2019.10.06
文化
9月は全く五家荘の山には行けなかった。このままでは10月の山行も怪しそうだ。何もひどく体調が悪いわけではないが、今年は3回も脳外科でCTを撮った。先生曰く、全然どうもなく大丈夫という事だが、山に行くなら11月の紅葉の時期まで、今から体調を整え万全を期すしかない。
というところで、家で大人しく座学というか、色々山の本を漁るのだけど、やはり泉村誌が一番面白い。
五家荘は歴史や伝承にも謎が多い地域で、例えば、有名な平家伝説だの、菅原伝説など、さんざん書き尽くされてきたテーマで、これは僕のような素人が、調べ出したらキリがない。歴史の霧の中で道に迷い、自分で仕掛けた罠に落ちる可能性もある。
それでも村誌を読んでいて深いというか、面白いというか、じっくり考えていたら時間が足りないのだ。そんな村誌の中に僕がこれまで全然知らなかった、隠れキリシタンの資料が紹介してあった。五家荘にも「隠れキリシタンが居たのではないか?」という記述がある。
出自は不明だが、当時の五家荘に潜む「隠れキリシタンの唱え」が紹介してある。
・その唱えの内容とは
『 デウス、バテレン、ひいりよすいりつサントを初め奉り、サンタマリア諸安所へ
後の罰を蒙りティウスのからさたえはてしやうすたすのことく頼母子を失い
後悔の一念もきさすして人々の嘲り終いに急死するときんの苦しみ悩みに苦しみをおもうこともあります。 』
・「デウス」はキリスト。
・「バテレン」は神父。
・「サント」は長崎のサント・ドミンゴ教会のことか?
・サンタマリア諸安所(キリストの母のいる安らぎの場所、天国の事か?)
・「ティウス」(ローマ教皇?)
・「頼母子」(頼もし講…地域の互助組織、お金を融通し合う仕組み)
唱えとはオラショのことだろう。日本のキリシタン用語で「祈り」の意味。ラテン語のオラシオ(祈祷文)の響きがこうなったそうだ。禁教令で神父が日本から追放されたので、正確に伝えられずに、隠れキリシタンの農民、漁民の信者だけで口伝され、方言、聞き間違いも重なり、時間の経過とともに独特の唱え(祈り)の言葉に変化したもの。長崎の生月島では今でも伝承されている。
深い海と深い山。天草と五家荘は昔からつながりがあったのだろう。村人は山の厳しい暮らしに耐えかね、時に集団で逃散し、山を降り、天草に向かうが、引き戻される。
五家荘は以前「天領」だった。「天領」つまり幕府の直轄地で、通常幕府が管理している豊かな土地が多いそうだが、五家荘は違った意味で天領になった。当時の庄屋の横暴な支配で度々、もめ事があり、「もう我慢できんたい」とみんな村を出て、連れ戻される事件が起こった。ようやく落ち着いたかと思うとまたもめ事。そんな繰り返しに手を焼き、五家荘は天領地になった。
当時の熊本は天草の乱の始末で荒れ果て、五家荘のような山奥まで統治する余裕もなかったようで、今度は天草の代官所が見張りながら、役人が海路、陸路を使い五家荘の管理に出向いたのだ。もちろん五家荘の現地調査と合わせて、隠れキリシタンが潜んでないか、絵踏みをしながら調査役は幕府にリポートするのだ。
その中でも有名なリポートが、約200年前、天草代官所の内藤子興(ないとうしこう)が著した「五箇荘紀行」で、内藤さんは絵描きも同行させ、カラーの挿絵、俳句、漢詩付きの言わば当時の総天然色五家荘ガイドブックを作った。一見、歌川広重の東海道五十三次風の絵のようだけど、版画ではなく筆で彩色してある。
リポートは山、山、山を越える苦労談と深山独自の村人の暮らしぶりや文化、地域の地図が緻密に記されている。以前、僕はその絵のコピーをイベントで見たことがあるが、今でもその絵の原寸大のコピーが欲しくて仕方ない。(誰かその内容を今風のタッチでよみがえらせてくれないだろうか、僕は間違いなく買います1冊 ) その中で今の久連子踊りの絵や、森に棲む、むささびの絵、久連子の庄屋の緒方信太の奥さんが捕まえた、猫くらいの大きさの熊の子にお乳をのませて育てている絵も面白い。
肝心の「絵踏み」は、次第に人の集まるイベントとなり、市がたち、いつのまにか村人のお祭りのようになり、盛り上がり過ぎて役人から叱られたそうだけど。(このあたりが山人のたくましいところ!)
当時からの繋がりか、(実際、天草に移住した村民も居た)今でも、山の水がダムに堰き止められ、天草に送水されている事は歴史の深い因果の結果なのだろうと泉村誌には締めくくられている。
ところで、泉村誌に記載されている、隠れキリシタン唱えの出所はどこなのだろう?何時頃、どこで発見されたのか?僕にとって、また大きな謎が一つ増えた。
天草の乱(1637~38年)のきっかけは悪代官の悪政。農民の能力(年貢)の倍のノルマをかけ続け、今で言えば、消費税200%以上。みんな食うや食わず。天候不順の年で、食べ物が収穫できない年でも相変わらず、役人は年貢を取り立てにくる。このまま家族みんなで餓死するくらいなら、異国からやってきた神父さんの言う事を聞き、みんな平等なんだと言う、キリストの教えを信じ、天国に行こうと思うのも無理はない。
五家荘も同じ。村人が山の厳しい暮らし、庄屋の横暴に困窮し、騒動、逃散を起こす、そんな中で、山の中にもキリシタンの教えがひっそり伝わったのだろうか。
柳田国男の遠野物語にも東北の隠れキリシタンの記述があり、幕末以前の隠れキリシタンについて「附村牛村誌」に次のように記されてある。
『(中略)昔遠い国からの落人と伝える人達の中にはキリスト教に対する迫害を逃れての落人ではなかったと思われるものがある。(武士の名前)彼ら兄弟は、甲斐の国からの落人と言われるが、大原町から逃れてきたキリスト教徒であったことは確実な様である。その他、村内では家によって、葬式の時の一杯ご飯に立てる箸を普通二本揃えて立てるのを1本は横にして1本は横にして十字の形にするところがある。これはその先祖のキリスト教の遺風を、それとは知らずに受けついでいるものであると云われる。』
時代は偉人がエラソーに作ったわけではない。彼らがエラソーに作ろうとするから、時代はいつも混乱し、貧しい民は苦労するばかり。
【五家荘の唱えの極私的超訳】
『 キリストさんの事を神父さんに教えてもらい長崎のサント・ドミンゴ教会を初めて知り、私はマリア様の居る安らぎの場所へ行きたいと思い、キリスト教を信じました。
それがばれて、後から罰を受け、身も心も疲れ果てました。頼母子講での生活費の工面も断られ、キリスト教を信じることを後悔もしました。
周りの人々からはあざけりを受け、死ぬほどの苦しみ悩みを感じ、それでも皆の罪を背負うキリストの心の苦しみを思うことがあります。(そんな時でも、キリスト様を信じ、思うことがあります。) 』
五家荘に残された唯一のオラショ。読めば読むほど悲しみが湧いてくる。
キリシタンには「水呑みの時の唱え」「山に入る時の唱え」「種まく時の唱え」「家のお祓いの唱え」「寝る時の唱え」があるらしい。いつも神と一緒なのだ。
以前、長崎に行き、黒崎地方の枯松神社に行ったことがある。枯松神社は、日本に三カ所しかないといわれるキリシタン神社で、静かな雑木林の中に小さな社があり、まわりはキリシタン墓地になっていた。
江戸時代、隠れキリシタンが密かに集まりオラショ(祈り)を捧げ、伝えてきた聖地で、祠の手前にある“祈りの岩”と名付けられた大きな岩があり、迫害時代に信者たちは、寒さに耐えながらこの岩影でオラショを唱えていたと伝えられていた。一枚の平たい岩の上で(その岩はおよそ20人近い人が乗れる広さだった。)彼らはその岩に乗って、老若男女、みんな暗い夜空に向かい、一緒に天国に行こうと一心に祈ったそうだ。
僕はその岩の事を思い出す。
畳の上で、五家荘の唱えをたどたどしくつぶやいてみる。