熊本県 八代市 泉町(旧泉村) 五家荘
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雑文録

2021.11.09

文化

「先生」とは五家荘図鑑の雑文録に出てくるN先生のこと。N先生は五家荘の自然、文化、歴史研究の第一人者で、これまでにたくさんの研究書や文献を発行されて来た。はるか40年以上前、僕が通っていた田舎の高校の山岳部の顧問で、その当時から熊本の高校山岳界では怖れられている存在だった。(こんなこと書くと、次回会う時は殴られるかもしれない)…ちょうど4年ほど前、地域の観光振興のお手伝いで、「五家荘の山」という冊子の制作をお手伝いすることになった。五家荘の山は、九州100名山の中に10座も選ばれているという事で、その10座を踏破し(途中、遭難もしたけど…)なんとか、五家荘の山々や自然を紹介する冊子を仕上げる事ができた。冊子の完成前にN先生にも挨拶するのがスジと、それこそ30年ぶりくらいに僕は先生の家の門をたたいた。先生はとうに僕のことは忘れていても五家荘への熱意は変わらず、雑文録にあるように、僕に山への熱意を語られた。

「五家荘の山」の編集と並行し、「五家荘図鑑」の大まかな編集もスタートしていて、本の中の雑文録にN先生のことも書かせていただいた。その後、僕はクモ膜下を発症。悪運強く数か月後に社会復帰、まだ額の穴がふさがらないまま、先生に先に完成した「五家荘の山」を手渡した。

それから数か月後、「極私的五家荘図鑑」が完成。しかし後遺症が出て車の運転が2年間禁止となり、ようやく運転の許可が出たので9月に先生に届けに行ったのだ。ちょうど不在で奥さんに本を預かってもらったが、その翌週ようやく先生に会えた。

もちろん先生は雑文録も読まれていて、玄関先でいきなり叱られてしまった。その内容は先生の誤読によるもので、まったく僕の書いている内容とは正反対のことでもあったのだが、高校以来、先生からの雨あられのような、怒りの言葉を浴びているうちに、反論する気もうせ、ただただ玄関先に立ち尽くすだけだった…まるで言葉のサンドバック…(なんだか気持ち良くなるもんだなぁ)…その誤読の内容については語るまい。

先生は元生徒の心底に棲む「いい加減さ」を見抜き、攻撃してこられた…いゃ、このこともこの場で書く気もしないので書くまい。

ただ、「ヒトの話をよく聞け」と何度も言われた。まずは地元に出向き、地元の人の話をよく聞けと。これは民俗学のイロハのことだろう。そのことで何かが得るものがあり、その積み重ねが成果となるのだろう。軽々しい僕の文章は「なぁんも、地元の人の話を聞いとらんたいっ!」てな、ことになるのだ。(だから極私的なんだけど…)

そして、石楠花越(しゃくなんごし)の話になる。石楠花越しという地名の本当の呼び名は「百難越し」という。石楠花が咲く越(峠)のことではない。「よかかい、山の人にとって、峠を越えることはなんでンなか、普通の峠越えなんて、屁でもなか。片足とびでもぴょん、ぴょん、超えていきよる。そんだけ、山ん人は強かったい。そがん強か人が、あの峠だけは「百難(ひゃくなん)」…ものすごいきつか峠越えて言いよる。五家荘の中で「ひゃくなん」越していう峠は、ここしかなかと。

その意味は、久連子(くれこ)集落※に不幸のあったときに、若い衆が、峠の向こうの水上村からぼんさんも連れて、抱え上げて、荷物も一緒に葬儀に間に合うように峠ばこえないかん事情があったとたい。帰りは帰りで土産ば持たせないかん。

「なんでん書くのはあんたの勝手、自由だが、その前になんで俺に原稿ば見せんとか、間違った情報があるかもしれんたい…」(書くのは勝手に書けと言いながら、先に原稿を見せろって…先生…)

もともと性格に「百難あり」の自分で、先生、僕はどうしても人と話ができないのです…嗚呼、五家荘の山に入るのがあと10年早ければ。今の、五家荘も他の地域と同様、過疎化、風化が進んで話を聞くにも、なかなか人と出会えないのが現実なのです。

正直に言うと、「極私的五家荘図鑑」に書いた文化や歴史の内容は先生がまとめた書物がルーツで、地元の話を聞く機会が少なくなった今、その本の追体験をしているわけなのだ。

悪運の強い僕なのだ。たまたま市内の古書店「汽水社」をのぞいた帰りに、向かいの古書店に立ち寄り、郷土史の下の棚に五家荘関連の書物が、きちんと肩をそろえて並んでいるのが目についた。まるで僕が来るのを待っているかのように。「泉村誌」「泉村の自然」「五家荘森の文化」…と並んで、「秘境五家荘の伝説」(山本文蔵著)と、あと一冊。

「秘境五家荘の伝説」は昭和44年初版。当時に伝承された伝説や、平家の家系図などが詳しく紹介されている。その中に久連子の事も。

※久連子集落…久連子集落に残る五家荘に残る唯一の寺院が正覚寺。この寺院には平家代々の24名の位牌が保存されている。久連子の人口過剰により他に居住した門徒は今なお正覚寺と交流をしている。水上村15戸、五木村・梶原37戸、入鴨3戸…現在、正覚寺の住職がこの地に赴いている。

先生の言う通り、久連子の若い衆は不幸があると百難越を超え、水上村、五木村の門徒を故郷久連子まで連れ帰り、法事に案内する義務があったのだろう。令和の今、すでに正覚寺は建物だけが残っている。

79歳になられた先生は今も悔しそうに僕に語る。「あんとき、正覚寺の過去帳を見せてくれとお願いしたが、どうしても見せてくれんだった…。」

2021.04.20

文化

これまで五家荘を車でさまように、どうしても気になっていたのが、道のわきからかいま見える木の鳥居や祠などだった。うす暗い杉林の奥に見える朽ち果てた木の鳥居。おそらく相当古い時代からその神社の神は祀られ地元の人々の信仰の対象、日々の心の支えになっていたのに違いないけど、時が進むにつれ、神社は残ってもそれを祀る人がいなくなれば、その山の神様も深い山に帰って行かれるのだろう。

僕が特に気になっていたのは西の岩地区に祀られる「尺間神社」だった。木の鳥居をくぐると林の暗がりに参道らしき道の名残がある。急坂には、落ち葉に埋もれ、ほとんど朽ち果てた木の階段が山頂に向かって続いている。その道の果てには神様のご本尊の棲む祠があると思い、とうとうたまらず、足元が崩れる中、僕は這いつくばって道を登り始めた。だんだん道が狭まり、杉林を抜けると乾いた小石だらけの小道になるが崩落が激しく、岩にしがみつきながら頂上を目指す。途中の木の根にワンカップのビンを見つける。お供えの残りなのだろう。しかし、どこまで行っても同じような坂道が続き、だんだん不安になってくる。痛めた左肩の筋肉にも張りがでてきて、残念だが引き返すことにした。何しろここは五家荘。地図も持たずに思いつきだけ、憶測だけで山に入ると痛い目に合う。ほんの少しのミスでも遭難につながる。(経験者は偉そうに語る) ※もう少し頑張れば、岩の上に建つ本宮も見れたのに。

帰路で草の上に置かれたような石の破片を見つける…灰色で長さちょうど20センチ位。石の斧のような形をして、刃先に指先を当てると今にも切れそうに薄く鋭い。単なる岩から剥離した断片のようだけど、(バチがあたるぞ!) 持ち帰ることにした。

泉村誌によれば、尺間神社にはフツヌシ・タケミカヅチ・ヒノカグツチという荒ぶる三柱の神が祀られ、神社の建立にはいわれがある。建立は明治37年。

 

(極私的翻訳・五家荘の方言ではありまっせん)

昔のはなしたい。左座家の4代目の亀喜さんが、わけの分からん病気にならした。たいぎゃな、ふとか病で、熱にうなされち、どがんもこがんも、しょんなかて。頭ば冷やしてん薬ば飲ましてん、どがんもなおらん。寝床で「きつかきつか」て言わす。もう家のもんは心配さして、大騒ぎて。おおごつ。もうたい、神さん、仏さんの力に頼むしかなかて、親類縁者が家で話し合わしたとたい。そんで、みんなでたいぎゃ、よか神社とかなかろかて、どこでん聞いてまわらしたてたい。そして、おおいたん、尺間神社の神さんならよかて、話は聞いてこらした。ほんで左座家では、中畑萬吉さんに無理ばゆうて尺間神社までお参りば頼んだてたい。ほなら神社の神さんから中畑さんにお告げがあったて。亀喜さんの病気のもとは、刀のたたりて言わしたてたい。おとろしか。左座家は庄屋さんだけん、昔からつがれた刀のたいぎゃあるてたい。そん刀のなかでん、備前長船ていう刀が二本、たいぎゃ大事にされとったて、そがんだけん、その長船て、座敷の一番よかところ、刀んかけてあるところに、飾ってあったてたい。ほんでたい、左座さんとこに泊まりにこらした人は、そん部屋で寝とらすと、夜中にうなされて頭のいとならすて。苦しか苦しかて、たまらんごてなって部屋ば替えてねらすと、ぱって頭の痛みとかとれらしたて。そっでたい、つぎん朝、亀喜さんの息子の5代目がそん人の泊まらした部屋にある長船ばみると、みょうなもんで、そん刀の二本とめ、鞘からぬかれとるてたい、ほんにみょうなか、おとろしかはなしたいね。そんでまた、次に泊まる人も同じ目にあわしてうなされらすて。なんかあっとだろね。刀だけん。

いろいろかんがえらしたばってん、5代目が、しょんなかておもわして、そん二本の刀ばもって、大分の尺間さんに収めにいかしたて。ほんでたい80日、そのお宮で山籠もりさして、きつか修行はさしたて。ほんに親思いばい。ほなら、いままで寝とらした亀喜さんの病気もうそんごて、ようならしたて。ほんで泊まりにこらしたひとも、うなされちことは、のうなったてたい。ほーら、尺間さんのおかげたい。みな、たまがった。ほんで左座家と西の岩んひとたちは、豊後の本宮に尺間さんの神さんの霊ば五家荘にわけてもらえんだろかてお願いして、あたたちが、そぎゃんいうならよかていわしたけん、西の岩に、尺間さんばまつらしたて。村んもん全員で、山に木ば切ったり、社殿ばくんだりにぎおうた。村にもほんなもんの山ん神さんのこらしたぞて。村んもんじぇんいん喜んでたい、そるから尺間神社さんに、だっでんお参りいくごてなったとたい。

やっぱ刀はおとろしかね、昔は人ば殺したり殺されたり、いろいろあったっとだろな。ばってん、今は、だるも、おらんごてならした。家も崩れてしもて、昔の賑わいはなか。あすこのじいさん、ばあさんもおらんごてならした。山の花もぬくなるといっぴゃ、さくばってん、だれもおらんけん、きれか花のさいてん、だるも見てくれんけん、花もさびしかていうごたる。尺間さんにのぼる人も、とうとおらっさんごてなった。おどんも、なんかいらんこて言うた気のするけん、なんか背中ん、ぞくぞくしてきたばい。もう山はぬくなったけど、寂しかね。おどんも足のわるなったけん、ようと歩ききらんと。きつかときは心のなかで、尺間さんばおがんどっとたい。わたしん、まもり神だけん。

 

普段から具合のわるい僕の脳内はいつも悪夢にうなされ、新たにうなされることもない。持ち帰った石の刀は、何を調べるでもなくまた、尺間神社の参道に埋めなおすことにした。ワンカップの酒を石刀にかけ草をかけ、自分なりの得体のしれない祈りの言葉…手を合したときに、意味不明の言葉が出た…お詫びと祈祷を行う。

改めて、五家荘ネットの情報をさかのぼって調べるに、20年くらい前は、近くの五家荘自然塾を基地に、地元の人々が尺間神社のいわれを語り聞かせたり、焼き畑時の「木下し歌」の披露もあったという。ぜひ、参加したかった。

五家荘はいくつもの神の棲む、神聖な山里でもあるのだな、と思う。今も、神を迎え神を舞う神楽の里でもある。熊本でも奇跡的に古代からの文化が残された唯一の地区、民俗学を学ぶ人(…そんな人熊本に居るのか?) にとって宝庫でもあるのだろうな、と思う。

地元の人たちで大事に残された文化・伝承は語り継がれて、風が吹くたびに朽ち果てていく。朽ち果てた参道…鳥居。民家の跡。人がそこに居たという、目に見えないぬくもりに、何かを感じて僕は山をさまようのだ。

帰路にカタクリの花を撮る。今年の開花は例年より半月ほど早く、最後の数輪を写真に撮れたのは運が良かった。一番美人な紫の妖精にカメラを向けると、その瞬間、草陰から黒い蛾(ミヤマセセリ)が花に留まり、蜜を吸い、はっと消えていった。

 

2020.11.13

文化

夏に山の大先輩O氏から、「脊梁小学校」の緑のTシャツをいただいた。O氏のこころ遣いには感謝しかない。小学校を休みがちな自分だが、せめて写真部員の役割だけは果たさなければならない。

今年の五家荘の紅葉は例年になく鮮やかだった。蛇行しながら進む崖沿いの細道の正面、突然、真っ赤に染められ立っている一本の樹に出会い、はっと驚く。例えは悪いが、緑の中に真っ赤な鮮血がほとばしるような光景があるのだ。赤でなければ、次は黄色、いっせいに尖った手のひらを開いている。晴天、青いスクリーンを張ったような空に、樹々の葉色は染みるように浮き上がる。

家人の運転する車で緒方家に向かう。緒方家は平家の落人伝説が残されている築300年の合掌作りの古民家。2階に隠し部屋などもあり観光スポットになっている。門をくぐり、庭に入ると驚くことに庭にはびっしり形のそろった黄色い葉が敷き詰められていた。まるで誰かが丁寧に葉をいちまい、いちまい並べてくれたように。運よく誰も居ないので部屋の中からも庭の写真を撮らせてもらう。

陰翳礼讃。これは僕の偏愛する作家、谷崎潤一郎の有名な随筆の作品名だ。昭和8年に書かれたもので谷崎は日本古来の翳と闇の世界を好み、その随筆の中で日本人独特の暮らしや感性をなつかしみ、その深い味わい方を記した。何回読んでも深く濃い。今回の雑文録は谷崎をまねた随筆調の下手な文章になってしまった。(苦笑)

随筆の中の有名な厠の話はさておき、建築についても谷崎は持論を述べている。

西洋の寺院のゴシック建築は、屋根を高く尖らしてその先が天をも刺すところに美しさを感じるのに比べ、日本の建物は建物の上に大きな屋根を伏せ、その庇が作り出す広い陰の中へ、全体の構造を取り組む構造になっている。

寺院にしても、庶民の住宅にしても、その庇の下に漂うものは濃い闇だと書く。まさに緒方家の作りがそうで、突き出た庇の下には日中でもほのかな闇の世界が漂う。

逆に言えば、西洋の考え、暮らしはみんな明るければいいというもの。食器にしてもなんにしても白さが目立ち、金属の皿でもなんでもみんな節操なくピカピカに磨いてしまう。(女体も白ければいい…) ところが翳の世界を味わうのが日本の世界。明かりもなく、電気もなく、ふすまや障子ごしに光がろ過され、部屋に柔らかな光が差し込む。部屋の隅にほのかな闇が存在している。薄暗がりの部屋の中、白い磁器が自分の手のひらの上で白く鈍く輝いている。漆器の黒が闇に溶け込む。料理と共に、その闇の世界を味わうのだ。

美食家で有名な氏の羊羹についての描写もすごい。

…あの色(羊羹)などはやはり瞑想的ではないか。玉のように半透明に曇った肌が、奥の方まで光を吸い取って夢見る如き、ほの明るさをかんでいる感じ、あの色合いの深さ、複雑さは、西洋の菓子には絶対見られない。クリームなどはあれに比べるとなんという浅はかさ、単純さであろう。だがその羊羹の色合いも、あれを塗り物の菓子器に入れて、肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めるとひとしお瞑想的になる。

…人はあの冷たく滑らかなものを口に含むとき、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で溶けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う。…

…僕の脳裏には、以前カタログで見た、東京の羊羹専門店「虎屋」の黒い羊羹の一切れが浮かぶ。あの羊羹の深い黒さが暗黒の甘い塊になっていると谷崎に描かれると、一刻も早く口に入れたくなってきてしまった。

谷崎は西洋風の明るい光の下で、さらされ、何の深みもなくなった日本古来の文化のありさまも嘆く。例えば文楽は今や、人形が西洋風のステージで明かりに照らされ、何の陰影もない表情に劣化し、観光客目当ての見世物になったけど、本来の文楽の人工的な白く冷たいお面はろうそくの揺らめく灯りの下でぼんやり浮き上がるからこそ、生きたようにも見えるのだ。明かりの下、見ている方もどうせ人形だからと思うと、最初から何も感動しようがない。

歌舞伎も同様、明るすぎて今やミュージカルショーカブキになったのだろうが、文楽の昔のように、ろうそくの灯りの元で演じられたら、全く違ったものに見えるのだろう。随筆が書かれた昭和の初期の段階で、すでに歌舞伎は明るすぎてダメだと氏に苦言を書かれていた。あの派手な金銀の衣装も闇の中で不気味に浮かびあがるからこそ、深く蠱惑的なものに見えると谷崎は嘆いている。

神楽もそうなのだろう。五家荘の神楽が闇の中で当時のように、わずかな光だけで演じられるシーンを想像するだけでたまらない。舞台の隅の暗がりに誰かいるような気配がする、神楽の鈴や鉦や太鼓の響きでみんなの肩の後ろの暗がりに本物の神が舞い降りて来ている気配がするに違いない。

今は更に更に「LED、ブルーライト」。明るければいい、早く結果を明らかにせよという時代になってきた。伝統を放棄し、明るく便利な暮らしを明治以来目指した日本人の哀れな結末はもう「見えた」。スマホ片手にゲームに興じる大人、子供の軽薄な明るさは救いがたい。ブルーライトは光の中でも一番波長が長く、網膜に直接届き、目を傷めるどころか、脳にも悪影響を及ぼすと専門医から警鐘を鳴らされている。(全然報道されないのはどうしたことか)

秋の五家荘の夕暮れは早い。午後4時には帰路に就かないと、途中で山道は暗く危険な道になる。逆にそんな秋の夕暮れに緒方家の誰も居ない部屋の中で一人座り、誰かやってくるのを待ちながら自分の姿が闇に包まれていくのを味わいたいものだ。

奥の床の間に飾られた墨絵の掛け軸の画も闇に溶け込み、花器に活けられた一本の紅い椿の花だけが、暗がりに妖しく浮かび上がる…床の間も日々磨かれて「床ひかり」するからこそ価値がある。その床に掛け軸も花器の花の姿もほのかに映されていなければならない…僕はひとり、床の間の前で枯れた山水画の世界の旅を夢想する。

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帰路、道路わきの紅葉は鮮やかだったが、お目当ての川の紅葉はすでに終わり、満足した写真は撮れなかった。しかし河原に降りると、風が吹き、一斉に赤や黄の葉がざーっと風に舞い、僕の頭に降り注いだ。

 

落ち葉の吹雪…川に落ちた葉は一斉に流される。もうこんな一瞬はやってこない。こんな奇跡のような景色を写真に撮る技術は僕にはないから、カメラをわきに置き、岩の上に座り、次の風が吹いてくるのを待つ。

五家荘は素晴らしい。秘境ゆえ、闇も光も、人の情けも、忘れ去られようとしている文化もほんのわずか残されている、ほんのわずか。どうか最後の葉の一枚が、軽薄な風に落ちませぬように。

 

2020.10.13

文化

巷では「学術会議」の任命問題がきっかけで「役に立つ、立たない」論争が起こっているらしい。はたから見れば「教養のある人々と」「ない人々」の論争、だから話がかみ合わない。かみ合わないから「教養のない人々側」は「教養のある人々側を」力でねじ伏せようと攻撃する。もちろん「学術会議の権威」のもとに居座る爺様、婆様もこの機会にぜひご退場いただきたい。

もう10年も前、たまたま京都大学の入学案内を手に入れた。その案内には学長からのメッセージがあって、当時の学長いわく「大学は教養を学ぶところ。本学は社会の即戦力になるような学生を絶対育成しまへん」と記されてある。「大したものだ」と僕は思った。さすが京大。

(僕は数年間、ニセ学生として京大に世話になっていた。)

 

今や、大学は就職率を競う専門学校になってしまった。高校も有名大学の入学者数を競う。折角大学に入ったのだから、元をとろうと、大企業に就職するため、勉強せずに2回生から就活するのだ。教養どころではない。そして大ブラック企業の兵隊となり即戦力の使い捨て、疲労し摩耗し役にも立たず、教養も得られず、最悪、精神を病み社会に帰らぬ人になる。教養のない人々の役に立つとはこういう事だぜ。

僕ごときが書くのもなんだけど学術や芸術を費用対効果で見たらだめなのだ。それらはそもそも数値化できない代物なのだから。ところが政治は違う。政治家のやってきたことがすべて数値化される。景気が悪いのもいいのも、1000兆円こえる国債も結果がすべて。なんの教養もない政治家に限って「何んーも、役に立たないのに税金!」と言いふらす。まず彼らこそ、AI人工知能に交代すべきなのだ。国会で居眠り、英会話を勉強する政治家の費用対効果はすざまじい。

 

嗚呼、最近怒りっぽくなった。これは「老化」のひとつらしい。(苦笑)

ネットで悪口、デマを飛ばす連中も無駄なプライドで脳が固まり「老化」しているらしい。

 

熊本の大手の製薬会社が「太陽の畑」とかなんとか言っちゃって、裏の壮大な面積の雑木林を全部刈り取り、森の生き物全部追い出し、ソーラーパネルを山一面にひき、自社の工場は全部自然エネルギーで「ゴミも分別してまーす」てな、脳みそを漂白された教養のないコマーシャルが僕は大嫌いなのだ。

豊かで、数えきれない生き物の命を育んできた雑木林と、ソーラーパネルの発電量を比較する愚かさ。全然エコじゃないじゃん。

五家荘はもちろん過疎地。森が役にたたないからと言って、自然林をなぎ倒してソーラーパネルを設置する人がどこにいるものか。五家荘の自然や文化は、そんな物差しで計れないものなのだ。

さて、現在停滞中の極私的芸術展の現状。もうダメなのかなと恐る恐る、陶芸家のH先生に連絡すると、現状の写真が送られてきた。僕のわがまま、無理な要望で、何度も取り組むも、うまくいかなかったのかもしれない。(無理な造形で、窯で割れるのか…) 先生も意地なのだろう。本気で取り組んでもらって本当に恐縮なのだ。

写真の奥の繊細なしずく状の造形…。設計通り、しずくの真ん中に丸い穴が開いている。手前に横たわるのはしずくの子供たち。焼き上がりはどんな色に仕上がるのだろうか?

極私的芸術祭、もうすぐ編。なんの役にも立たない極地。これらのしずくが出来たら、僕は一人森に入る。

そしてそのしずくの丸い穴から、向こうの世界を除くのだ。穴を通り向こうの森とこちらの森の空気が行き来する。穴はレンズか、過去と未来、時間のトンネルか?…そんなへ理屈考えなくていい…ただ穴を覗く。穴は「空」。その空の世界を覗いてみたい。

 

「空」とは般若心経で言う「空」の世界…

※多頭飼いで猫 ( 総勢 7匹 ) 世界化している我が家は、般ニャー心経

 

いつか、そのしずくが輝きだすのを待つ。

それだけで僕はよい、のだ。

 

2020.07.22

文化

(写真は京都・法然院)

7月になっても雨が続き、五家荘の山行きどころではなくなった。山に行けないストレスを解消するために、再度図書館から泉村誌を借りて読むが、内容が深く膨大でなかなか手ごわい。資料の山の迷路に彷徨い、出口が見えない。

 

ところで「極私的芸術祭はどうなった」と思い起こすに、立神峡の陶芸家、H氏から最近、何の連絡もない。

お互い人づきあいが苦手なほうで、特別な要件がなければメールさえしないのだが、私が発注したあの「しずく」のオブジェはどうなったのだろう。

 

一度、思い立って電話したが、「コロナ」問題で春に京都で予定していた陶芸の展示会も中止、生活も厳しく、いろいろな補助金の申請で忙しいと話していた。それにしても遅い…遅すぎると、気をもんでいたら、以心伝心、久しぶりにメールがくる。一応試作品ができたと、画像が送られてきた。

その画像とは…お願いしたものと、いゃ…ちょぃと違うような気がする…本体中央の穴は、僕の希望とおりにすると割れるかもしれないので丸い「トンネル状」にしたとある…その、トンネルの切り口があまりにもきれいで…機械的で、味がない…更に、色は、こんな色でどうですかって…濃い緑と書いて送ったのだが…この暗い、たとえようのない色は何だ…しかも色を聞く前に、自分で塗って焼いて…画像では確かに、すでに完成しているではないか…。

間に合うかと思い(…もう間に合わない)…色は緑に!と返信したが、その返事がない。再度電話するに、今度は携帯を無くして、これまでの携帯のデータが全部消えて、何の連絡も出来なかったとの事であった…先生…僕たちこれからどうしたらいいのでしょうか?

結果、予算を追加して、しずく2号 (2滴目) も制作してもらうことになった。

やはり造形は難しい…この世に存在していない形を自分の意志で生み出すのはそう簡単ではない。まず技術がないと粘土で丸い団子もつくれないし、短気な自分にはまず無理だ。土を何度も練り空気を抜き、指でするすると形を作る。その形に自分の思いを込め、焼き上げる。

般若心経的に言えば「色即是空、空即是色」だ。何もないところから、何かが生まれ、何かが生まれていそうで、実は何も存在していない。

 

森のしずく…森から滴る、しずくの一滴。その張り詰めた透明のしずくの中に、森の景色が映り、青い空に白い雲が流れ、鳥の声が封じ込められ、そしてポチャリ…消える。何万年もその繰り返し。ポタポタポタ…いくつもいくつも、しずくが落ちてははじけ、消える。

 

もうよい、まずはしずく1号をもって森に出かけようではないか…1号も、元は土からできた森の仲間ではないか。叩き割って、森に還すか。縄文土器のように、何かを包み込むため儀式の後、土器を地面に叩きつけて割るのだ。しずく1号を割り、その欠片を森に埋めた写真を撮ろう…。極私的に感じる、極私的芸術祭とはこのことじゃい。

しかし、こういう極私的芸術行為は他人に見られてはまずい。誤解を受ける恐れがある。しかし、ごみの不法投棄では断じてない。あくまでも芸術的な行為なのだ。(説明しても多分、誰にも分らぬ) 五家荘の山に自分のしずくを抱いて、パリンパリンと、叩き割り、こっそり、山に谷に、欠片を埋める。しずくの破片は時の破片。降り積もる木の葉に埋まり、土に埋まり、粉々になり森と同化する。…と、いう妄想を持ちながら山行きの準備をするにも、今年の長雨…まだやむ気配がない。

 

そんな雨の合間を縫い、ほぼ10年ぶりに京都に行く。

 

3泊4日、おじさんのふらり一人旅だ。宿は左京区浄土寺にある、2階建ての小さなホテルだった。地名から浄土寺。極楽浄土はすぐそばだ。その宿からは哲学の道、銀閣寺に道がつながるのだが、一番近いのは法然院だった。法然院には作家谷崎純一郎の墓があり、にわかファンの自分はその墓を見るのも旅の目的になった。早朝、大雨に打たれながらも参道を登り緑に苔むした山門をくぐる。山門を降りると、道の左右に砂山が見える。「白砂壇(びゃくさだん)」と呼ばれ、両側に白い盛り砂があり、水を表し、心を清めて浄域に入る意味があるとのこと、砂の上に書かれる文様は季節ごとに変わる。今回は丸い円が二つ。つまり雨のしずくなのだ。

水浸しの石の歩道を左に折れ、うっそうと垂れ下がった、緑の木々の奥に、石の塔があり、その奥に石で作られたオブジェ (何か安っぽく聞こえるな…) があった。

掌に乗るくらいの丸く磨かれた石が、天から垂直に降り、連なり、地面を連打している。

 

 

タタタタ、タタタ、タンタン、地球を打ったその丸い天体は、四方八方にしずくとなり、散らばる。ひたすらその繰り返し…僕にはそう見えた。

雨が降らなければ、その丸い天体は静かに天から舞い降り、静謐な景色を感じることができたかもしれない。

敷地内には、聞・思・得・修・信の板がある。これがこのオブジェの解説板なのだ。

 

雨がより激しくなる、山の斜面の竹林からひっきりなしに雨が降り注ぐ。…帰りに墓地に向かうが、とうとう谷崎の墓は見つからなかった。丸い自然石に直筆の「寂」という文字が刻まれているそうだが、早朝、一人「寂」の気分を感じることができてよい。稲垣足穂の墓もあると聞いたが、こんなに雨が酷ければ、好物のシガレットも湿気って、火もつけられなくて退屈だろう。

 

タタタタ、タタタ、タンタン…タン…タン…タン…

聞・思・得・修・信…

 

 

2020.05.06

文化

僕の自宅は世界産業遺産に選定された小さな港の中にある。2階の窓からは海と島々と、世界遺産に選ばれた石積の岸壁を眺めることができる。そこで釣り人は世界遺産に選ばれたその石積の岸から竿を振り回し、贅沢にも釣糸を垂れるのである。(ほとんど釣れない)。世界産業遺産なぞ、言い換えればつまり「世界誤算」なのだ。誤算、つまり見込み違い。見込み違いで発展せずに現代に取り残されてしまったシロモノ。そんなものに(今更)スポットライトを浴びせるのが、おかしい。そんなものは粘菌がこびりついた石垣に頬ずりする日陰住いの特定のオタクのものなのだ。観光バスで乗り込み、団体でスマホ片手にぞろぞろ景色を眺めお土産を買う観光客の来る場所ではないのだ。産業遺産を観光に結び付け成功した事例を僕は今まで聞いたことがない。

五家荘でも久連子にある資料館が取り壊される危機にあると聞いた。(もうとりこわされたのか…)そもそもあんな山奥にたくさんの人を呼ぶのは至難の業だ。来客数を競うのでなく、久連子フアンを作り、その連中がクラスター(今は不謹慎な言葉…)となり、じりじり久連子オタクを増やせばよかったのかもしれない。久連子は民俗学オタクの宝庫なのだ。今ある垢ぬけた資料館でなく、もっと薄暗い、神秘めいた建物の方が余程、オタクは喜んだに違いない。今はトンネルができて便利だが、これまでの川沿いの悪路、断崖絶壁の(落石注意)悪路をふらふら歩き、ようやくたどり着いた集落の広場に杉の木立の陰から、踊り手が現れ、チーンチーン鉦の音が響くと久連子フアンは歓喜のめまいで倒れる(成仏する…)に違いない。余談だけど、以前、真冬に訪れた時、民家の前、かき集められた雪の塊の上に立派な角をした雄鹿の生首が置いてあって驚いたことがある。

今や久連子踊りは平家の落人が都の栄華を偲んで踊るものと、イメージが紐づけられているが、昔の資料によれば「念仏踊り」と呼ばれ、「新盆に帰ってくる人」の家の庭で、舞われていたそうだ。山間の集落の片隅、送り盆の日に、黒い鶏の羽を笠に着け、鉦を鳴らして踊る久連子踊り。黒く長い久連子鶏の羽がくるくる回り、笠の下の舞い手の顔も暗い影に隠れて見えない。太鼓とチーンチーンという鉦の音が響き、森と空にスッと吸い込まれて、里帰りしてきた魂も名残惜しそうに虚空に消えていくのだろうか。

民俗学者宮本常一氏の「山に生きる人びと」(1964年)には念仏踊りの起源が詳しく記されてある。「一遍上人」の全国念仏行脚が踊りの起源で、上人は人々を往生に導こうと寺も持たず、念仏を唱えながら放浪の旅を続けた。戦で亡くなったり、野垂れ死にした人や、不慮の死を遂げた人の為にも念仏を供養したらしい。そんな者の霊は、そのまま地上にとどまり悪霊と化し、人々に災いをもたらすと考えられていたからだ。

一遍上人は、京都男山・高野山をへて熊野に至り、そこで「霊夢」を受け、全国への念仏行脚を決心した。不慮の死体にも念仏を唱え、その骨を高野さんに運び、埋葬した。骨を高野山に持って登ることを「骨のぼせ」といい、一遍の流れをひく僧たちは「高野聖(こうやひじり)」と呼ばれることになった。

もちろん今や念仏踊りは各地でスタイルを変え、雨乞い、豊年踊り…イベント踊り(苦笑)と変容した。要するにみんなが踊って幸せなら、一遍上人も良かったのだろう。上人の思いは「誤算」ではない。

余談…

僕の名前の1文字「真(眞)」は高名な漢字学者の白川静先生の辞書「常用字解」(平凡社)によれば…「眞」の意味は、上のヒの意味は人を逆さまにした形で死者の意。下の県の意は、不慮の災難に会った行き倒れの人の事。このように思いがけなく命を落とした人の怨霊は強い力を持つ。そして眞を要素とする文字は怨霊を恐れ、慰める儀礼に使われる文字となる。慎む、(つつしむ)鎮める(しずめる)、瞋り(いかり)…結果、真は死者で、それは変化するものでなく永遠のもの。それが今の真の文字の意味となったそうだ。僕の父方の親戚は眞の字がつく者が多いが、性根は成仏しない悪霊だらけ、仲が悪いのもその字のせいかもしれない。お盆に親戚全員で念仏踊りが必要か。

そこで、また調べるに白川先生漢字人生90年のただ一人の天敵、藤堂明保先生の登場だ。藤堂先生の「漢字源」(学研)によれば「眞」のヒは「さじ」の意味で、匙で容器に物を満たすさまを示す意味。充填(欠けめなくいっぱいつめる)の原字。眞はまこと。うそや欠けめがない充実している意味。平凡社の大船団VS学研の小舟。

さまよう僕(真)の魂…行き倒れか?お腹いっぱい充填の真か?

一遍上人の流れをくむ「念仏踊り」か?文化誤算の「イベント踊り」か?

「高野聖(こうやひじり)」…昔読んで今は忘れた(苦笑)、泉鏡花の幻想文学の代表作であり、コロナ(疫病)の自粛中に、再読せねばならない。

 

 

2020.03.23

文化

五家荘にも春がそろそろやってきた、ようだ。

ようだというのは1月以来、山に行けず、山の知人のOさん、Mさんのフェイスブックによるリアルな登山情報、イベントなどから推測するだけなのだ。福寿草の時期も終わり、今では山桜がぼちぼち、今年は暖冬だからカタクリの開花はどうだろう。いろいろ想像するのも楽しい。今年はなんとしても、ギンリョウソウに会いたいものだ。(ぎんちゃん!)

左肩の腱板断裂も良心的な整形外科(セカンドオピニオン)のリハビリのおかげで手術せずにほとんど完治。リュックを背負っても痛みも感じなくなった。ところが1月の成人の日、駅前でこけて左膝の内側の靭帯損傷、全部切れたわけでないけど今も同じ整形外科でのリハビリが続く。悪運が強い自分だが、こうも次から次へと怪我が続くものか。(苦笑)さすがに五家荘の山には本当に登るのではなく、いざ、登山口を前にすると歩くのが精いっぱいなのだろう。それでも春の山が待ちどうしい。

年末に、いろいろ思いつくに、朝ドラマの影響もあり陶芸の世界にも冷やかしで手を出そうと思った。ネットはこんな時は便利でいろいろ検索するに、ちょうど五家荘へ向かう道の途中、氷川町の立神峡の公園の敷地内に、陶房があった。早速そこに陶芸体験の申し込みをする。12月の始め、電話で申し込んだのは僕一人、陶房の主の平木氏のマンツーマンの贅沢な指導を受けることが出来た。

その頃の僕は、縄文土器、土偶の魅力に取りつかれ、いろいろな資料をあさり読んでいた。縄文時代の荒々しい土器、土偶の作品のなんと素晴らしいことよ。縄文時代は今からはるか昔、1万5千年前から5千年前までの長い時間帯のなかにある。平均年齢は約30歳。彼らの短くて濃い生は自然とともにある。亡くなった命は祈りにより生まれ変わると思われていたようだ。もちろん、そんなだいぶ前の事、確証できる証拠はないのだけど。村に死人がでると、彼らは転生を信じ、祈りの言葉の後に、土偶を割り埋葬したようだ。埋葬方法は屈葬と言われ、狭い穴に膝を折り曲げ、胎児のような形で葬られ、、また転生して甦ることを期待されていたらしい。九州には本州(中部、東北に比べ)ほとんど縄文の遺跡はなく残念で仕方ない。

ちょうど頭の中が縄文君でいっぱいの時に、陶芸教室で作品作りを始め、先生の「どんな作品を作りますか?皿ですか?カップですか?」という質問に、つい「縄文土器です。」と答えてしまった。「じょうもんしき?ですか?…」絶句する師匠。僕の壊れた脳の中から「縄文土器の素晴らしさの言葉の連射攻撃が始まる」戸惑う師匠。

(こんなバカには、早く作業をさせるに限る)「ま、まず、土を丸くし、どんどんと、叩きつけ、ちぎり、今度はその土を引き延ばし、長いヒモをつくります…」

「これが縄文式土器の原型、大きなミミズのようなヒモですね」

同意する師匠。「そ、そうですね…そのひもを今度は丸く筒の形にぐるぐる積み上げ、カップの原型を作ります。」

(言うことを聞かないから後で失敗する)「このまま縄文土器の原型ですね。縄文土器の一部の物は火焔土器と呼ばれ、一番上部には、炎が舞い上がり、とぐろを巻き、炎が湧き上がるものがあり、これがなんとも言えず、すごいんです」重いろくろを回しながら、土のミミズを積み上げる。

師匠…ついに、スマホで「縄文火焔土器」と検索始め「こりゃ、すごいですね」ツイツイとスマホの画面を指先で右に左に土器の画像を眺め始める。

しばらくの間…

「あの…一応、ツボのようなものが出来ましたが…」

「あのう…」師匠はスマホに見入っている。

「あ、そこからですね、水を手に付け、ろくろを回し、こうして内側から形を作り始めるとです…」いちおう、大きな湯飲みのようなものが出来た。(冷や汗)

「次はもう一個、お茶碗か何か作りましょう。さっきと同じ要領で、土をちぎり、大きなヒモを作り、もうだいぶわかりますよね?」理屈では分かっても、手が言うことを聞かない。何故かそわそわ焦り始める師匠。僕との縄文の会話で時間超過。どうやら次に予定があるらしい。

「ありゃぁーっ」やっぱり失敗。途中までお茶碗の形のものがだんだん、ふにゃふにゃに変形してくる。たまりかねた師匠。「ちょっと代わりましょう」

そういって僕の得体のしれない、茶わんなのか湯飲みなのかわからないものが、プロの手際のよい作業で、平たい皿に変身する。

そこで完全時間切れ。「後、やつときますから…焼き上げたら連絡します」

「あのー、色は?」

「あ、そうですね塗って仕上げときます」

「選べるのなら、青にしてください」「わかりました」その後、僕は近くの温泉に入り、バスがないことに愕然とするも、JRの有佐駅まで約1時間半、歩いた。

そうして年が明け、出来上がったのがこの作品。裏には勝手に「真」という印も押されてある。要するにほとんど、師匠が作陶したものだけど、参加費2500円で2個出来たので上出来なのだ。カップは本来、マグカップになる予定だったが、取っ手を師匠が付け忘れ(!)、座りのよい大きな湯飲になった。※付け忘れてもらって良かった。ぼくはマグカップがそもそも嫌いなのだ。

この2点をもち、苔むす森の中で写真を撮ったらどうだろう。滝の水を汲み、ドングリを並べ、木々の葉をならべたらどうだろう。もともと陶器は土から出来たもの。

これぞ、極私的芸術祭。もちろん希少な草花をちぎって皿を飾る愚行はしない。

修行時代、平木師匠は毎日、数百個の湯のみ、茶わん、皿を機械のように作った(仕事として作らされた)という。短気な僕には陶芸の才能も皆無、やってみて、これ以上は先に進むのも無駄と分かった。

先日、師匠から窯開きの案内をもらい、陶房を再訪した。そこで再考したのだけど、今度は僕の望む作品そのものを、師匠に形にしてもらおうと思った。頭の中で大まかな形をスケッチする。

深い森の中で、そのオブジェはたたずみ、風を通し、緑を映し、雨に打たれ、蟻が這い上がり、森の獣がにおいを嗅ぎ、星を眺め、苔むし…光る(ようなもの!)

その「ようなもの…」とは、縄文人が考えたものの足元にも及ばないが、そのようなものを通して五家荘の森の深さ、時の流れを感じることが出来ればいいなと思う。まさにこれからが山の「極私的」芸術祭の準備期間なのだ。

世相を見るに縄文人の方は現代人より、はるかに文化度が高い。1万年もの間、戦争した形跡はないし、時に埋葬した墓地を掘り返し、再度骨を集めて同じ場所に埋葬し直した遺跡も多々発見されている。要するに、血がつながっていなくても仲間同士を大きな家族とみなして共存する思想があったのだ。当時から犬を可愛がり、犬も家族の一員として暮らし、時に人と一緒に埋葬された。なんとやさしい人々よ。そんな時代の中で、土偶や土器、女性を飾る美しい勾玉など豊かで美しい発想が生まれるのは、文化度が高い証拠ではないか。

縄文時代は厳しい自然環境の中で1万年続いたけど、目に見えないウイルスに脅える現代人はあと何年生き延びれるのだろうかね。そんなときゃあ、ひとまず五家荘の森の中に逃げるに限る。

2019.10.06

文化

9月は全く五家荘の山には行けなかった。このままでは10月の山行も怪しそうだ。何もひどく体調が悪いわけではないが、今年は3回も脳外科でCTを撮った。先生曰く、全然どうもなく大丈夫という事だが、山に行くなら11月の紅葉の時期まで、今から体調を整え万全を期すしかない。

というところで、家で大人しく座学というか、色々山の本を漁るのだけど、やはり泉村誌が一番面白い。

五家荘は歴史や伝承にも謎が多い地域で、例えば、有名な平家伝説だの、菅原伝説など、さんざん書き尽くされてきたテーマで、これは僕のような素人が、調べ出したらキリがない。歴史の霧の中で道に迷い、自分で仕掛けた罠に落ちる可能性もある。

それでも村誌を読んでいて深いというか、面白いというか、じっくり考えていたら時間が足りないのだ。そんな村誌の中に僕がこれまで全然知らなかった、隠れキリシタンの資料が紹介してあった。五家荘にも「隠れキリシタンが居たのではないか?」という記述がある。

出自は不明だが、当時の五家荘に潜む「隠れキリシタンの唱え」が紹介してある。

・その唱えの内容とは

『 デウス、バテレン、ひいりよすいりつサントを初め奉り、サンタマリア諸安所へ

後の罰を蒙りティウスのからさたえはてしやうすたすのことく頼母子を失い

後悔の一念もきさすして人々の嘲り終いに急死するときんの苦しみ悩みに苦しみをおもうこともあります。 』

 

・「デウス」はキリスト。

・「バテレン」は神父。

・「サント」は長崎のサント・ドミンゴ教会のことか?

・サンタマリア諸安所(キリストの母のいる安らぎの場所、天国の事か?)

・「ティウス」(ローマ教皇?)

・「頼母子」(頼もし講…地域の互助組織、お金を融通し合う仕組み)

 

唱えとはオラショのことだろう。日本のキリシタン用語で「祈り」の意味。ラテン語のオラシオ(祈祷文)の響きがこうなったそうだ。禁教令で神父が日本から追放されたので、正確に伝えられずに、隠れキリシタンの農民、漁民の信者だけで口伝され、方言、聞き間違いも重なり、時間の経過とともに独特の唱え(祈り)の言葉に変化したもの。長崎の生月島では今でも伝承されている。

深い海と深い山。天草と五家荘は昔からつながりがあったのだろう。村人は山の厳しい暮らしに耐えかね、時に集団で逃散し、山を降り、天草に向かうが、引き戻される。

五家荘は以前「天領」だった。「天領」つまり幕府の直轄地で、通常幕府が管理している豊かな土地が多いそうだが、五家荘は違った意味で天領になった。当時の庄屋の横暴な支配で度々、もめ事があり、「もう我慢できんたい」とみんな村を出て、連れ戻される事件が起こった。ようやく落ち着いたかと思うとまたもめ事。そんな繰り返しに手を焼き、五家荘は天領地になった。

当時の熊本は天草の乱の始末で荒れ果て、五家荘のような山奥まで統治する余裕もなかったようで、今度は天草の代官所が見張りながら、役人が海路、陸路を使い五家荘の管理に出向いたのだ。もちろん五家荘の現地調査と合わせて、隠れキリシタンが潜んでないか、絵踏みをしながら調査役は幕府にリポートするのだ。

その中でも有名なリポートが、約200年前、天草代官所の内藤子興(ないとうしこう)が著した「五箇荘紀行」で、内藤さんは絵描きも同行させ、カラーの挿絵、俳句、漢詩付きの言わば当時の総天然色五家荘ガイドブックを作った。一見、歌川広重の東海道五十三次風の絵のようだけど、版画ではなく筆で彩色してある。

リポートは山、山、山を越える苦労談と深山独自の村人の暮らしぶりや文化、地域の地図が緻密に記されている。以前、僕はその絵のコピーをイベントで見たことがあるが、今でもその絵の原寸大のコピーが欲しくて仕方ない。(誰かその内容を今風のタッチでよみがえらせてくれないだろうか、僕は間違いなく買います1冊 ) その中で今の久連子踊りの絵や、森に棲む、むささびの絵、久連子の庄屋の緒方信太の奥さんが捕まえた、猫くらいの大きさの熊の子にお乳をのませて育てている絵も面白い。

肝心の「絵踏み」は、次第に人の集まるイベントとなり、市がたち、いつのまにか村人のお祭りのようになり、盛り上がり過ぎて役人から叱られたそうだけど。(このあたりが山人のたくましいところ!)

当時からの繋がりか、(実際、天草に移住した村民も居た)今でも、山の水がダムに堰き止められ、天草に送水されている事は歴史の深い因果の結果なのだろうと泉村誌には締めくくられている。

ところで、泉村誌に記載されている、隠れキリシタン唱えの出所はどこなのだろう?何時頃、どこで発見されたのか?僕にとって、また大きな謎が一つ増えた。

天草の乱(1637~38年)のきっかけは悪代官の悪政。農民の能力(年貢)の倍のノルマをかけ続け、今で言えば、消費税200%以上。みんな食うや食わず。天候不順の年で、食べ物が収穫できない年でも相変わらず、役人は年貢を取り立てにくる。このまま家族みんなで餓死するくらいなら、異国からやってきた神父さんの言う事を聞き、みんな平等なんだと言う、キリストの教えを信じ、天国に行こうと思うのも無理はない。

五家荘も同じ。村人が山の厳しい暮らし、庄屋の横暴に困窮し、騒動、逃散を起こす、そんな中で、山の中にもキリシタンの教えがひっそり伝わったのだろうか。

柳田国男の遠野物語にも東北の隠れキリシタンの記述があり、幕末以前の隠れキリシタンについて「附村牛村誌」に次のように記されてある。

『(中略)昔遠い国からの落人と伝える人達の中にはキリスト教に対する迫害を逃れての落人ではなかったと思われるものがある。(武士の名前)彼ら兄弟は、甲斐の国からの落人と言われるが、大原町から逃れてきたキリスト教徒であったことは確実な様である。その他、村内では家によって、葬式の時の一杯ご飯に立てる箸を普通二本揃えて立てるのを1本は横にして1本は横にして十字の形にするところがある。これはその先祖のキリスト教の遺風を、それとは知らずに受けついでいるものであると云われる。』

時代は偉人がエラソーに作ったわけではない。彼らがエラソーに作ろうとするから、時代はいつも混乱し、貧しい民は苦労するばかり。

 

【五家荘の唱えの極私的超訳】

『 キリストさんの事を神父さんに教えてもらい長崎のサント・ドミンゴ教会を初めて知り、私はマリア様の居る安らぎの場所へ行きたいと思い、キリスト教を信じました。

それがばれて、後から罰を受け、身も心も疲れ果てました。頼母子講での生活費の工面も断られ、キリスト教を信じることを後悔もしました。

周りの人々からはあざけりを受け、死ぬほどの苦しみ悩みを感じ、それでも皆の罪を背負うキリストの心の苦しみを思うことがあります。(そんな時でも、キリスト様を信じ、思うことがあります。) 』

 

五家荘に残された唯一のオラショ。読めば読むほど悲しみが湧いてくる。

キリシタンには「水呑みの時の唱え」「山に入る時の唱え」「種まく時の唱え」「家のお祓いの唱え」「寝る時の唱え」があるらしい。いつも神と一緒なのだ。

 

以前、長崎に行き、黒崎地方の枯松神社に行ったことがある。枯松神社は、日本に三カ所しかないといわれるキリシタン神社で、静かな雑木林の中に小さな社があり、まわりはキリシタン墓地になっていた。

江戸時代、隠れキリシタンが密かに集まりオラショ(祈り)を捧げ、伝えてきた聖地で、祠の手前にある“祈りの岩”と名付けられた大きな岩があり、迫害時代に信者たちは、寒さに耐えながらこの岩影でオラショを唱えていたと伝えられていた。一枚の平たい岩の上で(その岩はおよそ20人近い人が乗れる広さだった。)彼らはその岩に乗って、老若男女、みんな暗い夜空に向かい、一緒に天国に行こうと一心に祈ったそうだ。

僕はその岩の事を思い出す。

畳の上で、五家荘の唱えをたどたどしくつぶやいてみる。

2019.08.20

文化

脳内には「記憶の森」がある。生い茂った樹々、頭上から垂れ下がるツタ。足元には苔むす、岩々…

そんな薄暗い景色の中に、踏みしめられた記憶の小道が見える。

8月は家の事情や気候の都合もあり、ほとんど五家荘には行けなかったのだが、森に行けない分、自分の脳内にある、記憶の森の小道をたどることにした。森の小道は行きかう記憶がなくなれば、時に浸食され、道は消え、そのうち無くなってしまう。

不思議なことに白い記憶の中から小道が突然現れ、その小道の向こうに思わぬ景色を眺める場所に出くわす時がある。そんなことを頭の中で考えていると、ますます僕の脳内は迷宮のようになっていくのだけど。

今年の夏は騒々しい夏だった。ツィッターを始めてみて、夏の騒々しさの原因はツイッターが発信源となった。テレビや新聞で報道しない、報道できないことがツイッターの中では、拡散され、人々の綿々としたツィート(つぶやく)が帯をなす。いや、つぶやきどころか、叫び、ののしり合い、デマがばらまかれる。

 

※今夏の愛知の美術展の表現の不自由騒動。

 

熊本市にも現代美術館があり、街のど真ん中でこれまで、ユニークと言うか公立らしからぬ企画展を実施されてきた。開館したのは2002年。僕は幸運にも初代館長の田中幸人さんに話を聞く機会があった。田中さんの短くて密度の濃い人生の時間を分けてもらった。氏曰く、熊本市から館長就任の打診があった時に就任の条件として現代美術館が市の教育委員会の管理下でないことを出したそうだ。

教育委員会の傘下だと、まったく美術、芸術の事を理解できない連中があれこれ口を出し、

「あれはダメ、これはダメと言い出し、何もやりたいことが出来なくなるわけなんだよね」

「それでは館長を引き受ける意味がない」と語った。

そして、熊本市はその条件を飲み、氏は初代館長に就任したそうだ。それから氏はこれまでになかった独自の企画展を精力的に開催された。

僕は「日本人の心」だの、そんな心はどこにあるのかと思う。教育委員会のおじさん、おばさんたちは、そんな心は、美しい田舎の、田園風景の中にあると信じているのだろう。(だったら何故、自然を破壊し、無駄なダムをつくり、海を干拓するのだろうかね)

そんな居眠りしそうな心地いい景色だけが芸術だと信じている人は、そのまま昼寝しておいて欲しいと思う次第。(しかもすぐ値段を聞きたがるしね)

心地の悪い表現でも、得体のしれない表現、何か自分の心に引っかかる表現の方が「心地よい絵葉書のような作品」より面白いに決まっているではないか。もともと「表現」なんて得体のしれないものなんだし。答えなんてあるものか。

田中さんとの会話は「ちょっとだけなら」と言う氏の条件を、氏自身が熱弁をふるい、僕にとっては貴重な1時間となった。

 

※我が「極私的五家荘図鑑」はすべて自費でアマゾンで発行販売中。1円も公金、税金、補助金なぞもらっていない。もちろんマスコミでの紹介、報道もなし。自慢じゃないが、「地域興し、地域創生」でも何でもないし「芸術性のかけらもなし」何の役にもたたない。

 

話の流れで僕は田舎の事を聞かれ、宇土半島の突端と答えた。氏は新聞記者時代から、装飾古墳壁画をはじめ民俗学、人類学にも造詣が深く、当時の古墳調査は地元農家とのせめぎあいだったという。農家は古墳調査をさっさと終わらせ早く、金になるミカンの樹を植えたくて仕方なかったそうだ。

そんな中で、ようやく小田良(おだら)古墳は保存されたようで、その古墳は今も海沿いの草原に堅牢に保全されている。

(※県立装飾古墳館にレプリカが展示中。)

田中幸人さんは館長就任後、わずか2年後の2004年すい臓がんで亡くなってしまった。

脳内の記憶の小道…その小道は、今年の6月に母校、三角中学校の還暦同窓会の場で違う小道につながった。およそ、45年ぶりに再会する同窓生、その場で小田良に住むマンゴー農家の若本君に会い、古墳の話をすると、若本君いわく、「そうそう、高校の時に(友人の)三郎と小田良に帰ると、バス停の近くで何やら、オジサンたちが土をほじくり返していて、俺らにも手伝ってくれと、言うたとたい。」そこで若本君と三郎は腕まくりして必死で土を掘ったら、勾玉がぞくぞくでてきて、更に、三郎は立派な銅剣を発見したそうだ。

二人の心はときめいた。

明日の地元の新聞には絶対二人の写真が掲載され、「有名になるばい」と期待した。もちろん、二人の写真も名前も掲載されるわけがなく、発見者は教育委員会となっていたそうだ。そういいながら若本君は、残念そうに陽に焼けたマンゴーのような頭をかいた。

しつこい僕は更に更に、脳内の小道をたどる…

田中幸人さんが全国紙の新聞記者時代の相棒、Aさんの事も思い出され、アマゾンで検索すると、Aさんが熊本支局長時代に五家荘を民俗学の見地から調査されまとめた本が、「アマゾンの密林」から見つかり、早速その本を取り寄せ読むに、更に、小道には奥があり…僕の夏休みの宿題となったのだ。

まずは、近々、小田良古墳の見学に行こうと思う。

2019.02.03

文化

暖冬と言えども、まだまだ五家荘は冬ごもりの季節。自分は運転・登山禁止の身で、山の先輩OさんやMさんのフェイスブックでの情報、画像で、五家荘の冬山を想像するしかない。

時間が薬とも言われるけど、暇で仕方がない時がある。1月半ばに何とか待望の八代市図書館から「泉村誌」を借りることができた。通常は持ち出し禁止の大型本なのに、ネットで検索するに、運よく貸出可能になっていた。おそらく入力ミスのせいだろう。しかし、喜びもつかの間、八代エリアに住んでいる人以外には貸し出せないとのこと、それをなんとか、僕の地元の三角町の図書館から貸し出し依頼をかけてもらった。

僕の自宅から図書館までのバスは悲しいかな1時間に1本。帰りは更に待ち時間が1時間もあり、泉村誌をリュックに背負い、三角港に浮かぶ貨物船を見て時間をつぶした。
紺色のニット帽を被り、無精ひげを生やし、杖を突いてほくそ笑む中年男はかなり怪しい。

泉村誌は僕にとって宝のような本だ、この1冊に五家荘の自然、歴史、文化の情報がびっしり詰まっている。こんな村誌はそうあるものではない。そもそも泉村という存在が魅力にあふれた博物館なのだ。

 

前回の雑文録で紹介した、久連子兵士の像の由来もすぐに分かった。像ではなく、墓と言うことも。これらの像は昭和12年、日中戦争で戦死された兵隊さんの墓で、久連子村の陸軍歩兵上等兵仲川武一、上田音次郎、川野菊己、陸軍歩兵軍曹中村源三郎、4氏の戦地での活躍を称え、記念するものなのだ。除幕式の参加者、村民約200名。

像はセメントで作られ、当時は鮮やかに彩色されていた。軍帽のふちは紅く、眉と瞳は黒く、唇は赤く、銃を執り背嚢(はいのう)を担いでいる。制作者は石工の梅田重作氏で、栗木村で製造され、久連子村民の手で難所の笹越峠を担いで運ばれてきたと記述がある。しかしその後、戦が長引くに連れ、村民の戦死者も急増すると合同町村葬が増え、新聞の「本日の町村葬」の記事も簡単になっていった。その慣行は太平洋戦争が終わるまで続いた。

像の建立は、地域住民の結びつきが強い五家荘ならではのものだろう。像を抱えて笹越え峠を越えた若者たちの思いはどんなものか。ついこの前まで、森の中でともに遊び、川で泳ぎ山女魚を釣った仲間達が、遠い戦地で亡くなるなんて。峠越えの急な坂道、額の汗をぬぐいながら、ぼたぼた涙もこぼれたろう。「みんなおかえり、よう帰ってきたな」「もうすぐ着くけんね」と。

僕の亡父は昭和2年生まれで、10代で戦争に行った。祖母は「なんでこんな子供が戦争にいかなんと」と嘆いたそうだ。父は三角線に乗って鹿児島に向かう。前夜の壮行会はそれなりに派手だったのだろうが、戦争末期の招集令状は、要するに死んで国土を守れとの指令なのだ。祖母は父におにぎりを持たせ、満員の列車に乗り込み、人にもまれた父が鹿児島駅に着いた時は、母の握ったお握りは半分腐りかけて、白い糸を引いていたが、父は頑張ってそれをほおばったそうだ。

それから父は沖縄に渡り、敗戦を迎える。ブルドーザーで沖縄の人々、日本兵の死骸を押しのけて整地する米軍の手伝いをして、骸骨のように瘦せ細って三角線で帰郷した。

今の沖縄の普天間基地は基地の仕事にありつこうと、沖縄の人が勝手に集まってきたという、デマを吹聴する者がいるが、もともと沖縄の人々の土地家屋を米軍が略奪、破壊して整地した基地なのだ。

戦争は誰しも嫌なものだけど久連子の兵士像のように、全国各地で個人の死を祀れば、日本中、ものすごい数の兵士像が建立されたに違いない。兵隊さんの死は、新聞のお悔み欄の1行で終わるものではない。

久連子古代踊りのルーツは念仏踊りとも言われ、主にお盆の出し物として舞われ、新盆に帰ってくる人の家の庭でも舞われていたそうだ。ドンドン、ドンドンという乾いた太鼓の響きが青い空に吸い込まれ、チーン、チーンとなり続ける鉦の音に慰められながら、久連子兵士の像も雪をかぶり、苔むし、朽ち果て、時の流れにほろほろ、ほどかれていくようだ。もう背負った重い背嚢は降ろしてくださいな。

2月の中旬は久連子では福寿草祭りが開かれ、福寿草を見に行く多くの登山客で賑わう。
福寿草の開花も久連子の里まで降りてきて、兵隊さんの足元にも春がやってくる。

残念ながら、泉村誌にも久連子岳へ向かう中腹に置かれた子供を抱いたお地蔵さんの由来(明治20年久連子村建立)は書かれていなかった。

 

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