2020.11.13
文化
夏に山の大先輩O氏から、「脊梁小学校」の緑のTシャツをいただいた。O氏のこころ遣いには感謝しかない。小学校を休みがちな自分だが、せめて写真部員の役割だけは果たさなければならない。
今年の五家荘の紅葉は例年になく鮮やかだった。蛇行しながら進む崖沿いの細道の正面、突然、真っ赤に染められ立っている一本の樹に出会い、はっと驚く。例えは悪いが、緑の中に真っ赤な鮮血がほとばしるような光景があるのだ。赤でなければ、次は黄色、いっせいに尖った手のひらを開いている。晴天、青いスクリーンを張ったような空に、樹々の葉色は染みるように浮き上がる。
家人の運転する車で緒方家に向かう。緒方家は平家の落人伝説が残されている築300年の合掌作りの古民家。2階に隠し部屋などもあり観光スポットになっている。門をくぐり、庭に入ると驚くことに庭にはびっしり形のそろった黄色い葉が敷き詰められていた。まるで誰かが丁寧に葉をいちまい、いちまい並べてくれたように。運よく誰も居ないので部屋の中からも庭の写真を撮らせてもらう。
陰翳礼讃。これは僕の偏愛する作家、谷崎潤一郎の有名な随筆の作品名だ。昭和8年に書かれたもので谷崎は日本古来の翳と闇の世界を好み、その随筆の中で日本人独特の暮らしや感性をなつかしみ、その深い味わい方を記した。何回読んでも深く濃い。今回の雑文録は谷崎をまねた随筆調の下手な文章になってしまった。(苦笑)
随筆の中の有名な厠の話はさておき、建築についても谷崎は持論を述べている。
西洋の寺院のゴシック建築は、屋根を高く尖らしてその先が天をも刺すところに美しさを感じるのに比べ、日本の建物は建物の上に大きな屋根を伏せ、その庇が作り出す広い陰の中へ、全体の構造を取り組む構造になっている。
寺院にしても、庶民の住宅にしても、その庇の下に漂うものは濃い闇だと書く。まさに緒方家の作りがそうで、突き出た庇の下には日中でもほのかな闇の世界が漂う。
逆に言えば、西洋の考え、暮らしはみんな明るければいいというもの。食器にしてもなんにしても白さが目立ち、金属の皿でもなんでもみんな節操なくピカピカに磨いてしまう。(女体も白ければいい…) ところが翳の世界を味わうのが日本の世界。明かりもなく、電気もなく、ふすまや障子ごしに光がろ過され、部屋に柔らかな光が差し込む。部屋の隅にほのかな闇が存在している。薄暗がりの部屋の中、白い磁器が自分の手のひらの上で白く鈍く輝いている。漆器の黒が闇に溶け込む。料理と共に、その闇の世界を味わうのだ。
美食家で有名な氏の羊羹についての描写もすごい。
…あの色(羊羹)などはやはり瞑想的ではないか。玉のように半透明に曇った肌が、奥の方まで光を吸い取って夢見る如き、ほの明るさをかんでいる感じ、あの色合いの深さ、複雑さは、西洋の菓子には絶対見られない。クリームなどはあれに比べるとなんという浅はかさ、単純さであろう。だがその羊羹の色合いも、あれを塗り物の菓子器に入れて、肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めるとひとしお瞑想的になる。
…人はあの冷たく滑らかなものを口に含むとき、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で溶けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う。…
…僕の脳裏には、以前カタログで見た、東京の羊羹専門店「虎屋」の黒い羊羹の一切れが浮かぶ。あの羊羹の深い黒さが暗黒の甘い塊になっていると谷崎に描かれると、一刻も早く口に入れたくなってきてしまった。
谷崎は西洋風の明るい光の下で、さらされ、何の深みもなくなった日本古来の文化のありさまも嘆く。例えば文楽は今や、人形が西洋風のステージで明かりに照らされ、何の陰影もない表情に劣化し、観光客目当ての見世物になったけど、本来の文楽の人工的な白く冷たいお面はろうそくの揺らめく灯りの下でぼんやり浮き上がるからこそ、生きたようにも見えるのだ。明かりの下、見ている方もどうせ人形だからと思うと、最初から何も感動しようがない。
歌舞伎も同様、明るすぎて今やミュージカルショーカブキになったのだろうが、文楽の昔のように、ろうそくの灯りの元で演じられたら、全く違ったものに見えるのだろう。随筆が書かれた昭和の初期の段階で、すでに歌舞伎は明るすぎてダメだと氏に苦言を書かれていた。あの派手な金銀の衣装も闇の中で不気味に浮かびあがるからこそ、深く蠱惑的なものに見えると谷崎は嘆いている。
神楽もそうなのだろう。五家荘の神楽が闇の中で当時のように、わずかな光だけで演じられるシーンを想像するだけでたまらない。舞台の隅の暗がりに誰かいるような気配がする、神楽の鈴や鉦や太鼓の響きでみんなの肩の後ろの暗がりに本物の神が舞い降りて来ている気配がするに違いない。
今は更に更に「LED、ブルーライト」。明るければいい、早く結果を明らかにせよという時代になってきた。伝統を放棄し、明るく便利な暮らしを明治以来目指した日本人の哀れな結末はもう「見えた」。スマホ片手にゲームに興じる大人、子供の軽薄な明るさは救いがたい。ブルーライトは光の中でも一番波長が長く、網膜に直接届き、目を傷めるどころか、脳にも悪影響を及ぼすと専門医から警鐘を鳴らされている。(全然報道されないのはどうしたことか)
秋の五家荘の夕暮れは早い。午後4時には帰路に就かないと、途中で山道は暗く危険な道になる。逆にそんな秋の夕暮れに緒方家の誰も居ない部屋の中で一人座り、誰かやってくるのを待ちながら自分の姿が闇に包まれていくのを味わいたいものだ。
奥の床の間に飾られた墨絵の掛け軸の画も闇に溶け込み、花器に活けられた一本の紅い椿の花だけが、暗がりに妖しく浮かび上がる…床の間も日々磨かれて「床ひかり」するからこそ価値がある。その床に掛け軸も花器の花の姿もほのかに映されていなければならない…僕はひとり、床の間の前で枯れた山水画の世界の旅を夢想する。
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帰路、道路わきの紅葉は鮮やかだったが、お目当ての川の紅葉はすでに終わり、満足した写真は撮れなかった。しかし河原に降りると、風が吹き、一斉に赤や黄の葉がざーっと風に舞い、僕の頭に降り注いだ。
落ち葉の吹雪…川に落ちた葉は一斉に流される。もうこんな一瞬はやってこない。こんな奇跡のような景色を写真に撮る技術は僕にはないから、カメラをわきに置き、岩の上に座り、次の風が吹いてくるのを待つ。
五家荘は素晴らしい。秘境ゆえ、闇も光も、人の情けも、忘れ去られようとしている文化もほんのわずか残されている、ほんのわずか。どうか最後の葉の一枚が、軽薄な風に落ちませぬように。