熊本県 八代市 泉町(旧泉村) 五家荘
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雑文録

2018.03.16

山行

猫の小弾(こだま)の病状が落ち着いて本当に良かった。数日間何もたべず、口からかすかに「ひゃー、ひゃーと」鳴き声を漏らしては部屋中吐きまくっていた。町内の動物病院に連れていき検査をし、栄養剤を打ってもらい、何とか体調が戻ったのだ。純粋無垢で粉雪のような小弾。一時期、猫の子供言葉で励まさなければもう治らないとさえ思った。作家の町田康さんの本で「猫にかまけて」という本の猫の写真が小弾そっくりで、町田さんの猫は白血病で亡くなってしまった。

「かわいい、かわいい小弾ちゃん、お体の具合はどうですか?おっちゃんはとても心配していました。あれだけ元気で大食漢の小弾ちゃんが急に元気がなくなっておっちゃんの心は心配だらけだよ。一度でいいからご飯の時におっちゃんの肩に乗り、肩乗り猫に変身し手からごはんを食べてくれたらおっちゃんはこんなうれしいことはありませんよ。お兄ちゃんの寛太も心配しています。早く元気になってくださいね。」

さて、それから4週間後、僕は病院のベットの上でこの原稿を書いている。うちの婆さん(実母)曰く、「そぎゃん、猫にかまけてるからこぎゃんなったとたい!」僕は点滴の下がる腕を振り回し即座に否定した。「猫は関係なか!猫たちがいるから俺の命は助かったったい!」

僕は1月26日自宅でくも膜下出血を発症し、翌日救急車に運ばれて開頭手術を受け、運よく一命をとりとめてリハビリの最中にある。

くも膜下出血というのは脳の動脈瘤が破裂し、脳のくも幕の部分が出血し、死ぬほどの頭痛を感じる病気で死亡率50%、助かったとしても脳の動脈を触るので殆どの人々に後遺症が残り社会復帰も困難な病気だ。発症後の存命率わずか!(ネットにはろくなことが書いていないぞ!)先生の説明によると僕の血管はクモ膜下の前に脳梗塞を起こし、その血管に動脈瘤があり、その破裂した瘤の首の部分にはチタン製のクリップが3か所止められてあり、止血してあるという。手術時間9時間。もちろん全身麻酔で記憶などないが、術後、家内と妹はその手術のビデオを見せてもらったらしい。(僕が見たら今でも卒倒する)それから2週間、僕の体は血圧だの心電図だの痛み止めなどたくさんの測定機器や点滴を下げられ、身動きもできない状況にあった。のどが渇き、スプーン一杯の水をもらうのにさえナースコールが必要なのだ。その2週間中に、再度動脈瘤が痙攣し破裂またはすれば、脳梗塞、意識不明となる可能性が高いそうで、もし、そうであれば最悪僕の意識は途絶え、あの世行き、火葬場の赤いレンガの台の上で肉体は焼かれ、後には割れた白い頭蓋骨とチタンの小さなクリップが3個残されているのだろう。

病気の原因は真冬の寒さと過労と高血圧、深夜無理して食べた牛丼の大盛にある。今で言うヒートショックが原因というわけだ。その夜の気温は熊本でもマイナス3℃の氷点下で市内から自宅まで2時間、疲れた体で僕は車を運転していた。元気をつけようと食べた牛丼が僕の胃をもたらせる。弱くなった胃の消化を助けようと脳から酸素がどんどん運ばれたのに、半分酸欠じみた僕が自宅の凍りついた部屋で裸になり一気に着替えたのだ。そこで酸欠興奮状態の動脈が破裂し、脳のクモ膜下一面に血が飛び散った。普通ならそこで救急車を呼ぶところだが、明日の仕事の段取りもあるし、痛みが引くのを我慢し繰り返しやってくる悪寒に体を震わせながら炬燵の中で毛布にくるまり、夜が明けるのを待った。翌日僕は血だらけの脳をだましながら、(ちょいと頭がグラグラするなぁ…)首の後ろにカイロを貼り付け、自力で車を運転し、熊本市内の脳外科に向かった。

30分程運転し、車に酔い途中で消化不良の牛丼を車内で噴水のように噴き出し嘔吐した。しばらくシートを倒し、体を休め、それからまたハンドルを握り、会社の近くの脳外科に行く。脳外科でCTをとり、先生が曰く、「今からS病院に行きなさい!(うちじゃ手に負えん!)」僕は聞き返す。「自分で運転していけばいいすか?」先生は「違う、救急車!今から呼ぶからっ!」つくづく僕は強運の持ち主なのだろう、頭の中は血だらけ…それで1時間、運転してくるなんて。ちよっとの力み具合で僕は問答無用、即死だったのかもしれない。

死んだらどうなるか?そんな不安や考える暇があるはずない。何しろ脳の大けがだ。手も足もでない。反抗のしようもない。自分を励ましようもない。すべては運に任せるまま。全身麻酔の包み込むような柔らかい浮遊感のまま、死の世界へたどりつくだけなのだ。泣きたいとか苦しいとかの感情も沸かない。土曜に入院後、手術は月曜になった。造影剤入りのCTで体中熱くなる。手術までが長いことよ。ああこのまま死ぬのか。仕事の打ち合わせ引継ぎを病室でする。デザイナーのI君が驚いてやってくる。こんな時なのに頭にどんどん引継ぎ内容が浮かんでくる。月末で支払いもあるしなぁ。「俺が死んでも頑張ってくれと言う」人生を達観しているI君は苦笑していつもどおり冷静な反応だ。

月曜日全身麻酔で眠りについた俺は運命のすべてをM先生に委ねた。それから9時間後、意識の戻った僕にそれから集中治療室での辛くて長い2週間が始まった。僕には僕を子供のように、かわいがってくれた叔母がいて、その叔母も濃脳梗塞で約11年間、意識不明で寝たきりとなり、昨年亡くなった。さすがに僕だって数年間の意識不明は嫌である。意識不明の僕の意識はどうなる?そんな疑問が脳の中をかけめぐる。

僕が横たわっていたのは脳外科の緊急病棟で、白い板で仕切られ簡単な病室にある。そんな部屋が4部屋並べられていて、後はカーテンで囲われたベットが20床ほどある。みんな脳梗塞や出血で運ばれてきた人ばかりがベットに横たわり、口を開けうごめいている。救急車が24時間、どんどん患者を運んでくる。レース場の修理工場に続々と運ばれてくる故障車に群がる蟻のように、医師、看護婦さんはよーいドン、一斉にその故障した車の整備を始めるのだ。目が覚めて時計を見るとまだ午前2時・・朝まで僕の長い夜が始まる。向かいのベットでガチガチとはさみだの管子だの金属の器具が重なり合う音が響く、フロアの中央からライトが当たり逆光に白い姿が浮かび上がり、人々のうごめく姿と、大木に巻き付く茎のようなチューブが揺れ銀色の医療機器が浮かび上がる。「うーん、うーん」とあちこちで人々のうめき声が聞こえる。まるで野戦病院のようだ。苦痛に耐えかねたじいさんが手をたたく、「おいっ!おいっ!」と叫ぶ、じいさんは急に体を起き上げ、みんなによってたかってベットに羽交い絞めにされる。

看護婦さんが、言うことを聞かず、病室をうろつき僕の部屋に入ろうとする子泣きジジイのような爺さんを引き留め、「この部屋には死にかかっている人がいるけん入ってはダメと」いなす言葉が聞こえる。確かに僕の部屋に結界がひかれてあるんだ。嗚呼、僕は死にかかっている人なのか。確かに僕は夜明け前の薄暗がり中、看護婦さんに「言うことを聞かないと死にますよ」と言われた。

僕の目の前には白い壁とうなりをあげる大きなエアコンの排出口がある。旧式なのかその機械が苦しそうにウンウンうなりながら温風を吐き出している。この旧式の機械はこれまでどのくらいの人の生気を吸い取り、吐き出してきたのだろう?去年山で遭難した時、谷底で僕を包み込んでいたのは深い黒い闇の世界だった。今回は白い壁に囲まれどこにも行きようがない。

友人の上村君が言うには下宿の2階から階段を転げ落ち、頭を強打、意識不明の重体時に見えたのが三途の川らしい。船に乗り岸にたどりつこうとした時に先に亡くなった親戚の人たちに「こっちにきたらだめ!」と言われたらしい。結局上村君は川を渡らず引き返し一命をとりとめた。幸い僕の目の前には三途の川は現れなかった。僕の目の前には凍り付いた大きな滝がどうどうと轟音を轟かせながら垂直に流れ落ちていた。僕は宇宙船のような乗り物に乗り、大きなガラスごしにその景色を眺めていた。白く蒼く氷ついた滝の上を白い水がごうごうと流れ落ちる。僕を乗せた船は静かに浮遊している。三途の川ならず三途の滝。そんな幻想を見たのはただの一回だった。(今思うに、その三途の滝は五家荘の栴檀轟の滝のようでもある)

それからも子泣きジジイは毎日数回は僕の部屋にやってきたけど、僕はその度に爺さんに向かって呪文を唱え念力を送ったけど、(何しろこっちは半分違う世界に足を突っ込んでいるから!)ようやく危険な2週間が終わり、個室に移った。頭の切断個所のホッチキスも切り取られ右の眼の周りの腫れもすこしは収まった。個室に移った夜、急に動悸が激しくなり、左胸が締め付けられる痛みがする。ナースコールすると一斉に胸がはだかれ心電図の装置が貼り付けられ血液検査、当直の先生が廊下を走ってくる。不安心から起こったものらしい。先生が大丈夫です、問題ないですよと励ましてくれる・・・そう言われても胸の痛みがおさまらないのです先生。脳どころか心臓までおかしくなると、いよいよ大変なことになったと気分が暗くなる。結果、翌朝から薬にうつ病の薬が新しく追加された。僕は無神論者だが、それから毎晩23時59分になると自分の胸に手を合わせ、一日生き終える事ができた自分の意識を確認し、それから数分後翌日の零時1分になった時にも現実を握りしめるように胸に手を当てる。これから新しい一日が始まるのだと安堵する。廊下の向こうで誰かのうめき声が聞こえる。眠れずにラジオをつけるが頭にほとんど人の声が入ってこない。僕の横たわった体を包み込む夜の白い闇よ。

手術して2週間過ぎ、いよいよリハビリが始まる。恐る恐る病院の廊下や、階段の登り降りをする。担当のリハビリ先生から目標を聞かれ「登山の再開」と書く。五家荘の山の写真を撮り始めてまだ1年なのだ。これからも去年撮れなかった花を撮りたいと思う。幸いマヒはなく、筋肉が落ちているだけのようだ。五家荘の山の達人OさんとNさんが見舞いに来てくれる。二人とも、僕の暗い顔と右のゆがんだ頬と額の傷に驚いたようだ。「また山に登りたいですね」僕がそういうとさすがに二人の反応はない。(そぎゃん、登りたいのなら俺の責任を問わないという同意書がいるばいと流石のOさんの顔にも書かれてある・・・)とにかく5月になれば登るつもりだ。頂上を目指すつもりはない。今まで会ったこともない、小さな花たちに会うために。また一人でのんびりと登ることになるのだろう。せっかく開設した五家荘図鑑のホームページをたった一年で終わらせるわけにはいかない。面会後、Oさん、Nさんとみんなで力を合わせて作った「五家荘の山」の本も出来上がったし!

リハビリの成果も出て、それから1週間で田舎の病院にリハビリ転院となる。(なんのことはない、大病院の1階のコンビニに看護婦さんの目を盗んで、小さなチョコレートを買いに行くために、リハビリと称して1階から6階までの階段を1日最低2階は自力で往復していたのだ。僕は100円のチョコの為に生きているのか…)

転院したのは自宅の町にある丘の上にある病院だ。回復期リハビリテーションという施設でそこで本格的なリハビリを行い社会復帰を目指すことになった。1日3回10日程度、体力のリハビリと合わせて、計算問題や、積み木、図形の認識、反応の検査があった。そしてようやく退院。手術からすでに約2か月近くが経っていた。気が付けば3月。自宅前の海辺の港にも春がやってきた。石積みの港の岸壁を登山用のスティックを突きながらよろよろと歩く。途中に芝生がありベンチがある。春の海の色は緑が濃くねっとりと波打っている。太陽の光が水面に反射してキラキラとまぶしい。ああ、父が亡くなったのは7年前のこんな日、3月6日だったな。父はこの小さな港町で生まれ、左官職人として80過ぎまで生きて、僕が入院した病院で亡くなった。僕は葬儀の送る言葉で、父が名残惜しそうに一日、このベンチに座り、故郷のキラキラした懐かしい春の海を眺めている後ろ姿にさよならを告げた。「父よ、もう、さよならの時です」と。

自宅に帰り、会いたくて仕方なかった猫の寛太と子弾を抱きしめる。死ぬことは怖くない。それは仕方のないことだ。限りなく無に近い有の存在が僕で、死んだら限りなく無に近い無という存在となる。(宇宙の果てなど知ったことではない!)死の楽しみとは先に死んだ人と会える楽しみがあると考えた方が気が楽だ。それが本当かどうかは死んでみないと分からない。つまりに誰も分からない。だから僕が死んだら、寛太も子弾もあの世で待ってくれていて又再会できるに違いない。そうして抱きしめると寛太は僕の手の平を噛みつき、かわいい子弾は僕の腕からするりと抜けて逃げて行った。

二本杉の峠。

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