2019.08.27
人
五家荘の山を登り始める前に、僕が通っていたのは五木村の川だった。
京都時代、熊本出身のカヌーイスト、随筆家の野田知佑さんのファンとなり、手当たり次第、本を買っては読み漁った。
野田氏はカヌーに愛犬ガクを乗せ、日本はもちろん、世界の大河を悠々と下りながら、自然と遊ぶ楽しさと、自然を壊す文明の浅ましさについて、チクリと批評する氏の話は、とても面白かった。その当時の日本の川も乱開発で荒廃していて、氏はパドルで川をかき分けながらその事を嘆くのである。
僕は帰熊すると、早速今は無き伝説のカヌーショップ「バイダルカ」でカヌーを買い、熊本の海に山に、漕ぎだした。
(野田氏と愛犬ガクのように、カヌーの先頭に保育園に入ったばかりの娘を乗せて、天草の島巡りの後、砂浜に上陸する我が家は難民一家とも呼ばれた)
ただ、カヌーについて、テレビでタレントだのリポーターだのが言うのは「カヌーに乗ると、水面と船の上の目線が同じで感動しました」と言うのが定番なのだが、誰が言い始めたのか、みんな全く同じことを言いながら、「いやー自然って言いですね!」なんて適当なことをいうタレントは嘘つきで、実は何も感動していないと僕は思う。見るからに、彼らは自然に関心も何もないではないか。
僕は単純に川に流されながら、ぼんやりするのが気持ちいいだけで、自然がどうの、目線がどうのとは一回も思ったことはない。スポーツとしてカヌーを取り組んだこともない。
例えば、夏にカヌーで熊本の川や海を漕いでみたらいい。一番最初に下った川が野田氏の故郷、菊池川で、菊水町から玉名まで。漕ぎだすと、川の汚染がひどすぎてカヌーどころではなかった。パドルを漕ぎだすと、水面にプカプカ浮かぶ黄色い糞尿のかたまりに四方八方、取り囲まれ、来年の東京オリンピックではないが、汚水が肌に触れないようにカヌーを漕ぐのは至難の業だった。
天草の内海も同じで、外で見る景色とうって違い、いざ、汚水の上に浮かぶ景色は菊池川と同じなのだ。勢い余ってパドルから、海水が顔にかかろうものなら発狂ものなのだ。
熊本で唯一、汚水を気にせず、自然の中で安心して下ることの出来る川は、川辺川、球磨川だけだ。ただこの二つの川はぼんやり、漕いで下るわけにはいかない。
バイダルカの店長タチカワ師匠の悪名高い「誰でも漕げる球磨川カヌー教室」
師匠の優しい笑顔の奥、髭に隠れ、小熊のように光る冷たい瞳。
カヌーを漕ぐみんなの姿があっという間に岩陰に消えていく。氏は初心者に対して、数分間人吉城前のせせらぎのような川で適当に漕ぎ方を教え、数分後、天下の激流「球磨川」に突入させるのだ。
目の間に迫る、数メートルの落ち込み、(ドーン!と音がする)迫る岩の連続、白いしぶき、あぶくで目の前が全く見えない。
師匠の技術指導は単純明快。「やばいと思ったら、ひたすら、漕ぎなっせ!」
数珠つなぎ、見よう見まねで川を下る、カヌー初心者軍団の群れは、漕いでも無駄。最初、奇声を上げていたが、数分後には阿鼻叫喚、数珠つなぎの悲鳴に変わるのだ。ヘルメットも、色とりどりのカヌーもお腹を見せて流されていく。師匠とその弟子は、ひっくりかえって岩に挟まり脱出できずあえぐ生徒を拾いに行くのだった。優等生の僕は難所を強運にもクリア。ただ、最後のなんでもない、ペタリ水面が停止したような、水たまりで、突然、派手にひっくり返った。
(川の恐ろしさはこんなところにある)
※一度、大雨で増水した阿蘇の杖立川で、滝に落ちて一人、しばらくしても、上がってこない人が居た。
5分経過、10分経過…
さすがに師匠の顔は引きつり、いつものニヤニヤ笑いでその場をごまかしながら、師匠の手先は救助用のザイルをほどき始めていた。師匠の空気に気がついた弟子は他人のふりをするか、そわそわその場を逃げ出そうとしていたが、
その時、滝に落ちた人が、カヌーを肩にかつぎ、全身ずぶぬれで(当然)滝から這い上がり、にこにこしながら、
「いや~すごかった、タチカワさん、人が悪いすよ~先に、滝があるなんて、最初から言っといてくれんと、ホント死ぬとこでしたよ~」
あなたの事を師匠もみんなも「マジ、死んだかもと思ってた」とは、言えずに、みんな笑ってごまかした。
あの時の師匠の技術指導も、「ただ前を見て、ひたすら漕げ」だった。
やはり、カヌーはのんびり下るか、漂いながら美味しいものを食べるのが一番楽しい。
これまで一番美しい水溜まりの思い出は、当時の相良村の野原小学校前の、鉄橋の下の蒼い淵だった。家族で、河原でテントを張り、カヌーで水面を漂った。余りの透明度の高さに、カヌーの黒い影が、川底の白い砂の上に映り、船が宙に浮いた気分になった。叱られて橋の上で泣いていた娘は橋の欄干の上で猿に誘拐されかけた。母猿が慰めに山から降りてきたのだ。
今でもその淵はある。川辺川ダム本体の建設予定地となるはずだった場所だ。ただ、野原小学校は見事に校庭の桜の樹とともになぎ倒され、がれき置き場になり、草茫々の荒れ地にされ放置されたままだが。
もうカヌーには乗れぬ体になったが、今も思い出す。あの夏の谷間のキャンプ。闇の中で鹿が鳴き、森の闇に眼が光った夜。焚火をすると、恐ろしいくらいのカゲロウが集まってきた。
かすかな川の記憶が僕の頭の中に繰り返す・・・。
野田氏は見るからに偏屈な親父で、今、四国に住まれているらしい。会えたところで、そう簡単に話などできる方ではないと思う。僕も偏屈もんの一人だが、それはそれでいいではないかと思う。氏は以前、アウトドア雑誌「ビーパル」でダム建設について、地元の新聞社、記者の姿勢を、「腐れ新聞の腐れ記者」と罵倒された。氏のこれまでの連載、随筆を読んだ者については充分理解できる内容だったが、(その雑誌は我が家の家宝でもある)
さて、その記事から10年は経つ今。熊本の自然で遊ぶ、偏屈なオヤジ、おばさんは増えたのかどうか。