2021.11.21
山行
五家荘の自然は山野草、生き物の宝庫と言われるのに情けないが、僕は今もって山野草の名前はともかく、樹木の名前が覚えられない。写真の撮り始めはツユクサを珍しい花と思い、地べたにはいずりながら写真を撮っていた。町の草むらのどこにでも咲いている花で、そんなことも知らないのかと周りからさんざん馬鹿にされていたのだけど、標高800メートルの草地にも咲いているのだから、珍しい花だと信じてなにが悪いと言い返してしまう。これもツユクサ族の生命力の強さ、気候変動の遠因にもよる者なのだ。だいいち可愛いではないか。青い大きな耳を広げ、黄色い目をして口を尖がらせている姿はチャーミング、宇宙人の変身した姿とも感じる。ともかく無知の力、珍しいと思ったらシャッターをどんどん切っていた。
しかし、じっとしている山野草はともかく、生き物にはなかなか出会う事はない。時々、谷でカエルに出会うが、そんな彼らのじっとしている姿もお互い様。じっと見つめあう。こっちが見ていると、相手も見ている気がする。樅木の川で岩の上に這い上がってきたカエルと見つめ合う。最後は相手が根負けして、すごすごと川に落ちたが、落ちた場所が気に入らないらしくまた、岩に這い上がってきた。山で写真を撮っているうちに、彼らとは何か以心伝心、心が通うひと時がある。
そんなこんなで山をうろついていて、蝶に出会うのはうれしいものだ。平家の紋章は黒アゲハ。アゲハは大型の蝶の部類で、春先、偉そうに、あまり逃げもせず、堂々と蜜を吸う姿はなかなかたいしたものだ。何しろ自分の姿が五家荘の家紋なのだから。
蝶たちは決まった場所に行けば必ず会えると決まったわけではない。そんななかで、今話題の「アサギマダラ」はそれなりに居そうな場所が分かる。「そんなの時期」に「あんな場所」に行くと出会う確率が高いとしり車を走らせる時は、本当にわくわくする。
そのつもりで、今年の夏は2度も3度も出かけたが、全部、雨。見かけたとしても頭上はるか上。ネットで見るに、アサギマダラは上昇気流に乗るすべを持ち、あっという間にはるか山の上を舞い上がり、また、遠くへ滑り落ちて、何千キロも旅をするのだ。日本列島、東北から台湾まで。海の渡り方も同様で気流に乗り、滑り落ちる。漁師さんの証言では、波間に漂うアサギマダラを手に取ろうとすると、また空へ飛び立ったそうだ。
漂流しながら体を休めているらしい。時には岸から陸地に這い上がる姿も目撃されている。彼ら彼女らはいったい何が目的でそんな旅をするのだろうか。生き物は自分の種を残すためにいろいろな行動をするわけで、旅する行為が「アサギマダラ族」の生き延びる知恵なのだ。以前、僕はアサギマダラに会うにはは隣町の某所に行けば会えることを知った。標高1500メートルから隣町の標高10メートルもしない場所へ。蝶の道がある。更に、天草の半島の某所でも乱舞する場所を知った。天草灘の向こうは、台湾なのだ。
今年会えたのは夏の終わりどころか、秋の始め10月3日。その日もあきらめて帰路につくとき、車の上をよぎる影。即座に車を停めると、一羽、小さな滝のわきに咲く花の蜜を吸いに現れた。
そして僕の為に、ジーッとしてくれたのだ。僕は少し興奮しながらシャッターを切った。
自慢ではないが、カエルと同じ、以心伝心、何か気持ちが通い合う一瞬なのだ。
数キロ離れた隣町で会うのではなく、僕は五家荘で彼ら彼女に会いたいのだ。行きかえりにラジオで「子供科学電話相談」を聞く時があるが、何だか最近、子供たちの質問もつまらないし、先生の答えもつまらない。小賢しい質問はスマホで検索すればいい。子供がわざわざ聞きたいのは、「どうして生き物は生きているの?」「なんで僕はここにいるの?」という根源的な疑問があるからなのだろう。そこのところを共有しないと面白くない。アサギマダラの行動は研究でいつか明らかになるだろうが、実際、言語が通じないお互い同士、細胞レベルまで調べたとしてもお互い、何を考えているのかわからないではないかと思う。
数年前、電話相談室で「人間死んだらどうなるの?」「こころはどこにあるの?」という久々によい質問があったが、その問いに答える事が出来そうなのは、研究者の中には、もちろん誰もいなかった。脳の構造がどうの説明しだした脳学者もいたが、無味だった。
そうして10月も終わり、熊本市内の事務所の近くの公園で、僕は足を止めた。僕の足の前には、羽が破れた蝶の死骸があった。アサギマダラだった。
五家荘であった一羽が会いに来てくれたのだ。そう信じて何もおかしくはない。その姿をスマホで写真を撮り、僕は胸に収めた。