熊本県 八代市 泉町(旧泉村) 五家荘
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雑文録

2022.09.19

文化

五家荘に鎮座する国見岳は標1739メートル。熊本県最高峰の山なのだ。熊本県民のほとんどが熊本の最高峰は阿蘇山と思っているが、そうではないし、そもそも阿蘇山という山は存在せず高岳、中岳という山々の総称なのだ。五家荘と同じ烏帽子岳という山もある。ついでに調べていくと、阿蘇には西巌殿寺(さいがんでんじ)という天台宗の寺院があり、古くから阿蘇山修験道の拠点として、九州の天台宗の中で最高位の寺格を持つ寺院だったそうだ。

五家荘の山々にも修験道の山があり、そこらも共通点がある。神仏習合、山の神さんがみんなの暮らしを見守ってくれていたのだし、みんなの気持ちは山の神さんと自然とともにあったのだろう。そして西巌殿寺は釈迦院と同じく、明治政府の廃仏稀釈で廃寺が決まり山伏は還俗(げんぞく)した。※還俗とは、戒律を堅持する僧侶が在俗者・俗人に戻る事。

 

泉村誌を読むに、国見岳は過去に大々的な調査が行われた。

※昭和62年(1987) 現地を視察した研究者が次のような指摘をした。

山頂にある山形の巨大岩は祭祀の拠点「磐座(いわくら)」とみられる。そして山頂付近の調査で西側の磐座の前に柱の穴らしきくぼみがあり、表土をさぐると、4か所の穴が確認された。

この結果を踏まえて、平成4年(1992年)5月の3日間、その4か所と中心部の穴跡の発掘調査が行われた。

◆調査主体者

国見岳の神籬(ひもろぎ)保存会会長・井伊玄太郎氏 (早稲田大学名誉教授)

保存会事務局 中島和子 (京都精華大学教授)

熊本県文化課、泉村教育委員会、などなどの面々

その後、再調査が平成14年(2002年)7月に行われた。

◆調査主体 NPO古代遺跡研究所 所長 中島和子

調査団 日本考古学協会。山鹿市立博物館長 隈昭志氏の面々

東西南北、深さ、6メートルのトレンチ調査が行われ、

結果は残念ながら、新しい発見はなく、

今後は更なる大々的な調査が求められる…と、書いてあるところで終わり。

…おそらく当時の詳しい調査結果はどこかに保存してあるのだろうが、僕には見る事はできない。

それ以上はネットで、国見岳に関連する情報を深堀りするしかない。

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そもそも※昭和62年(1987) 現地を視察した「研究者」とは誰か?

ついでに言えば、何故その研究者の氏名が記されていないのか?

 

単純に考えれば、平成4年に調査された、調査主体者の

国見岳の神籬(ひもろぎ)保存会会長・井伊玄太郎氏の事だと思うのだけど。

神籬(ひもろぎ)とは、神道において神社や神棚以外の場所で祭祀を行う場合、

臨時に神を迎えるための依り代となるもの。

国見岳山頂の巨岩を山の神様の代わり「神籬」として、当時の人々は山の神様に祈りを捧げていたのだろう。「神籬」は現代、地鎮祭などで用いられている。ちなみに、国見岳の神籬(ひもろぎ)保存会の情報は、ネットの検索にも出てこない。全国にも国見岳という名の山が多々あり、同名の「国見岳」のネットワークに何か深い意味があるのだろうが、井伊玄太郎教授の書かれた本に国見岳にまつわるものが見当たらない。

さて、次に出てくる方

国見岳の神籬(ひもろぎ)保存会事務局 中島和子(よりこ)氏

中島教授は2回目の調査主体のNPO古代遺跡研究所所長でもある。古代遺跡研究や、磐座についての論文を多数発表されているが、古代遺跡研究所の活動資料はインタ―ネットでは見当たらない。ただ、全国で古代遺跡、縄文についての講演活動をされていて(過去には熊本でも講演されていた)その参加者のブログなどで、多少の研究の内容をつかむことが出来た。

中島氏の略歴には、「古代における政治と祀り」をテーマに日本とアメリカ大陸先住民の古代文化を研究中。九州と六甲山・甲山周辺の磐座(いわくら)を守る運動を起こしていると書かれてある。

磐座(いわくら)とは、「神の鎮座するところ。神の御座」。「そこに神を招いて祭りをした岩石。その存在地は聖域とされた」との意味。

 

五家荘の国見岳の山頂、巨岩は、つまり磐座、神籬の場、

神の鎮座する場所でもあり、古代から神聖な祀りの場だったのだ。

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◆中島教授の講演の一部(講演を聞いた人のブログの要約)

 

漢文の古事記では日本語の言霊の真意は書き尽くせない。

(例)天地初発之時 於高天原 成神名 天之御中主神…

と漢文で書かれているが、日本語の言霊では

「あめつち はじめてひらけしとき たかまのはらに なれる

かみのなは あめのみなかぬしのかみ・・・」

 

つまり、漢文の「天地」は「てんち」てんとちという事なのが、

「あめつち」となると「あ」「め」「つ」「ち」の一つひとつの

言葉に沢山の意味が含まれている。

例えば

「あ」…目に見えない微粒子。宇宙に満ち満ちている。根源。純粋などの意味

「め」…芽。始め。動き。

「つ」…集い。つくる。

「ち」…凝縮。力の根源。

イワクラ…天津神に降りていただく所。だから、天に近い高いところにつくる。

古代の祈りは太陽の光の暖かさに感謝し、自然の恵みが豊かであることに喜び、個人のみでなく全てのものが豊かになるようにという思いがある。それなのに、現代の人間の祈りといえば自己の欲望や自分勝手な願いばかりが多く、神社でもそのような祈願が主流になっていることを中島教授は嘆かれていたようだ。

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磐座について深堀していくと、日本磐座学会というものにたどり着く。学会は全国の磐座についての情報を発信したり、講演活動もある。

フェイスブックも開設され「生きた」情報がどんどん公開されている。国見岳の神籬(ひもろぎ)保存会とは、かすかに道が繋がっているような気がする。

http://iwakura.main.jp/

 

国見岳がきっかけで、インターネットの情報の森の中、又僕は道に迷いつつある。(苦笑)

8月に国見岳での遭難事故があった。無事、救助されて良かったと思う。僕も同じく五家荘の山での遭難経験者だが、五家荘の山は深く、いったん間違って降りたり、落ちたりすると中々引き返せないのが実情なのだ。しかもその時は自分がどこにいるのかも分からなくなる。迷ったときは、その場所に戻るのが鉄則だが、谷底からその場所を見上げるに、そこまで戻るに相当な体力が居るので、そのまま、助かりそうな場所を目指して歩き始める、森の深みにはまるわけだ。

今、国見岳の登山口までの林道は崩壊し、僕の現状では捜索の手伝いに行くにも登山口までの林道の途中で体力が切れ、うずくまり、捜索メンバーから保護されるのも恥ずかしいので、捜索には参加出来なかった。つまり遭難された方の無事を祈るしかなかった。

 

8月の末に、たまたま坂本村で山好きの老齢の方と出会い、五家荘の山の話題になった。その方は数10年も前に国見岳に登った事があり、友人が山頂近くで遭難されたそうだ、友人は1日かかり谷底から這い上がり助かったそうだが、その時の国見岳の山頂は今の展望のいい山頂とは違い、うっそうとした森だったそうだ。今の五家荘は強風で尾根の樹々も倒れ、見晴らしもよくなったが、当時は深い森だったのかもしれない。その森の中に磐座は鎮座されていたのだ。国見岳で執り行われた神籬の儀式の景色を想像する。

中島教授の指摘の通り、現在の社寺、宗教で、人は物欲まみれの祈願ばかりで、逆に神も仏様も逃げ出してしまっているようだ。

古来、日本人は自然の山や岩、木、海などに神が宿っていると信じ、信仰の対象としてきた。古代の神道では神社を建てて社殿の中に神を祀るのではなく、祭りの時はその時々に神を招いて執り行った。その祭りのシンボルが今も国見岳に残っているのは、何ともこころ強いではないか。

もう、めったに山頂まではいけないが、山道を歩いていて見つける石ころでも、神が居ると信じたら、それが神と信じたいと僕は思いたい。それだけで古代の神と人と、交信できる気がする。

家で寝ていて、国見岳で執り行われた神籬の儀式の景色を想像すると、ぽっかり天井が開き、山の夜空が広がる幻想を一人、見る。

2022.08.21

文化

廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)…そう2月6日の雑文録(金海山 釈迦院)で書いた、薩摩藩らが、徳川政府との戦に勝つため、無理やり京都の天皇を政治利用し「錦の御旗」を掲げ、明治維新を達成、全国津々浦々、各集落毎にある神社を合祀しお寺を廃止、一町村一神社を標準とせよという無茶苦茶な事を庶民に押し付けた法律が「廃仏稀釈」なのだ。

明治元年(1868)明治政府によって出された神仏習合(しゅうごう)を禁じた命令で、全国に仏教排斥運動が起った。土着の神と仏様さまが仲良く暮らしていたのを追い出しこれから天皇を神とせよというもの。五家荘でも釈迦院が被害に遭い仏像が廃棄された(一部、かくまわれて復活) 。天皇は人から生きた神に大変身…

釈迦院は九州山地の修験道の拠点の一つ。全盛期は西の高野山とも呼ばれ、天台・真言・禅・浄土宗の道場、二寺、75坊中(僧の住む家)が並び立ち一大聖地だった。当時は尾根伝いに山伏が修行し時に山人の病気、ケガをなおし、仏様の教えを説いて回った。二本杉に祀られてあるのも、お大師様(弘法大師)の像。

五家荘の尺間神社の建立のきっかけは、五家荘の庄屋の一つ「左座家」にまつわる言い伝えにから。ある時、左座家の4代目の亀喜が原因不明の病気で突然、床に臥せてしまった。日夜、熱にうなされ、いろいろな治療に手を尽くすが容態は悪化するばかり。親戚縁者集まるに、病の原因は左座家に代々伝わる「備前長船」という刀でなはなかろかと誰かが言い出した。屋敷に泊まる人も亀喜と同様、夜な夜な熱が出て、悪夢にうなされる事が続いたのだ。奇怪なことに翌朝、うなされた人が床の間に目をやると、飾ってあった「備前長船」の白刃が鞘から顔をだしている。きっとこの妖刀の呪いが原因なのだ。

五家荘には庄屋だった左座家、緒形家の屋敷が今でも保存され、見学も自由となっている。薄暗い床の間には板で棚が架けられ長い板、短い板が上下平行して取り付けてある。聞くところによると、当時、争いなどが起った時に討ち取った敵の大将の生首を床の間の棚に置いて戦果を誇る習わしがあったという。首から流れ出た血が直接落ちて畳を汚さないように、階段状にその床の間の板を流れ落ちる仕組みらしい。このような事は当時の戦では当たり前なのだろうけど。

さて、4代目の病気をどうするか?いろいろ聞いて回るに大分の尺間神社 (1573年 天正元年建立 )の神様なら何とかなるのではないかという情報を左座家は得て、中畑萬吉という人に無理を言い大分の尺間神社までお参りを頼んだ。すると神社の神様から中畑さんに亀喜さんの病気のもとは、刀のたたりというお告げがあった。

そこで左座家の5代目は遠路、大分の尺間神社に行き神社に備前長船を収め、80日間山に籠もり荒行した。すると4代目の病気は嘘のように完治、旅人もうなされることはなくなった。その事がきっかけで地元の人々は本家・尺間神社に分祀をお願いし、今の西の岩の尺間神社が出来たのだ。村に本物の山の神様が来たとみんなは大喜びだったという。閉ざされた山里、五家荘。今のようにインターネットもパソコンもない。五家荘と大分の尺間神社をつなぐ役目は山伏、信仰心のネットワークが役目を果たしたのだろう。

僕に神のお告げがあったわけではないが、やはり、どうしても五家荘の尺間神社の事が気になる。釈迦院と尺間神社、当然大きな時間差があり、関係性は皆無だろうけど、閉ざされた山間地の宗教心を基に考えると、草むらに消えかけたもう一つの尾根の道が微かに見え隠れするような気がする。

そう思いながら、一度、尺間神社の鳥居をくぐるも体力不足、根性なしで断念、引き返した自分を恥じ、もう一度、尺間神社の本殿に向かう事にした。

その日は、山の神のお告げ、手助けか、鳥居をくぐると、崩落した参道の斜面に太い、黒と黄色に編まれたビニールのロープがするすると垂れ下がっていた。

体重70キロの重さに耐えながらも、崩落した急坂をロープにすがりながら登り始める。道の幅は一人分の幅しかない。時々、岩が顔を出し坂は更に狭く急になる。頭の上に樹々の枝が伸び、進行を邪魔する。ロープはとうとう本殿の手前まで繋がれていた。おそらく、地元の人々が参拝するために設置されたのだろう。左ひざを痛め、バランスのとれない僕の体は最後までロープにお世話になってしまった。

そうして、尖った岩山の上に、ちょうど4畳半くらいの木造の本宮があった。標高917メートル。もう体もフラフラなのだが本宮の周りを見るに、本当に岩場の頂上に置かれているのが分った。建物の周りをぐるり回ると基礎部分は平たく割られた岩を積み上げた薄い石垣の上にバランスよく建てられていたのだ。

足元を見ると、断崖絶壁。木の枝のすきまから苔むす岩の壁面が見える。足元から吹き上がる冷たい風に身も心も凍り付く。本宮の裏に回ると、岩場を少し降りる道があり、その向こうにも岩場の上に同じ大きさの建物奥宮がある。それにしてもよく、こんな場所で祈祷しているものだ。さすがに奥の宮まで怖くて行けない。恐怖で固まり、体が動けなくなる。カメラバックからスローモーションのような動作でカメラを出し、怖れながら写真を撮る。

※以前読んだ資料で、本殿は「びゃくらんの滝」の上にありますと記されていた記憶がよみがえる。つまりここは滝の最上部にあるのか…と思うと余計に怖い。しばし休憩、足元に気を付け、ロープにすがりながら帰路を急ぐ。

本宮への道など、地元の山人から言わせれば、なんでもない山道だろうし、恐れることはないのだろう。恐れているのは無信心、邪鬼の塊、罰当たりなよそ者の僕くらいだ。

嗚呼、尺間権現様…時代は大きく変わりました。人も少なくなりました。それでも、山の神様は山人の健康祈願、暮らしを見守ってくれているとみんなは信じております。

これからも、本宮から長いロープを一本、下界に垂らしておいてください。

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※尺間神社の本来の意味は、魔を払う意味の釈魔大権現。大権現の名称から尺間神社に変身(変名)したのは廃仏毀釈の影響だと思う。残念な事に今の尺間神社に電話するも愛想の悪い男の低い声で怪しまれ不快な思いをした。地元の文化施設の担当に聞いてもたらいまわしにされ、ほとんど情報はなかった。(苦笑)

五家荘の尺間神社の建立は、1904年(明治37年)。廃仏稀釈とは無縁で、山の神さんという事で信仰、親しまれてきたのではないか。大正に入ってからは、不合理な神社合祀がされることはなくなり1920年(大正9年)「廃仏毀釈」運動は終息した。

※九州で廃仏毀釈の被害を受けた有名な神社は英彦山

英彦山は、羽黒山(山形県)、熊野大峰山(奈良県)とともに日本三大修験山のひとつとされる。江戸時代の最盛期には3000人の衆徒と800の坊舎(宿泊場)があり九州地域の崇敬を集めてきた霊山。しかし明治維新の廃仏毀釈と神仏分離令、修験道禁止令によって、神仏習合および仏教に関わる文化財の多くは人為的に破壊され、口伝を主とする修験道文化の伝統はほぼ途絶えた。明治政府に反抗する多くの修験者が投獄され、亡くなった。

 

2022.07.24

文化

3年に1回開催される、瀬戸内海国際芸術祭にあこがれたのは何時の頃からか。

芸術祭は2010年度からスタートし瀬戸内海の大小さまざまな島を舞台に世界中から芸術家が参加し、島民を巻き込み作品の展示がされ、全部見て回るには最低1週間はかかる芸術祭。

熊本から見学に行くには遠く、時間がかかる。(当然、仕事はホッタラカス事になる)

会社定年になってから、じっくり行こうとか、(こちとら自由業なり、死ぬまで稼がないかん)、いつか行こうとか、(そんなこと言うてたら、死ぬまでいけない)…

そんじょそこらの屋外(イベント)芸術祭とは次元が違う。瀬戸内国際芸術祭総合ディレクター北川フラムさんの本を読むと、準備に相当な時間をかけ、島民の方への説得、理解を得るのも大変だったらしい。(経緯を書いた本まで出ているくらい!)…

で、今年がその開催の年なのだが、やっぱり行けなかった。(仕事をホッタラカシて長野の縄文博物館に行った) せめて2年前に立神峡の陶芸家平木先生に、製造してもらったオブジェ「命名・森のしずく1号」を持って五家荘の山に向かった。2022年極私的芸術祭の極私的スタートである。

森のしずく1号の発想の起源は、瀬戸内芸術祭の本で見た、※「トムナフーリ」という作品で、「トムナフーリ」は森万里子氏の作品で、豊島の森の小さな池の真ん中に置かれた白いガラス質の米粒のような形のオブジェ。(高さ3メートル)

「トムナフーリ」は樹々の生い茂る暗い沼の中で、スーパーカミオカンデと接続し、宇宙で超新星爆発 (星の死) が起こると、光を放つ記念碑になるそうだ。つまり何時超新星が爆発するかわからないけど、参加者はその光が放たれるまで、その白いガラスの物体を眺め、その時を想像し待ち続ける事になる。

それに刺激を受けたのが、我が「森のしずく1号」なのです。

1号は五家荘に降る、森の雨の雫、新緑の朝露のしたたり、苔むす岩の間からこぼれ散った生まれたての水源の一滴。生まれ死にゆく鹿や猪、獣たちの涙。山に住む人の汗と涙が、雫型のオブジェに凝縮されている。

 

 

そして真ん中に空いた風穴は、時の流れを行き来する風の通り道。

 

 

7月の半ば、天気予報は曇りのち晴れ…ということで、白鳥山に出かけ登り始めて1時間小雨が降ってきた。だいたい僕が白鳥山に行く時の天候は晴天より雨が多い。しかし夏の雨は気持ちよい。カッパを来て目標の小滝に到着、写真を撮る。(岩に足を滑らせ左足が膝までずっぽり川に浸かる) 雨の為、あたりは薄暗い。滝を前に写真を撮ると、どこかの怪しい酒のポスターのようだ。次は苔の上に寝かせ、写真を撮る。

うだうだしていて昼前になる。なんとか山頂前の御池(みいけ)に着き、苔むすブナの茂みをさまよう。白いガスが湧き始める。本来ならそのガスに包まれる1号の写真も絵になりそうだが、道迷いの名所でもあり、調子に乗らずに撤退を決める。

まだ極私的芸術祭は未完。いつの日か深い森に「森のしずく」を置き、月の光が差し込みポタリと緑に輝く写真を撮りたいものだ。

 

下界に長く住むと、足のつま先から脳内まで「デジタル」の電波に侵されていく。宇宙の超新星の爆発に刺激を受けるどころか、無駄な電波、ノイズに反応し脳神経が傷み、気がついたらもう遅い、脳が赤く点滅し疲労が降り積もり、思考回路が絶縁、息が詰まる。

森の精で深呼吸せねば、僕の「タマシイ」は救われない気がするんだなぁ。

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※瀬戸内海国際芸術祭 2022

3年に1度、瀬戸内海の12の島と2つの港を舞台に開催される現代アートの祭典。2022年は4月14日開幕

※トムナフーリとは、古代ケルトにおける霊魂転生の場の意味。この場所で魂は次の転生までの長い時を過ごすと考えられている。

実際の参加作品(現在、メンテナンス中)

◆北川氏 談…(2016年)

正直言って、日本はすでに手遅れかもしれないとも思います。だから、伝統的コミュニティや文化的なインフラが残っているアジアの国々の人たちには日本のようにならないよう、何か少しでも支援できることがあったらしたいというのが、今の私の気持ちです。アジアの国々だったら、まだ間に合います。

2022.07.10

コロナも多少鎮静化、ようやく博多行の新幹線に乗ることができた。2年ぶりの会議なのだ。(僕だって、時に仕事はする)。博多と言えばなつかしのシロキンさんだ。ドナリキンゾウさんだ。過去にバス釣りの連中を新聞のコラムで小馬鹿にして猛抗議を受け、釣竿を折る前に筆を折った我がヒーローなのだけど、城山さんの元部下の仲井さんに聞いても「生きてはいるらしいけど、まだ天神の河岸には顔をだしていないっすねぇ」ということだった。

以前、この雑文録でシロキンさんを全面的に支持したのだけど、いやいや、バス釣り軍団にも言い分はあるだろうと、その先鋒役のアウトドァの教祖、元フォークコンビ「あのねのね」のメンバー清水国明氏のバス釣り裁判の古書をアマゾンで買い、読んだ。その書名は「釣戦記(ちょうせんき)」というタイトルで、2003年発行初版。今から約20年前に、琵琶湖で起きたブラックバス論争の裁判をテーマにした本なのだ。

清水氏とその仲間は琵琶湖でブラックバスを釣り、キャッチ&リリースして「スポーツフィッシング」を楽しんでいた。そんな彼らに滋賀県、漁協などは外来魚のブラックバスやブルーギルらの食害…日本古来の在来種、鮎、わかさぎなどが外来種に食い荒らさて生態系が崩されているので、釣りの禁止とは言わんが「釣った後リリースするのは止めて、外来魚ボックスに入れて処分してね、処分しなさい、処分せえ!」と言われて清水さんたちは、「ワイらの勝手じゃボケ!」「外来魚も命や、逃がして何が悪い」「ワイらにも釣りを楽しむ権利があるんじゃい!」と言い返し、結果清水さんが裁判を起こしたのだ。

その記事を見たからか、我がシロキンさんは某全国紙の釣りのコラムで清水さんたちを「馬鹿じゃないの、コノシトタチ」と馬鹿にした。更にバス釣りの道具のメーカーにも「昔の鍛冶屋魂の矜持はないのか!」とあおったのだ。

シロキンさんのコラムを読んで、全国のバス釣り仲間は一斉に動き、掲載した新聞に猛抗議。シロキンとは誰じゃい?と探しまくったのだ。清水氏の本を読むと、当時は清水さんたちにも「自然破壊、環境破壊主義者」などと、ものすごい抗議が全国から寄せられた。清水さんは、そういう肩身の狭いバス釣りファンの代弁者でもあったのだ。シロキンさんをリンチしょうとした、バス釣りグループも、清水さんをつるし上げた自然愛好者グループも精神構造は同じというわけか。

結果、清水さんの裁判は敗訴。一応法に従う結果になった。ところが清水氏の釣戦記によれば当時、他の地域では地域振興のために「どんどんバス釣りOK!みんな来てね」という地域もあり、更に、琵琶湖の環境破壊の大きな原因は、滋賀県の開発許可の乱発で観光施設が湖を埋め立て、湖水は汚染されたのも在来種の減少の原因であるとデータが示されたり、その乱開発を黙認して補償金をもらっている漁協の利権まで、清水氏は裁判で訴えているのでありました。

自然保護か観光開発か?この悩ましい問題は今も同じ。もちろん、僕は「お金儲けが目的の」外来魚の無断放流は自然破壊、観光破壊でもあり、そんな輩を見たら後ろから川に着き飛ばしてよいという法律を作って欲しいと思っている。つまり一番の理想は「自然を保護しながら、観光振興」が一番なのだ。残念ながら、今も「自然を破壊し、コンクリートで護岸工事をしながら、観光振興」をしている勘違い自治体が多いのだけど。ついでに言えば「自然に何の関心もない(夜に屋外で飯食うだけの)、ブームでやってくる都会人の為に豪華な観光施設を建て、結果大赤字をくらう自治体」も多いのだけど。

清水氏の裁判で更に明らかにされたのは、滋賀県の漁協は外来魚駆除費を行政から莫大にもらい、ついでに漁協連合会会長とその仲間は、工事で川が汚染されたと虚言を繰り返し、金銭を要求し逮捕されたりしたとのこと。

また不思議な事に、外来魚の数は駆除しなくても年が経つほどに激減しているというデータも出た。皮肉な事に漁協は有害な外来魚が減ってしまうと困るわけなのだ。最初は嫌いだった清水氏を、まあ「がんばってはるなぁ」と僕も同意する点が出て来た。「何でもかんでも100%あいつが悪い、自分が正しい」という思考停止は危険なのだな。釣戦記を買うまで僕の脳も100%侵されていた。

今、いろんな通信機材は進化したけど、その分、ヒトは脳は退化したのだ。ネット下では考えの違う人を過激に批判、攻撃、封殺する脳が増殖してきた。

ところで、熊本市内の我が事務所の近くに「江津湖」という市民の憩いの小さな湖がある。

阿蘇の外輪山からの地下水が湧き出て、(熊本市内の水道水は地下水でとても美味、ダムの有る自宅の町の水道水は飲めたものではない) 常時、地下水が流れたくさんの魚が泳いでいる。江津湖にも残念ながら、ブラックバスなどの外来魚が棲み、以前はおしゃれな恰好をしたバス釣り愛好家が川岸を歩いていたが最近少なくなった。いったん「キャッチ&リリースされて痛い目にあった魚も賢くなり、そういう魚は警戒心が強く、なかなか釣り上げる事ができないのでブームが去ったのか。

僕も時に、その市民の憩いの湖に行き、アイスを食べながらぼーっとしているのだが、ある日、その途中の疎水(コンクリートの水路に)に大きな口を開けパクパクしている魚の姿を見つけた。時に親子で楽しくその汚れた疎水を泳ぎ楽しそうだ。上から見ても全然警戒しない。目がクリクリして可愛~い。そうして眺めていると、1匹2匹…仲間も加わり、5匹10匹‥合流し、ぶわーっと大群!浅い場所では背びれが水面からで、100匹は超える大群をなし始めた。その名は「ティラピア」成魚で大きさ30㎝、戦前、食糧難対策で輸入されたらしい。彼らの捕獲に釣りは不要。スーパーの買い物かごで上流、下流で挟み撃ち、大捕り物が出来る。

熊本市の担当部署に電話で聞いてみる。外来魚を管理するのは江津湖であり「その周辺の疎水ではなかとです」と答えやがった。すでに彼らはティラピア軍団のことは知っているのだな。面倒な事には関わりたくないのだ。(ぼくのような面倒な人にも)

釣戦記の清水さんに教えを乞うべきか。しかし彼らの主張は外来魚にも命がある「殺さずにキャッチ&リリース」して何が悪いというものだったし、江津湖の数100匹は生息するクリクリ目玉の「ティラピア軍団」にも命があるのだとしたら、どうしたらいいのか?

自然保護か、観光開発か?在来種保護か、絶滅か?

漁協の利権保護 (実際川漁師でなくても漁協員となれるらしい) か、河川の自由化か?

 

五家荘で言えば、自然保護か?森林開発か?

登山者保護か?トレイルラン排除か?

街のど真ん中、江津湖でも悩ましい問題は今も同じなのだ。

 

一人だけ、答えを出した人が居て、

僕が敬愛する、カヌーイストの野田友佑さん。野田さんはキャッチ&リリースには否定的で、野田さんの名言、釣った魚は「キャッチ&塩焼き」すると書いた。

(※ついでの名言、「グダグダ抜かす、ダム建設の木っ端役人どもは、川に放り投げろ」)

全国的にも有名な作家の野田さんも熊本の川には居たくないのか、四国に移住され、自然保護活動をされながら、今年3月84歳で亡くなった。

 

「ティラピア」はそもそも食用で白身の部分がとても美味との事。

こんな事を、シロキンさんに会えたら話そうかと思ったが、雑文録で長々と書いたので、もう、何だか会えなくてもよいと思ってきた。

2022.05.29

山行

烏帽子岳の山歩きで体力消耗、スマホのバッテリーで言えば、朝から体力が省電力モードの日々。押入れを捜索するに釣り竿が出て来た。2009年5月29日に買ったものだ。川幅が狭く、樹々が生い茂る日本の川専用で確か3万くらいした。すぐに釣りを始めるわけではないけど、他にもリールやルアーが出て来て懐かしい。

フライフィッシングはムチの要領で竿を振りあげ、ライン(糸)に反動をつけ、竿を降り下げ、ポイントに向かい、いかにそっと毛バリを落とすかが基本となる。うまくいけばスルスルと30メートルくらいは糸が伸び、目指すポイントに毛バリがふわふわ「かげろうが舞い降りるように」静かに着水するのだ。そして、その毛バリがそよそよと川の流れに沿い浮いて流れるのをヤマメ君が勘違いしてパクッとくわえた瞬間、クイっと糸を引き、合わせ、釣り上げるのだ。ヤマメ君がくらいつくまでに、川上から毛バリも糸も流れに沿い流されて来る。常時その糸のテンションを保ち続けるために、こっちにやってくる糸のたわみを引き締め、巻き取らなければならない。その糸のたわみは左手でたぐり寄せながら、指先で手のひらに8の字で収容する。そっとそっと、手早く。はたで見るよりとても忙しい。普通の釣りのようにリールで糸を巻いていたらその微妙な距離感、緊張感は保てない。時に流れが速い箇所では、糸をサッと左手で真下に引き続け、そつなくたわみをたぐりよせる必要がある。釣れるまで延々とその繰り返し。最初は鳥も警戒して頭上の鳴き声も途絶えているけど、鳥たちもこの釣り人は人畜無害、それどころじゃないと分かると、鳥たちはいつものようにさえずり始める。以前、堂々とやませみが、僕の頭上をバタバタと白黒文様の柄を見せながら、飛び立っていったこともある。

要するに、要領を教えてくれる人に出会わないと、フライはなかなか上手にならない。自己流で取りくむにもライン(糸)でぐるぐる巻きになり、終いには竿をへし折りたくなる。(3万の薪)、川に石を投げつけたくなる。(余計に魚が逃げる) 結句、幸運にも「当たり」が来たら、竿ごと後ろにダッシュするしかない。(本当はダッシュなぞせずに、糸を真下に引き下げ、人差し指で糸を止め竿を上げ、ヤマメ君を網ですくうのが正解)。なんともやけくそ、面倒くさい釣なのだ。熊本ではフライフィッシングの専門店は少ないのだ。

とにかく練習の繰り返しで肌感覚の習得が必要。川で苦しむ人を見たら「釣れますか?」なんて気軽に声をかけないほうがいい。「まぁ、ぼちぼちですね」とゆがんだ笑顔で答える彼に違和感を持たないで欲しい。(見物人にいい恰好しようと、相当焦っている)

運よく僕には仕事の付き合いで、フライに詳しいS先生が居て、先生は用もなく会社に来ては近くの公園でS先生直伝の釣り教室を始めてくれた。

昼の日中、事務所近くの公園の芝生の上で大の男が二人、竿を振り乱し「もう一回!ダメッ、もう一回やりましょう!」という声の響く厳しい訓練シーンは1時間以上続き、近所で話題になった。練習中は毛バリの代わりに、短い毛糸を着ける。うまくいくと毛糸はふわふわ芝生の上に着地する。(われらは、家政婦は見た状態の近所のおばさんたちに、捨ててはいけない、事務所ごみを捨てたと濡れ衣をきせられた) その後、S先生の会社は倒産、先生の意識も毛バリのようにふわふわ飛んで落ち込み、浮き上がらなくなった。(僕のせいではない)

さぁ、いよいよ公園の芝生の上ではなく、本当の川での釣りの始まりだ。最初に選んだのは清和村の青葉の瀬(あおばんせ)という小さな清流だった。その名のごとく、川面には自然林の青葉が映え、対岸は岩壁の美しい景色が人気の瀬だった。小さなキャンプ場もあり、河原ではシーズンになると川遊び、キャンプ客で賑わった。キャンプ場の上流、下流が釣りのポイントとなる。川には障害物もなく、思い切り竿を振りあげ、下ろすことが出来た。

岩の影からヤマメがパッと飛び出してくる。透明で美しい、ガラスのような川の水がどんどん流れてくる。その川の流れに押されながらも、竿をふるう。そうしてようやく釣り上げたヤマメはスマホで写真に撮り、キャッチ・アンド・リリースする。最初は持ち帰り焼いて食べていたが、(記念すべき1匹目は親父に食わせた)だんだん、川が汚れヤマメの影も少なくなると、食べるのもかわいそうになり川に戻すようになった。

フライの針先には「かえし」がないので、すぐ針は魚の口から外すことが出来る。それでもその傷で魚が弱るという意見もあるが、できるだけそっと逃がすようにしている。もともと毛バリで釣り上げる事が出来るのは1日3匹なら大漁なのだ。釣りをしていて余計に魚君が愛おしくなる。

僕はもともと霊感の強い方ではない…が、ある夜、恐ろしい夢を見た。その日も清和村の青葉の瀬で釣りをしていたが、どうも上手くいかず、ほとほと疲れた。川の横は階段状の田んぼがあり、川から這い上がりあぜ道を歩いて車の方に向かった。菜の花も満開で絵にかいたような日本の里山風景の中に僕は居た。唱歌「春の小川」のメロディが頭に浮かぶ。途中、茂みの奥に小さな川があり、井戸のような水たまりを見つけた。上からのぞくと、小さな魚たちが追いかけっこしながら遊んでいるのが見える。春の小川の水たまり、学校は昼まで友だち同士でつつき合い、追いかけ合い、藻を食べている最中だったのだ。

僕の心に魔が差す。「こいつらを釣り上げて見ようか」と。毛バリは使えないので道具入れの中には残酷で下品な「ミツマタ」の針がある。何のきっかけで買ったのかは思い出せないが、それは海用で魚をひっかけ釣り上げるための乱暴な針なのだ。その針には返しが付いていて、口からなかなか外れないようになっている。

僕は、面白半分にその、魚たちの頭の上からその仕掛けをぽんと落とした。何も知らない無垢な子供の魚たちは、その仕掛けに驚き、反射的にその針をくわえた。とっさに僕は針を引き上げるとその中の一番大きな子が針にかかり、草の上で血だらけでのたうち回った。何でこんなことをしたのか…逃がそうとその針を外そうにも暴れて中々外せない。魚の体が弾けようやくその体をつかみ、僕はその井戸の中に投げ落とした。真昼の太陽、昼を知らせるサイレンが遠くの杉山から聞こえて来た。

その日の夜、僕は夢の中でも清和村の青葉の瀬で釣りをしていた。昼になり、川の横の急な坂をよじ登り田んぼの畔に出るつもりが、なかなかその坂は急で、体を持ち上げる事ができない。這いつくばり、雑草をつかみ、ようやくあぜ道に出たかと思い顔を上げると、目の前に木の杭があり、それには「わら人形」がくくられ、左胸は錆びた五寸釘で打ち付けてあった。僕の悪夢はそこでパッと途絶え目が覚めた。手のひらは汗でにじんでいた。僕が釣り上げた魚の子はその日、死んだのだろう。

その後も釣りをしたが、最初で最後、そんな夢を見る事はなかったが、その夢の記憶は何度もよみがえってくる。

青葉の瀬の次は、待望の五木村の川に向かった。目につく川はどこにでも降りて竿を降り下ろした。全国的にも名高い清流「梶原川」にも何度も足を運んだ。残念なのは水害の度に路肩が崩れ、その工事の度にさらに自然の護岸がコンクリートで固められて、人工的な川に変容していく姿を見るようになったことだ。その工事に比例して釣り人の姿は少なくなった。護岸工事で川は人工的で安全な魚の住めない川に変貌する。(コンクリートの白い壁がひたすら美しいと思う専門家が熊本の川には多く生息する。魚が遡上するはずのない魚道を作り批判をごまかす。)入れ替えに僕は五家荘の山登りをスタート。深山ならではの見たこともない山野草に目を奪われ写真を撮り始めた。

熊本に残る自然のままの清流は五家荘の川しかない。但し、五家荘の川は茂みが多くフライには向かない場所がほとんど。3月、ヤマメ釣りの解禁となった時、ハチケン谷へと向かう道の奥の茂みからひょいと若い釣り人が出て来てくる姿を見つけ、車を停め話を聞くと彼は数匹釣れたと答えた。はてどんな釣り方?と聞くと「提灯釣りです」と答えた。小さな川に提灯を下げるようにしてヤマメを釣りあげる方法らしい。(彼は紳士で、入漁券を付けていた)

「そんな釣り方があるのか、ちいとも知らなんだ。ひとまずフライは止めて釣りを再開するに提灯釣りに挑戦してみるか…」と思い、彼の話す姿のすぐ横の川にふと目をやると落ち込みがあり、大きな岩の影に隠れて、黒くとろけるような水面の下、のんびり悠々と泳ぐ、大きなヤマメ君の姿を見つけた。結構大きい!

本人はうまく影に隠れたつもりでいるらしいが、一匹、そよそよ泳ぎを楽しんでいる。その姿の愛おしいことよ。よくこんなところまで上がれてきたものだ。

思い直す。五家荘での釣り作戦は休止。当面は森の中、ぼんやり川を眺めていよう。自宅で竿の手入れをし川の思い出に浸っておこう。

バッテリーが充電されるまで。僕の左の胸はまだ、時々痛むのだ。

2022.05.17

山行

今年の5月の連休は晴天続きで登山日和が続いた。山に登らず、林道をぶらぶら歩く、いいとことりの「山歩き」の僕だが、五家荘の春にどうしても登ってみたい山があった。それは烏帽子岳(1692m)だ。過去に登った時は時季外れで、山頂のシャクナゲの景色を見る事はなかった。赤やピンクの満開のシャクナゲに埋もれる烏帽子岳の景色がまぶたに浮かぶ。残念ながらそれはあくまでも想像の景色で、山頂のシャクナゲの群生が同時に満開になることはないらしい。烏帽子岳への山道は急な坂はないものの、歩く距離が長く、峰越から片道約3時間。そもそも海抜ゼロメートルの自宅から峠まで車での走行時間が3時間。家を出てから昼に頂上に着くには朝6時に出なければならない。

と、いう事で5月5日に僕は一人で朝6時に家を出た。しかしすでに夜明け、海岸の釣り人達はすでに満員、押すな押すな、隣人との距離2メートルでひたすら撒き餌を放っていた。(朝まずめ、夜まずめ。釣りのタイミングを逃したら取り戻せない) 釣り人の方が僕より根性がある。

予定通り峰越に9時に到着。そこから登山開始。よぼよぼ登山で尾根道を歩き頂上を目指す。風の通り道の関係もあるのか、反対側の白鳥山への尾根道よりブナの大木が両手を広げている姿がいくつも見る事ができる。新しい葉の緑も濃くなり、頭上でウグイスやらフクロウやらの声が鳴り響く。よぼよぼ…鳥たちも「変な奴が来たぞ~」と警戒しているのか、鳴きながら僕の足取りに付きまとう。

2時間経過。悔しきかな、頂上までの少し低い鞍部で燃料切れ…長い休憩…目先の長い、長い真っすぐな道よ。まだこの道が続くのか。頭が空白になる。立ち上がろうにも、バイケイソウの緑の葉が一気に道をふさぐ。

いかんいかん、深呼吸。かすかなめまい。鼻呼吸が大事だぞ。口呼吸とのバランスがくずれると筋肉が硬直すると、ある資料で読んだのだ。行きあたりばったり登山では、ゆっくり呼吸を整え歩くのが大事なのだ。体のバッテリーの容量が切れかけている。更に休憩。ようやく体を起こし、半分はいつくばりながら最後の坂道を登り烏帽子岳頂上に着く。

あちこちの茂みでは白やピンクの花が満開だ。はなびらはまるで、マシュマロのように柔らかい。長細く丸みを帯びた葉には虫食いの後がある。下界のお上品なツツジの花とは違い、山の花は素朴で力強いのだ。何とも言えない生気が漂う。蜂たちのぶんぶんいう羽音。

春の青空の下での真昼。山頂から見渡す五家荘の緑の山々全体が春の陽気に包まれている。おにぎり2個が昼ごはん。シャクナゲの迷路をさまよい写真を数枚撮り帰路に就く。これで念願の烏帽子岳にも登れて満足だ。ブナの大木、大きな日影と涼しい風をありがとう。帰りの林道の奥、川沿いの民家に大きなこいのぼりが泳いでいた。

* … * …* … * … * … * …* … * …* … * … * … * …* … * … * … * …* … * …*

2日後の5月10日は2か月に1回の定期健診だった。40項目の血液検査と薬をもらいに行く。

待合室に看護婦さんが飛んできて話かける。「最近何かしました?」「えっ?何も」「激しい運動とか?何かしたでしょう?」「いゃ、そもそもスポーツは嫌いなので」「数値がはねがってます」「ここ数年、ジュースにコーラ、みかんにようかん、いっさい食べてないです。(チョコはこっそり食べているけど)」「いや血糖値の話ではなくCKの数値が跳ね上がっているのです」

血液検査でCKという数値が通常の値の3倍、つまり平均100の数値が300に跳ね上がっていたのだ。CKとは激しい運動などで筋肉が大きなダメージを受けた時に発生する数値の事らしい。まぁ、烏帽子岳の登山の影響でその数が3倍。安静にしておれば回復するらしい。

先生曰く「過去に運動会の綱引きに参加した患者さんの数値が3000というとんでもない数値になりましたが…まぁ、時には気分転換、ぼちぼち行きましょうねー」何もせずに数値が跳ね上がる時は要検査らしい。

ところがここ数年悩んでいた血糖値は下がり、ぎりぎり正常値に回復…(ヘモグロビンA1cは下がらず)…たまには栄養補給と病院の近くのラーメン屋(これまでの人生の中で2番目くらいに旨い)で味噌ラーメンの麺大盛りを注文した。(ラーメンは1年に2回くらいしか食べない)

…糖分…いゃ当分、山は控えめにして、気になる棚田めぐりを始めよう。

 

2022.04.30

山行

4月23日は1日早い (個人的な) 山開きだった。年間を通して通う五家荘の正式な山開きは翌日の4月24日 (日曜) なのだけど、用事もあるので、1日早く山に出かけた。天気予報は雨だが、雨は雨で楽しい。もちろん大雨は別。去年の夏の豪雨でいつも楽しみにしていたハチケン谷が大崩落。秋にトリカブトを期待して林道を辿るに、道の奥でバンバン、ビーンと音が響いて来た。なんだかきな臭い香りがする。谷にコダマする音は崩落した斜面から大きな岩が落ち跳ねる音だった。林道はすでに足の踏み場もない、岩が小山のように積み上がった異様な景色が目の前にひろがる。さすがにこれ以上は無理と引き返した。(引き返す途中で足をするり滑らせ、下手な受け身…右肩を痛め、また整形外科に2か月通院するはめになった) そんな谷の林道が半年経つと、なんと重機の力で見事復活。まるで魔法にかかったように時間は巻き戻された。極端な書き方すれば、林道で自然の道を破壊しながら、自然崩落した林道を修復する繰り返し…となる。

しかし、今年の山の花の開花は1週間遅く、有名な芍薬の花もまだ固いつぼみだった。途中、霧のような雨がさわさわ降り始めた。しわしわ、さわさわ‥‥春の優しい雨に煙る谷。すでに里では散り尽くしたと思っていた山桜が数本、標高の高い五家荘の山では薄く白く咲いていた。足元の岩の上にも花弁が落ちて見上げると山桜の樹が頭の上で笑っている。

最近、気圧の変化で後頭部が痛むし、気分も落ち込む。気になりだしたら、さらに気になる。

気圧の急変は目に見えないけど、頭痛で悩む人も増えたのではないだろうか。僕の脳内の空洞化したドーム(肝心の脳は消えてしまった)の頂上から小人がガラスの細い針を落とし続けてキリキリ痛む。そんな時の薬に頼らない処方箋は山行なのだ。

道のわき岩のくぼみには可憐な「ヒトリシズカ」の群生がある。不思議な形態の花弁でシズカちゃんの、どこに花粉があるのか。「ヒトリシズカ」に咲く、この家族があちこちに満開の花を咲かせている。なんとも可愛らしい仲間だけどがみんな静か。開花期間は短い。

途中で、林道の横の谷を見るに小さな滝があるのに気が付く。道から外れ、崩れそうな坂をいったん降り、川に出、そこから見上げるに、その滝に高度差はなく、横に広く岩が露出している。苔むしている樹々の奥を滝の水はなだらかに流れ落ちている。過去の大きな地滑りで山肌が崩落し下部の岩盤がむき出しになり滝になったようだ。木をつかみながらひぃひぃ、よじ登ると、改めて写真に収めたい景色が広がっていた。ただ足元がゆらゆら、崩れやすいので、安全に写真撮るためにはいろいろ準備してまた訪問せねばならない。そんな企みを一人考え、森の中でほくそ笑む自分を「ヒトリバカカ」とでも名付けよう。

ふと視線の奥に初めて見る花が一輪。「延齢草(えんれいそう)」だと、後で山野草の生き字引 Мさんに教えてもらった。葉からいきなり花が開くような花。

「延齢草(えんれいそう)」はネットで調べるに花が付くまでに10年かかることから延齢 (長生き) という名がついたとのこと。※僕が見たのは「ミヤマエンレイソウ(シロハナエンレイソウ)」。

しかしネット検索するに、茶色の花の延齢草が楽天で販売されているのは不思議(もちろん、ポットに入った養殖物)。

これは縁起が良い。脳内ドームに針が落ちて来る自分が、そんなに長生きは出来ないだろうと思いながらも、運よく見つけた「延齢草」を喜ぶべきか。毒草だけど。

ぶらぶら楽しい「山歩き」。普通の人の倍の時間をかけて京の丈への登山口にたどりつき、山頂へ行く気はないので、雨が激しくなる中、引き返す。背負ったバックが重くなり足元がぬかるみ、林道がせせらぐ川に変わる。

もう少し気温が上がると、雨に濡れるのも、とても楽しくなる。ついさっきまで、うるさいくらいにおしゃべりしていた山の小鳥たちも家に帰ったのだな。また来るよ。スマホに君たちの声は録音させてもらいました。

2022.04.04

山行

五家荘の冬は下界と違い長い冬だ。もう雪解けかと思い、峠に向かう途中の陽のささない道にはまだ雪が積もり、時に凍結した氷道がぬらぬらと光っている。チェーンは買ったが“半ケツ”で吹きあがる風の中、一人這いつくばってタイヤと格闘するのも疲れた。山に登れたとしても花が咲く時期でなし、結果春になるまで家でじっとしているしかない。たまたま書店で樹木について書かれてある本が目についたので手に入れ、そのじっとしている時に読むことにした。

「樹木たちの知られざる生活」ペーター・ヴォールレーベン著・ハヤカワ文庫。

そもそも僕は、五家荘の山で山野草に出会うまで、植物にはまったく関心がなかった。ところが、いったん関心を持つとなんでも驚く質で、道端の「ツユクサ」の表情にも感動し、あの青紫の丸い耳に黄色い顔を大発見、このこは宇宙から来た植物だと一人驚いてシヤッターを切っていた。花はもちろん樹木はからきしダメ。見分けがつくのも杉と松くらいで、樹木の図鑑も買ったけどどうも身に付かない。

しかし、五家荘の山と親しくなるにつれ「ぶな」という樹だけは何だか見分けが着くようになった。ああ、この木が森の親玉なんだなぁと感じるようになった。「樹木たちの知られざる生活」の著者はドイツの森林管理官で森の管理の仕事をしている。ペーター氏はある時、古いブナの集まる森で苔に覆われた奇妙な形をした黒岩を見つける。氏はその岩の表面に付いた苔をつまみ出すと、それは岩でなく古いブナの切り株という事に気が付いた。更にその樹皮の端をていねいにはがすとなんとその奥に緑色の層があることに驚く。緑色、つまり葉緑素でその岩のような木は死んでいなかったのだ。辺りの岩もみんな「ぶな」の大木の切株で、切り落とされたのは約400年から500年も前のもの。研究の結果古い森では森を形作る樹々たちが根をはり、弱った樹に栄養を与えているという事実が分かった。

自然の森では一本一本が自分の事ばかり考えていたら森は持たない。死んでしまう木が増えれば森はまばらになり、強風が吹き込みやすくなる。倒れる木が増え、夏の陽ざしが直接差し込み土壌も乾燥し、どの木にとってもいいことはない。お互い貴重な存在で、病気で弱っている仲間にも栄養を分け回復をサポートし、種類の違う樹が集まり古い森は形作られているそうだ。

本には他にも知らなかった森の中の出来事が書かれてあり、樹々同士の情報の伝達にはキノコが今でいうインターネットの役割を果たしているそうだ。こんな事を書くとまるで古いおとぎ話のようだけど、2018年に書かれた最近の出版で、お話の根拠も最新の研究結果をもとに書かれてある。天然林に近い森の樹々、生き物は人間の世界よりもはるかに豊かな世界と言えるのだ。人間のように無謀、無駄な殺し合いはしない。

あらためて思うに、五家荘の森に入ると気分が落ち着くのもそのせいだと思う。残念ながら、五家荘の尾根のブナも枯れたり、倒れたりする景色が広がっている。白く骨のようになった大木の亡骸が、風に立ちすくむ姿を見るのは悲しい。小石、砂だらけの道が多くなってきた。大風で根が揺すられ、雨で土が流され根が洗われ、一本一本大木が倒れて行く。昔はもっと深い森だったろうに。大きな気候変動は人間の自然に対する無責任な行動の結果なのだろうけど、今更すぐに回復は出来ない。

3月20日、本を読んだ後、なんだか森の事が気になり白鳥山に向かう。峠に近づくと稜線が白い。昼前でも樹々は霧氷に覆われている。山頂に向かう途中、「ぶな」の大木が倒れ、根元から折れて道をふさいでいた。幹から枝がいくつも別れ、枝が網のような迷路を作っている。幹にまきつく苔からは涙のような形をした氷がいくつも下がっていた。と、驚くに、枝の先を見ると新芽がいくつも出ている。すでに死に体なのに新芽がでているとは?その「ぶな」はまだ死んではいないのか。なんともいえない気分になり、しばしその樹の姿を眺めていると、頭上からバタバタ、バタバタと霧氷の氷が頭に振り落ちて来た。行けども、行けども氷の雨は追いかけて来る。

 

 

山頂近くのドリーネの向こうの茂みでは、鹿の群れが歩いている。新芽を食べているのだろう。お尻の白い子鹿が数頭、こっちを見て警戒しながら斜面を登っている。兄弟なのだろう。

本によれば、樹々は言葉の代わりに情報を伝達する様々な、手段を持っているそうだ。しかし人間に植林された樹々は情報を伝達できず孤独な一生を送る。植林の時に根が傷付けられるので、仲間とのネットワークを広げる事が出来ないのが原因だそうだ。植林地の樹々は100年程で伐採されるのでみんな孤独のままらしい。どのみち老木まで育つことはないから。切り株まで援助し合うという友情は、天然の古い森でしか見る事ができないそうだ。

人間は100年も持たずに伐採される運命なのだけど、植林されたわけではないと信じたいから、もう少し五家荘の自然の森の中に居させて欲しいと思い、山の春を待つ。

 

2022.03.08

山行

「どなり、きんぞう」これは怒鳴る、金蔵…金蔵さんが怒鳴っているわけではない。

昨夜、僕の頭の中に浮かびあがった、思い出の知人「しろきん」さんのペンネームなのだ。

10年も前、「しろきん」さんは、全国紙に「どなり、きんぞう」のペンネームで釣りのコラムを書いていた。氏のひょうひょうとしたコラムは、週に1回掲載され釣ファンに人気を博していた。名前の由来は「しろきん」さんの苗字、城からくる。城という字は土と成りでできていて、なまえが均(ひとし)を「きん」と読み、合わせて「どなり、きんぞう」となる。コラムの内容は、よくあるパターン「こういう竿仕掛けで、どこで何匹釣ったかを自慢するもの」ではなく、釣れても釣れなくても、釣りは楽しい、自然にいやされるという、肩の力の抜けたなんとも雰囲気のある内容だった。

当時の仕事の関係で氏を熊本の南部、人吉市の営業先に案内する役を引き受けた。福岡からの特急を熊本駅のホームで待っていると、氏は文庫本を真っすぐ目の間に掲げ、本を読みながらこっちに歩いてきた、いまの歩きスマホじゃないけど、歩き文庫だった。氏は僕より小柄で髪は短く縮れ、卵のような頭に小さな丸い帽子を被っていた。さりげなくおしゃれでイギリス風の柄の背広も、ズボンも折り目ただしく上品だった。僕はあえて熊本市内から山越え五木経由で人吉の営業先に案内した。(そもそも、人吉に鉄道で向かうには時間がかかりすぎる)。しろきんさんは、営業先で先方に10分も満たない短さで企画を提案し、さっさと一礼してその会社を後にした。(相手の反応を見て、無理と悟ったのだ)

それから、帰りの時間はたっぷりあるので、帰路も高速とか使わずに、山越の道をたどり、やまめの釣りのポイントを探して二人、橋の上で、あの岩の下がどうのこうの、言いながら帰った。氏はその時30万近くするヤマメ専用の竿を買ったと嬉しそうに語った。竿名人の手作りのバンブーロッドでマニアにはたまらない。一回、大きなヤマメがかかり、ぐーっと竿を振りあげる時に、その竿がたわんで「ぎしぎし」と音を立て始めたので、すかさず竿を放り出しヤマメをばらしたと、残念そうに語った。はたから見たら、何しているの?という不思議な行為に見えるが30万の竿が折れたら、そのまま川に飛び込んで河童になりたい気分になるだろう。僕もバンブーロッドにあこがれていたけど、その話を聞き、次はカーボン製の竿にした。(山本釣り具で、日本の川用の短い竿)

「しろきん」さんは全国各地のラーメンにも目がなく、熊本ラーメンの人気店を紹介すると、最後はラーメンの鉢を両手で持ち、鉢に口を付け、大きく目の前に抱え上げ本当に最後のスープの1滴まで飲んで「ご馳走様」と叫んだ。(同席した僕は顔から火が出るように恥ずかしかった) それがラーメンに対する彼の儀式、マナーらしい。歳は当時50歳近く、有名国立大学を出て、本来ならば新聞社の幹部クラスのはずだけど、いろいろあって、ぼくのような田舎の兵隊と営業戦線を回る職務についていた。いきなりバイクの大型免許に目覚め、途中、運転教習場でバイクに倒され足を骨折、入院を経て念願の免許を取り、ハーレーにまたがったり「俺、くるくるパーになっちゃった」と部下の仲井氏に連絡後、鬱で半年入院したりした。

つまりそんな氏の書くコラムが僕には面白かったのだ。しかしある時、コラムの内容が問題を起こし連載は中断する。「しろきん」さんは、持ち前のユーモア心で当時全盛だったブラックバス・ブルーギルなどのスポーツフィッシングを小馬鹿にし批判したのだ。ついでに大手の釣り具メーカーまで名指しで「昔ながらの鍛冶職人の誇り、釣り具屋の矜持を忘れたのか?」「馬鹿じゃないの?このシトたち」と書いた。残念ながら書かれた方は氏のようなシャレが分かる人々ではなかった。記事に激怒した団体、個人は新聞社に猛抗議し、新聞社はやむを得ず紙面で謝罪、連載は中止された。今も検索すると、記事も読まずにとにかくこいつはけしからん、こらしめろというコメントが出て来る。自分たちに異論をはさむ奴らは絶対許さないというようにみんな連携し、思考が硬直し不寛容になる。そんな空気感は今も変わらない。それどころか、加速されている気もする。相手の発言の前後を読まずに切り取り、一方的に決めつける。普段はおとなしい人でも、いったんグループに加わると、排他的、攻撃的になるのだろうか。(僕も気を付けよう)

 

と、いう事で、長い前置きでした。

今年の1月、2月にかけて、五家荘の山々がスプレーマーキングされ、汚される事件が発生した。最初は国見岳、次は久連子岳。ピンクや黄色のスプレーで岩や樹々に、道に迷わないように、数十個所、印が付けてある。この行為は全国の山々でも行われている悪業なのだ。

使用されたスプレー缶は、木の陰に隠すように捨てられていた。登山道整備プロジェクトのO氏らのメンバーは集まり真冬にそのスプレーの除去作業を行った。国見岳の作業は吹雪の中で実行され、その事件は新聞やテレビのニュースでも報道された。

その犯人は当然、山に登ったのだし、汗をかいたのだ、そして自然の風に、癒されたはずなのに、そのお返しとしてスプレー返しとは。なんともはや。同じグループの人々が道に迷わないように自然の木や岩にマーキングする。

突き詰めて言えば、人が山に登るのも山を痛める行為でもある。人気のある山には登山者が多く集まり列を作り道が出来る。雨が降るとその登山道に水が流れ、道はえぐられ、自然は荒れていく。だから、せめて山に登る人は、それ以上、山を痛めないように気を使いながら山に登るのだと思う。

スプレーマーキンググループは、川の世界で言えば、「外来種」。外来種の発想が、これまでの登山の「在来種」の世界に放たれたのだ。

話は又、川の話に戻るけど昔、琵琶湖で外来種と在来種の論争があった。ブラックバス、ブルーギルなどの肉食外来種が昔の在来種を食い荒らし、すでに昔からいた日本の魚絶滅寸前に追いやった。外来種の魚を駆除し、昔の琵琶湖を取り戻そうというグループがスポーツフィッシングに規制をかけようと言い出した。それに猛反対したのが自然派のお笑いタレント清水国明氏で、彼ははスポーツフィッシングにも釣りを楽しむ権利があると裁判に打って出た。(敗訴したけどね) 清水さんは乱獲する漁師にも問題あるし、在来種の減少の原因は琵琶湖の汚染にも問題あると反論する。いくら外来種と言えども、殺処分するのはあんまりだ…。当時の裁判記録を清水氏は本(釣戦記)にしていて、今度読んでみようと思う。

僕が面倒くさいと思うのは、登山界においてもスプレーマーキングしている連中から、自分らにも自然を楽しむ権利があるし、マーキングして何が悪い、そうしてどんどん人が増えれば地元も賑やかになっていいではないか、と言う意見が出る事なのだ。登山者だって山を汚しているではないか。

そんな彼らに、僕が公に「馬鹿じゃないの、このシトたち」とか言ったらどうなるのだろう。「そんな奴らは、グルグル巻きにして、スプレー缶でピンク色に染めて、五家荘の谷につき飛ばそうといったら?」どうなるのか?(そんなこと言ったら、在来種、外来種、両方から嫌われるけんやめなさいとOさんに諭された。)

 

今はこれだけ雑文録に書くことにしょう。

スプレーマーキングした犯人ども「馬鹿じゃないの、このシトたち!」

 

さらに、ついで。

当時、熊本市内にフライの専門店(ススキ)があった。店に入るにそのオヤジ、いきなり素人の僕に5万くらいする竿のセットを売りつけて来た。知人の釣り名人(故人)に聞くに、そのオヤジはこっそり、五木の山奥の湖(内谷ダム)に外来魚の稚魚を放流していた。そういう行為を釣り具の専門店がやって、お客を増やし道具を売っているなんて…その店は罰が当たり閉店した。結果、オヤジは自分が放流した外来魚の始末など何もせずに、湖の生態系を破壊したのだ。「スポーツフィッシングにも釣りを楽しむ権利がある」という論理で。

「しろきん」さんは、その後、田舎の通信部で新聞記事を書いていたけど、今頃どうしているのか。スプレーマーキングの記事ネタ、あるんだけどなあ…

2回目のスプレー除去作業(久連子岳 2月27日)に僕も参加。自分でも思うにまったく役にたてなかった。途中の斜面に添う細い道に頭がふらふらして、歩くのがやっとだった。犯人どもをひっ捕まえて、谷に突き飛ばすどころか、自分で自分を谷底に何度も突き飛ばしかけた。なんとも恥ずかしい。清掃作業に参加した子供たちに「何にしにきたのあのシト?」と、馬鹿にされていたに違いない。

そんな何の役にも立たない、情けない僕にも、福寿草は金色の花弁を満開にして、僕の貧しい心を癒してくれる。そんな山の花を盗掘、踏み荒らしたり、岩にスプレーするのは許されない。許さないからねっ。

 

2022.02.06

文化

金海山釈迦院は五家荘エリアの西に位置する大行寺山(標高956m)の山頂近く、杉の古木に囲まれ鬱蒼とした標高942メートルの森の中にある。宗派は天台宗。

五家荘の自然や文化に彷徨いこんだ自分がなぜ、今日まで釈迦院にたどり着かなかったかには理由がある。それは釈迦院イコール「日本一の石段3,333段」のイメージに拒否反応を示していたからだ。もともとスポーツとやらが苦手…いゃ、嫌いなひねくれ者の自分だし、汗を流すならそこらのグランドを走ればいいし、石段を登るどころかその速さを競うなんてもってのほか、誰が考えたか、どこぞのイベント会社の「地域興し」をネタにした企みに乗るもんかと思っていた。そもそも企画したのは隣の旧中央町。要するにネタ作りに釈迦院は利用されたのだ。建設当時、泉村では石段建設に反対する人も結構いたと聞く。

時は日本一運動の真っ盛り、マスコミはこの日本一とやらを大きく取り上げた。県内を回るたびに思う、笑うに笑えない日本一競争の祭りのあと。海に沈む夕陽を浴びて一人微笑む、日本一のエビス像の後ろ姿のなんと寂しいこと。エビス君の寂しい肩を抱く人間は誰もいない。日本一の大水車もあった。天草のキャンプ場にあった「大王丸」は完成時、日本一だったけど、湯前町の親子水車「みどりのコットン君」に首位を奪われ地に落ちた。悲しくも情けない、天下の日本一の水車は、わずか30年で解体されてしまった。良きライバルのコットン君も同じ運命をたどる。五木村のバンジー騒ぎもようやく収まり、谷に静けさが戻ってきた。県内、日本一の負の遺産だらけなのだ。

自分は、そんな3,333段を競う汗を嫌悪し釈迦院を敬遠していたが、大きな勘違いだった。階段と釈迦院は思うほど、つながりはなく、階段のゴールから釈迦院の本堂まで、約2キロ近く石畳の道を歩かないと釈迦院にはたどりつけない。実際、階段を登り終えたあと、更に石畳の道を歩き参拝しょうとする殊勝な人がどれだけいるのか。昔、信心深い地元の人は老いも若きも、ふもとから山道を歩いて登ってきていたのだ。(そっちの方が健康) 今もそういう古道が残っているなら自分でも登ってみたいと思う。

釈迦院の由来は延暦18年(799年)大地震で大地が震動し、地中から金の釈迦如来様が出て来て、その如来を地元の僧「薬蘭」が安置、釈迦院と名付けたことから始まる。その後の時の流れの中で釈迦院の全盛期は西の高野山とも呼ばれ、天台・真言・禅・浄土宗の道場、二寺、75坊中(僧の住む家)が並び立ち一大聖地になった。そこには一般の僧侶だけでなく修験者(山伏)なども居たらしい。そこまで権力、信仰を集めると、他の権力者にとっては脅威に映るのだろう。天正15年(1587年)隣のキリシタン大名小西行長が総攻撃、75坊は焼き払われ、釈迦院の苦難の歴史は始まる。当時のキリシタン大名も南蛮貿易で利益を得たいのと、力で民の心を抑えておきたかったのだろう。キリシタンと言いながら、やっていることは乱暴残虐な戦国大名と同じなのだ (今は宇土市のゆるキャラに転生)。

それでもなんとか釈迦院は加藤家、細川家のサポートにより復興、江戸時代末期まで地元はもちろん、肥後藩の中でも特に信仰を集めた名刹と言われていた。ただ資料を探しても、小西行長の焼き討ち事件から江戸時代末期までの復興までの資料はあまり見当たらない。

そして明治2年、維新政府の神仏分離、廃仏毀釈の発令が下る。当時の住職は帰農し、およそ1000年以上も続いた名刹の歴史も明治4年に廃寺となり息絶えた。寺の領地も官有地にされ、釈迦院消滅。問答無用、維新政府の暴挙。ところが、本尊(黄金の釈迦仏)は熊本市の川尻の阿弥陀寺に無事保護されていた。誰かが本尊を守るために抱きかかえ、命がけで山の坂道を下りたのだろう。

そもそも、日本の信仰のスタイルは神仏習合、神様も仏さまも、土着の神もみんな一緒に住み、一つの信仰の形になり、平和、豊作を祈ったのに、いきなり時の政府の都合の良い神(神道を国の宗教と定めた)を信じろという神仏分離には無理があった。特に修験道は神仏習合の典型とされ明治5年には「修験道禁止令」まで発令され、素朴な山の神を信じる修験道は禁止、すべての山伏は世間に帰され、失職。指導者ランクの山伏だけでも全国に12万人いたが帰農したり、露天商などになり全国を漂白する人や、寺院を持っている人は自宅に戻り仏僧になったそうだ。特に修験道のシンボル「権現」「牛頭天王」「明神」は狙い撃ちされ、道祖神、馬頭観音、石の地蔵は叩き壊され、土に埋められたり川に投げ捨てられた。

妖怪のモデルは地域の土着の神の仮の姿のような気がしてならない。もしくは修験者、山伏の姿で、天狗はもちろん、河童、油すまし、ぬらりひょん…そんな神々を廃棄し、明治政府は強引に近代化を進めたのだ。しかし明治政府の思惑通りにはことは進まず、神仏分離令は10年足らずで破綻した。ただし、その10年で文化財の9割は破壊された。

 

 

五家荘の山には釈迦院発祥の修験道の教え、伝承が残り、その山伏の足跡が蜘蛛の巣のようにいくつも編まれ、何か大きな模様が描かれている気がする。しかも、その道に平家の影が見え隠れすると、更にその模様は複雑なものになる。

国見岳、大金峰、小金峰、久連子岳、白鳥山、尺間神社、その尾根道は大きく円を描いている。二本杉から釈迦院に続く古道もあると聞いた。

妙見宮をきっかけに、これまで神仏習合、廃仏毀釈について机上の歴史物語と思っていたのが、釈迦院について調べていくうち、ますます関心が高まる。もちろん、本の情報を頭に詰め込んだだけの自分ではあるけど、いよいよ1月23日に、釈迦院への道をたどる事にした。

朝から結構雨足は強く、この天気なら、林道の雪、氷も解けているかと期待した。(家人は雨の中出かけていく僕の事を馬鹿と思った) 泉村支所を通り過ぎ、柿迫の集落を経て釈迦院への林道をうだうだ登る。予想通り、林道の雪はほとんど溶け、チェーンは不要だった。それでも釈迦院が近くなるに連れ、雪が残る道が出て来た。目の前が明るくなったと思ったら、山門の前。先客は車1台。老婆と娘らしき人物が傘を差し階段を降りて来ていた。雨が降り続く中カメラのシャッターを切る。山門をくぐり左右に仁王像を眺め本堂へ向かう。本堂の奥には金箔の御本尊が祀ってある。

線香の白い煙が辺りを漂う。お守りやお札を買う。住職も昼食時だったけど、丁寧に釈迦院の歴史を話してくれた。根ほり葉ほり話を聞く。今、釈迦院には檀家はいなくなったそうだ。その為全国からの有志の支えで寺は成り立っているとの事。数年前までは雨漏りがひどく、本堂の中にブルーシートを被せ、その下で、お経を読んでいたそうだ。修復は支援する人々のサポートでできたという。時に、境内の清掃をしていると、関東から出張できたという人も清掃に参加し、その人は金銭面でも大きな支えになり、黒くくすんだ御本尊も金箔に塗り替える事ができたと嬉しそうに話してくれた。

話を聞いて感じたのは住職の欲のなさだった。正面の扁額も金ぴかに大変身。なんとこの書は世界的に有名な書家、金沢翔子さんの書(大河ドラマ平清盛の題字)で、釈迦院の事情を聞くと代金は受け取らなかったそうだ。こういう支援する人の支えでこの釈迦院は成り立っていますと住職は淡々と話す。そういう話を聞いていると、自分の気持ちの中に漂う黒い雲に微かな光が差し込んできた気になる。地域お興しとか日本一とか、ここはまったく無縁の聖地なのだ。

 

 

古書店で手に入れた本にも釈迦院の話が書かれてあった。肥後五家荘風物誌 (昭和42年発刊) 作者の野島和利氏は大学の農学部林学科を経て八代農業高校泉分校の先生に就いた。当然植物に詳しく、その本に当時27歳の野島先生は五家荘をくまなく歩きながら歴史、文化、自然の草花を満遍なく調べ一冊の本にまとめ上げた。

野島氏はバスを降り、柿迫神社を経て釈迦院に登る。その途中で黒モジの杖を突いた老人数人とすれ違う。どこから来たかと聞くと、宮原町からと言う。お釈迦様の誕生日だから釈迦院にお参りしてきたそうで、野島氏はその信仰心に驚いてしまう。「釈迦院まで、登るのは大変でしょう」「そうですな、ゆっつら、ゆっつら登りますから」とその老人一行は答えた。風物誌には釈迦院にたどり着くまで道際の山野草の名前、生育状態がびっしり記されている。

野島氏が山門をくぐると、そこにはたくさんの参拝客がいて甘茶をふるまわれていた。宿泊場で80歳の老人から釈迦院の歴史を2時間ほど聞かされる。その老人は喘息に悩まされながら一人、敷地内に小さな小屋を建て住んでいるらしい。当時の豊かな五家荘の自然の中で、野島氏は様々な人と出会い別れた。

 

雨がまた激しく降りだしてきた…

住職はお守りを袋に入れ、僕に手渡しながら話す。「昔は、花まつりは、にぎおうたもんですな、境内には店も出て、学校も休みで子供もたくさん登ってきたです」

釈迦院は今後、後継者がなければ本当に廃寺になるのかもしれない。それも時の流れ、延命などされずに森の闇の中で静かに目を閉じられるのも、いいのかもしれない。森の鳥たちはお別れの歌を歌うだろう。獣たちは涙を流すだろう。

僕は「そうですな、ゆっつら、ゆっつら登りますから」という心境にいつか、なれるだろうか。

 

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