えると谷崎は嘆いている。
神楽もそうなのだろう。五家荘の神楽が闇の中で当時のように、わずかな光だけで演じられるシーンを想像するだけでたまらない。舞台の隅の暗がりに誰かいるような気配がする、神楽の鈴や鉦や太鼓の響きでみんなの肩の後ろの暗がりに本物の神が舞い降りて来ている気配がするに違いない。
今は更に更に「LED、ブルーライト」。明るければいい、早く結果を明らかにせよという時代になってきた。伝統を放棄し、明るく便利な暮らしを明治以来目指した日本人の哀れな結末はもう「見えた」。スマホ片手にゲームに興じる大人、子供の軽薄な明るさは救いがたい。ブルーライトは光の中でも一番波長が長く、網膜に直接届き、目を傷めるどころか、脳にも悪影響を及ぼすと専門医から警鐘を鳴らされている。(全然報道されないのはどうしたことか)
秋の五家荘の夕暮れは早い。午後4時には帰路に就かないと、途中で山道は暗く危険な道になる。逆にそんな秋の夕暮れに緒方家の誰も居ない部屋の中で一人座り、誰かやってくるのを待ちながら自分の姿が闇に包まれていくのを味わいたいものだ。
奥の床の間に飾られた墨絵の掛け軸の画も闇に溶け込み、花器に活けられた一本の紅い椿の花だけが、暗がりに妖しく浮かび上がる…床の間も日々磨かれて「床ひかり」するからこそ価値がある。その床に掛け軸も花器の花の姿もほのかに映されていなければならない…僕はひとり、床の間の前で枯れた山水画の世界の旅を夢想する。
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帰路、道路わきの紅葉は鮮やかだったが、お目当ての川の紅葉はすでに終わり、満足した写真は撮れなかった。しかし河原に降りると、風が吹き、一斉に赤や黄の葉がざーっと風に舞い、僕の頭に降り注いだ。
落ち葉の吹雪…川に落ちた葉は一斉に流される。もうこんな一瞬はやってこない。こんな奇跡のような景色を写真に撮る技術は僕にはないから、カメラをわきに置き、岩の上に座り、次の風が吹いてくるのを待つ。
五家荘は素晴らしい。秘境ゆえ、闇も光も、人の情けも、忘れ去られようとしている文化もほんのわずか残されている、ほんのわずか。どうか最後の葉の一枚が、軽薄な風に落ちませぬように。
2020.10.13
文化
巷では「学術会議」の任命問題がきっかけで「役に立つ、立たない」論争が起こっているらしい。はたから見れば「教養のある人々と」「ない人々」の論争、だから話がかみ合わない。かみ合わないから「教養のない人々側」は「教養のある人々側を」力でねじ伏せようと攻撃する。もちろん「学術会議の権威」のもとに居座る爺様、婆様もこの機会にぜひご退場いただきたい。
もう10年も前、たまたま京都大学の入学案内を手に入れた。その案内には学長からのメッセージがあって、当時の学長いわく「大学は教養を学ぶところ。本学は社会の即戦力になるような学生を絶対育成しまへん」と記されてある。「大したものだ」と僕は思った。さすが京大。
(僕は数年間、ニセ学生として京大に世話になっていた。)
今や、大学は就職率を競う専門学校になってしまった。高校も有名大学の入学者数を競う。折角大学に入ったのだから、元をとろうと、大企業に就職するため、勉強せずに2回生から就活するのだ。教養どころではない。そして大ブラック企業の兵隊となり即戦力の使い捨て、疲労し摩耗し役にも立たず、教養も得られず、最悪、精神を病み社会に帰らぬ人になる。教養のない人々の役に立つとはこういう事だぜ。
僕ごときが書くのもなんだけど学術や芸術を費用対効果で見たらだめなのだ。それらはそもそも数値化できない代物なのだから。ところが政治は違う。政治家のやってきたことがすべて数値化される。景気が悪いのもいいのも、1000兆円こえる国債も結果がすべて。なんの教養もない政治家に限って「何んーも、役に立たないのに税金!」と言いふらす。まず彼らこそ、AI人工知能に交代すべきなのだ。国会で居眠り、英会話を勉強する政治家の費用対効果はすざまじい。
嗚呼、最近怒りっぽくなった。これは「老化」のひとつらしい。(苦笑)
ネットで悪口、デマを飛ばす連中も無駄なプライドで脳が固まり「老化」しているらしい。
熊本の大手の製薬会社が「太陽の畑」とかなんとか言っちゃって、裏の壮大な面積の雑木林を全部刈り取り、森の生き物全部追い出し、ソーラーパネルを山一面にひき、自社の工場は全部自然エネルギーで「ゴミも分別してまーす」てな、脳みそを漂白された教養のないコマーシャルが僕は大嫌いなのだ。
豊かで、数えきれない生き物の命を育んできた雑木林と、ソーラーパネルの発電量を比較する愚かさ。全然エコじゃないじゃん。
五家荘はもちろん過疎地。森が役にたたないからと言って、自然林をなぎ倒してソーラーパネルを設置する人がどこにいるものか。五家荘の自然や文化は、そんな物差しで計れないものなのだ。
さて、現在停滞中の極私的芸術展の現状。もうダメなのかなと恐る恐る、陶芸家のH先生に連絡すると、現状の写真が送られてきた。僕のわがまま、無理な要望で、何度も取り組むも、うまくいかなかったのかもしれない。(無理な造形で、窯で割れるのか…) 先生も意地なのだろう。本気で取り組んでもらって本当に恐縮なのだ。
写真の奥の繊細なしずく状の造形…。設計通り、しずくの真ん中に丸い穴が開いている。手前に横たわるのはしずくの子供たち。焼き上がりはどんな色に仕上がるのだろうか?
極私的芸術祭、もうすぐ編。なんの役にも立たない極地。これらのしずくが出来たら、僕は一人森に入る。
そしてそのしずくの丸い穴から、向こうの世界を除くのだ。穴を通り向こうの森とこちらの森の空気が行き来する。穴はレンズか、過去と未来、時間のトンネルか?…そんなへ理屈考えなくていい…ただ穴を覗く。穴は「空」。その空の世界を覗いてみたい。
「空」とは般若心経で言う「空」の世界…
※多頭飼いで猫 ( 総勢 7匹 ) 世界化している我が家は、般ニャー心経
いつか、そのしずくが輝きだすのを待つ。
それだけで僕はよい、のだ。