
2025.03.17
山行
今年初めての山行(五家荘)は3月2日、小雨の降る日だった。僕の山の守り神氏(本人にとっては迷惑だろうが…)から、福寿草の開花の情報が届いたのだ。九州の山地では福寿草の群生は珍しく、時期になると登山客で現地は賑わう。
八代市泉町・九連子(くれこ)は歴史のある集落だった。こんな山奥の谷間の地に全盛期は人口が増え、結果、土地を求め、兄妹家族は分家され山の向こうの球磨地域に移住して行った。村にある正覚寺(今は廃寺)の過去帳には、九連子の人々の詳しいルーツが記されてあったそうで、地域の民俗を研究していた僕の出身高校のN先生が過去帳の開示を求めたが断られたと残念がっていた。
僕が初めて白崩平で福寿草を見たのは2016年、そしてその帰りに雪道をさかのぼり岩宇土山に登り、帰路の途中に有名な子供を抱いたお地蔵さんを見た。このお地蔵さんは知る人ぞ知るお地蔵さんで、出会うためには相当な体力が必要な難所にある。僕はそのお地蔵さんの体に刻まれた、明治30年2月16日・久連子村の文字を読んだ。何故こんな急峻な山の中腹に子供を抱いた姿のお地蔵さんが祀られているだろうか。想像するに、正覚寺の過去帳を紐解けば多少の謎は解けたのだろう…と、つい学者気取りで思索にふけるのだけど。更に言えば久連子のお地蔵さんの表情は一般にみられるお地蔵様の顔でなく、素朴な人そのものの表情でもある。
しかし、その謎が解けたところで何になる。福寿草が咲く季節にお地蔵さんに出会い、当時への思いをはせ、手を合わせた僕だけの記憶。僕の記憶の中では福寿草とお地蔵さんは共にある。それだけでよいではないか。
雨の為、駐車場にも誰も居ない。朽ち果てた鳥居をくぐり、久連子神社の前に出る。古びた社殿の入口には結界が縄で編んであり、真新しい御幣が下がっている。山人の山の神様に対しての信仰心は厚い。明治時代になるまでは全国のお寺や神社は神仏混淆(習合)で同じ場所に同居しているのが一般的だった。明治政府の暴挙で強制的に神と仏は分離された。久連子踊りも念仏踊りの流れを汲むと言われ、この地に流れ着いた修験の影響を残しているのだろう。西の岩の尺間神社も修験道の流れを汲んでいる。ただ集落の奥に日露戦争で戦死された兵隊さんの像も祀られてあり、当時は仏様よりも「軍神様」の力が強かったのだろうとも思う。
今や集落自体が時の流れに朽ち果て、人の気配も少ない。以前、夏に久連子川でヤマメを釣り、上流へ釣上がっていると、川沿いの古民家の下では岩のくぼみにスイカやジュースが冷やしてあったが、その民家も雨戸が閉められ、誰も居ない。
最近、地方再生だの創生だの言い出す輩が増えて来たけど、お金が無くなるとみんなそうして騒ぎ出す。地方創生と言うのはどういう事か、僕は具体的に問いたいが、誰も答えることは出来ない。誰も答えられない事に、毎度毎度、お金をばらまくのはどういうことか。
小雨に洗われ、金色に輝く、透き通るうろこのような花弁。雨が降ろうが、晴れようが、誰かやってこようが、こまいが、谷間に身を寄せ、家族のように集まり、金色の花を咲かせる花たちよ。
お盆や仏事の時に死者の魂を鎮める為に踊られる、久連子(念仏)踊り。最近、なかなか見る機会が少なくなった。キーン、キーン、カーン、カーン、踊りの合間に強くたたかれる金色の鉦の音色は、福寿草の黄金の色と同じなのだ。
80歳「忘れちゃうけど毎日新鮮」