2017.10.15
文化
10年ぶりに高校の恩師N先生と話をする機会があった。先生は五家荘の自然はもちろん、民俗学や文化などを長年研究してきた人物で、これまでにたくさんの書物も出されている。ちょっと個性の強い(要するに近寄りがたいオーラに包まれている…)人柄で、話をするにも少し勇気がいる。師の持論は東京のモノサシで地方を見たらいかんというもので、そのモノサシのおかげで地方の文化は得体のしれないものに変容し、堕落し情けないと今でも気炎を吐かれている(70歳過ぎても昔のまま)。
例えば神楽だ。以前、NHK出身の鈴木健二なる者が、熊本の県立劇場の館長になり、阿蘇の神楽を劇場で演じさせ、その模様を世界中に配信したことがある。後継者不足で寂れかけた神楽が、ステージ上できらびやかに演出され、大好評を博した。(と、世間一般ではそう思われているのだけど)N先生は違う。「あれがきっかけで、阿蘇の神楽はメチャクチャになったとたい」と言う。そもそも神楽というものは、年に一度、山奥の集落に神様が降り立ち舞いまくるわけで、見る方はその激しい動きに蹴飛ばされるほどの距離で舞を見るわけである。舞い降りた神は時に卑猥な言葉を吐き、聖と俗がからまりながら、神も民も山の閉塞された日常からひと時解放される大事な催しなのだ。
先生は言う「そもそも、やーらしい言葉をステージでマイクを通して吐けるわけがなか」東京のモノサシで地方に何か面白いものないかと探され発見され、これぞ地方の伝承文化とスポットライトを浴びたとたん、その地域独特の泥にまみれた文化はシャワーで汚れを洗い落とされ、人畜無害の単なる神楽ショーとなり、これまで綿々と引き継がれてきた土俗の文化は、途絶えるわけだ。
先生はこうも言う。「田舎の文化は、寂れるものは寂れるとだけん、それでよか。無理して嘘までついて延命させんでよか。それが自然たい」確かに阿蘇の神楽は、それ以降、神楽館だのいろいろ施設は出来たけど、僕のイメージにあるのは神楽祭りとかフェスティバルとかのイベントばかりで、神楽なんて観光のついでに昼間に気軽に見るもので、現地での本物の神楽なんてわざわざ見たいとも思わなくなった。寂れて消えるのではなく、魂を抜かれて消費され続ける神楽とはどんなものか。
(今回の訪問は五家荘の森の文化について聞きに来たのだけど、すでに2時間近く経過…奥さんが昼食のスパゲティを作って来られて恐縮する)
今で言えば東京のモノサシは、全国各地に存在するゆるキャラであり、B級グルメであり、世界遺産でもある。地方創生とやらも国からの補助金で、東京からばらまかれたお金で、自発的にしかも自前で地方創生の活動を行っているグループなんてほとんど聞いたことはない。
話は変わるが、僕の家は宇城市で世界産業遺産の港の一角にある。毎年10月に地元の霧島権現宮という小さなお宮の祭りがあるのだけど、今や実行委員は10名にも満たず、今年で子供神輿もなくなった。港は今年開港130年ということで、このお祭りももしかしたら100年くらいの歴史があるのかもしれないが、風前の灯だ。多分僕の世代で幕を閉じるのだろう。鳥居を飾り、祭りの幟を立てる。しみじみと酒を飲み、しみじみとくじ引きをし、ビンゴゲームをして昼には解散した。我が集落の祭りもほとんど終わったのだ。
その祭りの1週間前、宇城市は港でJAZZコンサートを開催し公園を派手にライトアップした。(そんなイベント、世界産業遺産とは無縁だよな)その落差には苦笑いするしかないが、こんな田舎でも東京のモノサシでイベントが行われ、後には何も残らないのだ。
(昼食を食べ終えいよいよ本題)
つまり、先生に聞きたかったのは、五家荘の神楽の事だったのだけど、(僕は五家荘の山や花々も好きだが、文化にもとても関心があるのだ。)去年、ある講演会で鹿児島の大学の教授が五家荘の神楽はどことの接点もなく、これまで独自に伝承されてきたものだと僕は聞いたのだが、先生にそのことを尋ねると、「そんなことはなか、五家の神楽は、宮崎の神楽の流れをくむものたい。五家荘の文化は宮崎と接点があってな…」先生の話は奥が深い、五家荘の森のように。「そもそも五家荘の起源は、奈良時代前後から始まり、寺社を建立するために大陸から連れてこられたキジ師の全国の流浪の旅からはじまるとたい…」先生の話はいよいよ大縦走路のように果てしなくなって来た、もう聞く体力が続かない。
それから更に1時間、話は続いたのだけど時間切れ、また再会を約束して先生の家を出る。
来る10月21日、22日は五家荘で樅木神楽を見学することにした。今から本当に楽しみだ。