熊本県 八代市 泉町(旧泉村) 五家荘
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雑文録

2020.06.08

山行

病気の後遺症のせいで今年の10月まで車の運転ができない身なのだが、“どうしても会いたい花”がいる。その名も“ギンちゃん”。正式には銀竜草(ぎんりょうそう)・ツツジ科の植物。「ひと目」見たらだれも忘れられない「ひとつ目」小僧。その姿は、杉の木立の暗がりに、ひっそり住い、時期が来ると枯葉のなかからすっすっと顔を出し、全身、白銀の服をまとう。何人かまとまりうつむいて、ひそひそ話をしている。そんなギンちゃんのことを不気味に思い、失礼にも幽霊草と呼ぶ輩もいる。そんな「ひとつ目」銀ちゃんに「ひと目ぼれ」した僕は、くどくしつこい性格なのだ。

 

去年も捜索したが、山を間違え、完全に当てが外れた。(その代わりに家人が珍しい、すっぽん茸を見つけた) 今年こそはと意気込むに、年末に左肩の腱板断裂、さらに成人の日に駅前広場で芝生に足を滑らせ、プチリ、左ひざの靭帯損傷、体の半分、左斜めに崩れながらも整形外科でリハビリ半年、「今度の週末山に行くのです。ギンちゃんに会いに」という意味不明の発言、若き理学療法士の先生、無言、無反応で僕の左ひざをベットの上で軽々と肩に担ぎあげ、体重をかけ、ぐいぐいと膝の裏の筋肉を伸ばす痛さも、足首にいつもより重い2キロの鉛を巻かれ、上下50回!と言われ、右足のふくらはぎが同時に激しいこむら返り、あまりの痛さに声を挙げようとするも我慢し耐え、嫌がる家人を脅迫、愛車イグニス(ドアに大きな擦り傷アリ)を運転させ、大通り峠越で五木に入り、五家荘の或る山を目指した。がけ崩れ、割れた岩の尖る林道を強行突破、ついに目指す山の登山口にとりつく。今回は五家荘の先輩“レスキュー山師” Oさんのフェイスブック情報から、おおよそギンちゃんの居る場所は想像がつき、膝のサポーターをパンと引き締め、急な登山口の坂をよじ登り、這い上がる。そのまま夫婦でほふく前進、しばらくすると、這いつくばる目の前に“ギンちゃん”が現れた!何と美しく、不思議な孤高の植物よ!地球上の植物で、全身銀色に輝く植物がどこに居るか!ギンちゃんだけではないか!

◆ぎんりょうそう…ツツジ科ギンリョウソウ属の多年草。腐生植物としてはもっとも有名なものの一つ。

調べるに「腐生植物」というのは誤り。昔の本には動物の死体や糞などに栄養源を求めるとかいて、花の下には死体が埋まっているなどと、更に謎めいた言い伝えもある。実際ギンちゃんは、カビやキノコ(べニタケ類の菌糸)を食べて暮らしていて、腐ったものを食べているわけではない。正確には「菌従属栄養物」という。光合成をしないので色は白く、暗い森の中でも暮らしていける。地上に顔を出すのは花を咲かせ、実をつける約2か月だけ。植物のくせに光合成もしないでふらふらフリーに生きているのはなんとすごいことなのか。学校の授業で先生の教える、植物の光合成の話は「大嘘」ということになる。田舎でよく言う「勉強せんと、いい学校に入れんばい」と大人が言うのと同じ大嘘なのだ。つまりテレビで100点満点、東大のクイズ王が、卒業して政府の官僚になり、クイズ王がクズ王になるのと同じでないか。

光合成なぞせずに、森の暗がりでひとつ目を光らせて闇を見つめるギンリョウソウの家族のユニークなことよ。僕は妄想する。闇夜の晩。月を隠した暗くて重い雲が風に流され、雲の間から月の光が一筋、森に射し込む。その光を浴びて、ギンちゃんの体は反応して、うつむいていた顔を上げる。光合成ではなく月合成…。森の中でいくつもの瞳がピカり煌めき、首を振り、光を放射する。その光を合図に、森に住む「だいだらぼっち」が覚醒し、森の中をのしのし動き出す。

こんな妄想はともかく、ギンリョウソウの生態を詳しく調査した結果も、ネットでは色々出てくる。熊大の杉浦准教授のリポート、東大の塚谷裕一氏の著作「森を食べる植物」では、みっちりギンちゃんのことが報告してある。ギンリョウソウの生態を真剣に知りたい方はそちらの正しい道へどうぞ。

フェイスブックに写真を投稿すると、五家荘の山の守り神、レスキュー O氏からは「執念ですね」と笑われ、重鎮、Mさんからは「あなたも男、覗き趣味」ですねとほめられた(苦笑)。

「執念」プラス「覗き趣味」。その答えは「変態」。杉林の暗がりで這いつくばり、一つ目小僧、ギンリョウソウの丸い瞳に魅せられひたすらカメラを覗く姿は、はたから見れば「変態」そのもの。しかしネットで検索するに、あふれんばかりの写真が出てくる。つまり、全国にはあふれんばかりの“ギンちゃん”フアンの変態族が居るのだ。正論ばかり吐いて自分の頭で考え、何も感じない者ばかりだと、融通が利かない世知がない世間となる。変態(オタク)が世間を救うのだ。

撮影後、振り返ると、家人が道の途中で倒れかけていた。もともと気管支が弱いのだ。いったん坂を降りて、再度救い上げ、ギンちゃんを見せて帰路に付く。

ギンリョウソウの花言葉は「はにかみ、そっと見守る」

 

2020.05.06

文化

僕の自宅は世界産業遺産に選定された小さな港の中にある。2階の窓からは海と島々と、世界遺産に選ばれた石積の岸壁を眺めることができる。そこで釣り人は世界遺産に選ばれたその石積の岸から竿を振り回し、贅沢にも釣糸を垂れるのである。(ほとんど釣れない)。世界産業遺産なぞ、言い換えればつまり「世界誤算」なのだ。誤算、つまり見込み違い。見込み違いで発展せずに現代に取り残されてしまったシロモノ。そんなものに(今更)スポットライトを浴びせるのが、おかしい。そんなものは粘菌がこびりついた石垣に頬ずりする日陰住いの特定のオタクのものなのだ。観光バスで乗り込み、団体でスマホ片手にぞろぞろ景色を眺めお土産を買う観光客の来る場所ではないのだ。産業遺産を観光に結び付け成功した事例を僕は今まで聞いたことがない。

五家荘でも久連子にある資料館が取り壊される危機にあると聞いた。(もうとりこわされたのか…)そもそもあんな山奥にたくさんの人を呼ぶのは至難の業だ。来客数を競うのでなく、久連子フアンを作り、その連中がクラスター(今は不謹慎な言葉…)となり、じりじり久連子オタクを増やせばよかったのかもしれない。久連子は民俗学オタクの宝庫なのだ。今ある垢ぬけた資料館でなく、もっと薄暗い、神秘めいた建物の方が余程、オタクは喜んだに違いない。今はトンネルができて便利だが、これまでの川沿いの悪路、断崖絶壁の(落石注意)悪路をふらふら歩き、ようやくたどり着いた集落の広場に杉の木立の陰から、踊り手が現れ、チーンチーン鉦の音が響くと久連子フアンは歓喜のめまいで倒れる(成仏する…)に違いない。余談だけど、以前、真冬に訪れた時、民家の前、かき集められた雪の塊の上に立派な角をした雄鹿の生首が置いてあって驚いたことがある。

今や久連子踊りは平家の落人が都の栄華を偲んで踊るものと、イメージが紐づけられているが、昔の資料によれば「念仏踊り」と呼ばれ、「新盆に帰ってくる人」の家の庭で、舞われていたそうだ。山間の集落の片隅、送り盆の日に、黒い鶏の羽を笠に着け、鉦を鳴らして踊る久連子踊り。黒く長い久連子鶏の羽がくるくる回り、笠の下の舞い手の顔も暗い影に隠れて見えない。太鼓とチーンチーンという鉦の音が響き、森と空にスッと吸い込まれて、里帰りしてきた魂も名残惜しそうに虚空に消えていくのだろうか。

民俗学者宮本常一氏の「山に生きる人びと」(1964年)には念仏踊りの起源が詳しく記されてある。「一遍上人」の全国念仏行脚が踊りの起源で、上人は人々を往生に導こうと寺も持たず、念仏を唱えながら放浪の旅を続けた。戦で亡くなったり、野垂れ死にした人や、不慮の死を遂げた人の為にも念仏を供養したらしい。そんな者の霊は、そのまま地上にとどまり悪霊と化し、人々に災いをもたらすと考えられていたからだ。

一遍上人は、京都男山・高野山をへて熊野に至り、そこで「霊夢」を受け、全国への念仏行脚を決心した。不慮の死体にも念仏を唱え、その骨を高野さんに運び、埋葬した。骨を高野山に持って登ることを「骨のぼせ」といい、一遍の流れをひく僧たちは「高野聖(こうやひじり)」と呼ばれることになった。

もちろん今や念仏踊りは各地でスタイルを変え、雨乞い、豊年踊り…イベント踊り(苦笑)と変容した。要するにみんなが踊って幸せなら、一遍上人も良かったのだろう。上人の思いは「誤算」ではない。

余談…

僕の名前の1文字「真(眞)」は高名な漢字学者の白川静先生の辞書「常用字解」(平凡社)によれば…「眞」の意味は、上のヒの意味は人を逆さまにした形で死者の意。下の県の意は、不慮の災難に会った行き倒れの人の事。このように思いがけなく命を落とした人の怨霊は強い力を持つ。そして眞を要素とする文字は怨霊を恐れ、慰める儀礼に使われる文字となる。慎む、(つつしむ)鎮める(しずめる)、瞋り(いかり)…結果、真は死者で、それは変化するものでなく永遠のもの。それが今の真の文字の意味となったそうだ。僕の父方の親戚は眞の字がつく者が多いが、性根は成仏しない悪霊だらけ、仲が悪いのもその字のせいかもしれない。お盆に親戚全員で念仏踊りが必要か。

そこで、また調べるに白川先生漢字人生90年のただ一人の天敵、藤堂明保先生の登場だ。藤堂先生の「漢字源」(学研)によれば「眞」のヒは「さじ」の意味で、匙で容器に物を満たすさまを示す意味。充填(欠けめなくいっぱいつめる)の原字。眞はまこと。うそや欠けめがない充実している意味。平凡社の大船団VS学研の小舟。

さまよう僕(真)の魂…行き倒れか?お腹いっぱい充填の真か?

一遍上人の流れをくむ「念仏踊り」か?文化誤算の「イベント踊り」か?

「高野聖(こうやひじり)」…昔読んで今は忘れた(苦笑)、泉鏡花の幻想文学の代表作であり、コロナ(疫病)の自粛中に、再読せねばならない。

 

 

2020.04.15

山行

 

夜明けの浅い眠りの中で、脳裏に浮かぶ形。

五家荘の森に埋めるオブジェの形の事だ。

感嘆符の驚きマークとは違い、それとは真逆のデザイン。

 

空間に空いた丸い穴から、したたり落ちる滴の形。

森の樹々の葉から落ちる滴。青い苔に湧き上がる滴。

 

谷の苔むす岩々の間をほとばしる、生れたばかりの滴。

山の斜面を転がり落ち、追われながら流す、獣たちの涙の滴。

 

人の額を伝う汗の滴。瞳から湧き出す涙の一滴の形。

命の最後のひと絞りはそんな形なのだろうかと思う。

 

サイズは手のひらに乗るサイズ。

土をこね、滴の形に成型し、深い緑の釉薬をたらし、

窯の炎で焼き、出来上がり。

 

その滴を森に持ち込み、写真を撮る。

他人にとっては無意味・意味不明な行為だが

極私的には有意味な行為。

 

写真の中の滴の中に、森のすべてが映り

封じ込められる。

 

滴の形は、何かを生み出す、種の形にも似て、

空の上からすっと降りてくる、錘の形にも見える。

 

前回、陶芸体験に参加し、

とても自分には何かを作り出す力はないと

断念。

 

アイデァだけを思いつき、わくわくする。

こんな気分は久しぶりだ。

早速、陶房立神峡のH氏にメールを送る。

 

H氏は快く引き受けてくれた。

時間がかかるという条件で。

 

14日、ようやく五家荘に出かけることができた。

山桜も散り、もうすぐ新緑の時期だ。

 

もうだめかと思いながら、

山道を走らせ、ある秘密の花園で

カタクリの花と再会する。

 

カタクリは春植物で、

森林に初夏の花々が咲き、

土中の養分を取られる前、

暗い森にかすかに射し込む光を得て

根っこに養分をため込み

花が咲くのは長くて1週間。

また地中に眠りに落ちる、

何とも、けなげな植物なのだ。

 

カタクリの花が春風に揺れ、

薄紫の花びらに日の光の滴が

少し差し込み、一瞬、明るくなる。

その一瞬に合わせて

シャッターを押すことが出来てうれしい。

 

咲いたカタクリの花も

一滴の滴に見えてくるのだ。

 

 

2020.03.23

文化

五家荘にも春がそろそろやってきた、ようだ。

ようだというのは1月以来、山に行けず、山の知人のOさん、Mさんのフェイスブックによるリアルな登山情報、イベントなどから推測するだけなのだ。福寿草の時期も終わり、今では山桜がぼちぼち、今年は暖冬だからカタクリの開花はどうだろう。いろいろ想像するのも楽しい。今年はなんとしても、ギンリョウソウに会いたいものだ。(ぎんちゃん!)

左肩の腱板断裂も良心的な整形外科(セカンドオピニオン)のリハビリのおかげで手術せずにほとんど完治。リュックを背負っても痛みも感じなくなった。ところが1月の成人の日、駅前でこけて左膝の内側の靭帯損傷、全部切れたわけでないけど今も同じ整形外科でのリハビリが続く。悪運が強い自分だが、こうも次から次へと怪我が続くものか。(苦笑)さすがに五家荘の山には本当に登るのではなく、いざ、登山口を前にすると歩くのが精いっぱいなのだろう。それでも春の山が待ちどうしい。

年末に、いろいろ思いつくに、朝ドラマの影響もあり陶芸の世界にも冷やかしで手を出そうと思った。ネットはこんな時は便利でいろいろ検索するに、ちょうど五家荘へ向かう道の途中、氷川町の立神峡の公園の敷地内に、陶房があった。早速そこに陶芸体験の申し込みをする。12月の始め、電話で申し込んだのは僕一人、陶房の主の平木氏のマンツーマンの贅沢な指導を受けることが出来た。

その頃の僕は、縄文土器、土偶の魅力に取りつかれ、いろいろな資料をあさり読んでいた。縄文時代の荒々しい土器、土偶の作品のなんと素晴らしいことよ。縄文時代は今からはるか昔、1万5千年前から5千年前までの長い時間帯のなかにある。平均年齢は約30歳。彼らの短くて濃い生は自然とともにある。亡くなった命は祈りにより生まれ変わると思われていたようだ。もちろん、そんなだいぶ前の事、確証できる証拠はないのだけど。村に死人がでると、彼らは転生を信じ、祈りの言葉の後に、土偶を割り埋葬したようだ。埋葬方法は屈葬と言われ、狭い穴に膝を折り曲げ、胎児のような形で葬られ、、また転生して甦ることを期待されていたらしい。九州には本州(中部、東北に比べ)ほとんど縄文の遺跡はなく残念で仕方ない。

ちょうど頭の中が縄文君でいっぱいの時に、陶芸教室で作品作りを始め、先生の「どんな作品を作りますか?皿ですか?カップですか?」という質問に、つい「縄文土器です。」と答えてしまった。「じょうもんしき?ですか?…」絶句する師匠。僕の壊れた脳の中から「縄文土器の素晴らしさの言葉の連射攻撃が始まる」戸惑う師匠。

(こんなバカには、早く作業をさせるに限る)「ま、まず、土を丸くし、どんどんと、叩きつけ、ちぎり、今度はその土を引き延ばし、長いヒモをつくります…」

「これが縄文式土器の原型、大きなミミズのようなヒモですね」

同意する師匠。「そ、そうですね…そのひもを今度は丸く筒の形にぐるぐる積み上げ、カップの原型を作ります。」

(言うことを聞かないから後で失敗する)「このまま縄文土器の原型ですね。縄文土器の一部の物は火焔土器と呼ばれ、一番上部には、炎が舞い上がり、とぐろを巻き、炎が湧き上がるものがあり、これがなんとも言えず、すごいんです」重いろくろを回しながら、土のミミズを積み上げる。

師匠…ついに、スマホで「縄文火焔土器」と検索始め「こりゃ、すごいですね」ツイツイとスマホの画面を指先で右に左に土器の画像を眺め始める。

しばらくの間…

「あの…一応、ツボのようなものが出来ましたが…」

「あのう…」師匠はスマホに見入っている。

「あ、そこからですね、水を手に付け、ろくろを回し、こうして内側から形を作り始めるとです…」いちおう、大きな湯飲みのようなものが出来た。(冷や汗)

「次はもう一個、お茶碗か何か作りましょう。さっきと同じ要領で、土をちぎり、大きなヒモを作り、もうだいぶわかりますよね?」理屈では分かっても、手が言うことを聞かない。何故かそわそわ焦り始める師匠。僕との縄文の会話で時間超過。どうやら次に予定があるらしい。

「ありゃぁーっ」やっぱり失敗。途中までお茶碗の形のものがだんだん、ふにゃふにゃに変形してくる。たまりかねた師匠。「ちょっと代わりましょう」

そういって僕の得体のしれない、茶わんなのか湯飲みなのかわからないものが、プロの手際のよい作業で、平たい皿に変身する。

そこで完全時間切れ。「後、やつときますから…焼き上げたら連絡します」

「あのー、色は?」

「あ、そうですね塗って仕上げときます」

「選べるのなら、青にしてください」「わかりました」その後、僕は近くの温泉に入り、バスがないことに愕然とするも、JRの有佐駅まで約1時間半、歩いた。

そうして年が明け、出来上がったのがこの作品。裏には勝手に「真」という印も押されてある。要するにほとんど、師匠が作陶したものだけど、参加費2500円で2個出来たので上出来なのだ。カップは本来、マグカップになる予定だったが、取っ手を師匠が付け忘れ(!)、座りのよい大きな湯飲になった。※付け忘れてもらって良かった。ぼくはマグカップがそもそも嫌いなのだ。

この2点をもち、苔むす森の中で写真を撮ったらどうだろう。滝の水を汲み、ドングリを並べ、木々の葉をならべたらどうだろう。もともと陶器は土から出来たもの。

これぞ、極私的芸術祭。もちろん希少な草花をちぎって皿を飾る愚行はしない。

修行時代、平木師匠は毎日、数百個の湯のみ、茶わん、皿を機械のように作った(仕事として作らされた)という。短気な僕には陶芸の才能も皆無、やってみて、これ以上は先に進むのも無駄と分かった。

先日、師匠から窯開きの案内をもらい、陶房を再訪した。そこで再考したのだけど、今度は僕の望む作品そのものを、師匠に形にしてもらおうと思った。頭の中で大まかな形をスケッチする。

深い森の中で、そのオブジェはたたずみ、風を通し、緑を映し、雨に打たれ、蟻が這い上がり、森の獣がにおいを嗅ぎ、星を眺め、苔むし…光る(ようなもの!)

その「ようなもの…」とは、縄文人が考えたものの足元にも及ばないが、そのようなものを通して五家荘の森の深さ、時の流れを感じることが出来ればいいなと思う。まさにこれからが山の「極私的」芸術祭の準備期間なのだ。

世相を見るに縄文人の方は現代人より、はるかに文化度が高い。1万年もの間、戦争した形跡はないし、時に埋葬した墓地を掘り返し、再度骨を集めて同じ場所に埋葬し直した遺跡も多々発見されている。要するに、血がつながっていなくても仲間同士を大きな家族とみなして共存する思想があったのだ。当時から犬を可愛がり、犬も家族の一員として暮らし、時に人と一緒に埋葬された。なんとやさしい人々よ。そんな時代の中で、土偶や土器、女性を飾る美しい勾玉など豊かで美しい発想が生まれるのは、文化度が高い証拠ではないか。

縄文時代は厳しい自然環境の中で1万年続いたけど、目に見えないウイルスに脅える現代人はあと何年生き延びれるのだろうかね。そんなときゃあ、ひとまず五家荘の森の中に逃げるに限る。

2020.02.23

【強運・不運半々な日々】

強運不運、半々の人生である。まったく、運がいいのか悪いのか。年末に左肩の腱板断裂で最初に診た医者からは「早く手術せな、いかんですよ。内視鏡で切れた筋をつなぐことが出来るのはわたしだけですから、早く、早く」「先生回復するのにどれくらい?」「入院、退院、リハビリ合計でざっと半年は必要ですな。」

仕方なしに知人の紹介の医者にセカンドオピニオンすればその医者、プクンと膨らんだ、雪だるまのような体をプルンと揺らし、まず、リハビリしますかな」と苦笑い。なんと3か月週に1回リハビリ通いで腱板は切れたままでも痛みはなくなり、普段の生活が可能になった。登山用のバックは背負えないにしても、かすかな希望が見えた。

が、正月明け、頑張って、駅前の公園を歩いていたら凍った草に滑り内股座り。左ひざからプチリと音がした。内側のじん帯損傷。歩くに、杖が必要になった。同じ整形外科でリハビリ開始。つくづく、強運、不運半分の人生。何にしても、まだ登山は無理で、部屋で寝っ転がり、昔の登山を思い出している。具体的に言えば40年も前。もちろん、その時の僕は存在しない。体内の細胞も全部交代だ。その時を思い出すに相変わらず、強運、不運のくりかえし。確かにあの時僕は墜落をした。その後の事は何も覚えていない。

【墜落の仕方教えます】

僕の中では全然盛り上がらないオリンピックなのだが。特に最近スポーツクライミングなるものがテレビでよく取り上げられて話題になっているが、見ていて全然面白くない。というか、飽きるのだ。よく飛びついたり、逆さになったりしているが、サーカスとどう違う?と思う。

室内の競技で自然を感じることは何もない。これが屋外の自然石でのボルダリングなら見ている人も面白かったろうに。陽の光、草のにおい、風の向き、雨…競技者のしたたる汗。どのルートを取るかは自由自在。自然では絶対安全なホールド、スタンスなど絶対ない。見ている方も、手に汗をかくだろう。登っている最中に蜂が来襲するかもしれぬ。

僕は今からなんと40年前、ちょうど18歳から20歳になるまでの2年間、(正確に言えば高校時代の3年間もあるが)よく山に登っていた。京都に行き、調子に乗って岩登り(今風に言えばロッククライミング!)をやろうと、本屋で手に取ったのが、「墜落の仕方教えます」※という本だった。隣で立ち読みしていた赤の他人が「あんた、墜落の仕方教えますって、そんな本…」とつぶやき驚いた。山登りの世界でもへそ曲がりで協調性がないのが僕で、本来、未来のある若者ならそんなクズのような本を読まずに、ロイヤルロビンス※らの正しい山道を登る本だったはずだけど。

墜落の仕方の本を開くと、最初からうさんくさい髭面の大男が、ザイルから逆さにぶら下がり、口を開け両手をだらんとぶら下がっている無駄な写真が目に付く。そんな写真を見て、クライミングがうまくなるはずはない。僕はその本を持ちレジに行きお金を払った。そして僕はその時から2年後、本の教えのとおり墜落したのだった。(リアルに言えば真冬の中央アルプスの宝剣岳で、岩場を下降中、アイゼンで氷を踏み抜き、サッとその瞬間、足元の氷と雪が暗い谷に消え、これ以上、進んだら死ぬと体が警告を発し体全体が固まり全く動かなくなった。)その後、どうやって下界に帰れたのかは記憶にない。当時、よく言われていたのが岩登りをはじめて数年が一番危ない。調子に乗り、どんな場所でも行ける気がして、運が悪ければ自然の洗礼を受け、死ぬということだった。

【こんぴら】

言い換えれば、バカは死ななきゃ治らない。京都には大原の近くに、金毘羅山(通称コンピラというゲレンデ・岩場のトレーニング場)があり、おおよそ30くらいのルートがあった。日曜になると大勢のクライマーが集まりカラビナをガチャガチャ言わせながら(時には悲鳴!)も岩場に挑んでいた。ルートにはピラミッド、チムニー、ジャイアントなどなど、ユニークな名前が付けられて、とても一日では登り尽くせない。コンピラは初心者から海外遠征をする大学、社会人の山岳部まで老若男女の理想的なトレーニング場だった。一見たやすいルートだと思われがちだが、中には難易度の高いルートが結構ある。夏休みに福岡の某大学の山岳部の先輩を案内したが、最初はバカにしていたが歯が立たず、途中で何度も墜落した。コンピラの入り口の戸寺というバス停の横にも垂直の壁があり、登って降りられなくなった若者が時々居たりした。バス停に着いたとたん不幸な出来事を目撃するのだが、クライミングを始めた頃は体が野生にもどるのか、調子に乗るとどんな壁も登れる気がして、気が付くとどんどん登ってしまう時期なのだ。

社会人の山岳会に入った僕の師匠はビールを飲むといつも下痢する、一色さんという人だった。一色さんはいつも下駄ばきで登山口まで来て、壁を前にして、靴に履き替え、(薄毛隠しの)破れたチロリアンハットの上に、大きな金魚鉢のような赤いヘルメットをかぶるのだ。そしてしけた煙草火をつけ、ふぅーつと煙を吐き出し、岩に向かうのだ。一色さんはお調子者の僕の性格を読み取り「調子に乗るとえらい目にあうでぇ」と、いつも諭してくれた。

時々、やってくるのが農家の小島さんだった。小島さんは右手の指が3本しかなく、その指先で器用にザイルを結び、難しい、岩壁を難なく登った。一色さんの地味で確実な登り方とは違い天才肌だった。そんな小島さんでもある時会うと「こんまえなぁ。死にかけたんや。ピラミッドでな、ふいに気が抜けて足滑らしてな。頭から、ブラーんて、落ちてもうたんや。はって思って見たら、目の前に尖った石があんねん。もう少しで、みけんにその石の先が刺さって死ぬとこやったわ」ヘタヘラ人懐っこい、笑顔だった。僕もヘラヘラ笑った。小島さんはアウトローで、その後会ったときに「一人でアルプスの丸山東壁を登ったんや。その時も偉い、大変やったで。一人で登って、一人でザイルも回収せなあかん。えらいしんどかったわ」当時、小島さんとザイルを組むパートナーは誰もいなかった。(小島さんとザイルを組めば、たぶんえらいしんどい、下手したら死ぬかもしれんと誰も分かっていた。)

【ビビりフェイスにビビる】

コンピラの難関は頂上直下の「ビビリフェイス」と言われる。10メートルくらいの平べったい、垂直の壁だった。その名の通り、誰しも「ビビる、壁」で、途中までは難なく登れるが、垂直の壁、最後の数メートル。2センチほど突き出た岩の出っ張りに両足を揃えて乗せた時から「ビビリ」ははじまる。そこまでは楽勝、ところが壁の頂上まで、つるつるで何の手掛かりも見あたらないのだ。右に左に忙しく指先が騒ぎ始める。しばらくすると、緊張で両足がガタガタミシンを踏み始める。それでも手掛かりを探して落ち着いて指先を伸ばすに、数センチ先にふと指先に触れる、かすかな岩の出っ張りがある。ビビリフェイスをクリアする為には、背筋を伸ばし、その出っ張りに手をかけ、ガタガタ震える足を踏ん張り、体を持ち上げる「その勇気」があるかどうかなのだ。その勇気のない者はさんざんミシンを踏んだ後、だらーんと、墜落するはめになる。そのビビリ具合を見ようと、木の陰に見物人がたくさん集まってくる。ある日僕が見たのは大学の山岳部で、大きなリュックを背負い、冬用の手袋を着けおまけに冬用の登山靴にアイゼンを着けて登らされている新人だった。彼は靴先に付けた2本の爪で足場の岩にたち、厚手の手袋で岩にへばりついていた。そして最後の難関。どう伸ばしても手掛かりがない。ガタガタ足が震えだす。「はうら、もう少し手を伸ばしてみい、引っ掛かりがあるやろ、その引っ掛かりを引き付けてビビりを登るんや!もう少しやで!」罵声ともつかぬ、先輩からの励ましの声がする。新人君はようやくその指先に引っかかりに気が付いたが、冬用の手袋でなかなか掴めない。膝をがくがくさせながらつぶやく、「地獄や~地獄や~」先輩が叫ぶ。「おまえ、ええこと言うなぁ~おもろい奴や!」「やるかやらんかやで~はよう、登ってこんかい、本番やったら死んでるで」「ジゴクやジゴクや~」谷間に響き渡る、「ジゴクヤァ、ジゴクヤァ~」

そのあと彼がどうなったのか、僕にはったく記憶がない。まるで自分の墜落の記憶がないように。

 

愉しかりし山。その当時、日本で一番難易度の高い岩壁が、奥鐘山西壁と言われた。そのルート説明には「最後のピッチが最悪。木の枝をつかみ、回り込んで登る」とか、実際、登った人から話を聞くに「最後はなぁ、草や、草をつかんで草が抜けませんようにと祈りながら、体を引き上げて登るんや。ほんまにえらい岩やったで」当時、関西にはそのレベルの人がゴロゴロいた。難関のオーバーハングをいくつも抜け逆相の岩場をのぼり、途中の岩場でビバークし、体力も尽き果てた最後の1ピッチの締めは、草や草やで!…

スポーツクライミングはすべての足場やホールドが絶対取れないことが前提で競技場コースが設定され、大きな会場には冷暖房が完備されているのだろう。更に速度競技なので、見る方もあっという間。とにかく早い方が勝ち!そのあたりが僕には面白くない理由のひとつなのだが。

体の全細胞が入れ替わり、当時の僕とは別人となった僕は、情けなくも山を歩くことが精いっぱい。ベットに横になり、五家荘の深い森の中に居る夢を見る。今でも無意識に右手の指先を伸ばし、何かつかもうとする時があるのだ。幸か不幸か。

 

※墜落の仕方教えます ウォレン・ハーディング著 (1976年)。別名バッツオ。

※ロイヤルロビンス クリーンクライミング倫理提唱者、登山の神サマ。

2020.01.26

山行

前々回の雑文録で、「あと何回やってくるか分からない山の春が、今からもう待ち遠しい。」だなんて、適当にお話をまとめて我ながらつまらなかったので、1月12日に小雨の降る中、五家荘に出かけた。今年は暖冬で例年なら道路も白く凍結、こんな小雨は峠あたりで吹雪に変わる時なのに、残念ながら冷たい小雨が続き、山も僕もしっとり濡れてしまった。なんでそんな天気の時に写真撮るのかと言えば、そんな天気の時にしか撮れない写真があるからなのだ。道に花が咲いているわけでなく、森の木々の緑もくすんで、ぜんぜんきれいではないのだ。だからそんな時にしか撮れない写真があるからなのだ。一応の目的地は五木村を越え、せんだん轟(とどろ)の滝、梅ノ木轟の滝を目指した。もちろん、今年の10月まで運転禁止の身、更に左肩の腱板断裂という不具合の身なのである。家人を半分だまし、久しぶりだからと懇願したのである。もちろんこんな天気だから、山には人影も鹿も猿もイノシシもいない。車を停め、滝までの山道をしとしと歩く。あいかわらず滝の勢いは強く、滝つぼの周辺の草は風圧で揺すられ、カメラも体も冷たく濡れる。帰路の道のわきで落ちた鳥の巣を発見する。

風に揺すられ落ちたか、誰かに落とされたか。もぬけのカラ。春を待たずに卵はどうなったのだろうか。あたりの樹々の陰からは弾丸のような黒い影がいっせいにばらまかれ、飛び立つ。メジロやウグイスなどの生まれたての野鳥の群れか。冬でも森の小さな命は息づいている。車に帰り、車内で冷えたコンビニの弁当を食べる。梅ノ木の滝に行く途中、尺間神社の前で休憩。

尺間神社の言われは「とても面白いもの」だった記憶があるが思い出せない。周辺に散在する集落、民家にはもう誰も住んでいない。鳥居をくぐると、杉の木立の落ち葉に埋もれ崩落した道がある。この道を登れば誰も知らない、忘れられた社殿があるのかもしれない。僕の記憶の中の神社の「面白い言われ」も落ち葉のようにほどけて埋もれていく。

梅ノ木のつり橋を渡り、梅ノ木轟の滝の下に着く。足元にしとしと降った雨も集まり滝になり、流れていく。美しいといわれる写真とか、撮る能力は僕にはなく、ただ、雨の時は雨で、雨の写真を撮ればいいのだな、と思った。

2020.01.13

五家荘図鑑販売開始から、およそ1年。アマゾンで約10冊。上通りの長崎書店さんで9冊。山の店シェルパさんで多分5冊くらい。去年2月の五家荘の福寿草祭り、山のイベントで約10冊以上くらい売れたか。(苦笑)もちろん赤字!もう少し売れたらいいなと思い、そろそろ営業でもせんといかんと思い立ち、まずは熊本の書店めぐりはどうかと思うに、去年長崎書店さんに挨拶の時に、担当の人から、熊本での販売はうちだけですか?と聞かれたので、つい「もちろん、山の店シェルパさんと、御社だけです。御社は熊本で唯一、こだわりの書店と認識しております。」と直立不動の姿勢、ハッと即答した手前、他の書店にはお願いできにくくなった。橙書店さんにも持って行ったが、置く場所がありませんと丁寧なはがきと一緒に本が返送されてきた。(進呈したつもりだが)まぁいい。

それで、1年も経ったし長崎書店さんも怒るわけはないはずだし、あと2社、某全国書店と、熊本でビデオと一緒に本も売られている某書店に営業すべしと思うが、どうも足が重い。左肩の腱板も断裂し痛いし荷物も持てないし。そうして寒い冬、うだうだ布団を被り、クリップの挟まった脳みそで考えるに、ああそうだ、僕には京都の萩書房さんがあるではないかと、今頃気が付いた。(だからクリップのせいなんだ)

萩書房さんは京都、左京区一乗寺にある古書店。そもそも五家荘図鑑のホームページのサイトを作るときに、依頼先のフロンティアビジョンさんのウエブデザイナーさんからどんなデザインがお好みですか?と聞かれた時に、「誰かが、京都の古書店の2階でごそごそ書棚をあさって、変な山の写真集を見つけ、ページを開いたら五家荘という誰も知らない幻の山地の写真集を手に取った時のようなデザイン」と言い、困らせた記憶がある。

その古書店というのはつまり、今から思うと萩書房さんだったわけなのだ。(なんていいかげんな頭の迷宮なのか)と、いうことで早速、萩書房の井上さんに電話をし、本を送り付けたのだ。萩書房さんにはいつも無理を言い、どうしても欲しい本を東京の古書店ルートで探しあててもらったことがあった。不思議にも、いつ行っても僕の欲しい古本が並べてあるのだ。(都合よく、熊本の書店での営業は完全中止となりました。五家荘図鑑の販売は長崎書店、シェルパさんのみ)

で、この際、春に数年ぶりに京都に行くことにした。還暦60歳にして、青春18きっぷを買うような気分で、熊本から京都までの沿線を野宿しながらたどり着こうと思った。(※体調不良で野宿は困難…)せめて出町柳の三角州で(昔は酔いつぶれてベンチで寝てたな)一泊くらいするつもり。頭も重く、将来も暗い日々。そんなときにワクワクする京都行はささやかな生きる元気のもとになる。

もちろん京都には懐かしい友人も居るし、特に一乗寺エリアは、今や個性的な書店の巣窟で“その手の人々”に人気らしいし。恵文社、ガケ書房…訪問時は、一乗寺の他にも三月書房、アスタルテ書房(奇跡の復活)などなど書店めぐりとなるだろう。そして、その書店の書棚の奥で、僕は改めて「変な山の写真集を見つけ、ページを開いたらまだ、誰も知らない幻の山地の写真集を手に取る機会があるかもしれないと」ふとんをかぶりワクワクするのだ。

更に更に、思い出すに、僕は熊本の田舎高校の山岳部を出て、19歳から20歳まで京都の社会人の山岳会に入り、短い期間だが、京都の山々はもちろん京都を拠点に日本アルプスの山々を登った思い出があるのだ。よくよく思い出すに、その当時の無謀な登山が原因で僕の左肩は回らなくなり、ある角度で腕の筋が引っかかり、痛みがあり動かなくなった。40年経って、その時の傷が今の腱板断裂となったかどうかはわからない。

 

2020.01.05

2019年12月30日で60歳になった。還暦と言われる年だ。

僕は生まれてこのかた、誕生日とか一切嬉しくも悲しくもない。よく人様から「誕生日おめでとう」とか「生まれてきて良かったじゃん」と言われても、無関心無感動。だからフェイスブックとかで、お祝いのメッセージとか書かれてもとても困るので、非公開にしている。(そもそもフエイスブックは仕事の連絡用)しかし、よくも60年も生きてこれたのは「極私的には」良かったと思う。

2019年の病院歴。

脳の造影剤入りMRI(脳の血管の定期検診・問題なし)1回。脳のCTスキャン2回(髄液の漏れ、問題なし)大腸がんの疑いで内視鏡検査2回(大きなポリープ取る)これでうまく逃げおおせたかと油断したら12月に異常発覚!

左肩の奥に、筋が引っ張ったような痛みあり。五十肩かと思い、事務所近くの整形外科でレントゲン撮るに原因不明、更に肩のMRI撮る。なんと左肩の腱板断裂との診断。腱板断裂とは言葉そのもの、左肩を支える腱板が断裂して、切れた筋の端が尖って筋肉に疼痛を与えているらしい。

先生曰く、リハビリ2か月、手術入院2か月、その後のリハビリに2か月。(合計半年ではないか!)切れた筋は自然につながることはなく、内視鏡を見ながら筋をつなぐ必要がある。(なんだか手術をしたくてしたくて、たまらないらしいぞ…)そんなこと言ったって、今でも通勤2時間かけて、人の数より猫の数が多い田舎住まいの我が家から通勤しているのに。第一「猫の世話は誰が見る!」…と言うことで、知人の勧める他の整形外科にセカンドオピニオンに行き、週に1回、リハビリに通うことにした。(自転車、片手運転で!)

左肩をそのままにしておくとどうなるか?先生曰く「筋が自然につながることはなく、そのまま痛いだけ」とのこと。夜も眠れないほどの疼痛が続くわけでなし、結論として腱板断裂は当分放置することにした。

ただ、重いものは持てないのと、痛みを緩和するために、首から下げる三角巾のようなものをアマゾンで買って下げることにした。原因は不明だが、60年も左肩を使っていれば、どこか悪くなったのだろう。

ただ、一番残念なのはリュックが背負えない体になったということ。これまでのように五家荘の山にも写真撮りに行けなくなったのだ。もともと、くも膜下後から、急坂は酸欠で登れなくなったのだが、腱板断裂で更に登山は厳しくなった。

そんなこと言っておれば、山どころか、どこにも行けないので、次回からは腰に回すバックにカメラとレンズを忍ばせ、頑張って行ける場所に行けばいいのだと思う。

誕生日に無関心、無感動…といいながら今度ばかりは家人に誕生プレゼントに目覚まし時計をねだり、ホームセンターで買って来てもらった。もともと年末に机回りを掃除していて、高校時代に買った目覚まし時計が出てきたのだ。その時計をバックに詰めて18歳の僕は京都行の夜行に乗った。それから40年以上。何故か、その時計が引き出しの奥に転がっていた。電池を変えたがもう時は刻まなかった。ただ、目覚ましのベルはいつも通り、リンリンと鳴り響いた。

と、いうことで僕の還暦記念の品は新しい目覚まし時計。12月30日から時を刻む。

山の春まであと、3か月。以前、栴檀轟の滝の桜の写真を撮ろうと、下の遊歩道から舗装された林道を歩いたのだが、五家荘の高地にも林道のあちこちに、スミレや菜の花が咲いていて、むんとする春の陽気に汗をかいて、カメラとレンズを詰め込み、三脚を付けたバックの重さに、僕ははぁはぁ、息を切らした。汗を道にぽたぽた落とし、菜の花の群生を前に、花そのものは嫌いではないが、折角、山まできたのだから、どこにでも咲いている菜の花の写真を撮ることはないと思った。(僕の図鑑に欠けているのはそんな写真なのだ。)

今度はレンズ2個、軽量化作戦にしよう!あと何回やってくるか分からない山の春が、今からもう待ち遠しい。

2019.11.19

宿

五家荘のエリアには8件ほどの民宿が点在している。特にその中で、山女魚荘、佐倉荘、平家荘の3軒は僕のお気に入りの宿だ。60歳近くなるまでの人生でどれだけの数の宿に世話になったのか。そんな思い出の宿の中でベスト3が、五家荘の3軒なのだ。どんな贅沢な宿や、有名シェフのいるホテルでも、五家荘の3軒にはかなわない。今後もこの3軒を超える宿は見当たらないだろう。3軒ともベスト1なのだ。

料理も山の幸、川の幸が満載。俗に言う「ジビエ料理」なぞという言葉は無粋。五家荘の山里で食う、イノシシ料理、鹿料理はそんな得体の知れない和製英語料理ではない。「ジビエ料理」なぞ、街中の売れない料理屋が自治体からタダで宣伝してもらえるから、広告屋に調子に乗せられ、おだてられテキトーに料理を作っているだけなのだ。

11月も中ごろの日曜、久しぶりの紅葉の撮影がてら、数年ぶりに平家荘に立ち寄った。平家荘は五家荘の本道からそれた山道を超え、峠を降りた谷間にある。谷への道はなかなか緊張感を伴う道で、何時通っても恐怖感を伴う。こんな道案内はない(苦笑)ようやく降りると古民家風の建物があり、そこが平家荘だ。

敷地内には山女魚の養殖池がかさなり、山女魚の稚魚(マダラ)が飛び跳ねていた。敷地は広くすぐ横には清流が流れている。釣り解禁の春になると他県からも釣り客が投宿し賑わいを見せる。まさにプライベートリバー…部屋から数分で竿が振れる場所はそうそうない。

主のMさんは、プライベートリバーに架かる吊り橋、プライベートブリッジを自力で作った。このツタの絡まる橋は、地図にはなく、知る人ぞ知る橋なのだ。橋から眺める森の新緑や紅葉も美しい。いわば五家荘の自然を宿の敷地に凝縮したつくりにされているのだ。庭には四季を彩る、樹木や山野草も植えられ、夏の終わりには今は幻の花とも言われる、キレンゲショウマも黄色い可憐な花を咲かせている。

料理は自慢の山菜料理から猪鹿、山女魚料理(刺身に、黄金の卵)に手打ちそば。そんな盛りだくさんの料理を別室で囲炉裏を囲み炭火で堪能することになる。

朝食はテーブル席の落ち着いた部屋で外の景色を眺めながら。部屋の奥にはよく磨かれたガラス張りのケースがあって、そこには鎧とイノシシのはく製があった。もちろん鎧は平家荘の名のごとく、代々引き継がれた家宝なのだろうけど…さて大きなイノシシとは?

恐る恐る聞くと、そのイノシシは先代が可愛がっていた猪で、ウリ坊の時から育て、そのまま良くなついたとのこと。番犬ではなく番猪。(怒ると棘のような毛を逆立てるそうで、怖いものなし)名前は「アラ」。ところがある日、アラが少し体調を崩した時、診察してもらった獣医の誤診で亡くなったそうだ。その獣医曰く「イノシシを診るのは初めてですもんなぁー」と。

余りにも残念で、アラの事が忘れられず、はく製にして部屋に飾っていると言われた。先祖代々の鎧とともに飾られるアラの魂…そんなアラも熊本に新幹線が開通した時に、博多駅前での観光誘致イベントにも駆り出され、八代、五家荘の宣伝に一役買ったそうだ。

今はアラの代わりに、ラブラドール・リトリバーのマルが丸々と太り、来客があると嬉しくて尻尾を切れんばかりに振って歓迎してくれる。(性格が良すぎて、番犬にはなれない・・・)

さて、僕のこの雑言録をどれくらいの人が読んでくれているのか。余り更新もしないので微々たるアクセスしかないのだろう。つまり、いくら書いても平家荘の何の宣伝にもならない。ただ、他にも書ききれない話がまだあるのだ。葉木神楽の話、昔の山暮らしの話。

僕が言いたいのは、たった一泊しただけでも、これだけ話題のある宿はそうそうないということなのだ。山の料理を味わいながら、一緒にその場所ならではの話を味わうという、なんと贅沢なひと時なのだろう。プライベートリバー、ブリッジ、プライベートイン。

宿はもうすぐ休館期になる、12月中旬から翌年2月の雪解けまでお休み。この期間はチェーンを巻いた車でも危険で、以前、強行軍のお客の車を4駆のウィンチで引っ張り上げることもしばしばで、結果、休館に。その期間は誰もいない谷間の宿で、Mさんは山女魚の養殖の仕事に忙しい。

以前モニターツァーの参加者の一人が、「一番好きな季節はいつですか?」と聞いたら、

Mさん、「やはり谷の雪が解け、春になり、若芽が顔を出す春が一番ですなー」と答えた。

五家荘の秋の夕暮れは早い。夕方4時がタイムリミット。4時には出ないとあっという間に谷は暗くなり、道にも迷いやすくなる。無音の闇が谷を包む。

Mさん夫婦とマルとアラの魂。谷間にポツンと一軒の宿の温かい明かりが灯る。

2019.10.06

文化

9月は全く五家荘の山には行けなかった。このままでは10月の山行も怪しそうだ。何もひどく体調が悪いわけではないが、今年は3回も脳外科でCTを撮った。先生曰く、全然どうもなく大丈夫という事だが、山に行くなら11月の紅葉の時期まで、今から体調を整え万全を期すしかない。

というところで、家で大人しく座学というか、色々山の本を漁るのだけど、やはり泉村誌が一番面白い。

五家荘は歴史や伝承にも謎が多い地域で、例えば、有名な平家伝説だの、菅原伝説など、さんざん書き尽くされてきたテーマで、これは僕のような素人が、調べ出したらキリがない。歴史の霧の中で道に迷い、自分で仕掛けた罠に落ちる可能性もある。

それでも村誌を読んでいて深いというか、面白いというか、じっくり考えていたら時間が足りないのだ。そんな村誌の中に僕がこれまで全然知らなかった、隠れキリシタンの資料が紹介してあった。五家荘にも「隠れキリシタンが居たのではないか?」という記述がある。

出自は不明だが、当時の五家荘に潜む「隠れキリシタンの唱え」が紹介してある。

・その唱えの内容とは

『 デウス、バテレン、ひいりよすいりつサントを初め奉り、サンタマリア諸安所へ

後の罰を蒙りティウスのからさたえはてしやうすたすのことく頼母子を失い

後悔の一念もきさすして人々の嘲り終いに急死するときんの苦しみ悩みに苦しみをおもうこともあります。 』

 

・「デウス」はキリスト。

・「バテレン」は神父。

・「サント」は長崎のサント・ドミンゴ教会のことか?

・サンタマリア諸安所(キリストの母のいる安らぎの場所、天国の事か?)

・「ティウス」(ローマ教皇?)

・「頼母子」(頼もし講…地域の互助組織、お金を融通し合う仕組み)

 

唱えとはオラショのことだろう。日本のキリシタン用語で「祈り」の意味。ラテン語のオラシオ(祈祷文)の響きがこうなったそうだ。禁教令で神父が日本から追放されたので、正確に伝えられずに、隠れキリシタンの農民、漁民の信者だけで口伝され、方言、聞き間違いも重なり、時間の経過とともに独特の唱え(祈り)の言葉に変化したもの。長崎の生月島では今でも伝承されている。

深い海と深い山。天草と五家荘は昔からつながりがあったのだろう。村人は山の厳しい暮らしに耐えかね、時に集団で逃散し、山を降り、天草に向かうが、引き戻される。

五家荘は以前「天領」だった。「天領」つまり幕府の直轄地で、通常幕府が管理している豊かな土地が多いそうだが、五家荘は違った意味で天領になった。当時の庄屋の横暴な支配で度々、もめ事があり、「もう我慢できんたい」とみんな村を出て、連れ戻される事件が起こった。ようやく落ち着いたかと思うとまたもめ事。そんな繰り返しに手を焼き、五家荘は天領地になった。

当時の熊本は天草の乱の始末で荒れ果て、五家荘のような山奥まで統治する余裕もなかったようで、今度は天草の代官所が見張りながら、役人が海路、陸路を使い五家荘の管理に出向いたのだ。もちろん五家荘の現地調査と合わせて、隠れキリシタンが潜んでないか、絵踏みをしながら調査役は幕府にリポートするのだ。

その中でも有名なリポートが、約200年前、天草代官所の内藤子興(ないとうしこう)が著した「五箇荘紀行」で、内藤さんは絵描きも同行させ、カラーの挿絵、俳句、漢詩付きの言わば当時の総天然色五家荘ガイドブックを作った。一見、歌川広重の東海道五十三次風の絵のようだけど、版画ではなく筆で彩色してある。

リポートは山、山、山を越える苦労談と深山独自の村人の暮らしぶりや文化、地域の地図が緻密に記されている。以前、僕はその絵のコピーをイベントで見たことがあるが、今でもその絵の原寸大のコピーが欲しくて仕方ない。(誰かその内容を今風のタッチでよみがえらせてくれないだろうか、僕は間違いなく買います1冊 ) その中で今の久連子踊りの絵や、森に棲む、むささびの絵、久連子の庄屋の緒方信太の奥さんが捕まえた、猫くらいの大きさの熊の子にお乳をのませて育てている絵も面白い。

肝心の「絵踏み」は、次第に人の集まるイベントとなり、市がたち、いつのまにか村人のお祭りのようになり、盛り上がり過ぎて役人から叱られたそうだけど。(このあたりが山人のたくましいところ!)

当時からの繋がりか、(実際、天草に移住した村民も居た)今でも、山の水がダムに堰き止められ、天草に送水されている事は歴史の深い因果の結果なのだろうと泉村誌には締めくくられている。

ところで、泉村誌に記載されている、隠れキリシタン唱えの出所はどこなのだろう?何時頃、どこで発見されたのか?僕にとって、また大きな謎が一つ増えた。

天草の乱(1637~38年)のきっかけは悪代官の悪政。農民の能力(年貢)の倍のノルマをかけ続け、今で言えば、消費税200%以上。みんな食うや食わず。天候不順の年で、食べ物が収穫できない年でも相変わらず、役人は年貢を取り立てにくる。このまま家族みんなで餓死するくらいなら、異国からやってきた神父さんの言う事を聞き、みんな平等なんだと言う、キリストの教えを信じ、天国に行こうと思うのも無理はない。

五家荘も同じ。村人が山の厳しい暮らし、庄屋の横暴に困窮し、騒動、逃散を起こす、そんな中で、山の中にもキリシタンの教えがひっそり伝わったのだろうか。

柳田国男の遠野物語にも東北の隠れキリシタンの記述があり、幕末以前の隠れキリシタンについて「附村牛村誌」に次のように記されてある。

『(中略)昔遠い国からの落人と伝える人達の中にはキリスト教に対する迫害を逃れての落人ではなかったと思われるものがある。(武士の名前)彼ら兄弟は、甲斐の国からの落人と言われるが、大原町から逃れてきたキリスト教徒であったことは確実な様である。その他、村内では家によって、葬式の時の一杯ご飯に立てる箸を普通二本揃えて立てるのを1本は横にして1本は横にして十字の形にするところがある。これはその先祖のキリスト教の遺風を、それとは知らずに受けついでいるものであると云われる。』

時代は偉人がエラソーに作ったわけではない。彼らがエラソーに作ろうとするから、時代はいつも混乱し、貧しい民は苦労するばかり。

 

【五家荘の唱えの極私的超訳】

『 キリストさんの事を神父さんに教えてもらい長崎のサント・ドミンゴ教会を初めて知り、私はマリア様の居る安らぎの場所へ行きたいと思い、キリスト教を信じました。

それがばれて、後から罰を受け、身も心も疲れ果てました。頼母子講での生活費の工面も断られ、キリスト教を信じることを後悔もしました。

周りの人々からはあざけりを受け、死ぬほどの苦しみ悩みを感じ、それでも皆の罪を背負うキリストの心の苦しみを思うことがあります。(そんな時でも、キリスト様を信じ、思うことがあります。) 』

 

五家荘に残された唯一のオラショ。読めば読むほど悲しみが湧いてくる。

キリシタンには「水呑みの時の唱え」「山に入る時の唱え」「種まく時の唱え」「家のお祓いの唱え」「寝る時の唱え」があるらしい。いつも神と一緒なのだ。

 

以前、長崎に行き、黒崎地方の枯松神社に行ったことがある。枯松神社は、日本に三カ所しかないといわれるキリシタン神社で、静かな雑木林の中に小さな社があり、まわりはキリシタン墓地になっていた。

江戸時代、隠れキリシタンが密かに集まりオラショ(祈り)を捧げ、伝えてきた聖地で、祠の手前にある“祈りの岩”と名付けられた大きな岩があり、迫害時代に信者たちは、寒さに耐えながらこの岩影でオラショを唱えていたと伝えられていた。一枚の平たい岩の上で(その岩はおよそ20人近い人が乗れる広さだった。)彼らはその岩に乗って、老若男女、みんな暗い夜空に向かい、一緒に天国に行こうと一心に祈ったそうだ。

僕はその岩の事を思い出す。

畳の上で、五家荘の唱えをたどたどしくつぶやいてみる。

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