熊本県 八代市 泉町(旧泉村) 五家荘
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雑文録

2018.10.21

山行

五家荘図鑑というタイトルはハッタリである。正式な図鑑と勘違いして見知らぬ人にサイトに来てもらうための姑息な手段である。ホームページを見てもらい、なあんだ、これは図鑑ではないじゃないかと、期待を裏切る、俗に言う炎上商法である。が、なかなかサイトをみる人の数が増えない。と、いうことはそもそも五家荘に関心のある人、図鑑に関心のある人が少ないからではないかと最近自分を慰め言い訳をする。炎上どころか、枯れ葉がくすぶってのろしのような白い煙が一筋立っているように見えなくもない。それで、更に言い訳を考えたのが「極私的」というサブタイトルだ。(極道的ではない)何も誰から補助金もらっているわけなく、すべて自費、自己責任で極私的に勝手にします。

結果、11月に発行予定の五家荘図鑑アナログ版(写真集)では五家荘の花の名前(属、科、目)を表記しないことにした。本気で図鑑にしようと思い写真を撮ると、ピントを全体に合わせ、花だけでなく葉の形も正確に撮る必要がある。つまり、本物の図鑑片手に写真を撮る必要があるのだ。ピントの甘い、イメージ優先の僕の写真は、図鑑には絶対不向きだ。花の名前の検索も読者に一任。更に言えば、山の名前も滝の名前も記載しません。人工的、観光用のつり橋、建築物も写真集には掲載しません。山や森、花の写真で充分でしょう。五家荘がどこにあるのか、ルートも詳しく説明しません。時間通りに事が運ばないのが山の魅力なのです。

半信半疑で、事務所のI君が、「本当に写真集を出すんですか?と真顔で聞く」「もちろん本気と」答えると、「そんなお金どこにあるんですか?」と心配そうだ。「確かにないものは、ない。家猫も一気に3匹増え、合計6匹、彼らの食費も大変なのだが」「僕の葬式で販売し、暴利をむさぼる。みんな同情してたくさん買ってくれるかもしれない」「儲かったとしてもその時、僕は故人なのだがね」「そもそもすでに香典払わされていますから、そりゃあ押し売りですよ」とあきらめ口調のI君。(すでに、手伝わされるのを覚悟している)嗚呼、お金のことを考えると、頭がよけいずきずきするなぁ。(仮病ではない)

五家荘図鑑の写真集の中で、唯一、名前の表記がある標本写真がある。それは僕の事だ。図鑑の標本箱の中で、ガラス越しに、なんとも言えぬ、標本一人。ピンに止められて、山の森羅万象、みんなと一緒に閉じられる人生があれば、こんな嬉しいことはない。

こんなくだらない、あとがき書いて、実は長生きするつもりだが、そればかりは運命。何時どうなるか、わからない事情を脳に抱えて、これから紅葉の五家荘の山歩きのプランを楽しみに考えているのだ。写真に熱中しすぎて道に迷い、落ち葉に埋もれないように。

2018.10.12

山行

ひと月近くも山に足が向かないと流石に、気分が落ち着かなくなる。昨日はあいにくの雨だったが仕事のついでに五家荘に向かった。もちろん土砂降りの雨は苦手だが、昨日のようなしとしとと、濡れた雨は嫌いではない。まだ山には紅葉の気配がない。仕事のついでといいながら、自宅の宇城市から、二本杉(東山本店でいつもフキの佃煮を買う)、樅木の山女魚荘さん、椎原、五木 (山奥に突然!現る、新興振興住宅地!)を通り、山を降り、人吉駅の温泉観光組合で仕事をする古くからの知人Nさんに会いに行くというのが、僕の壮大な、自分勝手な仕事のルートである。五家荘の山道を運転する途中で、運よくいろいろな花々を見かけた。みんな、やさしい雨にしっとり濡れていい顔をしていた。その顔を写真に撮らせてもらう。そんなひと時が、僕にとっては本当に貴重な心穏やかな時間なのだ。カメラは二代目、ニコンのD7200に交代となる。先代のD300は僕の不注意から、ほんの一瞬で壊れた。病気を言い訳に最近僕は、しょっちゅうミスをする。しかし愛機D300 の故障はショックだった。大事なカメラが一瞬で壊れるとは。D7200は中古ながら、僕を慰めるように、カシャリカシャリと軽いシャッター音を響かせてくれる。山女魚荘の女将曰く、今年の樅木神楽は10月27日らしいが、残念ながら、今回ばかりは大事をとり家で大人しくすることにした。

五家荘から、五木までの途中、思い出の場所にたちよる。ほぼ20年前の春、僕は家族でたまたまその谷間の小さな木造の小学校に立ち寄った。運動場には大きな桜の木が一本、満開だった。木造二階建の校舎の廊下には小さな水槽があり、山女魚が泳いでいた。童謡に歌われるような夢のような景色だ。小さな娘は、その不思議な世界に浸るように校庭を駆け回った。その年の夏、我が家はその場所を再訪し、河原でキャンプをした。火をたくと孵化したばかりの羽虫が集まり、裏山では鹿が鳴いた。校門横では「花いっぱい運動」で表彰された、自慢の花壇に季節の花が咲き誇っていた。今でも悔やむが、その時、写真は一枚も撮っていない。その悔しさの分、当時の景色が壊れかけた僕の記憶に鮮明によみがえる、穏やかで幸せなひと時。翌春、桜の満開の景色を期待して訪れた僕の目の前に広がった景色は信じられないものだった。(その小学校の廃校の様子はNHKの番組でも特集されていた。)今回もわざわざ、その場所に僕は降り立ち、その時と唯一不変の錆びついた橋を写真に撮る。そして、花壇跡に咲く、名も知らぬ、ひっそりと咲く花の写真を撮った。がれきの山に封印された、人々の穏やかな時間。その場だけに生い茂るセイタカアワダチ草の黄色い花がお供えの花となる。長い長い寄り道。人吉に着いたのは夕方。相変わらずNさんは元気で、彼ならこの街をきっと豊かな街にしてくると信じて、高速道に乗り、帰路に就く。

 

 

2018.09.24

山行

 

五家荘図鑑を写真集として発行することに。極私的なので、もちろん私費での発行とナリマス。ホーページなので、写真をどんどん放り込めばいいのだけど、それと同時に過去の写真もどんどん消えていくような気がして、ここらで一区切り、アナログで残して自己満足に浸るのもいいかと思った次第。幸運にもネットで検索して、熊本でとても細やかで優秀な編集者の方と接点ができて、彼女なら丸投げもいいかと思ったのだ。五家荘図鑑の「図鑑」というタイトルで山野草の正式な図鑑と誤解される恐れもあるけど、極私的ということで勘弁してもらおうと思う。

そもそも図鑑を作るために山の花々の写真を撮っても、堅苦しい写真になるに違いない。あくまでも僕の頭脳の中に浮かび上がる図鑑なのだ。僕は植物について無知で、ツユクサを撮影して、この宇宙からやってきたような、厚化粧の女のような花はなんだと、(少し)感動したほどである。写真集の花に名前以外はつけないようにするつもり。見る人に、「これはなんだと思って欲しい」のだ。その花の注釈に、山間部の林道の周辺によくみられる花。多年草(要するにそんな珍しい花ではないもんね、気が付けば毎年咲くよ)とか書いてあったら興ざめではないか。自分できれいとおもったから写真に撮り紹介するのだ。あれこれ言う人は、それこそ正式な図鑑、写真集を買って下さいね。

ここ一年は体調管理の都合で、「山登り」ではなく、「山歩き」に徹することにした。山頂を目指してばかりいると、森に鳴く、鳥たちの声をじっくり聴けない気がする。スマホの録音機能も品質が高く、たまに録音して楽しむことにした。

昨今、報道されているスポーツ界のパワハラ問題だが登山は他のスポーツに比べて「健康的」だと思う。速さを競うのではなく、みんな各人で汗をかき、景色を眺め、写真を撮り、無事に帰還できれば成功なのだ。ヒトはそもそも自然に勝てないのだから。

そんな登山界でも過去にはパワハラ事件が多々あった。実は僕は、高校時代山岳部(宇土高校)だったのだ。(なんと40年前!)その当時、登山ブーム全盛で、今と違い山に登るのはほとんどが若者だった。たまたま入部した山岳部では、猛特訓の日々。同級生やブロックを背負い、近くの山に登る・・・我が、宇土高校山岳部の伝統を汚すわけにはいかないと言うわけだ。今は見かけることもない「キスリング」という、厚い帆布でできた別名「カニ」と呼ばれる横長のリュックサックにパンパンに荷物を入れ、重い革靴を履いて、山道を登るのだ。(電車の改札を通るのに、キスリングでは必ず順番に引っかかったっけ)

そんな無敵な山岳部で、僕は阿蘇、九重、屋久島と3年の夏まで、九州の山々を登った。今から思い返すにその当時の「登山そのもの」について楽しい思い出なんかほとんどない。それを証拠に、その当時のメンバーで登山を続けているのは、わずか2、3人なのだ。(僕だって数年前に、登山を再開した)高校を出て京都に行き夏に一人で北アルプスを縦走した時の楽しさよ。もう伝統も、先輩も居ない!喉が渇いたら好きに水が飲めるのだ!荷物は重いが心は軽く歩みを進めると、異様な集団発見!全員丸坊主、細くて急な登山道を蟻のようにあえいで登る「カニ集団」その大きな甲羅にはマジックで「忍耐」「努力」「根性」と大書してある。その「忍耐」「努力」「根性」も文字がゆらゆら、僕の目の前で坂を登るのだ。これは登山ではない、訓練だ。(大人のバカな体験ビジネススクールでは今も見かける光景!)

そして、足下を見ると、雪渓を同じような荷物を背負い、あえぎ、登る大学山岳部!最後尾にフラフラしながら、山のような荷物を背中に積みながら、集団についていくのに必死な新入生・・・のお尻をピッケルで激しく叩きながらけしかける大先輩(は背中には軽いディパック…)そんなサイクルでの登山ブームが長続きするはずがない、若者をみんなでよってたかって、登山を嫌いにさせていたのだから。だから今の、逆襲ともいえる中高年の楽しい登山を僕は「健康的」だと思うのだ。

高校時代で登山に絡む、唯一、馬鹿で楽しい話を思い出す。仕事で知り合った原山さんも僕と同級生で、たまたま鹿本高校の山岳だった。原山さん曰く、「ほら、県内の山岳部が合同でキャンプする大会があったでしょ。その当時の慣例で、夜になると各高校のテントに訪問して、お菓子屋らジュースやら、楽しい話をするひと時があったでしょ」僕曰く「うちはそんなことは絶対禁止やった」原山氏デレデレ思い出しながら、「そら残念やねー」それで、僕らは第一高校女子山岳部のテントを訪問したわけ」「こんばんわーって、お菓子やミカンもって」「ほんで楽しい高校生同志の夜の会話も終わり、夜も更けて」「テントに帰ろうとすると、僕らのテントがないとよ、炎上してたんだよ。折角顧問の先生にお願いして買ってもらった最新型のドーム型のテントに、ランタンが倒れて大炎上、もちろん先生からは大目玉やった(当然やろ!)

原山氏と山の話をすると決まって出る思い出話。大企業の社員でもうすぐ定年の原山さん。

さりげなく僕に定年後の生活の心配をする。「なぁんもすることは、なか」と言うが。僕がどうしてやることも出来ない。山登りを再開したらどうかと勧めてみようと思う。

 

2018.08.12

山行

8月11日は山の日で、五家荘の先人O氏とM氏は昨年同様、山の日記念、登山のイベントを企画された。両氏の情報発信力はものすごく、フェイスブックなどであっという間に約30人近い山好きが五家荘に集合した。車のナンバーを見るに、熊本はもちろん鹿児島、宮崎、久留米の山好きが遠路はるばる集まったのだ。2人が立派なのは五家荘の宿に宿泊して登山するように企画されること。マイクロバスでやってきて、トイレだけ借りて、地元に何も落とさないのは何かよそよそしい。毎夜繰り広げられる大宴会の様子が一人一人の旅の思い出になるのだ。宿泊しない僕でも、五家荘に来たら、必ず帰りは二本杉の東山(とうやま)本店でふきの佃煮やら、フキのみそ漬け、山椒のオリーブオイル漬けを土産に買うようにしている。

で、何とか家の用事をすまし、2日目の山行き参加させてもらった。Oさんは地元の消防署の司令塔でもあり、日頃は五家荘の山の遭難事故の受付窓口のような役割を果たされ、遭難歴(苦笑)のある僕の山行きに、いつも反対する家人も猫も、今回ばかりは同意をせざえを得ない。もちろん問題なのは僕の体調だ。こんな怠け者の自分でも、よなよな瞑想で日頃の雑念を払い、毎朝、おこしき海岸の公園で(店員に怪しまれながらも)20分のウォーキングを行い、体力を鍛えて来たのだ。それでも万が一、途中でおかしくなったら、登山隊の行軍を邪魔しないよう、一人、自力で帰れるように特別に登山口に愛車イグニスを置かせてもらった。

久しぶりの白鳥山、ウエノウチ谷からの出発だ。やはり来てよかったなぁと、人目はばからず深呼吸をする。林道のわきにはわれらを歓迎してくれるように「ソバナ」の群生だ。星形の白い花、紫の花が下に垂れて風に揺れ可憐で美しい。僕は登山隊の最後尾に着く。最初の休憩まで、もくもくと川沿いの道を登る我ら山の旅団。あたり一面、白鳥山ならではの苔の世界が広がる。で、新ルートに入り、いきなり急坂に道が変わる。しばらくすると、どうも体の調子が悪い。体は動こうとしても、息が苦しく、どうにも、前に進まない。深呼吸しても、息がいっぱいで、体がどんどん重く動かなくなる。酸欠・・・。これでは頑張りようがないではないか。どう見ても先はない。新ルートを登り始めて数分。あっという間に、ギブアップ。Oさんの了解を得て、一人、引き返す。なんだか学校の遠足にはぐれ、自由行動になった気楽さもあるが。川沿いで写真をとろうとしたら、ツリフネソウの花の葉の上に、カゲロウだかなんだかの幼虫が羽を休めていた。カゲロウ君は「おっちゃん、またおいで(なんで関西弁か?)」と失意の僕を慰めてくれているようだった。

 

林道に出るとナナフシダカヒトフシだか「おっちゃん、がんばりや」といい、

 

ソバナを見ると蝶だと思うが「おっちゃん、元気でな」と言ってくれてるようで、日ごろはなかなか出会わない、山の生き物に会えて少し嬉しい帰路になった。

白鳥山はいつ来てもいい。次回からは酸素ボンベ必携か。こんな美しい、きれいな空気の中で。

 

2018.08.10

山行

物事には何でも最初と最後がある。生まれた時の最初の一息、息を引き取る間際の最後の一息。生まれて最初に登った山、最後に登った山。もちろんそんな最初も最後も誰も記憶にないはずだけど。特に最後の一息は、最後の最後でみんな死んでしまい、記憶どころか、何も残らない。さて、たまたま写真を始めた僕だの最後の一枚はどんなものか。最後の山行は当然五家荘の山になるはずだが、国見岳か白鳥山か、どちらになるのだろう。

ぼくはプロの写真家でもないが、仕事の都合上、何人かのプロのカメラマンを知っている。熊本でのプロのカメラマンというと、広告用の写真や団体の記念撮影がほとんどで、個展など写真で表現活動をしている人は少ない。僕の行きつけのカメラスタジオにはジャッドスタジオのTさんが居る。Tさんは熊本で自他ともに認める一番の腕前のカメラマンである。で、何が一番かというと、オヤジギャグの腕が一番で、残念ながらカメラの腕前ではない。Tさんに撮影を頼んだ人間はお客さんの前で歯に衣をきせぬTさんのギャグ、暴言で身を凍らせる体験をすることになる。僕の思い出したくない体験からというと、ある大会社の社長から会社の記録写真を頼まれ、社長室に通された僕とTさんは、その社長と向き合い、打ち合わせ時に、Tさんは社長の目の前(もちろん僕の目の前で!)いきなり、「社長のぼけ、ボケ、ボケ・・・」と言いながら口ごもったのだ。その瞬間、社長室は一気に氷ついた。その社長の頬は(何を言い出すかと)苦笑いしながら痙攣していた。それでも相変わらず、Tさんは「社長のボケボケ、ボケっ!」(僕は生まれて初めての土下座を覚悟した!)「あーっ!なんととんでもないことを!」Tさん曰く、「社長の体を引き立てるためには、社長の周りのボケ具合が肝心ですもんねっ!」と言い放った、のだ。理論的にはその意見はちろん正しく、人の姿を立体感を出すにはまわりは少し、ボケ気味にして絞りを調節するのが定番なのだが、いきなり社長の向かってボケとはなかろうと肝を冷やした。知人に聞くに僕と同様の凍り付く体験をした者は限りなく、Tさんは熊本でも写真より有名な写真家となった。すでに付き合いは20年近くになるけど、こんな不景気の中でもTさんが生き残っていけるのにはわけがある。氏はある時思いついて、大型のポスターの出力機や最新型のパソコンを仕入れてその人柄を生かして、撮影以外に力を入れたのだ。Tさんの事務所のスケジュールボードはいつみても撮影の予定は書かれておらず、いつも真っ白。Tさん曰く、「今日も静か御前ですたい」仕事の電話一本も鳴らない。しかし午後になると、不思議とカメラ好きのおじさん、おばさんのたまり場になり、持ち込まれた画像データをパソコンで加工しプリントしたり、パネルにしたり、本にしたりして時に賑わいを見せているのだった。

そんなある日、僕はTさんの事務所で一人のよれよれよぼよぼの老人(失礼、後で知ったが60過ぎ)とすれ違った。Tさん曰く、先程の人物は僕の先輩と言う。「先輩とは?」僕が聞き直すと、その老師は「二回も撮影中に脳梗塞で倒れ、今もリハビリ中とのこと」「僕はクモ膜下だし」「似たようなもんでしょう」「まぁそういわれれば、そうですがね」老師は有名なプロカメラマン、コンテンポラリーアート作家の田中栄一氏で、」氏のフレーザー島の砂の世界を大型カメラで捉えた作品は、オーストラリア、クイーンズランド州立美術館、熊本現代美術館にも所蔵されているほどの作品なのだ。そんな氏も去年暮れに2回目の脳卒中で、生活もなかなか大変らしい。それでも今はコンパクトデジカメで自宅の周りを写真に収めているそうだ。僕はその時、写真が本当に好きな人に生まれて初めて出会えた気がして、何か嬉しかった。Tさんは田中さんの暮らしの再建のサポートをしているのだ。次回田中さんを紹介してもらう約束をして、僕はお盆休みとなる。

今の僕の最後の一枚は、7月中旬、五木の仰烏帽子(のけえぼし)へ向かう途中の一枚だ。
山道は荒れ果て、道ではなく荒れた崩落した岩だらけの枯れた川をひたすら上り詰める山行で、体力は落ち、しびれた足でバランスを崩しながら、浮いた岩の上を歩き続けるのはさすがに辛かった。途中、ロープを伝い、崩れたガレ場を登る個所がある。よく持ちこたえたものだ。1時間過ぎ、とうとう撤退を決める。満足のいく写真も一枚も撮れていない。引き返すとき、一枚の若葉を見つけ、その若葉をバックに深い森と巨木を撮ろうと思った。そんなポスターのような写真が撮れるわけがない。若葉自体がそんなきれいな絵になるような葉の形をしていないではないか。ただ、僕はその時、そんな写真を撮りたかったのだ。全身、汗だらけ。何度もシャッターを押すが、何故か手が震えてカメラや三脚がぶれてしまう。あたりは森の中、スローシャッターでようやく明るく撮れるのだ。悩んでいるうちに、森の樹々の間から、奇跡的にその葉に向かい光が差し込む。緑の葉だけがようやく明るく映る。帰宅してパソコンで見るに、正直ひどい。だけど、その一枚が僕の最後の一枚なのだ。今のところ。

今度のお盆休みに、撮りに行く。もう一枚。もう一息。

2018.07.16

山行

もともと僕は変な奴なのである。だから山の花々の中でも、変な奴が大好きだ。

僕が若かりし頃、「舞踏」を始めた先輩がいた。夏休みが終わり、その先輩は突然、全裸にスキンヘッド、布切れ一枚をまとい、白塗りで大学のキャンパスに現れた。そしてデビューしたてのバンド「ポリス」の曲をカセットでガンガン鳴らしながら、二人、三人で体をくねくねさせながら舞踏を舞った。その当時、舞踏はどういうものか、明確な定義はなかったが、その不思議なクネクネ踊りが、僕にとっては舞踏だったのだ。そしてその先輩は、「これからは舞踏の世界やで、わいら東京に行き舞踏で一旗あげる」と言い残し、演劇部の機材一式、学校からの予算をすべて横取りし、夜に京都を旅立った。お人よしの僕と石丸君はせっせと先輩の引っ越しを手伝い、頑張って下さいと先輩の乗ったトラックを見送った。

そして翌日、僕はガランとした部室で一人愕然として立ちすくむ石丸君の姿を発見した。石丸曰く「みんな持っていかれよった、何から何まで。すっからかんや。これから芝居(演劇の事)やりたくても、なんもできへん」と泣き言を言った。「部の予算も一円も残ってへん。」僕はハイライトを一本吸い、煙を吐きながら「そら、大変やななぁ」と言うしかなかった。

石丸君はその会話から2年後、その先輩を頼り東京に行き、全裸白塗りで先輩と一緒に全国津々浦々、キャバレー周りをすることになる。(今は東京で古本屋をしている。)去年、久しぶりに舞踏したいと言い出し、その推薦文を書いてくれと言われたが、もちろん断った。

その当時は、夏休み舞踏教室なるものもあって、夏休み、1ヶ月、和歌山の山奥の師匠の稽古場に泊まり込み自給自足、自然の中で舞踏を学ぶのである。(もちろん僕は行かなかった)最後はマッチとナイフだけでサバイバル(戦国自衛隊か!)したり、滝に打たれての修行があるそうだ。(ほとんど逃げ帰ったそうである)・・・そうしてわずかに生き残った者は、恥も外見も捨てることができるようになり、キャバレー周りのメンバーに昇格する。

山中で、そんな舞踏集団に会えたのが去年の夏、ある山の登山道の途中だった。

苔むす木の根の間からニョキニョキ、クネクネと舞踏を舞う花の集団がある。なんとも不思議なかたち、瞑想の森の緑の中でも不似合いなピンク模様。これは山の掟違反ではないかと、僕は心の中で叫び、ニヤリとほくそ笑んだ。全裸、スッポンポンで、顔に紅を差し、一人がこう体を曲げると、隣の一人はこう体をくねらせる・・・。なんと賑やかで饒舌な花の舞。花の名を調べるに「鍾馗欄(しょうきらん)という。※鍾馗蘭は、学名:Yoania japonica)はラン科ショウキラン属の多年草で、葉緑体を持たず菌類に寄生する腐生植物。葉は退化してうろこ状。1週間程度で黒くしおれる。共生により栄養を得ている。

育ち方も何ともユニークなのだ。僕は彼女らの前で膝をついて、夢中でシャッターを切った。舞踏公演、1週間限定。苔や木の葉の中から、ニョキニョキ、クネクネ顔を出し、真夏の森の中で美しく舞う舞踏集団、「愛の家族」。今年もぜひ、その美しい舞いと、彼女らのささやきに耳を澄ましに、山に向かいたいものだ。もともと僕は変な奴なのである。だから変な奴が大好きなのだ。

※あの夏の先輩の舞を僕は中古の8ミリで撮影し、編集し、田舎に持って帰った。そして両親兄弟の前で、ふすまをスクリーンに見立てて上映会を行った。(もちろん、家族全員無言で、凍り付いたようにに何も言わなかった)

※写真は2017年7月撮影のもの

 

2018.07.03

山行

先月、ある会合で昔からの知人、「出口」さんと会った。出口さんは或る有名大企業の管理部長、いつもは温厚誠実、明るい性格の出口部長、何故か少し暗い顔をしている。話を聞くに、氏は、典型的な管理職でリストラ担当役でもある。仕事では上部からの人格攻撃と部下の世話が大変とのこと。悩み、ストレスも相当溜まっているようなのだ。会合の席で、二人で延々2時間、お互いの過去、将来のことを語りつくし、僕のような、軽薄、能天気(!)でフリーの立場の人間とは話がしやすいらしく、会合の終わりには出口部長から笑いが飛び出し、最後に一言、そんな出口部長から最近の「ストレス改善方法」を伝達されたのだ。

瞑想と聞くと、誰しも何やら怪しい教えか、団体の勧誘かと疑われるのかもしれないが(昔僕はよく勧誘された。京都の河原町の行き帰りの人ごみの中で、同じ宗教団体の者に2回も声をかけられた・・・そうとう悩みが深そうだったらしい)出口氏曰く、そういう輩とは一切関係ありません!過去にNHKの番組でも取り上げられていた内容なのですよ。

その方法は、海外の著名人、グーグルなどのIT企業も採用し書物も多々あり、高い評価を得ているとのこと。その瞑想法はマインドフルネス瞑想法といい、3分間の瞑想で、体を前後左右に動かし中心点をさぐり背筋を伸ばし、大きく鼻で息を吸い、吐く、誰しも簡単な瞑想法でもある。もちろん、瞑想とは名ばかりで心に湧きだす雑念どもがいる。その対処法がラベリングといい瞑想中の心の中で暴れまくるる雑念にラベルを張り、随時処理していくのだ。仕事のことが気になったら「雑念」とラベリング、音が気になったら「音」とラベリング、過去の後悔は「過去」!とラベリング。(もちろんラベル名は任意)

そして、心の中に川の流れを想像しその川に、ラベリングした雑念を木の葉の船に乗せて流し去ることをイメージトレーニングしていくのだ。つまり、くよくよ悩んでも仕方のないことを頭の中で整理して、頭の中の空間をすっきりさせるわけ。それでもダメならストップ!思考で頭がいっぱいでラベリングが間に合わない場合は心の中で「ストップ!」と叫んで、頭の中を空っぽにする。いわば、その瞑想法は脳の筋肉トレーニング。心を落ち着かせ今、自分がここにいることを雑念に負けず、受け入れるようになること。なるがまま、頭と心のスイッチをオフにすること。

正直、僕の心の中は悔恨だらけだ。瞑想するに、幼稚園の時の悔恨が思い出される、それから中学、高校・・・。みなさんゴメンナサイ!失敗だらけの僕の人生、瞑想すればするほど、悔恨の念が僕をどんどん追い込んでいく!何一つ、いいことはなかった僕の人生58年!ラベルが追い付かないぞ!「悔、悔、悔!」更に人の成功を妬む、うらやむ雑念が湧く、「嫉妬、嫉妬、シッ!」負けだらけの人生「敗、敗、敗!」ラベリングした雑念で木の葉の船が沈没寸前だ。流す川も梅雨の濁流となり堤防決壊寸前!出口さん、出口はどこだ!その雑念に耐えること1週間。瞑想法の結果・・・悪戦苦闘の日々・・・何か心に、少し、スキマが出来て何か余裕が出てきたような気が。

テレビのワイドショーを見て不快不安な思いが伝染しても悪口言わずに「雑念」ポイ!と処理。本によれば、そう簡単に雑念はなくならないらしい。本当の瞑想法が会得できれば、自分の吐く息、吸う息を体で感じることができて、自己の存在を心の中で客観的に望むことができるようになるらしい。(僕には何年かかるかは不明)

で、先日の日曜日に、雨の中、五家荘の白鳥山に行く。両手両足がこわばるが、何とかウエノウチ谷から、白鳥山の谷からの山道は登ることが出きる。ただバランスがなかなかとれない。白鳥山へのルートは五家荘の中でも、指折りの美しい谷だ。頂上までは行けずに、写真を撮りながら途中で引き返す。ぽたぽたと葉を打つ雨の音がする。苔むす岩を増水した水が噴き出す。少し雨が止むと、頭上で鳥たちのさえずる声がする。この森には僕しか居ない。濡れた岩に腰かけ弁当を食べる。お目当ての花たちには出会えなかったが、今度また来るときは、ごちそうと、美味しいコーヒーを持参し、谷の水でお湯を沸かし、目を瞑り、樹々から湧き上がる生まれたての空気を吸い込もうと思う。何とかお気に入りの写真が一枚撮れた。写真のタイトルは「瞑想の森」にしようと思う。

2018.06.24

山行

いよいよ登山シーズン到来。五家荘の山の達人、Oさん、Mさんのフェイスブックの情報によると、このお二人、毎週のように山に登っている。五家荘にとどまらず、祖母山、九重山、九州のめぼしい山を総なめにする勢いだ。そしてこの二人を渦の中心にして集まる、おじさん、おばさん、(中には70を過ぎたおばあさんも!)のエネルギーもすごいものだ。あまり人が登らない五家荘の山もこのグループが歩くことにより、道が踏みしめられているのかもしれない。僕と言えば、まだ急な坂を長時間登るのは困難なので、ぼちぼち行くしかない。

と、いうことで、梅雨の晴れ間をぬい、五家荘の山に写真を撮りに行った。

レンズも家人には内緒で2本買い、その映り具合も確認したかったのだ。僕の写真は自己流で、撮り方もいい加減だ。毎回失敗した後に後悔する。誰にも教わったこともないし、教えることもない。今回も失敗の連続だった。(冷汗)川や滝の流れを白くぼわーっと美しく撮るにはレンズにNDフィルターは必携と本に書いてあった。とにかくNDフィルターをつければ僕もぼわーっと撮れるはずなのだ。早速、わけがわからないままにアマゾンでそのNDフィルターを数枚買った。栴檀轟の滝、梅の木轟の滝・・・ところが何回撮ってもぼわーっとならないのだ。さてと、川の中で一人、試案にくれる僕。みんな、真っ黒・・・本来ならば、ぼわーっとした水の流れの横に苔むした色鮮やかな新緑が映えるはずなのに!後で考えるに、五家荘の川自体、そもそも樹々に覆われ暗いのでNDフィルターは不要。普通のレンズでぼわっーっとならない場合にだけ、NDフィルターをつければよし。そんなことも知らぬまま、自宅から3時間の川の中までそわそわとカメラを抱えてやってきたのだ。写真の楽しみはそんなところにあると、今になって自分を慰めるしかない。

今回買ったのは、そのフィルターと中古の標準レンズ1本。これは正解だった。川から上がり、史跡の緒方家の写真を撮る時に、正門の苔むした石垣を登り、石垣の間に見つけた人字草(ジンジソウ)※ユキノシタ。これが今回の自分のお気に入りの一枚。

人字草の不思議なデザインも大好きなのはもちろん、更に、写真好きの変態的な快感として右の白く丸いボケ具合が何度見てもいいのである。さすが、ニコン、中古でもレンズはよい。(これからレンズが増え、さらにリュックは重くなったが!)時代にぽつんと取り残された緒方家。

地区を治めた庄屋の藁ぶきの家屋。たくさんの人が行き来したであろう縁側の上、緑に覆われた庭の景色を眺めながら、冷えたラムネでも飲みたいものだ。まだ、セミの声も聞こえない、無音の空間。この村の記憶は、家屋を取り囲む緑の闇に吸い込まれて行ったに違いない。誰が積んだか、静かにほぐれゆく石垣。そんな空間を映し出すフィルターはどこにも売ってないから、自分の記憶のフィルターに収めるしかないのだ。

 

2018.03.16

山行

猫の小弾(こだま)の病状が落ち着いて本当に良かった。数日間何もたべず、口からかすかに「ひゃー、ひゃーと」鳴き声を漏らしては部屋中吐きまくっていた。町内の動物病院に連れていき検査をし、栄養剤を打ってもらい、何とか体調が戻ったのだ。純粋無垢で粉雪のような小弾。一時期、猫の子供言葉で励まさなければもう治らないとさえ思った。作家の町田康さんの本で「猫にかまけて」という本の猫の写真が小弾そっくりで、町田さんの猫は白血病で亡くなってしまった。

「かわいい、かわいい小弾ちゃん、お体の具合はどうですか?おっちゃんはとても心配していました。あれだけ元気で大食漢の小弾ちゃんが急に元気がなくなっておっちゃんの心は心配だらけだよ。一度でいいからご飯の時におっちゃんの肩に乗り、肩乗り猫に変身し手からごはんを食べてくれたらおっちゃんはこんなうれしいことはありませんよ。お兄ちゃんの寛太も心配しています。早く元気になってくださいね。」

さて、それから4週間後、僕は病院のベットの上でこの原稿を書いている。うちの婆さん(実母)曰く、「そぎゃん、猫にかまけてるからこぎゃんなったとたい!」僕は点滴の下がる腕を振り回し即座に否定した。「猫は関係なか!猫たちがいるから俺の命は助かったったい!」

僕は1月26日自宅でくも膜下出血を発症し、翌日救急車に運ばれて開頭手術を受け、運よく一命をとりとめてリハビリの最中にある。

くも膜下出血というのは脳の動脈瘤が破裂し、脳のくも幕の部分が出血し、死ぬほどの頭痛を感じる病気で死亡率50%、助かったとしても脳の動脈を触るので殆どの人々に後遺症が残り社会復帰も困難な病気だ。発症後の存命率わずか!(ネットにはろくなことが書いていないぞ!)先生の説明によると僕の血管はクモ膜下の前に脳梗塞を起こし、その血管に動脈瘤があり、その破裂した瘤の首の部分にはチタン製のクリップが3か所止められてあり、止血してあるという。手術時間9時間。もちろん全身麻酔で記憶などないが、術後、家内と妹はその手術のビデオを見せてもらったらしい。(僕が見たら今でも卒倒する)それから2週間、僕の体は血圧だの心電図だの痛み止めなどたくさんの測定機器や点滴を下げられ、身動きもできない状況にあった。のどが渇き、スプーン一杯の水をもらうのにさえナースコールが必要なのだ。その2週間中に、再度動脈瘤が痙攣し破裂またはすれば、脳梗塞、意識不明となる可能性が高いそうで、もし、そうであれば最悪僕の意識は途絶え、あの世行き、火葬場の赤いレンガの台の上で肉体は焼かれ、後には割れた白い頭蓋骨とチタンの小さなクリップが3個残されているのだろう。

病気の原因は真冬の寒さと過労と高血圧、深夜無理して食べた牛丼の大盛にある。今で言うヒートショックが原因というわけだ。その夜の気温は熊本でもマイナス3℃の氷点下で市内から自宅まで2時間、疲れた体で僕は車を運転していた。元気をつけようと食べた牛丼が僕の胃をもたらせる。弱くなった胃の消化を助けようと脳から酸素がどんどん運ばれたのに、半分酸欠じみた僕が自宅の凍りついた部屋で裸になり一気に着替えたのだ。そこで酸欠興奮状態の動脈が破裂し、脳のクモ膜下一面に血が飛び散った。普通ならそこで救急車を呼ぶところだが、明日の仕事の段取りもあるし、痛みが引くのを我慢し繰り返しやってくる悪寒に体を震わせながら炬燵の中で毛布にくるまり、夜が明けるのを待った。翌日僕は血だらけの脳をだましながら、(ちょいと頭がグラグラするなぁ…)首の後ろにカイロを貼り付け、自力で車を運転し、熊本市内の脳外科に向かった。

30分程運転し、車に酔い途中で消化不良の牛丼を車内で噴水のように噴き出し嘔吐した。しばらくシートを倒し、体を休め、それからまたハンドルを握り、会社の近くの脳外科に行く。脳外科でCTをとり、先生が曰く、「今からS病院に行きなさい!(うちじゃ手に負えん!)」僕は聞き返す。「自分で運転していけばいいすか?」先生は「違う、救急車!今から呼ぶからっ!」つくづく僕は強運の持ち主なのだろう、頭の中は血だらけ…それで1時間、運転してくるなんて。ちよっとの力み具合で僕は問答無用、即死だったのかもしれない。

死んだらどうなるか?そんな不安や考える暇があるはずない。何しろ脳の大けがだ。手も足もでない。反抗のしようもない。自分を励ましようもない。すべては運に任せるまま。全身麻酔の包み込むような柔らかい浮遊感のまま、死の世界へたどりつくだけなのだ。泣きたいとか苦しいとかの感情も沸かない。土曜に入院後、手術は月曜になった。造影剤入りのCTで体中熱くなる。手術までが長いことよ。ああこのまま死ぬのか。仕事の打ち合わせ引継ぎを病室でする。デザイナーのI君が驚いてやってくる。こんな時なのに頭にどんどん引継ぎ内容が浮かんでくる。月末で支払いもあるしなぁ。「俺が死んでも頑張ってくれと言う」人生を達観しているI君は苦笑していつもどおり冷静な反応だ。

月曜日全身麻酔で眠りについた俺は運命のすべてをM先生に委ねた。それから9時間後、意識の戻った僕にそれから集中治療室での辛くて長い2週間が始まった。僕には僕を子供のように、かわいがってくれた叔母がいて、その叔母も濃脳梗塞で約11年間、意識不明で寝たきりとなり、昨年亡くなった。さすがに僕だって数年間の意識不明は嫌である。意識不明の僕の意識はどうなる?そんな疑問が脳の中をかけめぐる。

僕が横たわっていたのは脳外科の緊急病棟で、白い板で仕切られ簡単な病室にある。そんな部屋が4部屋並べられていて、後はカーテンで囲われたベットが20床ほどある。みんな脳梗塞や出血で運ばれてきた人ばかりがベットに横たわり、口を開けうごめいている。救急車が24時間、どんどん患者を運んでくる。レース場の修理工場に続々と運ばれてくる故障車に群がる蟻のように、医師、看護婦さんはよーいドン、一斉にその故障した車の整備を始めるのだ。目が覚めて時計を見るとまだ午前2時・・朝まで僕の長い夜が始まる。向かいのベットでガチガチとはさみだの管子だの金属の器具が重なり合う音が響く、フロアの中央からライトが当たり逆光に白い姿が浮かび上がり、人々のうごめく姿と、大木に巻き付く茎のようなチューブが揺れ銀色の医療機器が浮かび上がる。「うーん、うーん」とあちこちで人々のうめき声が聞こえる。まるで野戦病院のようだ。苦痛に耐えかねたじいさんが手をたたく、「おいっ!おいっ!」と叫ぶ、じいさんは急に体を起き上げ、みんなによってたかってベットに羽交い絞めにされる。

看護婦さんが、言うことを聞かず、病室をうろつき僕の部屋に入ろうとする子泣きジジイのような爺さんを引き留め、「この部屋には死にかかっている人がいるけん入ってはダメと」いなす言葉が聞こえる。確かに僕の部屋に結界がひかれてあるんだ。嗚呼、僕は死にかかっている人なのか。確かに僕は夜明け前の薄暗がり中、看護婦さんに「言うことを聞かないと死にますよ」と言われた。

僕の目の前には白い壁とうなりをあげる大きなエアコンの排出口がある。旧式なのかその機械が苦しそうにウンウンうなりながら温風を吐き出している。この旧式の機械はこれまでどのくらいの人の生気を吸い取り、吐き出してきたのだろう?去年山で遭難した時、谷底で僕を包み込んでいたのは深い黒い闇の世界だった。今回は白い壁に囲まれどこにも行きようがない。

友人の上村君が言うには下宿の2階から階段を転げ落ち、頭を強打、意識不明の重体時に見えたのが三途の川らしい。船に乗り岸にたどりつこうとした時に先に亡くなった親戚の人たちに「こっちにきたらだめ!」と言われたらしい。結局上村君は川を渡らず引き返し一命をとりとめた。幸い僕の目の前には三途の川は現れなかった。僕の目の前には凍り付いた大きな滝がどうどうと轟音を轟かせながら垂直に流れ落ちていた。僕は宇宙船のような乗り物に乗り、大きなガラスごしにその景色を眺めていた。白く蒼く氷ついた滝の上を白い水がごうごうと流れ落ちる。僕を乗せた船は静かに浮遊している。三途の川ならず三途の滝。そんな幻想を見たのはただの一回だった。(今思うに、その三途の滝は五家荘の栴檀轟の滝のようでもある)

それからも子泣きジジイは毎日数回は僕の部屋にやってきたけど、僕はその度に爺さんに向かって呪文を唱え念力を送ったけど、(何しろこっちは半分違う世界に足を突っ込んでいるから!)ようやく危険な2週間が終わり、個室に移った。頭の切断個所のホッチキスも切り取られ右の眼の周りの腫れもすこしは収まった。個室に移った夜、急に動悸が激しくなり、左胸が締め付けられる痛みがする。ナースコールすると一斉に胸がはだかれ心電図の装置が貼り付けられ血液検査、当直の先生が廊下を走ってくる。不安心から起こったものらしい。先生が大丈夫です、問題ないですよと励ましてくれる・・・そう言われても胸の痛みがおさまらないのです先生。脳どころか心臓までおかしくなると、いよいよ大変なことになったと気分が暗くなる。結果、翌朝から薬にうつ病の薬が新しく追加された。僕は無神論者だが、それから毎晩23時59分になると自分の胸に手を合わせ、一日生き終える事ができた自分の意識を確認し、それから数分後翌日の零時1分になった時にも現実を握りしめるように胸に手を当てる。これから新しい一日が始まるのだと安堵する。廊下の向こうで誰かのうめき声が聞こえる。眠れずにラジオをつけるが頭にほとんど人の声が入ってこない。僕の横たわった体を包み込む夜の白い闇よ。

手術して2週間過ぎ、いよいよリハビリが始まる。恐る恐る病院の廊下や、階段の登り降りをする。担当のリハビリ先生から目標を聞かれ「登山の再開」と書く。五家荘の山の写真を撮り始めてまだ1年なのだ。これからも去年撮れなかった花を撮りたいと思う。幸いマヒはなく、筋肉が落ちているだけのようだ。五家荘の山の達人OさんとNさんが見舞いに来てくれる。二人とも、僕の暗い顔と右のゆがんだ頬と額の傷に驚いたようだ。「また山に登りたいですね」僕がそういうとさすがに二人の反応はない。(そぎゃん、登りたいのなら俺の責任を問わないという同意書がいるばいと流石のOさんの顔にも書かれてある・・・)とにかく5月になれば登るつもりだ。頂上を目指すつもりはない。今まで会ったこともない、小さな花たちに会うために。また一人でのんびりと登ることになるのだろう。せっかく開設した五家荘図鑑のホームページをたった一年で終わらせるわけにはいかない。面会後、Oさん、Nさんとみんなで力を合わせて作った「五家荘の山」の本も出来上がったし!

リハビリの成果も出て、それから1週間で田舎の病院にリハビリ転院となる。(なんのことはない、大病院の1階のコンビニに看護婦さんの目を盗んで、小さなチョコレートを買いに行くために、リハビリと称して1階から6階までの階段を1日最低2階は自力で往復していたのだ。僕は100円のチョコの為に生きているのか…)

転院したのは自宅の町にある丘の上にある病院だ。回復期リハビリテーションという施設でそこで本格的なリハビリを行い社会復帰を目指すことになった。1日3回10日程度、体力のリハビリと合わせて、計算問題や、積み木、図形の認識、反応の検査があった。そしてようやく退院。手術からすでに約2か月近くが経っていた。気が付けば3月。自宅前の海辺の港にも春がやってきた。石積みの港の岸壁を登山用のスティックを突きながらよろよろと歩く。途中に芝生がありベンチがある。春の海の色は緑が濃くねっとりと波打っている。太陽の光が水面に反射してキラキラとまぶしい。ああ、父が亡くなったのは7年前のこんな日、3月6日だったな。父はこの小さな港町で生まれ、左官職人として80過ぎまで生きて、僕が入院した病院で亡くなった。僕は葬儀の送る言葉で、父が名残惜しそうに一日、このベンチに座り、故郷のキラキラした懐かしい春の海を眺めている後ろ姿にさよならを告げた。「父よ、もう、さよならの時です」と。

自宅に帰り、会いたくて仕方なかった猫の寛太と子弾を抱きしめる。死ぬことは怖くない。それは仕方のないことだ。限りなく無に近い有の存在が僕で、死んだら限りなく無に近い無という存在となる。(宇宙の果てなど知ったことではない!)死の楽しみとは先に死んだ人と会える楽しみがあると考えた方が気が楽だ。それが本当かどうかは死んでみないと分からない。つまりに誰も分からない。だから僕が死んだら、寛太も子弾もあの世で待ってくれていて又再会できるに違いない。そうして抱きしめると寛太は僕の手の平を噛みつき、かわいい子弾は僕の腕からするりと抜けて逃げて行った。

2018.02.18

山行

2018年2月。五家荘の山は今、眠りの中にある。少し冷え込んだりすると、山の道路は凍結し、雪が降り積もる。五家荘の集落をつなぐ道は崖沿いの道がほとんどなので、車にチェーンやスタッドレスタイヤの装着がないと、数メートルも移動出来ない事態となる。

今の時期、下界のラジオの道路情報では録音された内容を繰り返し放送するかのごとく、「五家荘方面、二本杉峠の付近ではタイヤチェーンなどのすべり止めが必要です」と伝えている。「二本杉峠」というのは、町から五家荘へ向かう、北の入り口となる峠のことだ。地図にあるように、砥用町の早楠の山裾から、うねうねと蛇行しながら高度を上げ、峠を目指す。登るにつれ途中で道幅が狭くなり、車一台分の幅となる。道の片側は、落石防止の金網が張られた岩壁で、もう片側は崖だ。冬場は白く凍り付き、普通のタイヤではまったく怖くて進めない道となる。(つまり引き返すことも出来ない!)

ところで、二本杉峠と呼ばれる正式な地名は、二本杉という。国土地理院の地図でもそう記されてある。二本杉峠なる地名は地図上には存在しないのだ。NHKはもちろん、地元の民放のラジオは冬になると間違った地名を呼称しているわけだ。

高校時代の恩師のN先生は県内の地名の研究者でもあり、毎年冬になると辛抱たまらず、放送局に電話をかけていたそうだ。間違った地名をマスコミが延々と流布しているわけだから責任重大だ。そして、そのクレームの電話に手を焼いた放送局の担当者が、回りまわって熊本の地名の研究者であるN先生宅に電話をかけて、確認することなる。

「今朝も変な電話がかかってきて、二本杉峠という地名は存在しない、嘘を放送するなという内容なんですが、どうなんでしょうN先生」と。「その電話の主は、わしだ!」と、先生が答えたかどうかは知らないが、N先生の説明を聞いて、その放送局は翌日から二本杉と放送するそうだ。しかし結局のところ、担当者が変わると、また二本杉峠に戻る繰り返し。先生ももう70過ぎ、今ではさすがに電話をかけてないらしく、ラジオではどの放送局でも「二本杉峠」と伝えている。実際、峠の場所には堂々と「二本杉峠」という標識もあり、だいいち今更、そんなことを気にしてどうするというのが一般的な感覚なのだろうか。

ところで、どこで読んだか、N先生の資料かどうか、僕の記憶もあいまいだが、今ある峠の店の場所より、昔はもう少し下りたところにお店があり、経営者も違うそうで、その店の女店主が飛びぬけて美人だったという内容の本を読んだことがある。峠にはいろいろな思い出話もあるようで、以前泊まった宿の女将の話では、車道が開通する前は、馬の背に下駄や屋根の材料となるコケラを積み、砥用の町に降り、帰りは貴重な食料などを馬の背に積み替えて峠を行き来していたそうだ。ある日、義父さんが峠に着いたところで気が緩み、つい酒を飲みすぎて、せっかく積んできた荷物がばらばらになった話や、時には子供たちも馬の手綱を引きながら、町に降りて、一緒に買ってもらえる饅頭が楽しみで仕方なかったとの話も、今では実感の湧かない、物語の中で聞くような話になってしまった。

だからこそ、正式な地名がその土地の由来を現代になんとか繋いでいこうと踏ん張ってくれているわけなのだ。

五家荘の他の峠もそうだろう。子別(こべつ)峠はそのものずばり、子供を奉公に出す別れの場所だったろうし、烏帽子岳の稜線には「ぼんさん越」(越は峠の意味)があり、不幸があったときには向こうの村から「お坊さんを連れて」、葬儀に間に合うように、家族の若い者がぼんさんの荷物を持ち、峠をふうふう越えてきた苦難が想像出来るし、南部の石楠越(しゃくなんこし)は、石楠花は咲かない地質なのになぜそんな名前かと言うと、もとももとは百難(ひゃくなん)越という名前からして困難な名前が山人のしゃれで「石楠(しゃくなげこし→(しゃくなん)越」になったという。峠に限らず、山ならではの地名として、山犬切(やまいんきり)という地名もあり、もちろん山犬はオオカミのことで、奥深い産地ならではの地名なのだ。

ちなみに「峠」の語源は白川静の常用字解によれば、山道の上り詰めたところでまた下りとなる分岐のところを言う。

そこは神の居るところとして道祖神を祀り手向け(たむけ)をした。とうげは手向けの音の変化した語というと書かれてある。「越」の語源は鉞(まさかり)の元の字でまさかりの形。困難な場所をこえるのに鉞を呪器として、使うことがあったのだろうとある。鉞の呪力を身に受けていくことを越というとある。

言葉の力は怖くて深いものなのだ。「道」の語源はもっとすごい。古い時代には他の民族のいる土地はその民族の霊や邪霊がいて災いをもたらすと考えられたので、異族の人の首を持ちその呪力で邪霊を祓い清めて進んだのが語源なのだ。これで道に首の文字がある意味が分かる。

五家荘は希少植物の宝庫でもあり、山村の民俗学の宝庫でもある。昨今の世界遺産とやらのブームにおどらされることなく、研究する人にとっては宝の山となるのだろう。いいおじさんとなり時間切れ間近のわが身を振り返ってみれば、もうちっと勉強しておればよかったと悔やむことしきり。

越すに越されぬ二本杉。山の達人Oさん、Mさんのフェイスブックでは、久連子の白崩平の周辺に雪を割って咲く金色のフクジュソウの開花の情報をちらほら見かけることがある。

残念ながら病床の身。リハビリの目標は「登山を再開できますように」と七夕の短冊に書く願い事のような文言を書いた。まずは5月。山の小道に小さな花々が春の陽気の中で精いっぱい咲き誇る姿を見るために、病院の階段を一歩一歩登る日々なのだ。

今度二本杉を超える時は、峠の道祖神にお参りして山に登ろうと思う。

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