熊本県 八代市 泉町(旧泉村) 五家荘
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雑文録

2018.07.16

山行

もともと僕は変な奴なのである。だから山の花々の中でも、変な奴が大好きだ。

僕が若かりし頃、「舞踏」を始めた先輩がいた。夏休みが終わり、その先輩は突然、全裸にスキンヘッド、布切れ一枚をまとい、白塗りで大学のキャンパスに現れた。そしてデビューしたてのバンド「ポリス」の曲をカセットでガンガン鳴らしながら、二人、三人で体をくねくねさせながら舞踏を舞った。その当時、舞踏はどういうものか、明確な定義はなかったが、その不思議なクネクネ踊りが、僕にとっては舞踏だったのだ。そしてその先輩は、「これからは舞踏の世界やで、わいら東京に行き舞踏で一旗あげる」と言い残し、演劇部の機材一式、学校からの予算をすべて横取りし、夜に京都を旅立った。お人よしの僕と石丸君はせっせと先輩の引っ越しを手伝い、頑張って下さいと先輩の乗ったトラックを見送った。

そして翌日、僕はガランとした部室で一人愕然として立ちすくむ石丸君の姿を発見した。石丸曰く「みんな持っていかれよった、何から何まで。すっからかんや。これから芝居(演劇の事)やりたくても、なんもできへん」と泣き言を言った。「部の予算も一円も残ってへん。」僕はハイライトを一本吸い、煙を吐きながら「そら、大変やななぁ」と言うしかなかった。

石丸君はその会話から2年後、その先輩を頼り東京に行き、全裸白塗りで先輩と一緒に全国津々浦々、キャバレー周りをすることになる。(今は東京で古本屋をしている。)去年、久しぶりに舞踏したいと言い出し、その推薦文を書いてくれと言われたが、もちろん断った。

その当時は、夏休み舞踏教室なるものもあって、夏休み、1ヶ月、和歌山の山奥の師匠の稽古場に泊まり込み自給自足、自然の中で舞踏を学ぶのである。(もちろん僕は行かなかった)最後はマッチとナイフだけでサバイバル(戦国自衛隊か!)したり、滝に打たれての修行があるそうだ。(ほとんど逃げ帰ったそうである)・・・そうしてわずかに生き残った者は、恥も外見も捨てることができるようになり、キャバレー周りのメンバーに昇格する。

山中で、そんな舞踏集団に会えたのが去年の夏、ある山の登山道の途中だった。

苔むす木の根の間からニョキニョキ、クネクネと舞踏を舞う花の集団がある。なんとも不思議なかたち、瞑想の森の緑の中でも不似合いなピンク模様。これは山の掟違反ではないかと、僕は心の中で叫び、ニヤリとほくそ笑んだ。全裸、スッポンポンで、顔に紅を差し、一人がこう体を曲げると、隣の一人はこう体をくねらせる・・・。なんと賑やかで饒舌な花の舞。花の名を調べるに「鍾馗欄(しょうきらん)という。※鍾馗蘭は、学名:Yoania japonica)はラン科ショウキラン属の多年草で、葉緑体を持たず菌類に寄生する腐生植物。葉は退化してうろこ状。1週間程度で黒くしおれる。共生により栄養を得ている。

育ち方も何ともユニークなのだ。僕は彼女らの前で膝をついて、夢中でシャッターを切った。舞踏公演、1週間限定。苔や木の葉の中から、ニョキニョキ、クネクネ顔を出し、真夏の森の中で美しく舞う舞踏集団、「愛の家族」。今年もぜひ、その美しい舞いと、彼女らのささやきに耳を澄ましに、山に向かいたいものだ。もともと僕は変な奴なのである。だから変な奴が大好きなのだ。

※あの夏の先輩の舞を僕は中古の8ミリで撮影し、編集し、田舎に持って帰った。そして両親兄弟の前で、ふすまをスクリーンに見立てて上映会を行った。(もちろん、家族全員無言で、凍り付いたようにに何も言わなかった)

※写真は2017年7月撮影のもの

 

2018.07.03

山行

先月、ある会合で昔からの知人、「出口」さんと会った。出口さんは或る有名大企業の管理部長、いつもは温厚誠実、明るい性格の出口部長、何故か少し暗い顔をしている。話を聞くに、氏は、典型的な管理職でリストラ担当役でもある。仕事では上部からの人格攻撃と部下の世話が大変とのこと。悩み、ストレスも相当溜まっているようなのだ。会合の席で、二人で延々2時間、お互いの過去、将来のことを語りつくし、僕のような、軽薄、能天気(!)でフリーの立場の人間とは話がしやすいらしく、会合の終わりには出口部長から笑いが飛び出し、最後に一言、そんな出口部長から最近の「ストレス改善方法」を伝達されたのだ。

瞑想と聞くと、誰しも何やら怪しい教えか、団体の勧誘かと疑われるのかもしれないが(昔僕はよく勧誘された。京都の河原町の行き帰りの人ごみの中で、同じ宗教団体の者に2回も声をかけられた・・・そうとう悩みが深そうだったらしい)出口氏曰く、そういう輩とは一切関係ありません!過去にNHKの番組でも取り上げられていた内容なのですよ。

その方法は、海外の著名人、グーグルなどのIT企業も採用し書物も多々あり、高い評価を得ているとのこと。その瞑想法はマインドフルネス瞑想法といい、3分間の瞑想で、体を前後左右に動かし中心点をさぐり背筋を伸ばし、大きく鼻で息を吸い、吐く、誰しも簡単な瞑想法でもある。もちろん、瞑想とは名ばかりで心に湧きだす雑念どもがいる。その対処法がラベリングといい瞑想中の心の中で暴れまくるる雑念にラベルを張り、随時処理していくのだ。仕事のことが気になったら「雑念」とラベリング、音が気になったら「音」とラベリング、過去の後悔は「過去」!とラベリング。(もちろんラベル名は任意)

そして、心の中に川の流れを想像しその川に、ラベリングした雑念を木の葉の船に乗せて流し去ることをイメージトレーニングしていくのだ。つまり、くよくよ悩んでも仕方のないことを頭の中で整理して、頭の中の空間をすっきりさせるわけ。それでもダメならストップ!思考で頭がいっぱいでラベリングが間に合わない場合は心の中で「ストップ!」と叫んで、頭の中を空っぽにする。いわば、その瞑想法は脳の筋肉トレーニング。心を落ち着かせ今、自分がここにいることを雑念に負けず、受け入れるようになること。なるがまま、頭と心のスイッチをオフにすること。

正直、僕の心の中は悔恨だらけだ。瞑想するに、幼稚園の時の悔恨が思い出される、それから中学、高校・・・。みなさんゴメンナサイ!失敗だらけの僕の人生、瞑想すればするほど、悔恨の念が僕をどんどん追い込んでいく!何一つ、いいことはなかった僕の人生58年!ラベルが追い付かないぞ!「悔、悔、悔!」更に人の成功を妬む、うらやむ雑念が湧く、「嫉妬、嫉妬、シッ!」負けだらけの人生「敗、敗、敗!」ラベリングした雑念で木の葉の船が沈没寸前だ。流す川も梅雨の濁流となり堤防決壊寸前!出口さん、出口はどこだ!その雑念に耐えること1週間。瞑想法の結果・・・悪戦苦闘の日々・・・何か心に、少し、スキマが出来て何か余裕が出てきたような気が。

テレビのワイドショーを見て不快不安な思いが伝染しても悪口言わずに「雑念」ポイ!と処理。本によれば、そう簡単に雑念はなくならないらしい。本当の瞑想法が会得できれば、自分の吐く息、吸う息を体で感じることができて、自己の存在を心の中で客観的に望むことができるようになるらしい。(僕には何年かかるかは不明)

で、先日の日曜日に、雨の中、五家荘の白鳥山に行く。両手両足がこわばるが、何とかウエノウチ谷から、白鳥山の谷からの山道は登ることが出きる。ただバランスがなかなかとれない。白鳥山へのルートは五家荘の中でも、指折りの美しい谷だ。頂上までは行けずに、写真を撮りながら途中で引き返す。ぽたぽたと葉を打つ雨の音がする。苔むす岩を増水した水が噴き出す。少し雨が止むと、頭上で鳥たちのさえずる声がする。この森には僕しか居ない。濡れた岩に腰かけ弁当を食べる。お目当ての花たちには出会えなかったが、今度また来るときは、ごちそうと、美味しいコーヒーを持参し、谷の水でお湯を沸かし、目を瞑り、樹々から湧き上がる生まれたての空気を吸い込もうと思う。何とかお気に入りの写真が一枚撮れた。写真のタイトルは「瞑想の森」にしようと思う。

2018.06.24

山行

いよいよ登山シーズン到来。五家荘の山の達人、Oさん、Mさんのフェイスブックの情報によると、このお二人、毎週のように山に登っている。五家荘にとどまらず、祖母山、九重山、九州のめぼしい山を総なめにする勢いだ。そしてこの二人を渦の中心にして集まる、おじさん、おばさん、(中には70を過ぎたおばあさんも!)のエネルギーもすごいものだ。あまり人が登らない五家荘の山もこのグループが歩くことにより、道が踏みしめられているのかもしれない。僕と言えば、まだ急な坂を長時間登るのは困難なので、ぼちぼち行くしかない。

と、いうことで、梅雨の晴れ間をぬい、五家荘の山に写真を撮りに行った。

レンズも家人には内緒で2本買い、その映り具合も確認したかったのだ。僕の写真は自己流で、撮り方もいい加減だ。毎回失敗した後に後悔する。誰にも教わったこともないし、教えることもない。今回も失敗の連続だった。(冷汗)川や滝の流れを白くぼわーっと美しく撮るにはレンズにNDフィルターは必携と本に書いてあった。とにかくNDフィルターをつければ僕もぼわーっと撮れるはずなのだ。早速、わけがわからないままにアマゾンでそのNDフィルターを数枚買った。栴檀轟の滝、梅の木轟の滝・・・ところが何回撮ってもぼわーっとならないのだ。さてと、川の中で一人、試案にくれる僕。みんな、真っ黒・・・本来ならば、ぼわーっとした水の流れの横に苔むした色鮮やかな新緑が映えるはずなのに!後で考えるに、五家荘の川自体、そもそも樹々に覆われ暗いのでNDフィルターは不要。普通のレンズでぼわっーっとならない場合にだけ、NDフィルターをつければよし。そんなことも知らぬまま、自宅から3時間の川の中までそわそわとカメラを抱えてやってきたのだ。写真の楽しみはそんなところにあると、今になって自分を慰めるしかない。

今回買ったのは、そのフィルターと中古の標準レンズ1本。これは正解だった。川から上がり、史跡の緒方家の写真を撮る時に、正門の苔むした石垣を登り、石垣の間に見つけた人字草(ジンジソウ)※ユキノシタ。これが今回の自分のお気に入りの一枚。

人字草の不思議なデザインも大好きなのはもちろん、更に、写真好きの変態的な快感として右の白く丸いボケ具合が何度見てもいいのである。さすが、ニコン、中古でもレンズはよい。(これからレンズが増え、さらにリュックは重くなったが!)時代にぽつんと取り残された緒方家。

地区を治めた庄屋の藁ぶきの家屋。たくさんの人が行き来したであろう縁側の上、緑に覆われた庭の景色を眺めながら、冷えたラムネでも飲みたいものだ。まだ、セミの声も聞こえない、無音の空間。この村の記憶は、家屋を取り囲む緑の闇に吸い込まれて行ったに違いない。誰が積んだか、静かにほぐれゆく石垣。そんな空間を映し出すフィルターはどこにも売ってないから、自分の記憶のフィルターに収めるしかないのだ。

 

2018.05.13

文化

クモ膜下出血を起こし、退院して1か月半が経った。同病の輩、さてどうなのかと本を買ってみたり、検索してみても、病気の解説はあったとしても、手術後の情報はほとんどない。大病をして自分はあとどのくらい生きれるか?余命率もほとんど書かれていないのが、クモ膜下出血という病気なのだ。大まかにいえば発症後、半分の人が亡くなり、残りの半分の人がマヒなどの重い障害が残り、生活するのに苦労されているようだ。リハビリの方法の本は結構あったのだけど、余命率がどうの、ぽっくり行くときは行くのが病気の特性なのだろう。僕が病院に行くのはあと一年後、手術をしてくれた先生に会いに行き、頭のCTを撮ることになる。(造影剤CTは同意書が必要なくらい結構きつい検査なのだが)それまでは血圧の薬やらなんやら飲むだけである。頭痛の鎮痛剤などはくれないものだ。

こんな能天気な僕にもマヒはある。両足のふとももの表面がしびれるのだ。常時サロンパスを張っては剝がされるチクチクした痛みが一日中ある。頭痛は何パターンかある。生肉を誰かが額の上にペタペタ叩きつけて、その肉はどうやら生姜焼き用の肉のようで、ペタペタ置かれるたびにジンジンと痛みがくるのだ。他に頭蓋の中に長いゴムをビンビンに張られて、誰かがそのゴムを指先でビンビン弾きやがる痛みがある。この痛みは結構頭の中に響くので、きつい。最後は空洞になった頭の中で、上から小さな針を落とす奴がいること。面白半分に、キマグレにチクチク落とす奴が居る。僕の虚空の頭の中を落下し、積み重なる銀色の針の山。以上の頭痛の症状を先生に訴えたって、聞いてくれるわけはない。開頭しているのだから仕方ないのだろう。(もちろん今でも、おでこに手を当てると、そのかすかに膨らんだタンコブからは激痛がはしる)そんな僕の変な症状を見て、痛み止めではなく先生はパキシルを処方してくれたのだけど。(冗談)

仕事にも週に4日復活。車も買い替える。これまで1年4万キロ合計17万キロ走破したシラトリ(白鳥)号から、スズキのイグニスにする。安全走行装置付きだ。車線からはみでるとピッピッと警告音がなる。(僕の場合、なり続ける)前の車に当たりそうになると自動ブレーキがかかる。(これまで数回)最初ジムニーを買いかけたが、さすがにそこまで馬鹿ではないと心にブレーキをかけ、イグニスにした。その時期は、僕の意識も高揚してカメラのレンズ2本、カメラバックもこっそり買ってしまう。頭を保護するには帽子も必要と、ニット帽やら、ハンティングや、帽子も3個買う。(頭のサイズが大きすぎてはいらない!)

で、そんなこんなで5月4日に五家荘の山に出かけた。パンパンのカメラバックを見て、家人も、京都から帰省した娘も呆然、激怒、やむをえす、監視介護の為、山行に同行することになった。3人を乗せたイグニス号はゴロゴロと喘ぎながら峠道を登り続ける。どんどんと高度が上がり、峰越に着く。山行と言っても、峠から約1時間30分、なだらかな尾根道を歩くルートで急な坂もない。ただし標高が1600メートルを超え、風が強く冷え込んだ。木の根には残雪がある。うつそうとした天然林の林を3人はとつとつと歩く。風にあおられながら白鳥山の山頂に着く。すれ違う登山者から花はどこですか?と聞かれる。確かに、これまで歩いてきたルートには花の姿は見えない。ドリーネ(大きな石灰岩)の真裏ですと答える。シャクヤクの群生地は、いきなり出現するのだ。道を迷うようにドリーネに向かうと突然、現れる幻想的な光景。1ヶ月前、ベットに横たわっていた時から頭の中で想像していた景色が確かにあった。

透き通る景色の中で、静かに花びらを開いてくれた、やさしい白衣の天使たち。そして僕は、まだまだ、会いたい花たちがいることに気がついたのだった。

 

 

2018.03.16

山行

猫の小弾(こだま)の病状が落ち着いて本当に良かった。数日間何もたべず、口からかすかに「ひゃー、ひゃーと」鳴き声を漏らしては部屋中吐きまくっていた。町内の動物病院に連れていき検査をし、栄養剤を打ってもらい、何とか体調が戻ったのだ。純粋無垢で粉雪のような小弾。一時期、猫の子供言葉で励まさなければもう治らないとさえ思った。作家の町田康さんの本で「猫にかまけて」という本の猫の写真が小弾そっくりで、町田さんの猫は白血病で亡くなってしまった。

「かわいい、かわいい小弾ちゃん、お体の具合はどうですか?おっちゃんはとても心配していました。あれだけ元気で大食漢の小弾ちゃんが急に元気がなくなっておっちゃんの心は心配だらけだよ。一度でいいからご飯の時におっちゃんの肩に乗り、肩乗り猫に変身し手からごはんを食べてくれたらおっちゃんはこんなうれしいことはありませんよ。お兄ちゃんの寛太も心配しています。早く元気になってくださいね。」

さて、それから4週間後、僕は病院のベットの上でこの原稿を書いている。うちの婆さん(実母)曰く、「そぎゃん、猫にかまけてるからこぎゃんなったとたい!」僕は点滴の下がる腕を振り回し即座に否定した。「猫は関係なか!猫たちがいるから俺の命は助かったったい!」

僕は1月26日自宅でくも膜下出血を発症し、翌日救急車に運ばれて開頭手術を受け、運よく一命をとりとめてリハビリの最中にある。

くも膜下出血というのは脳の動脈瘤が破裂し、脳のくも幕の部分が出血し、死ぬほどの頭痛を感じる病気で死亡率50%、助かったとしても脳の動脈を触るので殆どの人々に後遺症が残り社会復帰も困難な病気だ。発症後の存命率わずか!(ネットにはろくなことが書いていないぞ!)先生の説明によると僕の血管はクモ膜下の前に脳梗塞を起こし、その血管に動脈瘤があり、その破裂した瘤の首の部分にはチタン製のクリップが3か所止められてあり、止血してあるという。手術時間9時間。もちろん全身麻酔で記憶などないが、術後、家内と妹はその手術のビデオを見せてもらったらしい。(僕が見たら今でも卒倒する)それから2週間、僕の体は血圧だの心電図だの痛み止めなどたくさんの測定機器や点滴を下げられ、身動きもできない状況にあった。のどが渇き、スプーン一杯の水をもらうのにさえナースコールが必要なのだ。その2週間中に、再度動脈瘤が痙攣し破裂またはすれば、脳梗塞、意識不明となる可能性が高いそうで、もし、そうであれば最悪僕の意識は途絶え、あの世行き、火葬場の赤いレンガの台の上で肉体は焼かれ、後には割れた白い頭蓋骨とチタンの小さなクリップが3個残されているのだろう。

病気の原因は真冬の寒さと過労と高血圧、深夜無理して食べた牛丼の大盛にある。今で言うヒートショックが原因というわけだ。その夜の気温は熊本でもマイナス3℃の氷点下で市内から自宅まで2時間、疲れた体で僕は車を運転していた。元気をつけようと食べた牛丼が僕の胃をもたらせる。弱くなった胃の消化を助けようと脳から酸素がどんどん運ばれたのに、半分酸欠じみた僕が自宅の凍りついた部屋で裸になり一気に着替えたのだ。そこで酸欠興奮状態の動脈が破裂し、脳のクモ膜下一面に血が飛び散った。普通ならそこで救急車を呼ぶところだが、明日の仕事の段取りもあるし、痛みが引くのを我慢し繰り返しやってくる悪寒に体を震わせながら炬燵の中で毛布にくるまり、夜が明けるのを待った。翌日僕は血だらけの脳をだましながら、(ちょいと頭がグラグラするなぁ…)首の後ろにカイロを貼り付け、自力で車を運転し、熊本市内の脳外科に向かった。

30分程運転し、車に酔い途中で消化不良の牛丼を車内で噴水のように噴き出し嘔吐した。しばらくシートを倒し、体を休め、それからまたハンドルを握り、会社の近くの脳外科に行く。脳外科でCTをとり、先生が曰く、「今からS病院に行きなさい!(うちじゃ手に負えん!)」僕は聞き返す。「自分で運転していけばいいすか?」先生は「違う、救急車!今から呼ぶからっ!」つくづく僕は強運の持ち主なのだろう、頭の中は血だらけ…それで1時間、運転してくるなんて。ちよっとの力み具合で僕は問答無用、即死だったのかもしれない。

死んだらどうなるか?そんな不安や考える暇があるはずない。何しろ脳の大けがだ。手も足もでない。反抗のしようもない。自分を励ましようもない。すべては運に任せるまま。全身麻酔の包み込むような柔らかい浮遊感のまま、死の世界へたどりつくだけなのだ。泣きたいとか苦しいとかの感情も沸かない。土曜に入院後、手術は月曜になった。造影剤入りのCTで体中熱くなる。手術までが長いことよ。ああこのまま死ぬのか。仕事の打ち合わせ引継ぎを病室でする。デザイナーのI君が驚いてやってくる。こんな時なのに頭にどんどん引継ぎ内容が浮かんでくる。月末で支払いもあるしなぁ。「俺が死んでも頑張ってくれと言う」人生を達観しているI君は苦笑していつもどおり冷静な反応だ。

月曜日全身麻酔で眠りについた俺は運命のすべてをM先生に委ねた。それから9時間後、意識の戻った僕にそれから集中治療室での辛くて長い2週間が始まった。僕には僕を子供のように、かわいがってくれた叔母がいて、その叔母も濃脳梗塞で約11年間、意識不明で寝たきりとなり、昨年亡くなった。さすがに僕だって数年間の意識不明は嫌である。意識不明の僕の意識はどうなる?そんな疑問が脳の中をかけめぐる。

僕が横たわっていたのは脳外科の緊急病棟で、白い板で仕切られ簡単な病室にある。そんな部屋が4部屋並べられていて、後はカーテンで囲われたベットが20床ほどある。みんな脳梗塞や出血で運ばれてきた人ばかりがベットに横たわり、口を開けうごめいている。救急車が24時間、どんどん患者を運んでくる。レース場の修理工場に続々と運ばれてくる故障車に群がる蟻のように、医師、看護婦さんはよーいドン、一斉にその故障した車の整備を始めるのだ。目が覚めて時計を見るとまだ午前2時・・朝まで僕の長い夜が始まる。向かいのベットでガチガチとはさみだの管子だの金属の器具が重なり合う音が響く、フロアの中央からライトが当たり逆光に白い姿が浮かび上がり、人々のうごめく姿と、大木に巻き付く茎のようなチューブが揺れ銀色の医療機器が浮かび上がる。「うーん、うーん」とあちこちで人々のうめき声が聞こえる。まるで野戦病院のようだ。苦痛に耐えかねたじいさんが手をたたく、「おいっ!おいっ!」と叫ぶ、じいさんは急に体を起き上げ、みんなによってたかってベットに羽交い絞めにされる。

看護婦さんが、言うことを聞かず、病室をうろつき僕の部屋に入ろうとする子泣きジジイのような爺さんを引き留め、「この部屋には死にかかっている人がいるけん入ってはダメと」いなす言葉が聞こえる。確かに僕の部屋に結界がひかれてあるんだ。嗚呼、僕は死にかかっている人なのか。確かに僕は夜明け前の薄暗がり中、看護婦さんに「言うことを聞かないと死にますよ」と言われた。

僕の目の前には白い壁とうなりをあげる大きなエアコンの排出口がある。旧式なのかその機械が苦しそうにウンウンうなりながら温風を吐き出している。この旧式の機械はこれまでどのくらいの人の生気を吸い取り、吐き出してきたのだろう?去年山で遭難した時、谷底で僕を包み込んでいたのは深い黒い闇の世界だった。今回は白い壁に囲まれどこにも行きようがない。

友人の上村君が言うには下宿の2階から階段を転げ落ち、頭を強打、意識不明の重体時に見えたのが三途の川らしい。船に乗り岸にたどりつこうとした時に先に亡くなった親戚の人たちに「こっちにきたらだめ!」と言われたらしい。結局上村君は川を渡らず引き返し一命をとりとめた。幸い僕の目の前には三途の川は現れなかった。僕の目の前には凍り付いた大きな滝がどうどうと轟音を轟かせながら垂直に流れ落ちていた。僕は宇宙船のような乗り物に乗り、大きなガラスごしにその景色を眺めていた。白く蒼く氷ついた滝の上を白い水がごうごうと流れ落ちる。僕を乗せた船は静かに浮遊している。三途の川ならず三途の滝。そんな幻想を見たのはただの一回だった。(今思うに、その三途の滝は五家荘の栴檀轟の滝のようでもある)

それからも子泣きジジイは毎日数回は僕の部屋にやってきたけど、僕はその度に爺さんに向かって呪文を唱え念力を送ったけど、(何しろこっちは半分違う世界に足を突っ込んでいるから!)ようやく危険な2週間が終わり、個室に移った。頭の切断個所のホッチキスも切り取られ右の眼の周りの腫れもすこしは収まった。個室に移った夜、急に動悸が激しくなり、左胸が締め付けられる痛みがする。ナースコールすると一斉に胸がはだかれ心電図の装置が貼り付けられ血液検査、当直の先生が廊下を走ってくる。不安心から起こったものらしい。先生が大丈夫です、問題ないですよと励ましてくれる・・・そう言われても胸の痛みがおさまらないのです先生。脳どころか心臓までおかしくなると、いよいよ大変なことになったと気分が暗くなる。結果、翌朝から薬にうつ病の薬が新しく追加された。僕は無神論者だが、それから毎晩23時59分になると自分の胸に手を合わせ、一日生き終える事ができた自分の意識を確認し、それから数分後翌日の零時1分になった時にも現実を握りしめるように胸に手を当てる。これから新しい一日が始まるのだと安堵する。廊下の向こうで誰かのうめき声が聞こえる。眠れずにラジオをつけるが頭にほとんど人の声が入ってこない。僕の横たわった体を包み込む夜の白い闇よ。

手術して2週間過ぎ、いよいよリハビリが始まる。恐る恐る病院の廊下や、階段の登り降りをする。担当のリハビリ先生から目標を聞かれ「登山の再開」と書く。五家荘の山の写真を撮り始めてまだ1年なのだ。これからも去年撮れなかった花を撮りたいと思う。幸いマヒはなく、筋肉が落ちているだけのようだ。五家荘の山の達人OさんとNさんが見舞いに来てくれる。二人とも、僕の暗い顔と右のゆがんだ頬と額の傷に驚いたようだ。「また山に登りたいですね」僕がそういうとさすがに二人の反応はない。(そぎゃん、登りたいのなら俺の責任を問わないという同意書がいるばいと流石のOさんの顔にも書かれてある・・・)とにかく5月になれば登るつもりだ。頂上を目指すつもりはない。今まで会ったこともない、小さな花たちに会うために。また一人でのんびりと登ることになるのだろう。せっかく開設した五家荘図鑑のホームページをたった一年で終わらせるわけにはいかない。面会後、Oさん、Nさんとみんなで力を合わせて作った「五家荘の山」の本も出来上がったし!

リハビリの成果も出て、それから1週間で田舎の病院にリハビリ転院となる。(なんのことはない、大病院の1階のコンビニに看護婦さんの目を盗んで、小さなチョコレートを買いに行くために、リハビリと称して1階から6階までの階段を1日最低2階は自力で往復していたのだ。僕は100円のチョコの為に生きているのか…)

転院したのは自宅の町にある丘の上にある病院だ。回復期リハビリテーションという施設でそこで本格的なリハビリを行い社会復帰を目指すことになった。1日3回10日程度、体力のリハビリと合わせて、計算問題や、積み木、図形の認識、反応の検査があった。そしてようやく退院。手術からすでに約2か月近くが経っていた。気が付けば3月。自宅前の海辺の港にも春がやってきた。石積みの港の岸壁を登山用のスティックを突きながらよろよろと歩く。途中に芝生がありベンチがある。春の海の色は緑が濃くねっとりと波打っている。太陽の光が水面に反射してキラキラとまぶしい。ああ、父が亡くなったのは7年前のこんな日、3月6日だったな。父はこの小さな港町で生まれ、左官職人として80過ぎまで生きて、僕が入院した病院で亡くなった。僕は葬儀の送る言葉で、父が名残惜しそうに一日、このベンチに座り、故郷のキラキラした懐かしい春の海を眺めている後ろ姿にさよならを告げた。「父よ、もう、さよならの時です」と。

自宅に帰り、会いたくて仕方なかった猫の寛太と子弾を抱きしめる。死ぬことは怖くない。それは仕方のないことだ。限りなく無に近い有の存在が僕で、死んだら限りなく無に近い無という存在となる。(宇宙の果てなど知ったことではない!)死の楽しみとは先に死んだ人と会える楽しみがあると考えた方が気が楽だ。それが本当かどうかは死んでみないと分からない。つまりに誰も分からない。だから僕が死んだら、寛太も子弾もあの世で待ってくれていて又再会できるに違いない。そうして抱きしめると寛太は僕の手の平を噛みつき、かわいい子弾は僕の腕からするりと抜けて逃げて行った。

2018.02.18

山行

2018年2月。五家荘の山は今、眠りの中にある。少し冷え込んだりすると、山の道路は凍結し、雪が降り積もる。五家荘の集落をつなぐ道は崖沿いの道がほとんどなので、車にチェーンやスタッドレスタイヤの装着がないと、数メートルも移動出来ない事態となる。

今の時期、下界のラジオの道路情報では録音された内容を繰り返し放送するかのごとく、「五家荘方面、二本杉峠の付近ではタイヤチェーンなどのすべり止めが必要です」と伝えている。「二本杉峠」というのは、町から五家荘へ向かう、北の入り口となる峠のことだ。地図にあるように、砥用町の早楠の山裾から、うねうねと蛇行しながら高度を上げ、峠を目指す。登るにつれ途中で道幅が狭くなり、車一台分の幅となる。道の片側は、落石防止の金網が張られた岩壁で、もう片側は崖だ。冬場は白く凍り付き、普通のタイヤではまったく怖くて進めない道となる。(つまり引き返すことも出来ない!)

ところで、二本杉峠と呼ばれる正式な地名は、二本杉という。国土地理院の地図でもそう記されてある。二本杉峠なる地名は地図上には存在しないのだ。NHKはもちろん、地元の民放のラジオは冬になると間違った地名を呼称しているわけだ。

高校時代の恩師のN先生は県内の地名の研究者でもあり、毎年冬になると辛抱たまらず、放送局に電話をかけていたそうだ。間違った地名をマスコミが延々と流布しているわけだから責任重大だ。そして、そのクレームの電話に手を焼いた放送局の担当者が、回りまわって熊本の地名の研究者であるN先生宅に電話をかけて、確認することなる。

「今朝も変な電話がかかってきて、二本杉峠という地名は存在しない、嘘を放送するなという内容なんですが、どうなんでしょうN先生」と。「その電話の主は、わしだ!」と、先生が答えたかどうかは知らないが、N先生の説明を聞いて、その放送局は翌日から二本杉と放送するそうだ。しかし結局のところ、担当者が変わると、また二本杉峠に戻る繰り返し。先生ももう70過ぎ、今ではさすがに電話をかけてないらしく、ラジオではどの放送局でも「二本杉峠」と伝えている。実際、峠の場所には堂々と「二本杉峠」という標識もあり、だいいち今更、そんなことを気にしてどうするというのが一般的な感覚なのだろうか。

ところで、どこで読んだか、N先生の資料かどうか、僕の記憶もあいまいだが、今ある峠の店の場所より、昔はもう少し下りたところにお店があり、経営者も違うそうで、その店の女店主が飛びぬけて美人だったという内容の本を読んだことがある。峠にはいろいろな思い出話もあるようで、以前泊まった宿の女将の話では、車道が開通する前は、馬の背に下駄や屋根の材料となるコケラを積み、砥用の町に降り、帰りは貴重な食料などを馬の背に積み替えて峠を行き来していたそうだ。ある日、義父さんが峠に着いたところで気が緩み、つい酒を飲みすぎて、せっかく積んできた荷物がばらばらになった話や、時には子供たちも馬の手綱を引きながら、町に降りて、一緒に買ってもらえる饅頭が楽しみで仕方なかったとの話も、今では実感の湧かない、物語の中で聞くような話になってしまった。

だからこそ、正式な地名がその土地の由来を現代になんとか繋いでいこうと踏ん張ってくれているわけなのだ。

五家荘の他の峠もそうだろう。子別(こべつ)峠はそのものずばり、子供を奉公に出す別れの場所だったろうし、烏帽子岳の稜線には「ぼんさん越」(越は峠の意味)があり、不幸があったときには向こうの村から「お坊さんを連れて」、葬儀に間に合うように、家族の若い者がぼんさんの荷物を持ち、峠をふうふう越えてきた苦難が想像出来るし、南部の石楠越(しゃくなんこし)は、石楠花は咲かない地質なのになぜそんな名前かと言うと、もとももとは百難(ひゃくなん)越という名前からして困難な名前が山人のしゃれで「石楠(しゃくなげこし→(しゃくなん)越」になったという。峠に限らず、山ならではの地名として、山犬切(やまいんきり)という地名もあり、もちろん山犬はオオカミのことで、奥深い産地ならではの地名なのだ。

ちなみに「峠」の語源は白川静の常用字解によれば、山道の上り詰めたところでまた下りとなる分岐のところを言う。

そこは神の居るところとして道祖神を祀り手向け(たむけ)をした。とうげは手向けの音の変化した語というと書かれてある。「越」の語源は鉞(まさかり)の元の字でまさかりの形。困難な場所をこえるのに鉞を呪器として、使うことがあったのだろうとある。鉞の呪力を身に受けていくことを越というとある。

言葉の力は怖くて深いものなのだ。「道」の語源はもっとすごい。古い時代には他の民族のいる土地はその民族の霊や邪霊がいて災いをもたらすと考えられたので、異族の人の首を持ちその呪力で邪霊を祓い清めて進んだのが語源なのだ。これで道に首の文字がある意味が分かる。

五家荘は希少植物の宝庫でもあり、山村の民俗学の宝庫でもある。昨今の世界遺産とやらのブームにおどらされることなく、研究する人にとっては宝の山となるのだろう。いいおじさんとなり時間切れ間近のわが身を振り返ってみれば、もうちっと勉強しておればよかったと悔やむことしきり。

越すに越されぬ二本杉。山の達人Oさん、Mさんのフェイスブックでは、久連子の白崩平の周辺に雪を割って咲く金色のフクジュソウの開花の情報をちらほら見かけることがある。

残念ながら病床の身。リハビリの目標は「登山を再開できますように」と七夕の短冊に書く願い事のような文言を書いた。まずは5月。山の小道に小さな花々が春の陽気の中で精いっぱい咲き誇る姿を見るために、病院の階段を一歩一歩登る日々なのだ。

今度二本杉を超える時は、峠の道祖神にお参りして山に登ろうと思う。

2017.12.24

「孤高の人」とは小説のタイトルで、戦前の登山家、加藤文太郎氏をモデルにした新田次郎の作品だ。加藤文太郎は単独行の登山家で神戸の六甲山から、日本アルプスの山々まで登攀した人だ。困難な山々のピークを次々と登頂し記録を作った。高校時代、友人の松ちゃんがえらく心酔して僕にもその本を紹介してくれた。要するに加藤文太郎は「孤高」で、えらくカッコいいわけだ。そして最後は劇的な死を山でとげる。それまで単独行しかしてこなかったのに、その冬山で初めてパートナーを組んだ結果の劇的な死なのだ。

僕は「孤高の人」を読んだ時の当時の感想なんてもちろん覚えてないのだけど、何か加藤氏の修行僧のような生き方、山の登り方はとてもついて行けそうな気がしなかった。そんな小説よりも月刊「山と渓谷」で掲載されていた、高田直樹氏の「なんで山登るねん」というコラムが大好きで、京都の登山家ならではの物事をちょいと斜めに見たような、高田氏曰く、東京の大学の山岳部チームは「出発(でっぱーつ!)」と気合を入れて出発するのに、関西(京都)のチームは「ほな、ぼちぼち、行きましょか」と出発するという、登山観の違いが面白く、僕は断然京都派だった。

僕も数十年ぶりに山登りを再開、「ぼちぼち派」の僕は加藤氏と同じく単独行が基本なのだけど、氏のように高みを目指す単独行ではなく、カメラ片手にぼちぼち、だらだら登る習性がゆえに、単独行をせざるをえないわけで、(正直…人との協調性もなく)僕はつまり「孤高の人」ではなく「孤低の人」なのだ。

で、山を通して知り合った五家荘の人々は「孤高の人」ほど、尖がっているわけでもなく、もちろん「孤低の人」でもなく、言わば「孤軍(奮闘)の人」が多い。秘境とも呼ばれるこの地では手助けしてくれる人が少ないわけで、何かやるには「孤軍奮闘」しかないのだ。

友人のNさんは「五家荘のおせち」を企画して販売を始めて今年で3年目になる。地元の宿の女将も巻き込み、山里ならではの食材を盛り付けて限定150食から200食を手作りしている。春先から山菜を集めほぼ1年がかり、最後は12月も末、雪の降る加工場で地元の女性陣を集めて深夜まで料理の仕込みに忙しい。

 

 

題して「五家荘の宝箱」。煮しめ、もみじ肉の角煮、ヤマメの燻製、うずらのごぼう煮、ヤマメの昆布巻き、ヤマメの卵(超珍味)、岩茸の酢の物、豆腐のもろ味漬け…こんなお節はどこにもない。

(極私的には豆腐のもろ味漬けが絶品なのだ)

ここまで手が込み、贅沢で、しかも限定200食で元が取れているのか。少し心配な点もある。しかし目先の利益を考えていては何も出来ない。このお節をスタートにして、地元が潤うような仕組みを考えなければいけないのだろう。

「出発(でっぱーつ!)」と気合を入れて出発したチームは途中で息切れして、みんなバテバテ。「ほな、ぼちぼち、行きましょか」と出発した京都チームは、後でそんなチームを追い越すのだ。必ず。

(※お節の写真はシモソヤマ氏)

2017.12.04

山行

今年の登山もぼちぼち終わりかと思いながら、日曜日の数を数えていたら、本当に登れる日が残り少なくなっているのに気が付いた。貧乏暇なし、わが事務所も「枯れ木も山の賑わい」…の年末で、登れてあと2~3回くらいなのだ。

ただ、秋に読んだ「のぼろ」(西日本新聞が発行している山の雑誌)の秋号が五家荘の特集号で、その中で山の達人M氏が寄稿した「天空の縦走路」が頭の片隅でずっと気になり、のぼろか、のぼるまいか悩んでいた。原稿のサブタイトルには「ここを歩かずして五家荘は語れない」とある(そこまで断言するか…)。確かに、壮大なルートである。五家荘の盟主「国見岳」から「小国見」「五勇山」「烏帽子岳」と標高1,600mから1,700m前後の稜線をぐるりと大きく円を描きながら渡り歩き、スタートに戻るものなのだ。歩行時間7時間30分、結構ハードなルートだ。今年最後の登山になるか、ならないか。なにしろ「ここを歩かずして五家荘は語れないのだ」。紅葉も最後だろうし、結局、思い切って出かけることにした。

海抜0mの家を出たのは朝の5時前。登山口には7時30分に着いた。五家荘の山はとにかく早く取り付くに限る。国見岳の登山はいきなりの急登から始まる。朝4時起きの体はまだ硬い。あえぎながら登るうちに、尾根は冷たい強風にあおられてきた。紅葉見物どころではない、まるでこの寒さは冬ではないかと、上着のフードを立てて登るに、向かいの尾根が白くなってきた。「まさか…雪?」と驚くに、今度はどんどんガスがかかり始め、なんとあたりは霧氷に包まれ始めてきたではないか。初めて見る景色だ。登れば登るほど銀世界。冬枯れの木々の枝が氷ついてくる。こうも山の表情が変わるものか。つい先週までは、赤や黄色の葉で景色が彩られていたのに、今や真っ白の凍てついた世界。夢中でシャッターを切るも、空も一気に白い霧で覆われ、視界も悪くなる。

ようやく国見岳の頂上に着くも、強風と霧で何も見えない。2組の登山者とすれ違うも、どちらもカメラをいじる私を置いて、先を急いだ。国見岳から見る、小国見の霧氷の景色は美しく、何度もカメラを構える。これで空が晴天であれば言うは事ないのだが。いつまで待っても、谷底から白い霧が現れては風に流されて行く。もう限界と道を下る。ここからの稜線は初めてのルートだ。そしてM氏が書くように、まさに「天空の縦走路」だった。時に、切り立つ岩場の刃の上を歩くようなルートもあり、自然林に覆われた稜線を辿るルートもあり、国見から五勇山、烏帽子岳の縦走は素晴らしいものだった。

途中で空も突き抜ける晴天に変わり、振り仰ぐと木々の枝が霧氷で白く凍り付き輝いている。気が付くと風も止み、寒さも感じない。五勇山頂では、もう一人の五家荘の達人、O氏のパーティと会う。O氏は逆回りで、道標を設置しながら登ってきたのだ。O氏は登山道整備プロジェクトのメンバーで、時間があれば五家荘の山々の迷い易い箇所に案内版を設置して登山をしている。10月の僕の遭難事件でも迷惑をかけてしまった。O氏曰く、烏帽子岳からの下りが道に迷い易い箇所があるとのこと。忠告通り、新しい道標がなければ、道が途中で分からなくなる箇所が多々あった。もし山を下りるのが夜になったり、ガスがかかっていたら、危険度ははるかに増すだろう。五家荘の山は、道がしっかり踏み分けられている方が少ない。しかも見晴らしも良くなく、尾根が複雑で、谷は深い。改めて五家荘の地図を見ると本当にややこしい。そこが魅力でもあるわけだが。(苦笑)

O氏は「(僕の遭難事件の)いつか「現場検証」ば、せないかんですな」と言いながら森の小道に消えて行った。「時間が合えばお願いします」僕もそれに答える。あの場所の現場検証は、O氏の力を借りなければ確かに無理だと思う。今回の(僕には珍しい、すんなりとした)下山も、O氏のパーティの作業のおかげなのだ。感謝。それで、スタート地点に何時に還れたのかというと、なんと午後4時30分だった。歩行時間9時間。(昼食、撮影時間含む)それにしても、長い時間山を歩いたものだ。

帰宅して、湯船に浸かりゆっくり体を伸ばす。山の神は僕に美しい霧氷の景色と、全身筋肉痛というプレゼントを与えてくれた。飴と鞭とはこのことなり。

2017.11.12

山行

11月3日、5日と五家荘の山へ。

九州百名山に選ばれた10座の山々で、残るはあと2座。山犬切(やまいんぎり・1,562m)と積岩山(つみいわやま・1,414m)を2日で登るのだ。この2つの山は、五家荘エリアの南部を東西に横切る稜線上にある。登山口(泉・五木トンネル)から急登してその稜線に出て、東に向かえば山犬切の頂上で、西に向かえば積岩山の頂上だ。3日に山犬切、5日に積岩山を登った。

◆11月3日

登山口から、稜線に出て石楠(しゃくなん)山西峰、石楠越、石楠山東峰、そして山犬切山頂、更に足を伸ばして、七遍(ひちへん)巡り山頂、水上越のルートを往復した。なだらかな稜線上のピークを辿るルートで、ちょうど紅葉の時期もあり景色も良かった。足元の枯葉をサクサク踏みしめながら、青空の下を秋風に吹かれながら一人歩く。

このルートの山頂の名称にはいわれがあり、今、石楠越は「しやくなんごし」と呼ばれる峠だけど、以前はその峠を越えるのはたいそう難儀したということから、百難「ひゃくなん」越と呼んでいたらしい。「ひゃくなん」がいつの間にか、山に咲く花の「しゃくなん」に変化したという。山犬切の山犬はオオカミのことで、昔、そこでオオカミを切り殺した場所とのこと。地元では山犬を、やまいぬではなく「やまいん」と呼ぶ。ちなみに、きつねは「のいん」、さるを「やいん」と呼ぶそうだ。

七遍巡りの由来は不明だけど、私見だが、平らなピークなのでガスがかかったりすると、道に迷いやすいので七回も堂々巡りをするから、そういう名がついたのかもしれない。水上越(みずかみごし)は、稜線南部の水上村から越えて来る峠のこと。峠と言っても、水上村側の斜面は断崖絶壁のような急坂で、よくこの坂を越えてくるものだと感心する。峠には目印になる巨岩があり美しい紅葉に彩られていた。(満月の夜に、この岩の上でオオカミが遠吠えをすれば、山の秋はいっきに深まったか。)

 

 

トンネルに無事下山するも、帰路の林道で車ごと道に迷い、またもや遭難しかける。もう恥はかきたくないと小道を強行突破すると、たどり着いたのは湯前町の温泉館の前だった。高速道を通り帰宅。

◆11月5日

登山口から、稜線に出て鷹巣山、蕨野山、岩茸山、積岩山を目指した。3日と同じく、なだらかな稜線上のピークを辿るルートだが、途中、馬酔木の茂みに覆われている箇所があり、それをかき分けながら進むと倒木に行く手を遮られ、左右に逃げているうちに道が分からなくなる。それでも何とかルートを修復し、稜線に戻りながら先に進む。

天然林を抜け、途中の表土がむき出しになった尾根では、紅葉に彩られた山々が遠望できて気持ちがいい。ただ今回は山犬切ルートと違い、時に信じられないくらいの天然林の巨木が根こそぎ倒れていて白骨化している。風当たりが強いのか、昨今の大雨で土が流出して根っこを浮き出させるのか、その枯れた骨をポキポキ踏み折りながら、歩みを進める。サンゴが温暖化で「白骨化」しているのと同様、今後は山上も荒れ地と化して、木々の枯れた白い骨で覆われて行くのだろうか。

◆鬼門の奥座向

いよいよ積岩山に着く。林の中のポッコリした小さなピークだ。時刻は11時53分。そのまま弁当を食べて、来た道を戻れば登山口に着くのは午後3時頃。積岩山の向こうには大きな尾根が北に伸びて、その向こうのピークが奥座向(おくざむき・1,240m)だ。

僕が10月に遭難したのは、奥座向から積岩山へ向かう途中、要するに今回と真逆のルートで道に迷ったのだ。いよいよリベンジの時…いや、そんな、山に向かって「リベンジ」とか言う言い方は良くないぞ…「検証の時」…どうもしっくりこないが…つまり、積岩山と奥座向を迷わずに往復する事で、自分がどこで道に迷ったのかも分かるし、極私的に自分に「落とし前」…いゃ、こんな言い方もいかん…「自分の気持ちを納得させる」…ために、あと往復2時間、頑張ってみるのか、みないのか。

実は僕は、アマゾンで読図の本まで買って学習していた。★5個のレビューのお墨付き、演習用の山の地図までついている良本を見つけたのだ。もちろん2万5千分の1の地図も買い込み、コンパス片手にここまでやってきた。当然赤いテープも参考にしたが、地図を何度も見直しながら積岩山のピークを踏んだのだ…何も自慢げにいうことではない、それが当たり前の登山なのだろうが…本に書いてあるとおり、平べったいピークほど、降りる尾根を間違えやすいのも再確認した。

さて、どうするか…ここまできたじゃないか。(そのつもりだったじゃないか、今更何を怖気づいている?)

ちゃんと帰れて、登山口には午後5時。すでにタイムリミットギリギリだ。自問自答の時…はたから見たら大の男が指を頬に当てて思案する姿は滑稽…そして決断、行こう、真っすぐ。今日しかない。

目の前の尾根を素直に下るだけだ。そして来た道を、素直に戻れば帰還出来る。僕は地図を何度も見直し、道を下り始めた。

…しばらくすると、倒木で道があやふやになりだす。道案内の赤いテープも見当たらない。単純に尾根に沿い、北北東に降りるだけだがどうも北に向かい、知らぬ間に谷に向かって道を下りだしている。見晴らしは良くない。雑木林の中、もう一度、尾根に向かい登りだす。途中で、奥座向への案内版を見つける。ホッとする。自分は間違っていない。その案内版に沿って先に進む。また、道が分からなくなる。地図を見る。現在地がつかめない。とにかく頑張って坂を登る。方角は間違っていないはず…茂みの向こうに、また看板が見える、太陽に反射して白く見える。あの看板を目指して、あとひと踏ん張り。

息を切らし、その看板の前に立ってその文字を見ると、そこには「積岩山」と書いてあったのだった。僕はおよそ30分近く、奥座向に向かうつもりが丸い円を描いて、もとの場所に戻ってきたのだった。

その瞬間、脳裏に浮かんだ言葉は、「帰ろう」。

奥座向は鬼門なのだ。山の神がこう言っている、「行くな」と。僕はそのまま引き返し、トンネルの登山口に午後2時44分に着いた。

 

やはり、五家荘の山は面白い、奥が深いなぁ…。(苦笑)

 

2017.10.29

文化

台風接近により、あいにくの雨。熊本市内から車で約2時間半、旅館樅木山荘に投宿、夕食を食べ、午後7時前に樅木天満宮に向かう。

五家荘の夜は闇だ。街灯もなく足元さえまったく見えない。懐中電灯の明かりを頼りに坂道を登る。雨がボタボタ降ってくる。足元の小道はぬかるみ、歩きにくい。暗がりの中、木の鳥居が見えてくる。ゴーッという音が響いてくる。少し行くとようやく灯りがともる場所に出る。車がびっしり停めてある。さっきの音の響きは、駐車場を照らす発電機の音だった。車の間を通り抜けると、遠くに樅木天満宮の社殿が見えてくる。暗い木立の中、社殿の明かりを頼りに足を進めると、あたりは明々としたライトの光が強くなり、僕は闇の世界から解放された。

天満宮の建物は予想に反し、古い木造の朽ち果てかけた建物で、まさかこんな場所で神楽があるとは思っていなかった。歴史のある樅木神楽だが、最近の地域おこしの予算とやらで、社殿くらい今風にリフォームされているのではないかと僕は勝手に想像していたのだ。まさに苔むした昭和のままの雰囲気だ。

中をのぞくと更に驚く。こんな天気にかかわらず、畳の上はすでに地元の観客でびっしりと埋め尽くされていた。その数100人近く。さっきの闇と静寂とは全然違う世界がそこにあった。今か今かと神楽の始まりを待ち受ける老人たち。出番を前に緊張した面持ちの子供たち。忙しく動き回る、神楽の実行委員の人々。玄関で傘をたたみ、一人一人中に入り顔を見せる度に、あちこちから驚きと喜びの声がかかる。年に一度の天満宮の大祭。祭りは山の人々の再開の場でもあるのだ。昔話に花が咲く。山の奥で、ぽつんと一つ灯る明かり。集落の人たちの心の中に、年に一度、神様が舞い降りるのだ。傘に隠れて、すでにこの世にいなくなった人たちもやってきて、観客に交じって歓声を上げている気配さえ感じる。

 

 

この場にとって、僕はカメラを肩にかけた異物だ。ブログで紹介するのが主な目的だが、事前に実行委員会に断りを入れた。

「昔、新聞記者がやって来て写真ば撮る時に、神楽の邪魔ばして揉めたもんな」

「邪魔にならんごつ、撮るならそれでよか」

祭りをマスコミで紹介しようと思えば、どんどん前に出しゃばり撮るしかない。場所が狭い、観客は多い、シャッターを切るには明かりが暗すぎる。新聞社のカメラマンにすれば報道してあげるのだから、自分の思うままにさせて欲しいと思ったのかもしれない。しかし、樅木神楽の大祭はそんじょそこらの、客に媚びたイベントやフェスティバルではないのだ。あくまでも集落に伝わる、神聖な祭りなのだ。異物は異物らしく邪魔にならぬよう振舞うべきなのだと僕は思う。

神事が終わり、いよいよ神楽が始まる。下手に太鼓があり、音はそれのみ。

 

 

「タンタカタカタン、ダンダカダカダン。」独自のリズムが奏でられるが、いろいろな音の表情がある。そして、リズムに合わせて詠うような祝詞、神楽の舞い手の鈴の音が「シャンシャン」と鳴り響き、白地に家紋が染め抜かれた衣装をまとった4人の体がくるり、くるりと、舞い始める。

時々、「さぁー」と合いの手が入る。4人の体は、繰り返し繰り返し…体を交差し、すれ違い、出会い、回転する。白い衣が翻り、鈴の音が響き、大祭の御夜が始まったのだ。

老人の神楽を見る懐かしいような、嬉しいような表情。御馳走をほおばり、酒を酌み交わし、鈴の音に負けないように笑い声が響く。

 

 

「タンタカタカタン、ダンダカダカダン。」「さぁー」

「タンタカタカタン、ダンダカダン。」「さぁー」

舞台奥には四角に区切られた、スペースがあり、その狭いスペースで神楽は舞われる。そのスペースの真上には、同じく四角い枠が設けられ、いくつもの御幣が飾られてある。この中が、神の領域なのだ。

同じリズム、同じ動きのようでも、見ていてまったく飽きない。

「タンタカタカタン、ダンダカダカダン。ドンドン」

次の舞は、太鼓と謡いから始まった。

雨が強まる。社殿のまわりの闇が更に深くなる。

子供の神楽も奉納される。地元の泉第八小学校の子供は総勢8名。ここでは小学校に入った時から神楽の修業が始まり、舞台ですぐに舞う。子供たちは小学校を卒業すると家を出て、中学校の寮に入る。そこで一旦、神楽の修業も途絶えるが、大祭になるとまた帰ってきて、飛び入りで神楽を舞う。体が覚えているのだろう。学業を終え、地元で仕事に就けばまた、舞い手の一人となるのだろう。何時まで舞うのかと聞けば、足が上がらなくなるまでとのこと。つまり6歳から50歳過ぎまで、長い人で約40年以上舞い続け、こうして江戸時代後半より伝承された樅木神楽は現代まで生き続けてきたのだ。

 

 

神楽はどんどん佳境に入っていく。鬼の面を被った神が、地上に舞い降り、いい娘はいないかと探し始める。時に棒の先であたりをつつき、額に手を当て遠くをながめながら、観客の中をかきわけて相手を探して歩く。そこで現れたのが角隠しで顔を隠した、和服姿の女性で、二人は手にとり舞台に戻り神楽を舞う。あちこちで笑いが起き、私を連れて行ってと、観客の中で自分をアピールする女性もいて大いに盛り上がった。

御夜が終わったのは、日付が変わった午前12時半。

雨の降り続く中、闇に溶けるようにして、宿に帰る。

翌日もあいにくの雨。杉木立の間を、大きな滴が降り続ける。朝、9時から神事があり、神楽の始まりだ。観客は出だしこそ少ないが、次第に増え続ける。おばあさんが傘を差し、参道のぬかるみの中、重箱を下げてやってくる、一人、また一人。昼前に食事の時間があり、祭りで用意された猪汁と合わせて、おばあさんたちが持ってきた御馳走もふるまわれる。神楽の舞い手が一升瓶を手に、酒をついで回る。子供たちが母親の料理に舌鼓をうつ。

 

 

本祭は日曜で、久しぶりに帰郷した人々も加わり大きな同窓会のようでもある。また、神楽が再開されると、客席の老婆が一緒に、祝詞を謡いあげ、さらに賑やかに祭りは進行する。祭りの終わりの予定は午後3時。

終わりまで居ようかと悩むが、用事もあり、残念だが途中で帰ることに。後日、山女魚荘の若女将にお礼の電話をすると、

「あれからが盛り上がったとよ。踊り手も最後だけん、より真剣になって、神楽も最高によかったぁ」と言われてしまった。

 

たった一夜の祭り。深い森の奥に一点、明かりが灯り、また消える。そしてまた一年が経ち、村にはいろんな出来事があり、明かりが灯る。異物の僕がその一瞬の明かりを見ることが出来たのは何と幸運だったか。

 

 

(そして何と残念なことよ、悔しいことよ。どんなことがあろうが、僕は最後まで居るべきだった。)

 

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