2023.08.05
人
僕が呼ぶ、熊谷さんとは、山野草のクマガイソウの事で、実在する人の事ではない。
クマガイソウは葉の間から花茎を出し、ぷくんと丸く膨らんだ姿が珍しい蘭科の仲間。花の大きさは10センチくらいあり、なんとものんびり、古風な顔立ちをしている。日本の野生ランの中では最大級の大きさとの事。
そのおしとやかな、のんびりしたクマガイさんの和名は、武将の熊谷直実(くまがいなおざね)にちなんで名づけられた。五家荘は平家の落人伝説で有名な場所だけど、残念ながら熊谷真美は平家の敵、源氏側の武将なのだ。ただクマガイソウには相棒(敵同士)が居て、その花の名は平家の若武者、平敦盛(あつもり)から取られた「アツモリソウ」という。
平家物語の絵巻には熊谷直美、平敦盛、両者馬にまたがる勇壮な姿の背中に「ぼわん」とふくらんだ母衣(ほろ)の姿が見える。その不思議な姿は登山用具で言えば風に膨らんだポンチョをまとった風体なのだ。当時の武士は、背中を流れ矢に追わないために、丸く膨らんだマントのような母衣(ほろ)を身にまとっていた。
クマガイソウ、アツモリソウ、そのふくらんだ外観は、当時の武士が身にまとった母衣のように見える。更に例えて言えば平家物語に書かれた、源氏の熊谷直美、平家の平敦盛のようだと花に名を付けたのだろう。名付けた人も風流人なのだ。色も紅白、源平の対をなしている。クマガイソウの白、アツモリソウの赤。
一の谷の決戦(1184年)で破れ、敗走した平家軍が海に逃れようとした時、源氏の武士熊谷真美が、待ち伏せし平家軍団を呼び止める。「敵に背を見せて逃げるは卑怯千万。戻られよ!」と扇を上げて彼らを招く。そして敗走していた集団の中から引き返してきたのが平家の若武者「平敦盛」
熊谷直美は敦盛を引き寄せ、馬から地面に落ちた敦盛の首をかき切ろうとした。そして兜を仰向け顔を除くと、自分の息子、小次郎と同じくらいの10代の美青年だった。いくつかの言葉のやり取りの中、若武者敦盛の潔さに直美は迷う。この武者を討ったら、彼の両親はどんなに悲しむのだろう…振り返ると仲間の騎士団が二人の戦いぶりを眺めている。このまま命を助けても仲間が敦盛を討つだろう。どうせ討たれるなら、自分で首を取ると決める直美。あまりにも哀れでどこに刀を立てたらいいのか、ためらい涙で目がくらむ。そして泣く泣く、若武者の首を切った。
熊谷は敦盛の首を包もうと、敦盛の鎧を解くと、袋に入った笛を見つける。一の谷の城で戦の最中、風流にも楽曲の調べが響いてきて、その笛で曲を奏でていたのが敦盛と直美は気が付く。何万騎の激しい戦の中でも曲を奏でる風流、粋な若武者、平敦盛の高貴さに改めて熊谷は感心する。その事がきっかけで、熊谷直美は武士を引退、出家し仏道に入った。
数年前の秋、五家荘の「平家の里」のイベントで、能舞台で神楽の演舞を観た後、平家琵琶の調べを聞いた事がある。(平家琵琶とは、「平家物語」を琵琶法師が語るときに用いる琵琶)秋深い五家荘の谷の暗がりに、しんしんと切ない琵琶法師のうたいと、琵琶の調べが響いた。今、改めてその調べを聞くことが出来たらもっと、自分のこころに迫るものがあったはずと悔やんでいる。
平家物語が書かれたのは鎌倉時代。今から約800年も前の事。この花たちの名前はその当時から時空を超えて引き継がれて来た歴史ある名前なのだ。
残念な事に野生のアツモリソウを僕は見たことがない。死ぬまでに会えるかどうか。それくらい希少な花なのだ。資料を読むに、種は微細で発芽に共生細菌が必要で、自然の発芽率は約10万分の1。野生の花を紹介されたサイト「花さんぽ」で、撮影者のHさんは敦盛草を発見した時、感動の余り大声でその名を叫びそうになったそうだ。しかし万が一、盗掘者の耳に入ったらと一大事と思い、必死で口を押え、敦盛草の写真を撮った。あとは枯草でその存在を隠したと書かれている。
クマガイソウもアツモリソウも希少植物でレッドデータブックに記載されている。金目当てに盗掘された花は枯れる可能性が高い。その後、いくらお金をかけても野生の姿は復元できないのだ。花だけのことを考えると、最近はバイオ技術で人口栽培品が出回っているそうだけど…
盗掘には罰則があるが、その罰則が実行されたという話を僕は聞いた事がない。数年前、五家荘の谷で山芍薬の盗掘3人組の事を警察に通報したが、現行犯でないとダメ。盗掘した場所が特定できないとダメと言われた。深山は盗掘団の金の生る山なのだ。熊本県の自然保護にも話をしたが担当者は、何の反応も関心もなかった。持ち回りで、課を移動しただけらしい。自然保護課が熊本県のレッドデータブックを発刊している大元なのに。去年、山が蛍光スプレーでマーキングされた事件も話たが、無反応。
この雑文録を書くきっかけは、ついこの前、阿蘇の某道の駅で熊本県のレットデータブックに指定された生き物、植物のチラシが貼られ、「みんなで阿蘇の自然植物を護りましょう」的なコーナーがあり、その真下に山で削り取られた苔が白いスーパーのトレイの上に一山150円で売られていたのを見たことがきっかけ。(買うにしても僕しか買わないだろう…)
そうして、更に奥を見ると、そのレットデータブックに指定されたクマガヤソウの苗が販売されていたのだ。1株1400円。栽培法は花を咲かせるのは難しいと書かれてある。(そりゃ、そうだろうよ)
※クマガヤソウは熊本では絶滅危惧Ⅰ類に指定され、採集はもちろん販売も禁止されている。そんな絶滅種が1株1400円で道の駅で販売されているなんて!
店の人に話をしたら知識不足でしたと…びっくりして弁明された。その会話に喜々と割って入ったのが地元民のじいさん。「こん花は、某所にいっぱい咲いとるたい」と、嬉しそうに語った。「あそこん、●谷の斜面にぐっさり咲いとる、そこから抜いてきたとやろなぁ」(そのじいさん。善人そのもの。) そのクマガヤソウがいっぱい咲いている場所には、もうクマガヤさんは居ないのかもしれない。
新聞の記事でお隣の宮崎県では「クマガヤソウの群生地」が復活されたそうだ。一人の人が行動をはじめ、みんなを巻き込みクマガヤ草の群生地が出来た。五家荘も群生地の復活は絶対できると僕は信じたい。
平家の里なので、アツモリソウもぜひ!…アツモリソウは日本の中部以西では「絶滅」したのだけど。(AIだのSDGSなんだの頭賢いふりした我ら現代人が盗掘、自然破壊で日本半分からアツモリソウを絶滅させた)
我が熊本県は自然保護後進県。まだ、お金をかければ地域振興が出来ると信じている役人、県民が多々増殖中。お隣の村にはポンと100億円。人を育て、花を育て、森を育てるのにそんな金はいらんのに。
※写真のクマガヤソウは五家荘、某所で撮影。善意で移植し保護されたものを撮影させていただいた。
2022.07.10
人
コロナも多少鎮静化、ようやく博多行の新幹線に乗ることができた。2年ぶりの会議なのだ。(僕だって、時に仕事はする)。博多と言えばなつかしのシロキンさんだ。ドナリキンゾウさんだ。過去にバス釣りの連中を新聞のコラムで小馬鹿にして猛抗議を受け、釣竿を折る前に筆を折った我がヒーローなのだけど、城山さんの元部下の仲井さんに聞いても「生きてはいるらしいけど、まだ天神の河岸には顔をだしていないっすねぇ」ということだった。
以前、この雑文録でシロキンさんを全面的に支持したのだけど、いやいや、バス釣り軍団にも言い分はあるだろうと、その先鋒役のアウトドァの教祖、元フォークコンビ「あのねのね」のメンバー清水国明氏のバス釣り裁判の古書をアマゾンで買い、読んだ。その書名は「釣戦記(ちょうせんき)」というタイトルで、2003年発行初版。今から約20年前に、琵琶湖で起きたブラックバス論争の裁判をテーマにした本なのだ。
清水氏とその仲間は琵琶湖でブラックバスを釣り、キャッチ&リリースして「スポーツフィッシング」を楽しんでいた。そんな彼らに滋賀県、漁協などは外来魚のブラックバスやブルーギルらの食害…日本古来の在来種、鮎、わかさぎなどが外来種に食い荒らさて生態系が崩されているので、釣りの禁止とは言わんが「釣った後リリースするのは止めて、外来魚ボックスに入れて処分してね、処分しなさい、処分せえ!」と言われて清水さんたちは、「ワイらの勝手じゃボケ!」「外来魚も命や、逃がして何が悪い」「ワイらにも釣りを楽しむ権利があるんじゃい!」と言い返し、結果清水さんが裁判を起こしたのだ。
その記事を見たからか、我がシロキンさんは某全国紙の釣りのコラムで清水さんたちを「馬鹿じゃないの、コノシトタチ」と馬鹿にした。更にバス釣りの道具のメーカーにも「昔の鍛冶屋魂の矜持はないのか!」とあおったのだ。
シロキンさんのコラムを読んで、全国のバス釣り仲間は一斉に動き、掲載した新聞に猛抗議。シロキンとは誰じゃい?と探しまくったのだ。清水氏の本を読むと、当時は清水さんたちにも「自然破壊、環境破壊主義者」などと、ものすごい抗議が全国から寄せられた。清水さんは、そういう肩身の狭いバス釣りファンの代弁者でもあったのだ。シロキンさんをリンチしょうとした、バス釣りグループも、清水さんをつるし上げた自然愛好者グループも精神構造は同じというわけか。
結果、清水さんの裁判は敗訴。一応法に従う結果になった。ところが清水氏の釣戦記によれば当時、他の地域では地域振興のために「どんどんバス釣りOK!みんな来てね」という地域もあり、更に、琵琶湖の環境破壊の大きな原因は、滋賀県の開発許可の乱発で観光施設が湖を埋め立て、湖水は汚染されたのも在来種の減少の原因であるとデータが示されたり、その乱開発を黙認して補償金をもらっている漁協の利権まで、清水氏は裁判で訴えているのでありました。
自然保護か観光開発か?この悩ましい問題は今も同じ。もちろん、僕は「お金儲けが目的の」外来魚の無断放流は自然破壊、観光破壊でもあり、そんな輩を見たら後ろから川に着き飛ばしてよいという法律を作って欲しいと思っている。つまり一番の理想は「自然を保護しながら、観光振興」が一番なのだ。残念ながら、今も「自然を破壊し、コンクリートで護岸工事をしながら、観光振興」をしている勘違い自治体が多いのだけど。ついでに言えば「自然に何の関心もない(夜に屋外で飯食うだけの)、ブームでやってくる都会人の為に豪華な観光施設を建て、結果大赤字をくらう自治体」も多いのだけど。
清水氏の裁判で更に明らかにされたのは、滋賀県の漁協は外来魚駆除費を行政から莫大にもらい、ついでに漁協連合会会長とその仲間は、工事で川が汚染されたと虚言を繰り返し、金銭を要求し逮捕されたりしたとのこと。
また不思議な事に、外来魚の数は駆除しなくても年が経つほどに激減しているというデータも出た。皮肉な事に漁協は有害な外来魚が減ってしまうと困るわけなのだ。最初は嫌いだった清水氏を、まあ「がんばってはるなぁ」と僕も同意する点が出て来た。「何でもかんでも100%あいつが悪い、自分が正しい」という思考停止は危険なのだな。釣戦記を買うまで僕の脳も100%侵されていた。
今、いろんな通信機材は進化したけど、その分、ヒトは脳は退化したのだ。ネット下では考えの違う人を過激に批判、攻撃、封殺する脳が増殖してきた。
ところで、熊本市内の我が事務所の近くに「江津湖」という市民の憩いの小さな湖がある。
阿蘇の外輪山からの地下水が湧き出て、(熊本市内の水道水は地下水でとても美味、ダムの有る自宅の町の水道水は飲めたものではない) 常時、地下水が流れたくさんの魚が泳いでいる。江津湖にも残念ながら、ブラックバスなどの外来魚が棲み、以前はおしゃれな恰好をしたバス釣り愛好家が川岸を歩いていたが最近少なくなった。いったん「キャッチ&リリースされて痛い目にあった魚も賢くなり、そういう魚は警戒心が強く、なかなか釣り上げる事ができないのでブームが去ったのか。
僕も時に、その市民の憩いの湖に行き、アイスを食べながらぼーっとしているのだが、ある日、その途中の疎水(コンクリートの水路に)に大きな口を開けパクパクしている魚の姿を見つけた。時に親子で楽しくその汚れた疎水を泳ぎ楽しそうだ。上から見ても全然警戒しない。目がクリクリして可愛~い。そうして眺めていると、1匹2匹…仲間も加わり、5匹10匹‥合流し、ぶわーっと大群!浅い場所では背びれが水面からで、100匹は超える大群をなし始めた。その名は「ティラピア」成魚で大きさ30㎝、戦前、食糧難対策で輸入されたらしい。彼らの捕獲に釣りは不要。スーパーの買い物かごで上流、下流で挟み撃ち、大捕り物が出来る。
熊本市の担当部署に電話で聞いてみる。外来魚を管理するのは江津湖であり「その周辺の疎水ではなかとです」と答えやがった。すでに彼らはティラピア軍団のことは知っているのだな。面倒な事には関わりたくないのだ。(ぼくのような面倒な人にも)
釣戦記の清水さんに教えを乞うべきか。しかし彼らの主張は外来魚にも命がある「殺さずにキャッチ&リリース」して何が悪いというものだったし、江津湖の数100匹は生息するクリクリ目玉の「ティラピア軍団」にも命があるのだとしたら、どうしたらいいのか?
自然保護か、観光開発か?在来種保護か、絶滅か?
漁協の利権保護 (実際川漁師でなくても漁協員となれるらしい) か、河川の自由化か?
五家荘で言えば、自然保護か?森林開発か?
登山者保護か?トレイルラン排除か?
街のど真ん中、江津湖でも悩ましい問題は今も同じなのだ。
一人だけ、答えを出した人が居て、
僕が敬愛する、カヌーイストの野田友佑さん。野田さんはキャッチ&リリースには否定的で、野田さんの名言、釣った魚は「キャッチ&塩焼き」すると書いた。
(※ついでの名言、「グダグダ抜かす、ダム建設の木っ端役人どもは、川に放り投げろ」)
全国的にも有名な作家の野田さんも熊本の川には居たくないのか、四国に移住され、自然保護活動をされながら、今年3月84歳で亡くなった。
「ティラピア」はそもそも食用で白身の部分がとても美味との事。
こんな事を、シロキンさんに会えたら話そうかと思ったが、雑文録で長々と書いたので、もう、何だか会えなくてもよいと思ってきた。
2020.09.21
人
9月初めに上陸した台風9号10号の風は酷かった。海抜ゼロメートルの我が家は目の前の海から暴風が吹き、雨戸をいくら抑えていても丸く膨らみ弾けそうになる。通過した後も数時間にわたり暴風に家が揺れに揺れた。猫どもはのんびりしたものだったけど。人間は大変だった。(万が一があれば総勢7匹の猫を避難させなければならないが、その方法を考え付かない!)
ところが熊本市内ではほとんど無風、無被害だった。近年の自然災害はまるで悪魔がダーツを飛ばし矢が刺さった場所だけ大きな被害が出るような巡り合わせになっているようだ。10号についてはテレビラジオで50年に1度、いゃ、終いには100年に1度と言いだし、洪水実験だの、風速50メートルではペットボトルが飛び、壁にもこんな大穴が開きまっせ!という見本を繰り返し示していた。(何かを待ち望んでいるように)
そんな台風の報道のさなか、友人の住む鹿児島県の子宝島では自衛隊機のヘリを使った全島民の避難報道が流されていた。人口53人、世帯数32、 周囲4キロ、標高10メートル程度の島に、それ以上の高波が来る危険性が高まったからだ。子宝島は鹿児島県の十島(とから)列島に並ぶ一つの島で十島村に所属する。十島村は、屋久島と奄美大島の間に、有人七島と無人島五島からなる南北約160キロという「南北に長い村」。普通のアクセスは鹿児島港から出るフェリーで、便は1週間に2回程度往復し、その160キロの長い海路の島々を辿り生活用品などを配って回る。鹿児港から子宝島まで片道12時間。夜11時に出港し島につくのは翌日11時となる。普段から波は荒く、少しのシケでも岸壁に船が着船出来ず、そんな時の荷物は又来週になるそうだ。友人曰く、海水浴どころではない、沖に流される危険があるので海水浴はほとんどしないという。
その友人Sさんは、本来、山育ち(昔の地名で中央町の山奥育ち)で釣りの名人だった。ひょんなことから僕の住む小さな港町に引っ越してきて、ダイバーの仕事をしていた。閉鎖的で寂れた集落を朝に夕に犬の太郎君を連れ、毎日散歩するSさん。陽に焼け人懐こい笑顔を見せるSさんはすぐに打ち解け、人気者になった。町でマンゴー畑を始めたり、ログハウスを自作したりSさんは色々なことを取り組んだ。数年後、残念なことにSさんはダイバー仲間の誘いを受け、子宝島に引っ越すことになった。
Sさん家族が、小宝島に旅立つ前夜、集落では壮大な送別会が開かれた、老いも若きも歌いギターをかき鳴らし酒を飲み、別れを惜しんだ。最後はみんな肩を組み「あの素晴らしい愛をもう一度」を大合唱した。本棚の奥にしまっていた当時の写真を見ると、その肩を組むメンバーの中には80近くの亡父も居た。半島の突端の行き詰まり、もともとは明治にできた港で歴史なんてない、どこからかやってきた者が居ついてできた集落で、どこにもいけない老人たちは、我が身の旅立つ夢をSさんの背中に託したのだろうか。
ところで、十島列島にも平家伝説が残る。まさかこんな離島まで平家がと思うが、つながりが何かあるかもしれない。五家荘は山の魅力はもちろん、五家荘の持つ独特の謎めいた
伝説にも引き込まれるものがあるのだ。地方創生という名のもと、どこもかしこも同じデザインに画一化された町やイベント文化の中で、山の秘境、海の秘境の存在はとても貴重なものなのだと思う。
◆十島村に残る平家伝説の一部(ネットで浮遊中の要約)
・口之島
口之島の伝説はタモトユリ(袂百合)。平家の落人が白い香り高い百合をたもとに忍ばせて持ってきたとの言い伝えがあり、平の清盛の子孫が肥後姓を名乗り、口之島の住人の一番多い姓となっている。
・中之島
島に命からがら上陸しようとした平家残党の亡霊がブトになったという伝説がある。
・平 島
平家落人が列島で最初に流れついた島と言い伝えられ、島の東側の崖下の洞窟は平家の穴と呼ばれる。
・悪石島
源氏の追討を防御するために、島におどろおどろしい悪石という恐ろしい名前を付けたと言われている。
※悪石島の「仮面神ボゼ」は別格
Sさんは2年前、病気で亡くなった。島の病床でどんな夢を見たのだろうか。
「家が貧しくて、子供の頃、晩飯のおかずは母が川で釣ってくるヤマメや川魚でしたもんね。母親は釣りが上手くて…」そういいながら目を輝かせながら、目に見えない竿を操るSさん。
僕たちは、車を停めるとガードレールをくぐり、川へ降りる小さな道を木々の生い茂った道をかき分けながら進む。目の前は藪だらけだけど、足元をよく見ると村人がかすかに踏みつけた道が見える。(秘密の釣り場発見!) 奥で川の流れる音が聞こえる。釣り竿を木に引っ掛けないように、胸に抱きながら進む。五家荘の川は幅が狭く、木が頭の上まで茂っているので長い竿は使えない。短い竿をうまく手首を返しながら、パッとポイントに餌を落とすのだ。ヤマメは臆病で人の影や水を歩く足音にも身を隠し、一投目で失敗すると中々上に出てこない。結果、川を上に上にさかのぼっていく必要がある。そして行先にとても超えられそうにない大きな岩が立ちはだかると釣りは終わり。来た道を這い上がり、次の川を探すことになる。ようやく河原に降りて釣竿をつなぎ、リールをつけラインを結ぶ。ラインの先には手作りの毛ばり。河原の周りには水の中から羽化したかげろうたちが白い羽を広げて飛び交っている。水の中を歩かず、河原の岩の上を歩く。僕らの視線の先、苔むした岩の下には濃い緑の淵がある。その淵の前には岩があり、その岩から小さな滝のように流れは白い波を立てている。ヤマメはその波から湧き上がる虫を狙っているのだ。つまり、餌を落とすポイントはその白い波から少し離れた場所となる。Sさんは、息を止め身をかがめ、さっとその小さな渦の下に潜むヤマメの頭上に餌を落とす。その餌は小さな渦に沿いくるりと回る途中で、淵から躍り出たヤマメにくわえられる。バグッ!そのわずかなアタリの瞬間、竿はさっと跳ね上げられ、濡れたヤマメの体が宙に舞いSさんの手元に手繰り寄せられる。Sさんはニンマリいつもの笑顔に戻る。ヤマメは五家荘では「マダラ」と呼ばれる。黒い魚体に暗いまだら模様のガラが付いているからだ。僕はSさんと釣りの話をする度に、Sさんの手には見えないテカテカした愛用の釣竿が握られているような気がしていた。
五家荘の平家一族の家紋は「アゲハ蝶」。
前回の雑文録で書いた「アサギマダラ」は海を渡る蝶で、海を渡り日本から台湾まで旅する蝶と言われる。か弱い蝶が、日本の高山から台湾まで海上を休みもせずに行き交うことは不可能で、彼らは海に浮かぶ島々を辿り、蜜を吸い、休みながら台湾まで旅するのだろう。
人のタマシイも海を越え、どこかに飛んでいくのだろうか。
ふうわり、ひらり、ふうわり、ひらり
2020.02.23
人
【強運・不運半々な日々】
強運不運、半々の人生である。まったく、運がいいのか悪いのか。年末に左肩の腱板断裂で最初に診た医者からは「早く手術せな、いかんですよ。内視鏡で切れた筋をつなぐことが出来るのはわたしだけですから、早く、早く」「先生回復するのにどれくらい?」「入院、退院、リハビリ合計でざっと半年は必要ですな。」
仕方なしに知人の紹介の医者にセカンドオピニオンすればその医者、プクンと膨らんだ、雪だるまのような体をプルンと揺らし、まず、リハビリしますかな」と苦笑い。なんと3か月週に1回リハビリ通いで腱板は切れたままでも痛みはなくなり、普段の生活が可能になった。登山用のバックは背負えないにしても、かすかな希望が見えた。
が、正月明け、頑張って、駅前の公園を歩いていたら凍った草に滑り内股座り。左ひざからプチリと音がした。内側のじん帯損傷。歩くに、杖が必要になった。同じ整形外科でリハビリ開始。つくづく、強運、不運半分の人生。何にしても、まだ登山は無理で、部屋で寝っ転がり、昔の登山を思い出している。具体的に言えば40年も前。もちろん、その時の僕は存在しない。体内の細胞も全部交代だ。その時を思い出すに相変わらず、強運、不運のくりかえし。確かにあの時僕は墜落をした。その後の事は何も覚えていない。
【墜落の仕方教えます】
僕の中では全然盛り上がらないオリンピックなのだが。特に最近スポーツクライミングなるものがテレビでよく取り上げられて話題になっているが、見ていて全然面白くない。というか、飽きるのだ。よく飛びついたり、逆さになったりしているが、サーカスとどう違う?と思う。
室内の競技で自然を感じることは何もない。これが屋外の自然石でのボルダリングなら見ている人も面白かったろうに。陽の光、草のにおい、風の向き、雨…競技者のしたたる汗。どのルートを取るかは自由自在。自然では絶対安全なホールド、スタンスなど絶対ない。見ている方も、手に汗をかくだろう。登っている最中に蜂が来襲するかもしれぬ。
僕は今からなんと40年前、ちょうど18歳から20歳になるまでの2年間、(正確に言えば高校時代の3年間もあるが)よく山に登っていた。京都に行き、調子に乗って岩登り(今風に言えばロッククライミング!)をやろうと、本屋で手に取ったのが、「墜落の仕方教えます」※という本だった。隣で立ち読みしていた赤の他人が「あんた、墜落の仕方教えますって、そんな本…」とつぶやき驚いた。山登りの世界でもへそ曲がりで協調性がないのが僕で、本来、未来のある若者ならそんなクズのような本を読まずに、ロイヤルロビンス※らの正しい山道を登る本だったはずだけど。
墜落の仕方の本を開くと、最初からうさんくさい髭面の大男が、ザイルから逆さにぶら下がり、口を開け両手をだらんとぶら下がっている無駄な写真が目に付く。そんな写真を見て、クライミングがうまくなるはずはない。僕はその本を持ちレジに行きお金を払った。そして僕はその時から2年後、本の教えのとおり墜落したのだった。(リアルに言えば真冬の中央アルプスの宝剣岳で、岩場を下降中、アイゼンで氷を踏み抜き、サッとその瞬間、足元の氷と雪が暗い谷に消え、これ以上、進んだら死ぬと体が警告を発し体全体が固まり全く動かなくなった。)その後、どうやって下界に帰れたのかは記憶にない。当時、よく言われていたのが岩登りをはじめて数年が一番危ない。調子に乗り、どんな場所でも行ける気がして、運が悪ければ自然の洗礼を受け、死ぬということだった。
【こんぴら】
言い換えれば、バカは死ななきゃ治らない。京都には大原の近くに、金毘羅山(通称コンピラというゲレンデ・岩場のトレーニング場)があり、おおよそ30くらいのルートがあった。日曜になると大勢のクライマーが集まりカラビナをガチャガチャ言わせながら(時には悲鳴!)も岩場に挑んでいた。ルートにはピラミッド、チムニー、ジャイアントなどなど、ユニークな名前が付けられて、とても一日では登り尽くせない。コンピラは初心者から海外遠征をする大学、社会人の山岳部まで老若男女の理想的なトレーニング場だった。一見たやすいルートだと思われがちだが、中には難易度の高いルートが結構ある。夏休みに福岡の某大学の山岳部の先輩を案内したが、最初はバカにしていたが歯が立たず、途中で何度も墜落した。コンピラの入り口の戸寺というバス停の横にも垂直の壁があり、登って降りられなくなった若者が時々居たりした。バス停に着いたとたん不幸な出来事を目撃するのだが、クライミングを始めた頃は体が野生にもどるのか、調子に乗るとどんな壁も登れる気がして、気が付くとどんどん登ってしまう時期なのだ。
社会人の山岳会に入った僕の師匠はビールを飲むといつも下痢する、一色さんという人だった。一色さんはいつも下駄ばきで登山口まで来て、壁を前にして、靴に履き替え、(薄毛隠しの)破れたチロリアンハットの上に、大きな金魚鉢のような赤いヘルメットをかぶるのだ。そしてしけた煙草火をつけ、ふぅーつと煙を吐き出し、岩に向かうのだ。一色さんはお調子者の僕の性格を読み取り「調子に乗るとえらい目にあうでぇ」と、いつも諭してくれた。
時々、やってくるのが農家の小島さんだった。小島さんは右手の指が3本しかなく、その指先で器用にザイルを結び、難しい、岩壁を難なく登った。一色さんの地味で確実な登り方とは違い天才肌だった。そんな小島さんでもある時会うと「こんまえなぁ。死にかけたんや。ピラミッドでな、ふいに気が抜けて足滑らしてな。頭から、ブラーんて、落ちてもうたんや。はって思って見たら、目の前に尖った石があんねん。もう少しで、みけんにその石の先が刺さって死ぬとこやったわ」ヘタヘラ人懐っこい、笑顔だった。僕もヘラヘラ笑った。小島さんはアウトローで、その後会ったときに「一人でアルプスの丸山東壁を登ったんや。その時も偉い、大変やったで。一人で登って、一人でザイルも回収せなあかん。えらいしんどかったわ」当時、小島さんとザイルを組むパートナーは誰もいなかった。(小島さんとザイルを組めば、たぶんえらいしんどい、下手したら死ぬかもしれんと誰も分かっていた。)
【ビビりフェイスにビビる】
コンピラの難関は頂上直下の「ビビリフェイス」と言われる。10メートルくらいの平べったい、垂直の壁だった。その名の通り、誰しも「ビビる、壁」で、途中までは難なく登れるが、垂直の壁、最後の数メートル。2センチほど突き出た岩の出っ張りに両足を揃えて乗せた時から「ビビリ」ははじまる。そこまでは楽勝、ところが壁の頂上まで、つるつるで何の手掛かりも見あたらないのだ。右に左に忙しく指先が騒ぎ始める。しばらくすると、緊張で両足がガタガタミシンを踏み始める。それでも手掛かりを探して落ち着いて指先を伸ばすに、数センチ先にふと指先に触れる、かすかな岩の出っ張りがある。ビビリフェイスをクリアする為には、背筋を伸ばし、その出っ張りに手をかけ、ガタガタ震える足を踏ん張り、体を持ち上げる「その勇気」があるかどうかなのだ。その勇気のない者はさんざんミシンを踏んだ後、だらーんと、墜落するはめになる。そのビビリ具合を見ようと、木の陰に見物人がたくさん集まってくる。ある日僕が見たのは大学の山岳部で、大きなリュックを背負い、冬用の手袋を着けおまけに冬用の登山靴にアイゼンを着けて登らされている新人だった。彼は靴先に付けた2本の爪で足場の岩にたち、厚手の手袋で岩にへばりついていた。そして最後の難関。どう伸ばしても手掛かりがない。ガタガタ足が震えだす。「はうら、もう少し手を伸ばしてみい、引っ掛かりがあるやろ、その引っ掛かりを引き付けてビビりを登るんや!もう少しやで!」罵声ともつかぬ、先輩からの励ましの声がする。新人君はようやくその指先に引っかかりに気が付いたが、冬用の手袋でなかなか掴めない。膝をがくがくさせながらつぶやく、「地獄や~地獄や~」先輩が叫ぶ。「おまえ、ええこと言うなぁ~おもろい奴や!」「やるかやらんかやで~はよう、登ってこんかい、本番やったら死んでるで」「ジゴクやジゴクや~」谷間に響き渡る、「ジゴクヤァ、ジゴクヤァ~」
そのあと彼がどうなったのか、僕にはったく記憶がない。まるで自分の墜落の記憶がないように。
愉しかりし山。その当時、日本で一番難易度の高い岩壁が、奥鐘山西壁と言われた。そのルート説明には「最後のピッチが最悪。木の枝をつかみ、回り込んで登る」とか、実際、登った人から話を聞くに「最後はなぁ、草や、草をつかんで草が抜けませんようにと祈りながら、体を引き上げて登るんや。ほんまにえらい岩やったで」当時、関西にはそのレベルの人がゴロゴロいた。難関のオーバーハングをいくつも抜け逆相の岩場をのぼり、途中の岩場でビバークし、体力も尽き果てた最後の1ピッチの締めは、草や草やで!…
スポーツクライミングはすべての足場やホールドが絶対取れないことが前提で競技場コースが設定され、大きな会場には冷暖房が完備されているのだろう。更に速度競技なので、見る方もあっという間。とにかく早い方が勝ち!そのあたりが僕には面白くない理由のひとつなのだが。
体の全細胞が入れ替わり、当時の僕とは別人となった僕は、情けなくも山を歩くことが精いっぱい。ベットに横になり、五家荘の深い森の中に居る夢を見る。今でも無意識に右手の指先を伸ばし、何かつかもうとする時があるのだ。幸か不幸か。
※墜落の仕方教えます ウォレン・ハーディング著 (1976年)。別名バッツオ。
※ロイヤルロビンス クリーンクライミング倫理提唱者、登山の神サマ。
2020.01.13
人
五家荘図鑑販売開始から、およそ1年。アマゾンで約10冊。上通りの長崎書店さんで9冊。山の店シェルパさんで多分5冊くらい。去年2月の五家荘の福寿草祭り、山のイベントで約10冊以上くらい売れたか。(苦笑)もちろん赤字!もう少し売れたらいいなと思い、そろそろ営業でもせんといかんと思い立ち、まずは熊本の書店めぐりはどうかと思うに、去年長崎書店さんに挨拶の時に、担当の人から、熊本での販売はうちだけですか?と聞かれたので、つい「もちろん、山の店シェルパさんと、御社だけです。御社は熊本で唯一、こだわりの書店と認識しております。」と直立不動の姿勢、ハッと即答した手前、他の書店にはお願いできにくくなった。橙書店さんにも持って行ったが、置く場所がありませんと丁寧なはがきと一緒に本が返送されてきた。(進呈したつもりだが)まぁいい。
それで、1年も経ったし長崎書店さんも怒るわけはないはずだし、あと2社、某全国書店と、熊本でビデオと一緒に本も売られている某書店に営業すべしと思うが、どうも足が重い。左肩の腱板も断裂し痛いし荷物も持てないし。そうして寒い冬、うだうだ布団を被り、クリップの挟まった脳みそで考えるに、ああそうだ、僕には京都の萩書房さんがあるではないかと、今頃気が付いた。(だからクリップのせいなんだ)
萩書房さんは京都、左京区一乗寺にある古書店。そもそも五家荘図鑑のホームページのサイトを作るときに、依頼先のフロンティアビジョンさんのウエブデザイナーさんからどんなデザインがお好みですか?と聞かれた時に、「誰かが、京都の古書店の2階でごそごそ書棚をあさって、変な山の写真集を見つけ、ページを開いたら五家荘という誰も知らない幻の山地の写真集を手に取った時のようなデザイン」と言い、困らせた記憶がある。
その古書店というのはつまり、今から思うと萩書房さんだったわけなのだ。(なんていいかげんな頭の迷宮なのか)と、いうことで早速、萩書房の井上さんに電話をし、本を送り付けたのだ。萩書房さんにはいつも無理を言い、どうしても欲しい本を東京の古書店ルートで探しあててもらったことがあった。不思議にも、いつ行っても僕の欲しい古本が並べてあるのだ。(都合よく、熊本の書店での営業は完全中止となりました。五家荘図鑑の販売は長崎書店、シェルパさんのみ)
で、この際、春に数年ぶりに京都に行くことにした。還暦60歳にして、青春18きっぷを買うような気分で、熊本から京都までの沿線を野宿しながらたどり着こうと思った。(※体調不良で野宿は困難…)せめて出町柳の三角州で(昔は酔いつぶれてベンチで寝てたな)一泊くらいするつもり。頭も重く、将来も暗い日々。そんなときにワクワクする京都行はささやかな生きる元気のもとになる。
もちろん京都には懐かしい友人も居るし、特に一乗寺エリアは、今や個性的な書店の巣窟で“その手の人々”に人気らしいし。恵文社、ガケ書房…訪問時は、一乗寺の他にも三月書房、アスタルテ書房(奇跡の復活)などなど書店めぐりとなるだろう。そして、その書店の書棚の奥で、僕は改めて「変な山の写真集を見つけ、ページを開いたらまだ、誰も知らない幻の山地の写真集を手に取る機会があるかもしれないと」ふとんをかぶりワクワクするのだ。
更に更に、思い出すに、僕は熊本の田舎高校の山岳部を出て、19歳から20歳まで京都の社会人の山岳会に入り、短い期間だが、京都の山々はもちろん京都を拠点に日本アルプスの山々を登った思い出があるのだ。よくよく思い出すに、その当時の無謀な登山が原因で僕の左肩は回らなくなり、ある角度で腕の筋が引っかかり、痛みがあり動かなくなった。40年経って、その時の傷が今の腱板断裂となったかどうかはわからない。
2020.01.05
人
2019年12月30日で60歳になった。還暦と言われる年だ。
僕は生まれてこのかた、誕生日とか一切嬉しくも悲しくもない。よく人様から「誕生日おめでとう」とか「生まれてきて良かったじゃん」と言われても、無関心無感動。だからフェイスブックとかで、お祝いのメッセージとか書かれてもとても困るので、非公開にしている。(そもそもフエイスブックは仕事の連絡用)しかし、よくも60年も生きてこれたのは「極私的には」良かったと思う。
2019年の病院歴。
脳の造影剤入りMRI(脳の血管の定期検診・問題なし)1回。脳のCTスキャン2回(髄液の漏れ、問題なし)大腸がんの疑いで内視鏡検査2回(大きなポリープ取る)これでうまく逃げおおせたかと油断したら12月に異常発覚!
左肩の奥に、筋が引っ張ったような痛みあり。五十肩かと思い、事務所近くの整形外科でレントゲン撮るに原因不明、更に肩のMRI撮る。なんと左肩の腱板断裂との診断。腱板断裂とは言葉そのもの、左肩を支える腱板が断裂して、切れた筋の端が尖って筋肉に疼痛を与えているらしい。
先生曰く、リハビリ2か月、手術入院2か月、その後のリハビリに2か月。(合計半年ではないか!)切れた筋は自然につながることはなく、内視鏡を見ながら筋をつなぐ必要がある。(なんだか手術をしたくてしたくて、たまらないらしいぞ…)そんなこと言ったって、今でも通勤2時間かけて、人の数より猫の数が多い田舎住まいの我が家から通勤しているのに。第一「猫の世話は誰が見る!」…と言うことで、知人の勧める他の整形外科にセカンドオピニオンに行き、週に1回、リハビリに通うことにした。(自転車、片手運転で!)
左肩をそのままにしておくとどうなるか?先生曰く「筋が自然につながることはなく、そのまま痛いだけ」とのこと。夜も眠れないほどの疼痛が続くわけでなし、結論として腱板断裂は当分放置することにした。
ただ、重いものは持てないのと、痛みを緩和するために、首から下げる三角巾のようなものをアマゾンで買って下げることにした。原因は不明だが、60年も左肩を使っていれば、どこか悪くなったのだろう。
ただ、一番残念なのはリュックが背負えない体になったということ。これまでのように五家荘の山にも写真撮りに行けなくなったのだ。もともと、くも膜下後から、急坂は酸欠で登れなくなったのだが、腱板断裂で更に登山は厳しくなった。
そんなこと言っておれば、山どころか、どこにも行けないので、次回からは腰に回すバックにカメラとレンズを忍ばせ、頑張って行ける場所に行けばいいのだと思う。
誕生日に無関心、無感動…といいながら今度ばかりは家人に誕生プレゼントに目覚まし時計をねだり、ホームセンターで買って来てもらった。もともと年末に机回りを掃除していて、高校時代に買った目覚まし時計が出てきたのだ。その時計をバックに詰めて18歳の僕は京都行の夜行に乗った。それから40年以上。何故か、その時計が引き出しの奥に転がっていた。電池を変えたがもう時は刻まなかった。ただ、目覚ましのベルはいつも通り、リンリンと鳴り響いた。
と、いうことで僕の還暦記念の品は新しい目覚まし時計。12月30日から時を刻む。
山の春まであと、3か月。以前、栴檀轟の滝の桜の写真を撮ろうと、下の遊歩道から舗装された林道を歩いたのだが、五家荘の高地にも林道のあちこちに、スミレや菜の花が咲いていて、むんとする春の陽気に汗をかいて、カメラとレンズを詰め込み、三脚を付けたバックの重さに、僕ははぁはぁ、息を切らした。汗を道にぽたぽた落とし、菜の花の群生を前に、花そのものは嫌いではないが、折角、山まできたのだから、どこにでも咲いている菜の花の写真を撮ることはないと思った。(僕の図鑑に欠けているのはそんな写真なのだ。)
今度はレンズ2個、軽量化作戦にしよう!あと何回やってくるか分からない山の春が、今からもう待ち遠しい。
2019.08.27
人
五家荘の山を登り始める前に、僕が通っていたのは五木村の川だった。
京都時代、熊本出身のカヌーイスト、随筆家の野田知佑さんのファンとなり、手当たり次第、本を買っては読み漁った。
野田氏はカヌーに愛犬ガクを乗せ、日本はもちろん、世界の大河を悠々と下りながら、自然と遊ぶ楽しさと、自然を壊す文明の浅ましさについて、チクリと批評する氏の話は、とても面白かった。その当時の日本の川も乱開発で荒廃していて、氏はパドルで川をかき分けながらその事を嘆くのである。
僕は帰熊すると、早速今は無き伝説のカヌーショップ「バイダルカ」でカヌーを買い、熊本の海に山に、漕ぎだした。
(野田氏と愛犬ガクのように、カヌーの先頭に保育園に入ったばかりの娘を乗せて、天草の島巡りの後、砂浜に上陸する我が家は難民一家とも呼ばれた)
ただ、カヌーについて、テレビでタレントだのリポーターだのが言うのは「カヌーに乗ると、水面と船の上の目線が同じで感動しました」と言うのが定番なのだが、誰が言い始めたのか、みんな全く同じことを言いながら、「いやー自然って言いですね!」なんて適当なことをいうタレントは嘘つきで、実は何も感動していないと僕は思う。見るからに、彼らは自然に関心も何もないではないか。
僕は単純に川に流されながら、ぼんやりするのが気持ちいいだけで、自然がどうの、目線がどうのとは一回も思ったことはない。スポーツとしてカヌーを取り組んだこともない。
例えば、夏にカヌーで熊本の川や海を漕いでみたらいい。一番最初に下った川が野田氏の故郷、菊池川で、菊水町から玉名まで。漕ぎだすと、川の汚染がひどすぎてカヌーどころではなかった。パドルを漕ぎだすと、水面にプカプカ浮かぶ黄色い糞尿のかたまりに四方八方、取り囲まれ、来年の東京オリンピックではないが、汚水が肌に触れないようにカヌーを漕ぐのは至難の業だった。
天草の内海も同じで、外で見る景色とうって違い、いざ、汚水の上に浮かぶ景色は菊池川と同じなのだ。勢い余ってパドルから、海水が顔にかかろうものなら発狂ものなのだ。
熊本で唯一、汚水を気にせず、自然の中で安心して下ることの出来る川は、川辺川、球磨川だけだ。ただこの二つの川はぼんやり、漕いで下るわけにはいかない。
バイダルカの店長タチカワ師匠の悪名高い「誰でも漕げる球磨川カヌー教室」
師匠の優しい笑顔の奥、髭に隠れ、小熊のように光る冷たい瞳。
カヌーを漕ぐみんなの姿があっという間に岩陰に消えていく。氏は初心者に対して、数分間人吉城前のせせらぎのような川で適当に漕ぎ方を教え、数分後、天下の激流「球磨川」に突入させるのだ。
目の間に迫る、数メートルの落ち込み、(ドーン!と音がする)迫る岩の連続、白いしぶき、あぶくで目の前が全く見えない。
師匠の技術指導は単純明快。「やばいと思ったら、ひたすら、漕ぎなっせ!」
数珠つなぎ、見よう見まねで川を下る、カヌー初心者軍団の群れは、漕いでも無駄。最初、奇声を上げていたが、数分後には阿鼻叫喚、数珠つなぎの悲鳴に変わるのだ。ヘルメットも、色とりどりのカヌーもお腹を見せて流されていく。師匠とその弟子は、ひっくりかえって岩に挟まり脱出できずあえぐ生徒を拾いに行くのだった。優等生の僕は難所を強運にもクリア。ただ、最後のなんでもない、ペタリ水面が停止したような、水たまりで、突然、派手にひっくり返った。
(川の恐ろしさはこんなところにある)
※一度、大雨で増水した阿蘇の杖立川で、滝に落ちて一人、しばらくしても、上がってこない人が居た。
5分経過、10分経過…
さすがに師匠の顔は引きつり、いつものニヤニヤ笑いでその場をごまかしながら、師匠の手先は救助用のザイルをほどき始めていた。師匠の空気に気がついた弟子は他人のふりをするか、そわそわその場を逃げ出そうとしていたが、
その時、滝に落ちた人が、カヌーを肩にかつぎ、全身ずぶぬれで(当然)滝から這い上がり、にこにこしながら、
「いや~すごかった、タチカワさん、人が悪いすよ~先に、滝があるなんて、最初から言っといてくれんと、ホント死ぬとこでしたよ~」
あなたの事を師匠もみんなも「マジ、死んだかもと思ってた」とは、言えずに、みんな笑ってごまかした。
あの時の師匠の技術指導も、「ただ前を見て、ひたすら漕げ」だった。
やはり、カヌーはのんびり下るか、漂いながら美味しいものを食べるのが一番楽しい。
これまで一番美しい水溜まりの思い出は、当時の相良村の野原小学校前の、鉄橋の下の蒼い淵だった。家族で、河原でテントを張り、カヌーで水面を漂った。余りの透明度の高さに、カヌーの黒い影が、川底の白い砂の上に映り、船が宙に浮いた気分になった。叱られて橋の上で泣いていた娘は橋の欄干の上で猿に誘拐されかけた。母猿が慰めに山から降りてきたのだ。
今でもその淵はある。川辺川ダム本体の建設予定地となるはずだった場所だ。ただ、野原小学校は見事に校庭の桜の樹とともになぎ倒され、がれき置き場になり、草茫々の荒れ地にされ放置されたままだが。
もうカヌーには乗れぬ体になったが、今も思い出す。あの夏の谷間のキャンプ。闇の中で鹿が鳴き、森の闇に眼が光った夜。焚火をすると、恐ろしいくらいのカゲロウが集まってきた。
かすかな川の記憶が僕の頭の中に繰り返す・・・。
野田氏は見るからに偏屈な親父で、今、四国に住まれているらしい。会えたところで、そう簡単に話などできる方ではないと思う。僕も偏屈もんの一人だが、それはそれでいいではないかと思う。氏は以前、アウトドア雑誌「ビーパル」でダム建設について、地元の新聞社、記者の姿勢を、「腐れ新聞の腐れ記者」と罵倒された。氏のこれまでの連載、随筆を読んだ者については充分理解できる内容だったが、(その雑誌は我が家の家宝でもある)
さて、その記事から10年は経つ今。熊本の自然で遊ぶ、偏屈なオヤジ、おばさんは増えたのかどうか。
2019.08.25
人
昔、写真の世界で「廃墟ブーム」というのがあった。日本中の廃墟、廃ビル、廃道の写真が写真集としてよく売られていた。
長崎の軍艦島がそのシンボルのようなものだけど、この世のなれの果てというか、哀れと言うか。現実とは違う世界をみんな見てみたいのだろう。
シャッター商店街もある意味、廃墟と言えそうだが、なんの味もそっけもないし、苔むしてもいないし、草ぼうぼうでもないし、色あせたスーパーのチラシのようで全然、わびさびが感じられないのだ。
わだちの跡が、かすかに残る山奥の廃道、その向こう、生い茂る草の向こうの暗い世界。
周りに響く、虫の声…。
ある時、僕は山の中で美しい集落を見つけた。
以前、フライフィッシングに凝っていた時、全国の釣り好きの連中の聖地は五木村の梶原川だった。梶原川はキャッチ&リリースの指定地で、そこでは魚が釣れても、リリース(逃がすこと)が義務つけられている。フライの世界で、日本でも有数の自然が豊かで魚影の多い、素晴らしい川というそんなシンボルの場所に指定されたのだ。
川の入り口には、ログハウスの管理小屋も建てられ、イベントも開催された。村の温泉館の一角には梶原川を紹介するコーナーが開設され、日本でも有名な名人作の釣り竿が手作りの毛バリと同時に展示されていた。(今は、その展示空間は消去され空虚。)
その竿は竹を重ね合わされて作られバンブーロッドと呼ばれ、名人作の竿はなんの変哲もない短い竹竿のように見えても、軽く1本数十万円はする。また有名な川の写真家の津留崎健さんの写真が展示され、津留崎さんの梶原川についての賛辞の言葉、思い出が展示されていた。当時は抱えきれないくらい山女魚が釣れたそうだ。
山女魚は釣れなくても、僕はせめて津留崎さんのような写真を一枚だけでも撮ってみたいと思った。
川面に蛍が乱舞する写真…
ものすごい数の金色に輝く、蛍の光の筋が画面中に乱舞する光景は圧倒的だった。
蛍の写真の撮影はそもそも難しいが、あれだけの数が居れば下手な僕でも一枚は撮れるだろうという、浅はかな計算なのだが。
ある日、僕は釣り場を探してどんどん車で梶原川をさかのぼった。そして小さなつり橋を見つけ、橋の手前で車を停めた。つり橋の手前に小さなバス停があった。
この橋は観光用ではない、生活用の橋なのだ。まずは釣り竿片手にその橋を渡った。そんな橋の下には必ず、川に降りる道があるものなのだ。
橋を渡り小さな小道を行くと、その向こうにはほんの4、5軒の山の斜面に肩を寄せ合う小さな集落があった。
茶畑のお茶の葉はきれいに摘まれ、小道の両脇には畑があった。森の中、住む人々のつつましい暮らしぶりが感じられる景色だった。
そんな景色の中に、突然現れた僕は、完全に世俗にまみれた異物の存在なのだが。
僕は橋の下へ向かう道を見つけ、川で竿を振った。川の水は透明で、川底の岩がそのまま透けて見える透明度で岩の上を、音もたてずに、
薄いゼリーのような水が流れていく。苔むす岩の横の緑の淵に毛バリを落とすが、アタリがすぐ来たが、ぜんぜん合わせることが出来ず、僕はねばるも退散した。
先週の日曜。数年ぶりに、川の記憶をたどり、梶原川に向かう。残念ながら、川にも、管理小屋にも人気はなかった。
つり橋を渡る。恐る恐る小道をたどると、そこには、すでに人の居なくなった集落があった。
奥には集会場があり、その前に、戦争で亡くなった人を祀る記念碑があった。あたりはきれいに掃除がしてあった。こんなところからも戦場に出征し、そして亡くなった人が居たのだ。
以前と同じ、畑の中の小さな小道、雨戸の閉められた家屋がそのまま残されている。ここは廃墟でもない。時間の止まったままの場所だった。カラス除けか、羽を開いたペットボトルが畑の策でクルクル回っていた。お茶畑の葉も摘まれず開いたまま。柚子の実が青々と実っていた。時をかけるつり橋の上を、赤とんぼがすいすい、飛び交っていく―。
この集落のような時間の止まったままの場所が五家荘にも五木にも、どのくらいあるのだろうか。
この釣り橋も、もうすぐ、ツタが絡まり、葉が生い茂り、人の行き来が出来なくなるのだろう。
あと数年後、つり橋の緑のトンネルをくぐると、それでもまだ、時間の止まったままの不思議な空間に出会う予感が、僕にはするのだが。
2019.06.02
人
毎週日曜の夜のテレビの楽しみはNHK韋駄天だったが、とうとう我が家もテレビ朝日の「ポツンと一軒家」という番組に寝返ってしまった。(正直、毎回、毎回、金栗さんの全力疾走は、見ている方が辛くて息切れする)たまたま熊本の水上村の一軒家の紹介があり、つい見てしまったのだ。更に翌週も水上村の一軒家の紹介だった。番組は崖っぷちの細い林道を取材者が辿り、その家の主を訪ね歩くシンプルな内容でスタジオではそんな林道に驚きの声があがるのだけど、五家荘の林道も同じで、何も驚くことはない。どこにでもあります。五家荘の一軒家も何時紹介されてもおかしくないのだ。
一軒家、すなわち、一軒の暮らし、ぽつんとした人生。何の作為もなく、ただ老人、老夫婦が山の中で暮らしている。(昨夜は、中年のカメラマンで自作のログハウスに取り組み、うつ病を克服した人だった)縁側で山を眺め、鳥の声を聞き、風に吹かれお茶、コーヒーをすすり五右衛門風呂で疲れをいやす。夜は無音の闇の中で獣の声を聞くのだろう。取材者も淡々と話を聞くだけで、台本もないし、話のオチもない。ただ僕らは、山の中の家で、ポツンと暮らしている「理由」を聞いて「ほーっ、へぇーっ」時に感動を覚え、あこがれ、(ちょっとやきもち妬いて)心いやされるのだ。視聴率が高いのも、そんな番組の光景に、いつかは自分もとあこがれる気持ちがある人が多いからなのだろう。それがたとえ実現できなくても。
森の香り、樹の香りの成分はフィトンチッドと呼ばれる物質で、「テルペン類」と呼ばれる有機化合物で構成され、鎮静作用や、抗菌、抗うつ作用があるとのこと。番組に出てくる人を見ると、みんな肩の力が抜けるのか、人の目も気にしなくていいのか、それこそ“自然体”で暮らされているのがよく分かる。
東京の高層マンションの最上階で夜景を眺めながら、古いアパートで布団にくるまりながら、老人ホームのベットの上で、場末のラーメン屋のカウンターに、肘をつきながら、会社のデスクの上で仮眠を取りながら…。特に都会人のほとんどは田舎からやってきた人だろうし。暮らしぶりはともかく、いろいろな人の心の中が、この番組でほっと溜息をついているに違いない。
もちろん僕も以前から、そんな暮らしにあこがれる一人だったが、今は頭の病気のせいで、その願いはかなわぬが、せめて里山にでも移住したいという思いがある。(我が家の猫族も大移動する必要があるけど)
僕は、もともと人と話をするのが苦手で、話をしたあとはどっと疲れがくる。そう書きながら、五家荘図鑑(写真集)を出したのもサイトを公開したのも、自己顕示欲の表れであり、多少は性格と矛盾しているのだろうが、それらは僕のささやかな「一軒家」で、無理してドアをノックされなくていい。
今回、たまたま仕事で知り合った、デザイナーのSさんに五家荘図鑑を渡し、キャラクターのデザインをしてもらった。タイトルは山猫倶楽部。最初は「猫の事務所」にしようとも思ったが、さすがに宮沢賢治の童話のタイトルはまずいので「山猫倶楽部」にした。(僕は実際、童話「猫の事務所」が大好きなのだが)ちまたに、猫をテーマにしたデザインのイメージは山ほどあるが、(似ているものが多く差別化が難しい)出てきたのはそんな予想を裏切る内容で、僕はとても気に入っている。
6月は検査やら何やらで山には行けそうにない。
想像の世界からやってきた山猫一匹、満月の夜に草原を駆け抜け、つり橋を渡り、川の岩を飛び越し、滝を眺め、森の中で苔の寝床で丸くなって夢を見る。蛍に包まれ金色の猫に変身したり、神楽の太鼓の音に踊りだす。
お話はこれからだ。彼だけは僕のポツンと一軒家に出入り自由なのだ。
2019.01.09
人
ようやくアマゾンで五家荘図鑑が販売開始となりました。僕の入力ミスもあり、さすがに出版社の発行ではないので、途中、審査にかかってしまった。アマゾンがすごいのは、何度もやり取りをしてくれること。ブランドもプライドもない自分にも、同じ立場で対応してくれた。個人的にはいい記念となりました。五家荘図鑑第2号発刊を目指し、「極私的」に活動を続けようと思います。※アマゾンに入り、本➡五家荘図鑑で検索お願いします!
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