2021.09.21
山行
今年の夏はあっという間に消えてしまった。8月、お盆前後の長雨は激しく山を荒らし、登山どころではなくなった。五家荘の盟主、国見岳も登山口までの林道が崩落し、登るに登れなくなった。(最近の僕は山を登るのではなく、ただ歩くだけが多い)
それでも、8月の終わりに見ておきたい花が一株あった。それは白鳥山の某所で数年前に見た大きなギボウシの花で、苔むした大木の大きな枝のわきから、「すうぅーっ」と長く伸びた茎の先に白く開く大きな花びらと、長い雄しべの茎と、涙を落としそうな1本の長いめしべの姿だった。ギボウシは街中にも咲く花でたくさんの種類があるようだけど、五家荘のギボウシは違った。同じ花でも野生化するとこうも違うものかと、初めて見た時は驚いた。
今年の夏は陶芸家の平木師匠に焼いてもらった「森の雫」というオブジェを森の中で撮影し、極私的美術展を開催し、自己満足するという計画があったのだけど、すでにあきらめた。
暗い緑の世界の中で、雫型のオブジェがどんな景色を映すのか、真ん中の穴の奥には何が見えるのか。こればかりはやってみないと分からない。しかし、その雫を背負って谷を登るのは一人ではなかなか大変なので、お盆に里帰りする娘をだまくらかして撮影する予定だったが、その動きは娘に察知されコロナを言い訳に彼女は帰省しなかった。そんなバカの一行がうろうろされたら、森の生き物たちにとってはいい迷惑なんだろうけど。
何とか29日は、朝から晴れたので思い切って車を走らせた。時には、山犬切や、他の山にも行くと何か発見があるかもしれないと思いつつも、つい白鳥山に向かい、緑の谷を遡るのだ。大雨の後、谷の形相も変わり、お目当てのギボウシの姿はなかった。もう会えないかもしれない。キレンゲショウマの花もすでに散った後だった。
その日の目的はそれだけで、特に山頂を目指すわけでなく、コンビニの弁当を開き、岩の上に腰かけ、森の空気を吸った。
街中では、息を吸うこと自体が、コロナと言う「毒を吸い、毒を吐く」行為となるのだろうが、森の中は違う。自分にまとわりついた毒を森の空気で浄化するような気分になる。
弁当を食べ終わり、木の上に座り、背筋を伸ばし、瞑想する。
森の空気を吸い、体を通し、また吐く。鳥の声がする。小川の流れる音がする。頭の上を気流が流れる。けものの気配を感じるが、誰もいない。鹿の警告音が時に響く。
森はいい、自然はいい…と思うが、都合のいい時だけのこのこやってきて、自然が良いと思うなかれ。大雨も自然、大風も自然、夜の深い闇も自然だ。自然は怖い。得体が知れない。夜も眠れない。風がうるさい。誰も居ない。いつ夜が明ける?誰かがやってくる。せっかく瞑想しながら、最後はそんな興ざめな事を考え始める。自然を全部、受け止めようとすると、畏れしか残らない。瞑想だの何の、どこかで聞いたようなことするから、気持ちが悪いのだ。
えーぃ、土の上に寝っ転がってみる。自分の勝手だ。
背中がぬくい。それだけでいいではないか。
そう思って、また寝返りをうつ。