熊本県 八代市 泉町(旧泉村) 五家荘
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雑文録

2019.02.03

文化

暖冬と言えども、まだまだ五家荘は冬ごもりの季節。自分は運転・登山禁止の身で、山の先輩OさんやMさんのフェイスブックでの情報、画像で、五家荘の冬山を想像するしかない。

時間が薬とも言われるけど、暇で仕方がない時がある。1月半ばに何とか待望の八代市図書館から「泉村誌」を借りることができた。通常は持ち出し禁止の大型本なのに、ネットで検索するに、運よく貸出可能になっていた。おそらく入力ミスのせいだろう。しかし、喜びもつかの間、八代エリアに住んでいる人以外には貸し出せないとのこと、それをなんとか、僕の地元の三角町の図書館から貸し出し依頼をかけてもらった。

僕の自宅から図書館までのバスは悲しいかな1時間に1本。帰りは更に待ち時間が1時間もあり、泉村誌をリュックに背負い、三角港に浮かぶ貨物船を見て時間をつぶした。
紺色のニット帽を被り、無精ひげを生やし、杖を突いてほくそ笑む中年男はかなり怪しい。

泉村誌は僕にとって宝のような本だ、この1冊に五家荘の自然、歴史、文化の情報がびっしり詰まっている。こんな村誌はそうあるものではない。そもそも泉村という存在が魅力にあふれた博物館なのだ。

 

前回の雑文録で紹介した、久連子兵士の像の由来もすぐに分かった。像ではなく、墓と言うことも。これらの像は昭和12年、日中戦争で戦死された兵隊さんの墓で、久連子村の陸軍歩兵上等兵仲川武一、上田音次郎、川野菊己、陸軍歩兵軍曹中村源三郎、4氏の戦地での活躍を称え、記念するものなのだ。除幕式の参加者、村民約200名。

像はセメントで作られ、当時は鮮やかに彩色されていた。軍帽のふちは紅く、眉と瞳は黒く、唇は赤く、銃を執り背嚢(はいのう)を担いでいる。制作者は石工の梅田重作氏で、栗木村で製造され、久連子村民の手で難所の笹越峠を担いで運ばれてきたと記述がある。しかしその後、戦が長引くに連れ、村民の戦死者も急増すると合同町村葬が増え、新聞の「本日の町村葬」の記事も簡単になっていった。その慣行は太平洋戦争が終わるまで続いた。

像の建立は、地域住民の結びつきが強い五家荘ならではのものだろう。像を抱えて笹越え峠を越えた若者たちの思いはどんなものか。ついこの前まで、森の中でともに遊び、川で泳ぎ山女魚を釣った仲間達が、遠い戦地で亡くなるなんて。峠越えの急な坂道、額の汗をぬぐいながら、ぼたぼた涙もこぼれたろう。「みんなおかえり、よう帰ってきたな」「もうすぐ着くけんね」と。

僕の亡父は昭和2年生まれで、10代で戦争に行った。祖母は「なんでこんな子供が戦争にいかなんと」と嘆いたそうだ。父は三角線に乗って鹿児島に向かう。前夜の壮行会はそれなりに派手だったのだろうが、戦争末期の招集令状は、要するに死んで国土を守れとの指令なのだ。祖母は父におにぎりを持たせ、満員の列車に乗り込み、人にもまれた父が鹿児島駅に着いた時は、母の握ったお握りは半分腐りかけて、白い糸を引いていたが、父は頑張ってそれをほおばったそうだ。

それから父は沖縄に渡り、敗戦を迎える。ブルドーザーで沖縄の人々、日本兵の死骸を押しのけて整地する米軍の手伝いをして、骸骨のように瘦せ細って三角線で帰郷した。

今の沖縄の普天間基地は基地の仕事にありつこうと、沖縄の人が勝手に集まってきたという、デマを吹聴する者がいるが、もともと沖縄の人々の土地家屋を米軍が略奪、破壊して整地した基地なのだ。

戦争は誰しも嫌なものだけど久連子の兵士像のように、全国各地で個人の死を祀れば、日本中、ものすごい数の兵士像が建立されたに違いない。兵隊さんの死は、新聞のお悔み欄の1行で終わるものではない。

久連子古代踊りのルーツは念仏踊りとも言われ、主にお盆の出し物として舞われ、新盆に帰ってくる人の家の庭でも舞われていたそうだ。ドンドン、ドンドンという乾いた太鼓の響きが青い空に吸い込まれ、チーン、チーンとなり続ける鉦の音に慰められながら、久連子兵士の像も雪をかぶり、苔むし、朽ち果て、時の流れにほろほろ、ほどかれていくようだ。もう背負った重い背嚢は降ろしてくださいな。

2月の中旬は久連子では福寿草祭りが開かれ、福寿草を見に行く多くの登山客で賑わう。
福寿草の開花も久連子の里まで降りてきて、兵隊さんの足元にも春がやってくる。

残念ながら、泉村誌にも久連子岳へ向かう中腹に置かれた子供を抱いたお地蔵さんの由来(明治20年久連子村建立)は書かれていなかった。

 

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2018.12.31

文化

今年も残り1日。思い返すにこの一年は大変な年だった。何しろ死にかけたのである。1月の末、突然クモ膜下出血を発症、開頭手術を受けたのだ。およそ3割の人が亡くなるという問答無用の恐ろしいクモ膜下出血は、交通事故や自死にも近い。過去を懐かしむこともなく、机の引き出しの中を整理する余裕もなく、周りの人々に挨拶もできずに、突然、自分の生が死に変わる。

ベットの上で、看護婦さんが、毎夜徘徊してくるおじいさんに、「この部屋に入ったらダメよ、この部屋は死にかけてる人が寝とらす部屋だけんね」と諭す言葉を、何度も聞いた。(あのおじいさんも突然消えたが)

数週間後、その部屋から脱出し、一般の病室に移動した時はさすがにホッとしたものだ。退院後、幸運にも後遺症も、麻痺もほとんど残らず、5月には五家荘の登山を再開、白鳥山のシャクヤクの開花も見ることができ、それから夏のキレンゲショウマ、秋の仰帽子山…元気なうちに五家荘図鑑のサイトの内容を写真集にまとめてみようかかと思った矢先、クモ膜下出血の神経の傷がもとで症候性のてんかんの大発作を起こし、気を失い、再度救急車に。(これも運転中ではなく、Tさんの事務所で発作して運が良かった)

いよいよ、2年間の車の運転禁止の指令がおり、僕の週の半分は自宅軟禁の身となった。

さて、五家荘に行けない時間をどう過ごすか。

(写真集もみんなの協力で何とか出すことができた。)いろいろ思いを馳せるに、いまさら五家荘の文化、歴史について自分が無知なことに気が付いた。以前、久連子のお地蔵さんについて、何か資料が残されていないかと、泉村村史を探してみたことがあったが、成果はなかった。先週の日曜、思いついて八代図書館に出かけ(平成17年発行)新しい泉村誌を見つけることができた。ページをめくるにこの本は僕にとって宝のような本だ。車の運転許可が出るまでの期間、僕の頭の中のぬか床としての役割を果たしてくれたらいいなと思う。(脳の味噌漬け、どんな味になるか)※村誌は購入出来ず、借りるしかない。

※写真は数年前、久連子訪問時に、気が付いて撮影したもの。泉村誌によれば「久連子兵士の像」とある。

今年は或る意味、僕にとって当たり年。宝くじも当たる可能性あるかと密かに期待する。10日ほど前に、事務所のI君に無理なお願いをして、熊本市内の健軍神社でおみくじをひいてもらう。(I君はたまたま健軍神社に行く用事があり、僕のおみくじの為だけに行ったわけではない。)しかも彼は神道の家系なるも徹底した無神論者。

机の上に置かれたおみくじの中身を見て更に、驚き。このおみくじは数年前に引いたものと全く同じものだった。I君はふんと鼻で笑う。

その内容は「艱難苦労のある時ばかり神の御袖にすがる気か ふだんは一向に振り向きもしないで人の力の及ばぬ苦しみに行き交わすと、俄かに神様神様とさわぎたてる…」

中吉なのに大凶のような内容ではないか。

「しんどい時ばかり、神様のそでにすがるくせにさ。普段は全然振り向きもせず、やばい時ばかり神様神様と騒ぎたてる、まず、そんな自分の心を改めなさいよ、神様もあまりにも君のバカさにあきれて可哀そうだと助けてくださいますが、もう調子にのったらダメなんだからね!今度、勝手なことしたら、マジ死ぬよ」

2019年は大人しく、まじめに勉強します。もう少しお時間ください、神様。

2018.08.22

文化

先週はリハビリ、撮影も兼ねて、烏帽子岳のへ道を歩いた。烏帽子岳の標高は1692メートル。峰越より約3時間、延々と尾根道を歩くのが一般的なルートとなる。急な坂もないが体力勝負の山なのだ。(僕は草食恐竜の長い背を歩く気分となる)高度のある稜線ルートで、天候も急変しやすく、陽の当たる快適な登山道が、一瞬にして白い霧の中、谷から冷たい雨風が吹き上り、体も冷えこみ、逃げ道もなくなる時がある。山頂付近は春先のシャクナゲの群落が有名だけど、残念ながら僕はその開花には出くわしたことはない。カメラの三脚がシャクナゲの枝にひっかかってひっくり返りそうになった記憶しかない。

今回は峰越から約20分、ぼんさん峠の往復までにした。ぼんさん峠(越)その名の通り、五家荘の地区にお坊さんが居ない時期、どこかの家に不幸があるとその峠を越えて家の者か、村の若者が椎葉村のお寺まで、お坊さんを迎えに行き、代わりに荷物を背負い、越える難儀な峠の名称なのだ。里からいきなり高度1500メートルの峠を越えるのは、相当きついことに違いない。樅木神楽の由来も、椎葉村の神楽の流れをくむとのこと。峠を境にいろいろな文化の交流があったのだろう。昨年僕が見学した樅木神楽にも椎葉の神楽の人が来賓(?)で楽しそうに神楽を奉納されていた。

宮崎県椎葉村は日本民俗学の大家、柳田国男氏が明治に訪問した村で、柳田国男は秘境に伝わる山の神の信仰、伝承されてきた文化に感動し、聞き書きして「後狩詞記(のちのかりことばのき)」を著した。それは日本民俗学の誕生とも言える名著とのこと。僕の恩師(いつも激怒、ののしられている・・・最近、怖くて訪問できず)永田先生が刊行された「五家荘 森の文化」も、後狩詞記を底本にされたようで、中身の濃い、時間と手間暇かけた、力作なのだ。しかし、残念なことに、「五家荘 森の文化」は平成23年に刊行された比較的新しい本なのだが、今の五家荘で、すでに失われ、見ることの出来なくなった文化の記述がある。又、先生の友人の江口司氏(故人)は、柳田国男が当時宮崎、熊本を訪問した足取りを追体験された「柳田国男を歩く」というタイトルの本を発刊された。まさに柳田の背中にぴったりと張り付いたように、後を追いかけながらも、柳田が残したわずかな軌跡まで綿密に調べられ実証された熱意はすごいものがある。江口氏は大学の民俗学の教授でも公務員でもなく、市井の人(看板屋)で、もともと釣りが好きで五家荘の渓流に入り込み、30を過ぎて民俗学に取りつかれ、亡くなるまでフィールドワークをされていた人だ。もし氏が存命ならば、永田先生と並んで僕はそのいい加減さを徹底的に追及されたに違いない。五家荘は自然はもちろん、知れば知るほど文化、民族の分野でも奥が深いものがある。

今回、何故僕が「ぼんさん峠」まで歩こうとしたか。「後狩詞記」を読み、「柳田国男を歩く」を読んだ以上、どうしても僕は行かざるを得ない気持ちになった。そして、その日のぼんさん峠から里に続く山道はしっかりと踏み分けられていた。

※僕が健康体であるならば、ぜひ一度、真冬に夜通し演じられる椎葉村の神楽を見に行きたいと思う。また、柳田国男の山島民潭集にある全国の河童の伝説や、だいだらぼっちの軌跡をたどりたいものだ。

地域おこし、世界遺産もひと時の賑わいで、そりゃあみんな楽しかろうが、あまり地域の文化伝承をショーアップしてはいけない。一時期、県内で●●館などの建設ラッシュがあったが、今は、どうなのか。イベントを見慣れた観光客やマスコミは、さらに刺激的な見世物を探してひと時のネタを探すのに忙しい。要するに見飽きたイベントはもう見に行かないのだ。人の来なくなった●●館は、今では維持運営費を稼ぐのに必死なのだ。

今回の山行で、僕は山の神様からささやかなご褒美をもらった。烏帽子ではなく、ある山域を一人さまよっていると、苔むした倒木の上、隠れるように、緑色の線の入ったスカートをはき、首をうなだれ、うつむき何か泣いているような面長の超美人と出会うことができた。その花の名は、「ギボウシ」…か弱さ、美しさには似ても似つかぬ名前である。

ネットで検索するに、園芸店でポットに入って通販されている「ギボウシ」さんと似ても似つかぬ別人、美人だ。園芸店の彼女達はまさに、コピー商品。なんの感動も起こらない。

深い森の中で風に揺れて涙を流すギボウシさんだからこそ、美しく、泣いている理由は分からぬが、背中をそっと抱いて慰めたくなる。

だからさ、●●館というポットで栽培され、演じられ販売されるコピー文化商品を僕は見に行かない、行っても何の感動もないからね。地域おこしとやらに、お付き合いで相槌を打ち、感動した振りするのも疲れるだけ・・・嗚呼、僕もぼんさん峠を降りて、椎葉村の神楽が見たいものだ!

2018.05.13

文化

クモ膜下出血を起こし、退院して1か月半が経った。同病の輩、さてどうなのかと本を買ってみたり、検索してみても、病気の解説はあったとしても、手術後の情報はほとんどない。大病をして自分はあとどのくらい生きれるか?余命率もほとんど書かれていないのが、クモ膜下出血という病気なのだ。大まかにいえば発症後、半分の人が亡くなり、残りの半分の人がマヒなどの重い障害が残り、生活するのに苦労されているようだ。リハビリの方法の本は結構あったのだけど、余命率がどうの、ぽっくり行くときは行くのが病気の特性なのだろう。僕が病院に行くのはあと一年後、手術をしてくれた先生に会いに行き、頭のCTを撮ることになる。(造影剤CTは同意書が必要なくらい結構きつい検査なのだが)それまでは血圧の薬やらなんやら飲むだけである。頭痛の鎮痛剤などはくれないものだ。

こんな能天気な僕にもマヒはある。両足のふとももの表面がしびれるのだ。常時サロンパスを張っては剝がされるチクチクした痛みが一日中ある。頭痛は何パターンかある。生肉を誰かが額の上にペタペタ叩きつけて、その肉はどうやら生姜焼き用の肉のようで、ペタペタ置かれるたびにジンジンと痛みがくるのだ。他に頭蓋の中に長いゴムをビンビンに張られて、誰かがそのゴムを指先でビンビン弾きやがる痛みがある。この痛みは結構頭の中に響くので、きつい。最後は空洞になった頭の中で、上から小さな針を落とす奴がいること。面白半分に、キマグレにチクチク落とす奴が居る。僕の虚空の頭の中を落下し、積み重なる銀色の針の山。以上の頭痛の症状を先生に訴えたって、聞いてくれるわけはない。開頭しているのだから仕方ないのだろう。(もちろん今でも、おでこに手を当てると、そのかすかに膨らんだタンコブからは激痛がはしる)そんな僕の変な症状を見て、痛み止めではなく先生はパキシルを処方してくれたのだけど。(冗談)

仕事にも週に4日復活。車も買い替える。これまで1年4万キロ合計17万キロ走破したシラトリ(白鳥)号から、スズキのイグニスにする。安全走行装置付きだ。車線からはみでるとピッピッと警告音がなる。(僕の場合、なり続ける)前の車に当たりそうになると自動ブレーキがかかる。(これまで数回)最初ジムニーを買いかけたが、さすがにそこまで馬鹿ではないと心にブレーキをかけ、イグニスにした。その時期は、僕の意識も高揚してカメラのレンズ2本、カメラバックもこっそり買ってしまう。頭を保護するには帽子も必要と、ニット帽やら、ハンティングや、帽子も3個買う。(頭のサイズが大きすぎてはいらない!)

で、そんなこんなで5月4日に五家荘の山に出かけた。パンパンのカメラバックを見て、家人も、京都から帰省した娘も呆然、激怒、やむをえす、監視介護の為、山行に同行することになった。3人を乗せたイグニス号はゴロゴロと喘ぎながら峠道を登り続ける。どんどんと高度が上がり、峰越に着く。山行と言っても、峠から約1時間30分、なだらかな尾根道を歩くルートで急な坂もない。ただし標高が1600メートルを超え、風が強く冷え込んだ。木の根には残雪がある。うつそうとした天然林の林を3人はとつとつと歩く。風にあおられながら白鳥山の山頂に着く。すれ違う登山者から花はどこですか?と聞かれる。確かに、これまで歩いてきたルートには花の姿は見えない。ドリーネ(大きな石灰岩)の真裏ですと答える。シャクヤクの群生地は、いきなり出現するのだ。道を迷うようにドリーネに向かうと突然、現れる幻想的な光景。1ヶ月前、ベットに横たわっていた時から頭の中で想像していた景色が確かにあった。

透き通る景色の中で、静かに花びらを開いてくれた、やさしい白衣の天使たち。そして僕は、まだまだ、会いたい花たちがいることに気がついたのだった。

 

 

2017.10.29

文化

台風接近により、あいにくの雨。熊本市内から車で約2時間半、旅館樅木山荘に投宿、夕食を食べ、午後7時前に樅木天満宮に向かう。

五家荘の夜は闇だ。街灯もなく足元さえまったく見えない。懐中電灯の明かりを頼りに坂道を登る。雨がボタボタ降ってくる。足元の小道はぬかるみ、歩きにくい。暗がりの中、木の鳥居が見えてくる。ゴーッという音が響いてくる。少し行くとようやく灯りがともる場所に出る。車がびっしり停めてある。さっきの音の響きは、駐車場を照らす発電機の音だった。車の間を通り抜けると、遠くに樅木天満宮の社殿が見えてくる。暗い木立の中、社殿の明かりを頼りに足を進めると、あたりは明々としたライトの光が強くなり、僕は闇の世界から解放された。

天満宮の建物は予想に反し、古い木造の朽ち果てかけた建物で、まさかこんな場所で神楽があるとは思っていなかった。歴史のある樅木神楽だが、最近の地域おこしの予算とやらで、社殿くらい今風にリフォームされているのではないかと僕は勝手に想像していたのだ。まさに苔むした昭和のままの雰囲気だ。

中をのぞくと更に驚く。こんな天気にかかわらず、畳の上はすでに地元の観客でびっしりと埋め尽くされていた。その数100人近く。さっきの闇と静寂とは全然違う世界がそこにあった。今か今かと神楽の始まりを待ち受ける老人たち。出番を前に緊張した面持ちの子供たち。忙しく動き回る、神楽の実行委員の人々。玄関で傘をたたみ、一人一人中に入り顔を見せる度に、あちこちから驚きと喜びの声がかかる。年に一度の天満宮の大祭。祭りは山の人々の再開の場でもあるのだ。昔話に花が咲く。山の奥で、ぽつんと一つ灯る明かり。集落の人たちの心の中に、年に一度、神様が舞い降りるのだ。傘に隠れて、すでにこの世にいなくなった人たちもやってきて、観客に交じって歓声を上げている気配さえ感じる。

 

 

この場にとって、僕はカメラを肩にかけた異物だ。ブログで紹介するのが主な目的だが、事前に実行委員会に断りを入れた。

「昔、新聞記者がやって来て写真ば撮る時に、神楽の邪魔ばして揉めたもんな」

「邪魔にならんごつ、撮るならそれでよか」

祭りをマスコミで紹介しようと思えば、どんどん前に出しゃばり撮るしかない。場所が狭い、観客は多い、シャッターを切るには明かりが暗すぎる。新聞社のカメラマンにすれば報道してあげるのだから、自分の思うままにさせて欲しいと思ったのかもしれない。しかし、樅木神楽の大祭はそんじょそこらの、客に媚びたイベントやフェスティバルではないのだ。あくまでも集落に伝わる、神聖な祭りなのだ。異物は異物らしく邪魔にならぬよう振舞うべきなのだと僕は思う。

神事が終わり、いよいよ神楽が始まる。下手に太鼓があり、音はそれのみ。

 

 

「タンタカタカタン、ダンダカダカダン。」独自のリズムが奏でられるが、いろいろな音の表情がある。そして、リズムに合わせて詠うような祝詞、神楽の舞い手の鈴の音が「シャンシャン」と鳴り響き、白地に家紋が染め抜かれた衣装をまとった4人の体がくるり、くるりと、舞い始める。

時々、「さぁー」と合いの手が入る。4人の体は、繰り返し繰り返し…体を交差し、すれ違い、出会い、回転する。白い衣が翻り、鈴の音が響き、大祭の御夜が始まったのだ。

老人の神楽を見る懐かしいような、嬉しいような表情。御馳走をほおばり、酒を酌み交わし、鈴の音に負けないように笑い声が響く。

 

 

「タンタカタカタン、ダンダカダカダン。」「さぁー」

「タンタカタカタン、ダンダカダン。」「さぁー」

舞台奥には四角に区切られた、スペースがあり、その狭いスペースで神楽は舞われる。そのスペースの真上には、同じく四角い枠が設けられ、いくつもの御幣が飾られてある。この中が、神の領域なのだ。

同じリズム、同じ動きのようでも、見ていてまったく飽きない。

「タンタカタカタン、ダンダカダカダン。ドンドン」

次の舞は、太鼓と謡いから始まった。

雨が強まる。社殿のまわりの闇が更に深くなる。

子供の神楽も奉納される。地元の泉第八小学校の子供は総勢8名。ここでは小学校に入った時から神楽の修業が始まり、舞台ですぐに舞う。子供たちは小学校を卒業すると家を出て、中学校の寮に入る。そこで一旦、神楽の修業も途絶えるが、大祭になるとまた帰ってきて、飛び入りで神楽を舞う。体が覚えているのだろう。学業を終え、地元で仕事に就けばまた、舞い手の一人となるのだろう。何時まで舞うのかと聞けば、足が上がらなくなるまでとのこと。つまり6歳から50歳過ぎまで、長い人で約40年以上舞い続け、こうして江戸時代後半より伝承された樅木神楽は現代まで生き続けてきたのだ。

 

 

神楽はどんどん佳境に入っていく。鬼の面を被った神が、地上に舞い降り、いい娘はいないかと探し始める。時に棒の先であたりをつつき、額に手を当て遠くをながめながら、観客の中をかきわけて相手を探して歩く。そこで現れたのが角隠しで顔を隠した、和服姿の女性で、二人は手にとり舞台に戻り神楽を舞う。あちこちで笑いが起き、私を連れて行ってと、観客の中で自分をアピールする女性もいて大いに盛り上がった。

御夜が終わったのは、日付が変わった午前12時半。

雨の降り続く中、闇に溶けるようにして、宿に帰る。

翌日もあいにくの雨。杉木立の間を、大きな滴が降り続ける。朝、9時から神事があり、神楽の始まりだ。観客は出だしこそ少ないが、次第に増え続ける。おばあさんが傘を差し、参道のぬかるみの中、重箱を下げてやってくる、一人、また一人。昼前に食事の時間があり、祭りで用意された猪汁と合わせて、おばあさんたちが持ってきた御馳走もふるまわれる。神楽の舞い手が一升瓶を手に、酒をついで回る。子供たちが母親の料理に舌鼓をうつ。

 

 

本祭は日曜で、久しぶりに帰郷した人々も加わり大きな同窓会のようでもある。また、神楽が再開されると、客席の老婆が一緒に、祝詞を謡いあげ、さらに賑やかに祭りは進行する。祭りの終わりの予定は午後3時。

終わりまで居ようかと悩むが、用事もあり、残念だが途中で帰ることに。後日、山女魚荘の若女将にお礼の電話をすると、

「あれからが盛り上がったとよ。踊り手も最後だけん、より真剣になって、神楽も最高によかったぁ」と言われてしまった。

 

たった一夜の祭り。深い森の奥に一点、明かりが灯り、また消える。そしてまた一年が経ち、村にはいろんな出来事があり、明かりが灯る。異物の僕がその一瞬の明かりを見ることが出来たのは何と幸運だったか。

 

 

(そして何と残念なことよ、悔しいことよ。どんなことがあろうが、僕は最後まで居るべきだった。)

 

2017.10.15

文化

10年ぶりに高校の恩師N先生と話をする機会があった。先生は五家荘の自然はもちろん、民俗学や文化などを長年研究してきた人物で、これまでにたくさんの書物も出されている。ちょっと個性の強い(要するに近寄りがたいオーラに包まれている…)人柄で、話をするにも少し勇気がいる。師の持論は東京のモノサシで地方を見たらいかんというもので、そのモノサシのおかげで地方の文化は得体のしれないものに変容し、堕落し情けないと今でも気炎を吐かれている(70歳過ぎても昔のまま)。

例えば神楽だ。以前、NHK出身の鈴木健二なる者が、熊本の県立劇場の館長になり、阿蘇の神楽を劇場で演じさせ、その模様を世界中に配信したことがある。後継者不足で寂れかけた神楽が、ステージ上できらびやかに演出され、大好評を博した。(と、世間一般ではそう思われているのだけど)N先生は違う。「あれがきっかけで、阿蘇の神楽はメチャクチャになったとたい」と言う。そもそも神楽というものは、年に一度、山奥の集落に神様が降り立ち舞いまくるわけで、見る方はその激しい動きに蹴飛ばされるほどの距離で舞を見るわけである。舞い降りた神は時に卑猥な言葉を吐き、聖と俗がからまりながら、神も民も山の閉塞された日常からひと時解放される大事な催しなのだ。

先生は言う「そもそも、やーらしい言葉をステージでマイクを通して吐けるわけがなか」東京のモノサシで地方に何か面白いものないかと探され発見され、これぞ地方の伝承文化とスポットライトを浴びたとたん、その地域独特の泥にまみれた文化はシャワーで汚れを洗い落とされ、人畜無害の単なる神楽ショーとなり、これまで綿々と引き継がれてきた土俗の文化は、途絶えるわけだ。

先生はこうも言う。「田舎の文化は、寂れるものは寂れるとだけん、それでよか。無理して嘘までついて延命させんでよか。それが自然たい」確かに阿蘇の神楽は、それ以降、神楽館だのいろいろ施設は出来たけど、僕のイメージにあるのは神楽祭りとかフェスティバルとかのイベントばかりで、神楽なんて観光のついでに昼間に気軽に見るもので、現地での本物の神楽なんてわざわざ見たいとも思わなくなった。寂れて消えるのではなく、魂を抜かれて消費され続ける神楽とはどんなものか。

(今回の訪問は五家荘の森の文化について聞きに来たのだけど、すでに2時間近く経過…奥さんが昼食のスパゲティを作って来られて恐縮する)

今で言えば東京のモノサシは、全国各地に存在するゆるキャラであり、B級グルメであり、世界遺産でもある。地方創生とやらも国からの補助金で、東京からばらまかれたお金で、自発的にしかも自前で地方創生の活動を行っているグループなんてほとんど聞いたことはない。

話は変わるが、僕の家は宇城市で世界産業遺産の港の一角にある。毎年10月に地元の霧島権現宮という小さなお宮の祭りがあるのだけど、今や実行委員は10名にも満たず、今年で子供神輿もなくなった。港は今年開港130年ということで、このお祭りももしかしたら100年くらいの歴史があるのかもしれないが、風前の灯だ。多分僕の世代で幕を閉じるのだろう。鳥居を飾り、祭りの幟を立てる。しみじみと酒を飲み、しみじみとくじ引きをし、ビンゴゲームをして昼には解散した。我が集落の祭りもほとんど終わったのだ。

その祭りの1週間前、宇城市は港でJAZZコンサートを開催し公園を派手にライトアップした。(そんなイベント、世界産業遺産とは無縁だよな)その落差には苦笑いするしかないが、こんな田舎でも東京のモノサシでイベントが行われ、後には何も残らないのだ。

(昼食を食べ終えいよいよ本題)

つまり、先生に聞きたかったのは、五家荘の神楽の事だったのだけど、(僕は五家荘の山や花々も好きだが、文化にもとても関心があるのだ。)去年、ある講演会で鹿児島の大学の教授が五家荘の神楽はどことの接点もなく、これまで独自に伝承されてきたものだと僕は聞いたのだが、先生にそのことを尋ねると、「そんなことはなか、五家の神楽は、宮崎の神楽の流れをくむものたい。五家荘の文化は宮崎と接点があってな…」先生の話は奥が深い、五家荘の森のように。「そもそも五家荘の起源は、奈良時代前後から始まり、寺社を建立するために大陸から連れてこられたキジ師の全国の流浪の旅からはじまるとたい…」先生の話はいよいよ大縦走路のように果てしなくなって来た、もう聞く体力が続かない。

それから更に1時間、話は続いたのだけど時間切れ、また再会を約束して先生の家を出る。

来る10月21日、22日は五家荘で樅木神楽を見学することにした。今から本当に楽しみだ。

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