熊本県 八代市 泉町(旧泉村) 五家荘
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雑文録

2020.01.13

五家荘図鑑販売開始から、およそ1年。アマゾンで約10冊。上通りの長崎書店さんで9冊。山の店シェルパさんで多分5冊くらい。去年2月の五家荘の福寿草祭り、山のイベントで約10冊以上くらい売れたか。(苦笑)もちろん赤字!もう少し売れたらいいなと思い、そろそろ営業でもせんといかんと思い立ち、まずは熊本の書店めぐりはどうかと思うに、去年長崎書店さんに挨拶の時に、担当の人から、熊本での販売はうちだけですか?と聞かれたので、つい「もちろん、山の店シェルパさんと、御社だけです。御社は熊本で唯一、こだわりの書店と認識しております。」と直立不動の姿勢、ハッと即答した手前、他の書店にはお願いできにくくなった。橙書店さんにも持って行ったが、置く場所がありませんと丁寧なはがきと一緒に本が返送されてきた。(進呈したつもりだが)まぁいい。

それで、1年も経ったし長崎書店さんも怒るわけはないはずだし、あと2社、某全国書店と、熊本でビデオと一緒に本も売られている某書店に営業すべしと思うが、どうも足が重い。左肩の腱板も断裂し痛いし荷物も持てないし。そうして寒い冬、うだうだ布団を被り、クリップの挟まった脳みそで考えるに、ああそうだ、僕には京都の萩書房さんがあるではないかと、今頃気が付いた。(だからクリップのせいなんだ)

萩書房さんは京都、左京区一乗寺にある古書店。そもそも五家荘図鑑のホームページのサイトを作るときに、依頼先のフロンティアビジョンさんのウエブデザイナーさんからどんなデザインがお好みですか?と聞かれた時に、「誰かが、京都の古書店の2階でごそごそ書棚をあさって、変な山の写真集を見つけ、ページを開いたら五家荘という誰も知らない幻の山地の写真集を手に取った時のようなデザイン」と言い、困らせた記憶がある。

その古書店というのはつまり、今から思うと萩書房さんだったわけなのだ。(なんていいかげんな頭の迷宮なのか)と、いうことで早速、萩書房の井上さんに電話をし、本を送り付けたのだ。萩書房さんにはいつも無理を言い、どうしても欲しい本を東京の古書店ルートで探しあててもらったことがあった。不思議にも、いつ行っても僕の欲しい古本が並べてあるのだ。(都合よく、熊本の書店での営業は完全中止となりました。五家荘図鑑の販売は長崎書店、シェルパさんのみ)

で、この際、春に数年ぶりに京都に行くことにした。還暦60歳にして、青春18きっぷを買うような気分で、熊本から京都までの沿線を野宿しながらたどり着こうと思った。(※体調不良で野宿は困難…)せめて出町柳の三角州で(昔は酔いつぶれてベンチで寝てたな)一泊くらいするつもり。頭も重く、将来も暗い日々。そんなときにワクワクする京都行はささやかな生きる元気のもとになる。

もちろん京都には懐かしい友人も居るし、特に一乗寺エリアは、今や個性的な書店の巣窟で“その手の人々”に人気らしいし。恵文社、ガケ書房…訪問時は、一乗寺の他にも三月書房、アスタルテ書房(奇跡の復活)などなど書店めぐりとなるだろう。そして、その書店の書棚の奥で、僕は改めて「変な山の写真集を見つけ、ページを開いたらまだ、誰も知らない幻の山地の写真集を手に取る機会があるかもしれないと」ふとんをかぶりワクワクするのだ。

更に更に、思い出すに、僕は熊本の田舎高校の山岳部を出て、19歳から20歳まで京都の社会人の山岳会に入り、短い期間だが、京都の山々はもちろん京都を拠点に日本アルプスの山々を登った思い出があるのだ。よくよく思い出すに、その当時の無謀な登山が原因で僕の左肩は回らなくなり、ある角度で腕の筋が引っかかり、痛みがあり動かなくなった。40年経って、その時の傷が今の腱板断裂となったかどうかはわからない。

 

2020.01.05

2019年12月30日で60歳になった。還暦と言われる年だ。

僕は生まれてこのかた、誕生日とか一切嬉しくも悲しくもない。よく人様から「誕生日おめでとう」とか「生まれてきて良かったじゃん」と言われても、無関心無感動。だからフェイスブックとかで、お祝いのメッセージとか書かれてもとても困るので、非公開にしている。(そもそもフエイスブックは仕事の連絡用)しかし、よくも60年も生きてこれたのは「極私的には」良かったと思う。

2019年の病院歴。

脳の造影剤入りMRI(脳の血管の定期検診・問題なし)1回。脳のCTスキャン2回(髄液の漏れ、問題なし)大腸がんの疑いで内視鏡検査2回(大きなポリープ取る)これでうまく逃げおおせたかと油断したら12月に異常発覚!

左肩の奥に、筋が引っ張ったような痛みあり。五十肩かと思い、事務所近くの整形外科でレントゲン撮るに原因不明、更に肩のMRI撮る。なんと左肩の腱板断裂との診断。腱板断裂とは言葉そのもの、左肩を支える腱板が断裂して、切れた筋の端が尖って筋肉に疼痛を与えているらしい。

先生曰く、リハビリ2か月、手術入院2か月、その後のリハビリに2か月。(合計半年ではないか!)切れた筋は自然につながることはなく、内視鏡を見ながら筋をつなぐ必要がある。(なんだか手術をしたくてしたくて、たまらないらしいぞ…)そんなこと言ったって、今でも通勤2時間かけて、人の数より猫の数が多い田舎住まいの我が家から通勤しているのに。第一「猫の世話は誰が見る!」…と言うことで、知人の勧める他の整形外科にセカンドオピニオンに行き、週に1回、リハビリに通うことにした。(自転車、片手運転で!)

左肩をそのままにしておくとどうなるか?先生曰く「筋が自然につながることはなく、そのまま痛いだけ」とのこと。夜も眠れないほどの疼痛が続くわけでなし、結論として腱板断裂は当分放置することにした。

ただ、重いものは持てないのと、痛みを緩和するために、首から下げる三角巾のようなものをアマゾンで買って下げることにした。原因は不明だが、60年も左肩を使っていれば、どこか悪くなったのだろう。

ただ、一番残念なのはリュックが背負えない体になったということ。これまでのように五家荘の山にも写真撮りに行けなくなったのだ。もともと、くも膜下後から、急坂は酸欠で登れなくなったのだが、腱板断裂で更に登山は厳しくなった。

そんなこと言っておれば、山どころか、どこにも行けないので、次回からは腰に回すバックにカメラとレンズを忍ばせ、頑張って行ける場所に行けばいいのだと思う。

誕生日に無関心、無感動…といいながら今度ばかりは家人に誕生プレゼントに目覚まし時計をねだり、ホームセンターで買って来てもらった。もともと年末に机回りを掃除していて、高校時代に買った目覚まし時計が出てきたのだ。その時計をバックに詰めて18歳の僕は京都行の夜行に乗った。それから40年以上。何故か、その時計が引き出しの奥に転がっていた。電池を変えたがもう時は刻まなかった。ただ、目覚ましのベルはいつも通り、リンリンと鳴り響いた。

と、いうことで僕の還暦記念の品は新しい目覚まし時計。12月30日から時を刻む。

山の春まであと、3か月。以前、栴檀轟の滝の桜の写真を撮ろうと、下の遊歩道から舗装された林道を歩いたのだが、五家荘の高地にも林道のあちこちに、スミレや菜の花が咲いていて、むんとする春の陽気に汗をかいて、カメラとレンズを詰め込み、三脚を付けたバックの重さに、僕ははぁはぁ、息を切らした。汗を道にぽたぽた落とし、菜の花の群生を前に、花そのものは嫌いではないが、折角、山まできたのだから、どこにでも咲いている菜の花の写真を撮ることはないと思った。(僕の図鑑に欠けているのはそんな写真なのだ。)

今度はレンズ2個、軽量化作戦にしよう!あと何回やってくるか分からない山の春が、今からもう待ち遠しい。

2019.11.19

宿

五家荘のエリアには8件ほどの民宿が点在している。特にその中で、山女魚荘、佐倉荘、平家荘の3軒は僕のお気に入りの宿だ。60歳近くなるまでの人生でどれだけの数の宿に世話になったのか。そんな思い出の宿の中でベスト3が、五家荘の3軒なのだ。どんな贅沢な宿や、有名シェフのいるホテルでも、五家荘の3軒にはかなわない。今後もこの3軒を超える宿は見当たらないだろう。3軒ともベスト1なのだ。

料理も山の幸、川の幸が満載。俗に言う「ジビエ料理」なぞという言葉は無粋。五家荘の山里で食う、イノシシ料理、鹿料理はそんな得体の知れない和製英語料理ではない。「ジビエ料理」なぞ、街中の売れない料理屋が自治体からタダで宣伝してもらえるから、広告屋に調子に乗せられ、おだてられテキトーに料理を作っているだけなのだ。

11月も中ごろの日曜、久しぶりの紅葉の撮影がてら、数年ぶりに平家荘に立ち寄った。平家荘は五家荘の本道からそれた山道を超え、峠を降りた谷間にある。谷への道はなかなか緊張感を伴う道で、何時通っても恐怖感を伴う。こんな道案内はない(苦笑)ようやく降りると古民家風の建物があり、そこが平家荘だ。

敷地内には山女魚の養殖池がかさなり、山女魚の稚魚(マダラ)が飛び跳ねていた。敷地は広くすぐ横には清流が流れている。釣り解禁の春になると他県からも釣り客が投宿し賑わいを見せる。まさにプライベートリバー…部屋から数分で竿が振れる場所はそうそうない。

主のMさんは、プライベートリバーに架かる吊り橋、プライベートブリッジを自力で作った。このツタの絡まる橋は、地図にはなく、知る人ぞ知る橋なのだ。橋から眺める森の新緑や紅葉も美しい。いわば五家荘の自然を宿の敷地に凝縮したつくりにされているのだ。庭には四季を彩る、樹木や山野草も植えられ、夏の終わりには今は幻の花とも言われる、キレンゲショウマも黄色い可憐な花を咲かせている。

料理は自慢の山菜料理から猪鹿、山女魚料理(刺身に、黄金の卵)に手打ちそば。そんな盛りだくさんの料理を別室で囲炉裏を囲み炭火で堪能することになる。

朝食はテーブル席の落ち着いた部屋で外の景色を眺めながら。部屋の奥にはよく磨かれたガラス張りのケースがあって、そこには鎧とイノシシのはく製があった。もちろん鎧は平家荘の名のごとく、代々引き継がれた家宝なのだろうけど…さて大きなイノシシとは?

恐る恐る聞くと、そのイノシシは先代が可愛がっていた猪で、ウリ坊の時から育て、そのまま良くなついたとのこと。番犬ではなく番猪。(怒ると棘のような毛を逆立てるそうで、怖いものなし)名前は「アラ」。ところがある日、アラが少し体調を崩した時、診察してもらった獣医の誤診で亡くなったそうだ。その獣医曰く「イノシシを診るのは初めてですもんなぁー」と。

余りにも残念で、アラの事が忘れられず、はく製にして部屋に飾っていると言われた。先祖代々の鎧とともに飾られるアラの魂…そんなアラも熊本に新幹線が開通した時に、博多駅前での観光誘致イベントにも駆り出され、八代、五家荘の宣伝に一役買ったそうだ。

今はアラの代わりに、ラブラドール・リトリバーのマルが丸々と太り、来客があると嬉しくて尻尾を切れんばかりに振って歓迎してくれる。(性格が良すぎて、番犬にはなれない・・・)

さて、僕のこの雑言録をどれくらいの人が読んでくれているのか。余り更新もしないので微々たるアクセスしかないのだろう。つまり、いくら書いても平家荘の何の宣伝にもならない。ただ、他にも書ききれない話がまだあるのだ。葉木神楽の話、昔の山暮らしの話。

僕が言いたいのは、たった一泊しただけでも、これだけ話題のある宿はそうそうないということなのだ。山の料理を味わいながら、一緒にその場所ならではの話を味わうという、なんと贅沢なひと時なのだろう。プライベートリバー、ブリッジ、プライベートイン。

宿はもうすぐ休館期になる、12月中旬から翌年2月の雪解けまでお休み。この期間はチェーンを巻いた車でも危険で、以前、強行軍のお客の車を4駆のウィンチで引っ張り上げることもしばしばで、結果、休館に。その期間は誰もいない谷間の宿で、Mさんは山女魚の養殖の仕事に忙しい。

以前モニターツァーの参加者の一人が、「一番好きな季節はいつですか?」と聞いたら、

Mさん、「やはり谷の雪が解け、春になり、若芽が顔を出す春が一番ですなー」と答えた。

五家荘の秋の夕暮れは早い。夕方4時がタイムリミット。4時には出ないとあっという間に谷は暗くなり、道にも迷いやすくなる。無音の闇が谷を包む。

Mさん夫婦とマルとアラの魂。谷間にポツンと一軒の宿の温かい明かりが灯る。

2019.10.06

文化

9月は全く五家荘の山には行けなかった。このままでは10月の山行も怪しそうだ。何もひどく体調が悪いわけではないが、今年は3回も脳外科でCTを撮った。先生曰く、全然どうもなく大丈夫という事だが、山に行くなら11月の紅葉の時期まで、今から体調を整え万全を期すしかない。

というところで、家で大人しく座学というか、色々山の本を漁るのだけど、やはり泉村誌が一番面白い。

五家荘は歴史や伝承にも謎が多い地域で、例えば、有名な平家伝説だの、菅原伝説など、さんざん書き尽くされてきたテーマで、これは僕のような素人が、調べ出したらキリがない。歴史の霧の中で道に迷い、自分で仕掛けた罠に落ちる可能性もある。

それでも村誌を読んでいて深いというか、面白いというか、じっくり考えていたら時間が足りないのだ。そんな村誌の中に僕がこれまで全然知らなかった、隠れキリシタンの資料が紹介してあった。五家荘にも「隠れキリシタンが居たのではないか?」という記述がある。

出自は不明だが、当時の五家荘に潜む「隠れキリシタンの唱え」が紹介してある。

・その唱えの内容とは

『 デウス、バテレン、ひいりよすいりつサントを初め奉り、サンタマリア諸安所へ

後の罰を蒙りティウスのからさたえはてしやうすたすのことく頼母子を失い

後悔の一念もきさすして人々の嘲り終いに急死するときんの苦しみ悩みに苦しみをおもうこともあります。 』

 

・「デウス」はキリスト。

・「バテレン」は神父。

・「サント」は長崎のサント・ドミンゴ教会のことか?

・サンタマリア諸安所(キリストの母のいる安らぎの場所、天国の事か?)

・「ティウス」(ローマ教皇?)

・「頼母子」(頼もし講…地域の互助組織、お金を融通し合う仕組み)

 

唱えとはオラショのことだろう。日本のキリシタン用語で「祈り」の意味。ラテン語のオラシオ(祈祷文)の響きがこうなったそうだ。禁教令で神父が日本から追放されたので、正確に伝えられずに、隠れキリシタンの農民、漁民の信者だけで口伝され、方言、聞き間違いも重なり、時間の経過とともに独特の唱え(祈り)の言葉に変化したもの。長崎の生月島では今でも伝承されている。

深い海と深い山。天草と五家荘は昔からつながりがあったのだろう。村人は山の厳しい暮らしに耐えかね、時に集団で逃散し、山を降り、天草に向かうが、引き戻される。

五家荘は以前「天領」だった。「天領」つまり幕府の直轄地で、通常幕府が管理している豊かな土地が多いそうだが、五家荘は違った意味で天領になった。当時の庄屋の横暴な支配で度々、もめ事があり、「もう我慢できんたい」とみんな村を出て、連れ戻される事件が起こった。ようやく落ち着いたかと思うとまたもめ事。そんな繰り返しに手を焼き、五家荘は天領地になった。

当時の熊本は天草の乱の始末で荒れ果て、五家荘のような山奥まで統治する余裕もなかったようで、今度は天草の代官所が見張りながら、役人が海路、陸路を使い五家荘の管理に出向いたのだ。もちろん五家荘の現地調査と合わせて、隠れキリシタンが潜んでないか、絵踏みをしながら調査役は幕府にリポートするのだ。

その中でも有名なリポートが、約200年前、天草代官所の内藤子興(ないとうしこう)が著した「五箇荘紀行」で、内藤さんは絵描きも同行させ、カラーの挿絵、俳句、漢詩付きの言わば当時の総天然色五家荘ガイドブックを作った。一見、歌川広重の東海道五十三次風の絵のようだけど、版画ではなく筆で彩色してある。

リポートは山、山、山を越える苦労談と深山独自の村人の暮らしぶりや文化、地域の地図が緻密に記されている。以前、僕はその絵のコピーをイベントで見たことがあるが、今でもその絵の原寸大のコピーが欲しくて仕方ない。(誰かその内容を今風のタッチでよみがえらせてくれないだろうか、僕は間違いなく買います1冊 ) その中で今の久連子踊りの絵や、森に棲む、むささびの絵、久連子の庄屋の緒方信太の奥さんが捕まえた、猫くらいの大きさの熊の子にお乳をのませて育てている絵も面白い。

肝心の「絵踏み」は、次第に人の集まるイベントとなり、市がたち、いつのまにか村人のお祭りのようになり、盛り上がり過ぎて役人から叱られたそうだけど。(このあたりが山人のたくましいところ!)

当時からの繋がりか、(実際、天草に移住した村民も居た)今でも、山の水がダムに堰き止められ、天草に送水されている事は歴史の深い因果の結果なのだろうと泉村誌には締めくくられている。

ところで、泉村誌に記載されている、隠れキリシタン唱えの出所はどこなのだろう?何時頃、どこで発見されたのか?僕にとって、また大きな謎が一つ増えた。

天草の乱(1637~38年)のきっかけは悪代官の悪政。農民の能力(年貢)の倍のノルマをかけ続け、今で言えば、消費税200%以上。みんな食うや食わず。天候不順の年で、食べ物が収穫できない年でも相変わらず、役人は年貢を取り立てにくる。このまま家族みんなで餓死するくらいなら、異国からやってきた神父さんの言う事を聞き、みんな平等なんだと言う、キリストの教えを信じ、天国に行こうと思うのも無理はない。

五家荘も同じ。村人が山の厳しい暮らし、庄屋の横暴に困窮し、騒動、逃散を起こす、そんな中で、山の中にもキリシタンの教えがひっそり伝わったのだろうか。

柳田国男の遠野物語にも東北の隠れキリシタンの記述があり、幕末以前の隠れキリシタンについて「附村牛村誌」に次のように記されてある。

『(中略)昔遠い国からの落人と伝える人達の中にはキリスト教に対する迫害を逃れての落人ではなかったと思われるものがある。(武士の名前)彼ら兄弟は、甲斐の国からの落人と言われるが、大原町から逃れてきたキリスト教徒であったことは確実な様である。その他、村内では家によって、葬式の時の一杯ご飯に立てる箸を普通二本揃えて立てるのを1本は横にして1本は横にして十字の形にするところがある。これはその先祖のキリスト教の遺風を、それとは知らずに受けついでいるものであると云われる。』

時代は偉人がエラソーに作ったわけではない。彼らがエラソーに作ろうとするから、時代はいつも混乱し、貧しい民は苦労するばかり。

 

【五家荘の唱えの極私的超訳】

『 キリストさんの事を神父さんに教えてもらい長崎のサント・ドミンゴ教会を初めて知り、私はマリア様の居る安らぎの場所へ行きたいと思い、キリスト教を信じました。

それがばれて、後から罰を受け、身も心も疲れ果てました。頼母子講での生活費の工面も断られ、キリスト教を信じることを後悔もしました。

周りの人々からはあざけりを受け、死ぬほどの苦しみ悩みを感じ、それでも皆の罪を背負うキリストの心の苦しみを思うことがあります。(そんな時でも、キリスト様を信じ、思うことがあります。) 』

 

五家荘に残された唯一のオラショ。読めば読むほど悲しみが湧いてくる。

キリシタンには「水呑みの時の唱え」「山に入る時の唱え」「種まく時の唱え」「家のお祓いの唱え」「寝る時の唱え」があるらしい。いつも神と一緒なのだ。

 

以前、長崎に行き、黒崎地方の枯松神社に行ったことがある。枯松神社は、日本に三カ所しかないといわれるキリシタン神社で、静かな雑木林の中に小さな社があり、まわりはキリシタン墓地になっていた。

江戸時代、隠れキリシタンが密かに集まりオラショ(祈り)を捧げ、伝えてきた聖地で、祠の手前にある“祈りの岩”と名付けられた大きな岩があり、迫害時代に信者たちは、寒さに耐えながらこの岩影でオラショを唱えていたと伝えられていた。一枚の平たい岩の上で(その岩はおよそ20人近い人が乗れる広さだった。)彼らはその岩に乗って、老若男女、みんな暗い夜空に向かい、一緒に天国に行こうと一心に祈ったそうだ。

僕はその岩の事を思い出す。

畳の上で、五家荘の唱えをたどたどしくつぶやいてみる。

2019.08.27

五家荘の山を登り始める前に、僕が通っていたのは五木村の川だった。

京都時代、熊本出身のカヌーイスト、随筆家の野田知佑さんのファンとなり、手当たり次第、本を買っては読み漁った。

 

野田氏はカヌーに愛犬ガクを乗せ、日本はもちろん、世界の大河を悠々と下りながら、自然と遊ぶ楽しさと、自然を壊す文明の浅ましさについて、チクリと批評する氏の話は、とても面白かった。その当時の日本の川も乱開発で荒廃していて、氏はパドルで川をかき分けながらその事を嘆くのである。

僕は帰熊すると、早速今は無き伝説のカヌーショップ「バイダルカ」でカヌーを買い、熊本の海に山に、漕ぎだした。

(野田氏と愛犬ガクのように、カヌーの先頭に保育園に入ったばかりの娘を乗せて、天草の島巡りの後、砂浜に上陸する我が家は難民一家とも呼ばれた)

ただ、カヌーについて、テレビでタレントだのリポーターだのが言うのは「カヌーに乗ると、水面と船の上の目線が同じで感動しました」と言うのが定番なのだが、誰が言い始めたのか、みんな全く同じことを言いながら、「いやー自然って言いですね!」なんて適当なことをいうタレントは嘘つきで、実は何も感動していないと僕は思う。見るからに、彼らは自然に関心も何もないではないか。

僕は単純に川に流されながら、ぼんやりするのが気持ちいいだけで、自然がどうの、目線がどうのとは一回も思ったことはない。スポーツとしてカヌーを取り組んだこともない。

例えば、夏にカヌーで熊本の川や海を漕いでみたらいい。一番最初に下った川が野田氏の故郷、菊池川で、菊水町から玉名まで。漕ぎだすと、川の汚染がひどすぎてカヌーどころではなかった。パドルを漕ぎだすと、水面にプカプカ浮かぶ黄色い糞尿のかたまりに四方八方、取り囲まれ、来年の東京オリンピックではないが、汚水が肌に触れないようにカヌーを漕ぐのは至難の業だった。

天草の内海も同じで、外で見る景色とうって違い、いざ、汚水の上に浮かぶ景色は菊池川と同じなのだ。勢い余ってパドルから、海水が顔にかかろうものなら発狂ものなのだ。

熊本で唯一、汚水を気にせず、自然の中で安心して下ることの出来る川は、川辺川、球磨川だけだ。ただこの二つの川はぼんやり、漕いで下るわけにはいかない。

 

バイダルカの店長タチカワ師匠の悪名高い「誰でも漕げる球磨川カヌー教室」

師匠の優しい笑顔の奥、髭に隠れ、小熊のように光る冷たい瞳。

カヌーを漕ぐみんなの姿があっという間に岩陰に消えていく。氏は初心者に対して、数分間人吉城前のせせらぎのような川で適当に漕ぎ方を教え、数分後、天下の激流「球磨川」に突入させるのだ。

目の間に迫る、数メートルの落ち込み、(ドーン!と音がする)迫る岩の連続、白いしぶき、あぶくで目の前が全く見えない。

師匠の技術指導は単純明快。「やばいと思ったら、ひたすら、漕ぎなっせ!」

数珠つなぎ、見よう見まねで川を下る、カヌー初心者軍団の群れは、漕いでも無駄。最初、奇声を上げていたが、数分後には阿鼻叫喚、数珠つなぎの悲鳴に変わるのだ。ヘルメットも、色とりどりのカヌーもお腹を見せて流されていく。師匠とその弟子は、ひっくりかえって岩に挟まり脱出できずあえぐ生徒を拾いに行くのだった。優等生の僕は難所を強運にもクリア。ただ、最後のなんでもない、ペタリ水面が停止したような、水たまりで、突然、派手にひっくり返った。

(川の恐ろしさはこんなところにある)

 

※一度、大雨で増水した阿蘇の杖立川で、滝に落ちて一人、しばらくしても、上がってこない人が居た。

5分経過、10分経過…

さすがに師匠の顔は引きつり、いつものニヤニヤ笑いでその場をごまかしながら、師匠の手先は救助用のザイルをほどき始めていた。師匠の空気に気がついた弟子は他人のふりをするか、そわそわその場を逃げ出そうとしていたが、

その時、滝に落ちた人が、カヌーを肩にかつぎ、全身ずぶぬれで(当然)滝から這い上がり、にこにこしながら、

「いや~すごかった、タチカワさん、人が悪いすよ~先に、滝があるなんて、最初から言っといてくれんと、ホント死ぬとこでしたよ~」

あなたの事を師匠もみんなも「マジ、死んだかもと思ってた」とは、言えずに、みんな笑ってごまかした。

あの時の師匠の技術指導も、「ただ前を見て、ひたすら漕げ」だった。

 

やはり、カヌーはのんびり下るか、漂いながら美味しいものを食べるのが一番楽しい。

これまで一番美しい水溜まりの思い出は、当時の相良村の野原小学校前の、鉄橋の下の蒼い淵だった。家族で、河原でテントを張り、カヌーで水面を漂った。余りの透明度の高さに、カヌーの黒い影が、川底の白い砂の上に映り、船が宙に浮いた気分になった。叱られて橋の上で泣いていた娘は橋の欄干の上で猿に誘拐されかけた。母猿が慰めに山から降りてきたのだ。

今でもその淵はある。川辺川ダム本体の建設予定地となるはずだった場所だ。ただ、野原小学校は見事に校庭の桜の樹とともになぎ倒され、がれき置き場になり、草茫々の荒れ地にされ放置されたままだが。

もうカヌーには乗れぬ体になったが、今も思い出す。あの夏の谷間のキャンプ。闇の中で鹿が鳴き、森の闇に眼が光った夜。焚火をすると、恐ろしいくらいのカゲロウが集まってきた。

かすかな川の記憶が僕の頭の中に繰り返す・・・。

 

野田氏は見るからに偏屈な親父で、今、四国に住まれているらしい。会えたところで、そう簡単に話などできる方ではないと思う。僕も偏屈もんの一人だが、それはそれでいいではないかと思う。氏は以前、アウトドア雑誌「ビーパル」でダム建設について、地元の新聞社、記者の姿勢を、「腐れ新聞の腐れ記者」と罵倒された。氏のこれまでの連載、随筆を読んだ者については充分理解できる内容だったが、(その雑誌は我が家の家宝でもある)

さて、その記事から10年は経つ今。熊本の自然で遊ぶ、偏屈なオヤジ、おばさんは増えたのかどうか。

2019.08.25

昔、写真の世界で「廃墟ブーム」というのがあった。日本中の廃墟、廃ビル、廃道の写真が写真集としてよく売られていた。

長崎の軍艦島がそのシンボルのようなものだけど、この世のなれの果てというか、哀れと言うか。現実とは違う世界をみんな見てみたいのだろう。

シャッター商店街もある意味、廃墟と言えそうだが、なんの味もそっけもないし、苔むしてもいないし、草ぼうぼうでもないし、色あせたスーパーのチラシのようで全然、わびさびが感じられないのだ。

わだちの跡が、かすかに残る山奥の廃道、その向こう、生い茂る草の向こうの暗い世界。

周りに響く、虫の声…。

 

ある時、僕は山の中で美しい集落を見つけた。

以前、フライフィッシングに凝っていた時、全国の釣り好きの連中の聖地は五木村の梶原川だった。梶原川はキャッチ&リリースの指定地で、そこでは魚が釣れても、リリース(逃がすこと)が義務つけられている。フライの世界で、日本でも有数の自然が豊かで魚影の多い、素晴らしい川というそんなシンボルの場所に指定されたのだ。

川の入り口には、ログハウスの管理小屋も建てられ、イベントも開催された。村の温泉館の一角には梶原川を紹介するコーナーが開設され、日本でも有名な名人作の釣り竿が手作りの毛バリと同時に展示されていた。(今は、その展示空間は消去され空虚。)

その竿は竹を重ね合わされて作られバンブーロッドと呼ばれ、名人作の竿はなんの変哲もない短い竹竿のように見えても、軽く1本数十万円はする。また有名な川の写真家の津留崎健さんの写真が展示され、津留崎さんの梶原川についての賛辞の言葉、思い出が展示されていた。当時は抱えきれないくらい山女魚が釣れたそうだ。

山女魚は釣れなくても、僕はせめて津留崎さんのような写真を一枚だけでも撮ってみたいと思った。

川面に蛍が乱舞する写真…

ものすごい数の金色に輝く、蛍の光の筋が画面中に乱舞する光景は圧倒的だった。

蛍の写真の撮影はそもそも難しいが、あれだけの数が居れば下手な僕でも一枚は撮れるだろうという、浅はかな計算なのだが。

ある日、僕は釣り場を探してどんどん車で梶原川をさかのぼった。そして小さなつり橋を見つけ、橋の手前で車を停めた。つり橋の手前に小さなバス停があった。

この橋は観光用ではない、生活用の橋なのだ。まずは釣り竿片手にその橋を渡った。そんな橋の下には必ず、川に降りる道があるものなのだ。

橋を渡り小さな小道を行くと、その向こうにはほんの4、5軒の山の斜面に肩を寄せ合う小さな集落があった。

茶畑のお茶の葉はきれいに摘まれ、小道の両脇には畑があった。森の中、住む人々のつつましい暮らしぶりが感じられる景色だった。

そんな景色の中に、突然現れた僕は、完全に世俗にまみれた異物の存在なのだが。

僕は橋の下へ向かう道を見つけ、川で竿を振った。川の水は透明で、川底の岩がそのまま透けて見える透明度で岩の上を、音もたてずに、

薄いゼリーのような水が流れていく。苔むす岩の横の緑の淵に毛バリを落とすが、アタリがすぐ来たが、ぜんぜん合わせることが出来ず、僕はねばるも退散した。

 

先週の日曜。数年ぶりに、川の記憶をたどり、梶原川に向かう。残念ながら、川にも、管理小屋にも人気はなかった。

つり橋を渡る。恐る恐る小道をたどると、そこには、すでに人の居なくなった集落があった。

奥には集会場があり、その前に、戦争で亡くなった人を祀る記念碑があった。あたりはきれいに掃除がしてあった。こんなところからも戦場に出征し、そして亡くなった人が居たのだ。

以前と同じ、畑の中の小さな小道、雨戸の閉められた家屋がそのまま残されている。ここは廃墟でもない。時間の止まったままの場所だった。カラス除けか、羽を開いたペットボトルが畑の策でクルクル回っていた。お茶畑の葉も摘まれず開いたまま。柚子の実が青々と実っていた。時をかけるつり橋の上を、赤とんぼがすいすい、飛び交っていく―。

この集落のような時間の止まったままの場所が五家荘にも五木にも、どのくらいあるのだろうか。

 

この釣り橋も、もうすぐ、ツタが絡まり、葉が生い茂り、人の行き来が出来なくなるのだろう。

あと数年後、つり橋の緑のトンネルをくぐると、それでもまだ、時間の止まったままの不思議な空間に出会う予感が、僕にはするのだが。

 

2019.08.20

文化

脳内には「記憶の森」がある。生い茂った樹々、頭上から垂れ下がるツタ。足元には苔むす、岩々…

そんな薄暗い景色の中に、踏みしめられた記憶の小道が見える。

8月は家の事情や気候の都合もあり、ほとんど五家荘には行けなかったのだが、森に行けない分、自分の脳内にある、記憶の森の小道をたどることにした。森の小道は行きかう記憶がなくなれば、時に浸食され、道は消え、そのうち無くなってしまう。

不思議なことに白い記憶の中から小道が突然現れ、その小道の向こうに思わぬ景色を眺める場所に出くわす時がある。そんなことを頭の中で考えていると、ますます僕の脳内は迷宮のようになっていくのだけど。

今年の夏は騒々しい夏だった。ツィッターを始めてみて、夏の騒々しさの原因はツイッターが発信源となった。テレビや新聞で報道しない、報道できないことがツイッターの中では、拡散され、人々の綿々としたツィート(つぶやく)が帯をなす。いや、つぶやきどころか、叫び、ののしり合い、デマがばらまかれる。

 

※今夏の愛知の美術展の表現の不自由騒動。

 

熊本市にも現代美術館があり、街のど真ん中でこれまで、ユニークと言うか公立らしからぬ企画展を実施されてきた。開館したのは2002年。僕は幸運にも初代館長の田中幸人さんに話を聞く機会があった。田中さんの短くて密度の濃い人生の時間を分けてもらった。氏曰く、熊本市から館長就任の打診があった時に就任の条件として現代美術館が市の教育委員会の管理下でないことを出したそうだ。

教育委員会の傘下だと、まったく美術、芸術の事を理解できない連中があれこれ口を出し、

「あれはダメ、これはダメと言い出し、何もやりたいことが出来なくなるわけなんだよね」

「それでは館長を引き受ける意味がない」と語った。

そして、熊本市はその条件を飲み、氏は初代館長に就任したそうだ。それから氏はこれまでになかった独自の企画展を精力的に開催された。

僕は「日本人の心」だの、そんな心はどこにあるのかと思う。教育委員会のおじさん、おばさんたちは、そんな心は、美しい田舎の、田園風景の中にあると信じているのだろう。(だったら何故、自然を破壊し、無駄なダムをつくり、海を干拓するのだろうかね)

そんな居眠りしそうな心地いい景色だけが芸術だと信じている人は、そのまま昼寝しておいて欲しいと思う次第。(しかもすぐ値段を聞きたがるしね)

心地の悪い表現でも、得体のしれない表現、何か自分の心に引っかかる表現の方が「心地よい絵葉書のような作品」より面白いに決まっているではないか。もともと「表現」なんて得体のしれないものなんだし。答えなんてあるものか。

田中さんとの会話は「ちょっとだけなら」と言う氏の条件を、氏自身が熱弁をふるい、僕にとっては貴重な1時間となった。

 

※我が「極私的五家荘図鑑」はすべて自費でアマゾンで発行販売中。1円も公金、税金、補助金なぞもらっていない。もちろんマスコミでの紹介、報道もなし。自慢じゃないが、「地域興し、地域創生」でも何でもないし「芸術性のかけらもなし」何の役にもたたない。

 

話の流れで僕は田舎の事を聞かれ、宇土半島の突端と答えた。氏は新聞記者時代から、装飾古墳壁画をはじめ民俗学、人類学にも造詣が深く、当時の古墳調査は地元農家とのせめぎあいだったという。農家は古墳調査をさっさと終わらせ早く、金になるミカンの樹を植えたくて仕方なかったそうだ。

そんな中で、ようやく小田良(おだら)古墳は保存されたようで、その古墳は今も海沿いの草原に堅牢に保全されている。

(※県立装飾古墳館にレプリカが展示中。)

田中幸人さんは館長就任後、わずか2年後の2004年すい臓がんで亡くなってしまった。

脳内の記憶の小道…その小道は、今年の6月に母校、三角中学校の還暦同窓会の場で違う小道につながった。およそ、45年ぶりに再会する同窓生、その場で小田良に住むマンゴー農家の若本君に会い、古墳の話をすると、若本君いわく、「そうそう、高校の時に(友人の)三郎と小田良に帰ると、バス停の近くで何やら、オジサンたちが土をほじくり返していて、俺らにも手伝ってくれと、言うたとたい。」そこで若本君と三郎は腕まくりして必死で土を掘ったら、勾玉がぞくぞくでてきて、更に、三郎は立派な銅剣を発見したそうだ。

二人の心はときめいた。

明日の地元の新聞には絶対二人の写真が掲載され、「有名になるばい」と期待した。もちろん、二人の写真も名前も掲載されるわけがなく、発見者は教育委員会となっていたそうだ。そういいながら若本君は、残念そうに陽に焼けたマンゴーのような頭をかいた。

しつこい僕は更に更に、脳内の小道をたどる…

田中幸人さんが全国紙の新聞記者時代の相棒、Aさんの事も思い出され、アマゾンで検索すると、Aさんが熊本支局長時代に五家荘を民俗学の見地から調査されまとめた本が、「アマゾンの密林」から見つかり、早速その本を取り寄せ読むに、更に、小道には奥があり…僕の夏休みの宿題となったのだ。

まずは、近々、小田良古墳の見学に行こうと思う。

2019.07.15

山行

今年の梅雨は6月は晴れ続き、7月になってから雨が降りはじめ、このまま梅雨明け、夏かと思うといつもの通り豪雨だった。

ギンチャン(銀竜草)には会えなかったが、7月の中盤は運が良ければショウチャン(鍾馗蘭) に(場所によっては)会える可能性が高い。同じ時期にオオヤマレンゲの開花も重なり、国見岳山頂周辺で、登山者は頭上を見上げると、彼女の妖気あふれる美しさに魅入られてしまう。その美しさ、派手さ、大きな瞳にじっと見つめられていると僕は恥ずかしくて、写真を撮るのをためらってしまう。街中にもこんな美人はいないものだ。体調の都合で、国見岳の急坂はまだ登れそうにないのだが、ショウチャンの咲く谷は何とか休み休み行けそうなので、今回も家人に無理を言い運転をお願いした。

車中ではいかにもオオヤマレンゲの美しさを訴え、いかにもこれから向かう山の道沿いには五家荘イチオシの花美人「大山レンゲさん」(何か芸能人のよう…)が待ち構えているような嘘をついたのだが、沢から苔むす谷の山道を登るにいっこうに大山さんの影も形も見えそうにない。それどころか、大雨後で沢には水があふれ、沢を渡る彼女の年代物のキャラバンシューズ(懐かしい)は濡れて穴が開きそうなのだ。

いい加減、白状するしかない。「この山には大山さんは居そうにありません」「え?居ない?」折角来たのに?

「ショウチャンならいそうです」「ショウチャン?」そうです。漢字で書くと鍾馗蘭。

「蘭の仲間?」「ハイ」彼女は蘭と言えば美しいイメージを想像したらしい。「で、どんな花?」「ピンク色でとても鮮やかです。」「なるほど」「足元に、苔むす樹の根っこからいきなり、みんなピンク色の花弁で、緑の森を賑やかに彩ってくれます。しかも今の時期、約10日前後しか見れない、とても貴重な蘭の仲間です。僕はショウチャンと呼んでいます」

仕方ないので、僕は森の中で叫ぶ「ショウちゃーん、いませんか?会いに来ました」「ショウちゃーん!」もちろん、返事はない。もう昼だ。二人、黙々と弁当を食べる。春の谷と違い、さすがに森の緑は濃い。羊歯類も天狗の団扇のように大きく両手を広げ、樹々にまつわる苔も厚い。「ショウチャーン」と呼ぶ僕に、森からの返事が耳元に響く。「木を見て森を見ず…」頭の中の傷のせいか、幻聴のようだ。

確かに木を見て森を見ていなかった。どんな花も森が豊かであってこそ、花開くのだ。折角、山にきたのだから、もっと森を感じるべきだったのだ。空を見あげると、森の深さにめまいがした。木の幹の周りをぐるぐる星形の葉が重なり合い、木漏れ日が僕の瞳に届く。

探していたショウチャンを見つけたのは彼女だった。「これですか?ショウチャン」「そうです、この子らはあと一週間でピンク色に染まります。」深い森に一本、ショウキランの芽が出ていた。「それとこれは?」なんと足元の木の根の窪みに、変わったキノコが一つ。「土をそっとほじると、そこには初めてみる「キイロスッポンタケ」が顔を出していた。大きさは3センチの超ミニサイズ。僕にとっては奇跡、感動の出会いだ。まさかこんな場所にポンちゃんが。大きな森での秘密の出会い。次回、何時会えるのかは全く分からない。

今日はこれでよし。すでに陽は陰り、夕方近く。森の精気が谷に重く降りて来た。苔むす岩を滑らぬように用心して道を降りる。

日が暮れて道遠し、森深し。それもよし。

2019.06.23

山行

6月はどこにも行けなかった。山の先輩Oさん、Mさんのフェイスブックの登山情報はうらやましい限りだ。(お二人の日常の半分は山の事!)特に、以前から撮影してみたかった、「ギンリョウソウ」の花の写真を見ると、くやしくて仕方ない。

ギンリョウソウ(銀竜草)とは別名「ユウレイタケ」ともいわれる花で、葉緑体を持たず、杉林の枯れ葉、落ち葉から養分を吸収する腐生植物。花は花径の先に一つだけ咲く。図鑑の写真を見ると、枯草のすきまから、半透明の白い茎が伸び、背中を丸めてうなだれている。下から覗くと一つの眼が開く!(まさにユウレイタケ!)僕は森でこの子たちにぜひ会いたいのだ!自分のカメラに収めたいのだ!これからは「ギンチャン」と呼びたい。

腐生植物でもう一種、有名なのはショウキラン(鍾馗蘭)この子たちはギンリョウソウとは大違い、変な目立ちたがり屋。同じく森の枯れ葉のスキマからニョキニョキ顔を出して、ピンク色のケバケバシイ化粧と派手な作りの顔(花)で、四方八方美人。束になって咲いているのを見ると、静かな森の中で、騒がしい歌を歌っているようにも見える。一度、ギンリョウソウとペアで見たいものだ。これからは「ショウチャン」と呼びたい。

通常の樹や花は夏場の太陽の光を奪い合い、少しでも栄養分を貯め、植物界の激しい生存競争の中を生き延びようとしている。そんな中で、ギンちゃん、ショウキちゃんのなんと不思議な生き方よ。他社と競争しないのんびり完璧平和主義。

※腐生植物つまり、寄生植物。光合成を行わないというのは、競争から完全に離脱した生き方。子孫はどうして増やすかというと、種子が飛び交うわけでなく、バッタの仲間のカマドウマが運んでくれるという研究があり、調べれば調べるほど、面白い!大学や高校の生物部でもでもネットで詳しい研究発表がされている。うす暗い森の中で、華やかな花たちの研究とは別に、ギンチャンの丸まった背中に話しかけ、大の大人どもがうずくまり、ヒソヒソ話ながら微笑みあう、姿はなんとも微笑ましい!

ギンリョウソウの開花の時期はもう終わり。これからはショウキランの開花の時期となる。花が咲くのはいつもの、あの山のあのあたりかと推理するのも楽しい。もちろん来年10月までは運転禁止の身。自宅から2時間、家内に運転をお願いするしかない。崖に落ちぬよう、五家荘の林道を恐ろしい形相で、ハンドルにしがみついて運転する姿を見るのは誠に申しわけないのだが。

春に受けた町の健康診断、しぶしぶ出した1個の検便で「アタリ!」がでた。返送された封筒には、大腸がん検診、要検査との文字。陽性というのも不気味な文字だ。(僕の性格は陰性なのに)検便だけで陽性の判定がでる、今の検査技術は大したものだ。もちろんガンと決まったわけではない。ガンなのかどうかを調べる内視鏡検査を受ける必要があるとのことなのだ。4日に検査を受け、ベットに横たわり、モニターを眺めながら検査を見守る。僕の大腸内をうねうね、うごきまわる蛇のような検査機器がエノキ茸のようなポリープを発見、さっと切除。次は明太子のように横たわるポリープ?発見、新人の医師がベテラン先生の指示でようやく切除。検査後は1週間から2週間は激しい運動や旅行は禁止とのこと。切除した個所から出血する可能性があるそうだ。つまり、6月は登山も山歩きも控えなければならなかった。その後の細胞検査では、ガンではないものの、びらん(ただれた)個所が多いのでまた12月に内視鏡の再検査となった。

お腹の中では銀色の内視鏡がうごめき、頭の中では「ギンちゃん」が銀色ランプを先につけ、怪しい箇所ではポッと灯りが点り、僕の脳内を明るく照らし出す一日。

ギンリョウソウよ、来年きっと会いましょう!

(写真はショウキランこと、ショウチャン)

2019.06.02

毎週日曜の夜のテレビの楽しみはNHK韋駄天だったが、とうとう我が家もテレビ朝日の「ポツンと一軒家」という番組に寝返ってしまった。(正直、毎回、毎回、金栗さんの全力疾走は、見ている方が辛くて息切れする)たまたま熊本の水上村の一軒家の紹介があり、つい見てしまったのだ。更に翌週も水上村の一軒家の紹介だった。番組は崖っぷちの細い林道を取材者が辿り、その家の主を訪ね歩くシンプルな内容でスタジオではそんな林道に驚きの声があがるのだけど、五家荘の林道も同じで、何も驚くことはない。どこにでもあります。五家荘の一軒家も何時紹介されてもおかしくないのだ。

一軒家、すなわち、一軒の暮らし、ぽつんとした人生。何の作為もなく、ただ老人、老夫婦が山の中で暮らしている。(昨夜は、中年のカメラマンで自作のログハウスに取り組み、うつ病を克服した人だった)縁側で山を眺め、鳥の声を聞き、風に吹かれお茶、コーヒーをすすり五右衛門風呂で疲れをいやす。夜は無音の闇の中で獣の声を聞くのだろう。取材者も淡々と話を聞くだけで、台本もないし、話のオチもない。ただ僕らは、山の中の家で、ポツンと暮らしている「理由」を聞いて「ほーっ、へぇーっ」時に感動を覚え、あこがれ、(ちょっとやきもち妬いて)心いやされるのだ。視聴率が高いのも、そんな番組の光景に、いつかは自分もとあこがれる気持ちがある人が多いからなのだろう。それがたとえ実現できなくても。

森の香り、樹の香りの成分はフィトンチッドと呼ばれる物質で、「テルペン類」と呼ばれる有機化合物で構成され、鎮静作用や、抗菌、抗うつ作用があるとのこと。番組に出てくる人を見ると、みんな肩の力が抜けるのか、人の目も気にしなくていいのか、それこそ“自然体”で暮らされているのがよく分かる。

東京の高層マンションの最上階で夜景を眺めながら、古いアパートで布団にくるまりながら、老人ホームのベットの上で、場末のラーメン屋のカウンターに、肘をつきながら、会社のデスクの上で仮眠を取りながら…。特に都会人のほとんどは田舎からやってきた人だろうし。暮らしぶりはともかく、いろいろな人の心の中が、この番組でほっと溜息をついているに違いない。

もちろん僕も以前から、そんな暮らしにあこがれる一人だったが、今は頭の病気のせいで、その願いはかなわぬが、せめて里山にでも移住したいという思いがある。(我が家の猫族も大移動する必要があるけど)

僕は、もともと人と話をするのが苦手で、話をしたあとはどっと疲れがくる。そう書きながら、五家荘図鑑(写真集)を出したのもサイトを公開したのも、自己顕示欲の表れであり、多少は性格と矛盾しているのだろうが、それらは僕のささやかな「一軒家」で、無理してドアをノックされなくていい。

今回、たまたま仕事で知り合った、デザイナーのSさんに五家荘図鑑を渡し、キャラクターのデザインをしてもらった。タイトルは山猫倶楽部。最初は「猫の事務所」にしようとも思ったが、さすがに宮沢賢治の童話のタイトルはまずいので「山猫倶楽部」にした。(僕は実際、童話「猫の事務所」が大好きなのだが)ちまたに、猫をテーマにしたデザインのイメージは山ほどあるが、(似ているものが多く差別化が難しい)出てきたのはそんな予想を裏切る内容で、僕はとても気に入っている。

6月は検査やら何やらで山には行けそうにない。

想像の世界からやってきた山猫一匹、満月の夜に草原を駆け抜け、つり橋を渡り、川の岩を飛び越し、滝を眺め、森の中で苔の寝床で丸くなって夢を見る。蛍に包まれ金色の猫に変身したり、神楽の太鼓の音に踊りだす。

お話はこれからだ。彼だけは僕のポツンと一軒家に出入り自由なのだ。

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