熊本県 八代市 泉町(旧泉村) 五家荘
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雑文録

2025.10.14

山行

去年、運良くトリカブトの群生の写真を撮ることができ、今年も懲りずにトリカブトの花を見に行くことにした。言わずと知れた、根っこから花まで全身毒を身にまとった最強トリカブト。これまでいろいろな花と出会ってきたけど、彼女の異形の形も、薄紫の色も独特なものだ。名前の由来は戦国時代に被る冑(かぶと)の形からだろうが、暗い山中、白いガスに包まれ、見え隠れする群生の姿は、とにかく妖しい。いったい彼女たちは、何故こんな毒性を持つようになったのだろう?いったい誰がそうさせたのか?

そうして久しぶりに家人とともに去年と違うルートで山頂に向かい、体力限界、尾根をふらふらしながら歩くに、とうとう3時間が経過、まもなく正午、地図を見るにトリカブトの群生地まであと2時間はかかると分かり、となると、ここから往復4時間、帰路は暗くなり無事に帰れそうにない。登山口から家まで車ではるか2時間もかかる。結果、トリカブトはあきらめ、何の花も見ずに帰ることになった。(最近、あきらめも早い)

汗だらけ、干からびた喉にペットボトルのお茶をごくごく流し込む。そうしてまた汗を滴るほどかき、杉林の暗がりに腰を下ろす。と、そこには1本の白いキノコがひらべったい傘を開いている。

脳裏をよこぎる、やさしく不気味なキャッチコピー

「白いキノコは毒キノコ」

 

【ツルタケダマシ】

 

我が愛読書「おいしいきのこ 毒きのこ図鑑」(主婦の友社)を読んで覚えた言葉だ。つまり、毒きのこは白い子が多い。

子供の頃、町中の「危険さわるな」とか「これに触れたら死ぬ」とかいう注意書きに何かわくわく、心が躍ったものだ。

毒キノコに触れるだけ、1本食べただけで「誰しも死ぬ」のだ。武器や毒ガスで死ぬわけではない。これまで何も起こりそうもない平和で静かな世界に居て、キノコを食べるだけで突然、死が舞い降りる。僕はおそるおそる、その白い死の天使を指先で摘まもうとしたが、すんでのところでやめた。

へとへとになりながらも写真に撮る。重い三脚を背中に担いでいるが、下ろす元気もなく、手持ちでシャッターを切る。

そうして、ようやく重い腰を上げ、暗い杉林を下り、すこし開けた場所に下りる。ここにもまた不思議なキノコが生えていた。あたり一面、緑の杉の葉が落ちた景色の中に、細くて赤い女の小指がいくつも伸びている。中にはオレンジ色、黄色の指も居て天を指す。

 

【ナギナタタケ】

 

白いキノコ同様、赤いキノコも要注意。この子は長い間、出会うのを待ちわびていた「カエンダケ」ではないかいな。暗い森の中にメラメラと立ち上がる赤い炎。あちこちに赤い指。森に死体が埋葬されているのか?

落ち着け、図鑑で見た「カエンダケ」は、まるごと手首から上、5本の指が突き出し、その名の通り、炎がゆらゆら揺らめいているような恰好なのが「カエンダケ」で、今回のように、こまめに指1本指1本の形態ではない。この子も、触れないように気を付けてシャッターを押す。

毒花、トリカブトを見に行くつもりが、毒キノコの歓迎を受けるなんて!地面から伸びる赤い指の森に追われて、逃げるように山道を歩く。もうすぐ峠だ。行きは気がつかなかったが、杉林の苔むした切り株に、ちょうど耳の大きさくらいの白いキノコが重なるように生えている。苔の緑に白い花びらの対比が美しい。見回すと、あたりの切り株にも白いキノコがいくつも生えている。名前は確か「スギヒラタケ」

こんな可愛い、小さなキノコでも用心、用心…いつも見かけるキノコだが、帰宅したら再度調べて見ようと思った。

自宅に帰り、図鑑を開く。

◆「ドクツルタケ」キノコ図鑑では「真っ白なテングタケは死の天使」と紹介されている。海外でも同じネーミング。このキノコを見分けることが出来なければ、白いキノコは食べたらいけない、と断言してある。

1本で致死量に至る。ドクツルタケを食べると、比較的長い潜伏期間(6時間~24時間)を経てコレラ様の症状(腹痛、下痢、嘔吐)が現れ、適切な処理をすると1日程度で症状は治まり、その後、2段階目の症状が4日~7日後に現れ、黄疸、肝臓肥大、胃腸からの出血など内臓の細胞が破壊され、重傷の場合は死に至る…と詳細に記されている。※適切な処理とは、消化管洗浄、透析、活性炭処置など。今回撮影した子は、厳密に見れば「ツルタケダマシ」らしい。「ドクツルタケ」と毒性は同じ。

◆「ベニナギナタタケ」全体が緋色で基部に白い毛がある。肉はもろい。

毒性はなく可食だが、一般的ではない。要するに不味い。色からカエンタケとの誤食に注意する。「ナギナタタケ」と瓜二つの「カエンタケ」は、猛毒菌で死亡例もある。きれいな赤橙色。硬く締まった肉質。食後30分で悪寒、腹痛、頭痛、しびれ…嘔吐、下痢などの胃腸系と神経系の中毒症状がでる。その後、臓器不全、脳障害など全身に症状があらわれて死に至る。毒成分は刺激性が高く、カエンタケの表面の汁に触れただけで皮膚障害がでる。

◆スギヒラタケ

杉の切り株に発生する。最近まで食用にされ、缶詰などの加工品も販売されていた。2004年の急性脳症の原因調査の過程でスギヒラタケを食べたことが判明し、毒性が分かった。中毒症状例として、ふらつき、意識障害、痙攣を起こし、腎機能が低下している場合急性脳症を経て死亡することがある。血液の赤血球や白血球を破壊して急性の貧血を起こす毒性物質が含まれると指摘され、一般的に食用は避ける。全国各地でいろいろな呼び名で食べられてきた。外見は確かに美味しそうなのだけど。

我が「五家荘図鑑」で、キノコ類にコケ類、地衣類のページが全く空白で、合わせて虫類、鳥類、魚類、獣類なども白紙のまま。そういう意味では今回変わったキノコ類に会えて収獲だった。キノコ類についてはもっと積極的に動けば、更に図鑑のページも増やすことができると思う。他にもいろいろなキノコに出会えた山歩きだった。いつも以上に見かける種類が多かった今年は、高温多湿、多雨の影響でキノコの菌が繁殖しやすかったのだろうか。

「ぼくらはみんな生きている」生きている山が五家荘なのだ。

五家荘の山は、変わったきのこの宝の山でもある。さて、これらのキノコ類は、どうしてそんな猛毒を持つようになったのだろうか?毒キノコを食べ、死んだ獣の死体の細胞をきのこが分解して栄養源にするのだろうか?昔、キノコが恐れる生き物が森にいたのだろうか?もちろん今も昔もキノコの生存を脅かす敵は人間そのものなのだけど。

山頂ではトリカブトの花弁の奥の甘い蜜を求めて、ハチたちはブンブン羽の音を立て、トリカブトの花の間を行き交っているだろう。トリカブトの蜂蜜は毒ハチミツで食べたら危険。それでも持ちつ持たれつ、トリカブトと蜂は共生している。トリカブトの球根を乾燥させたものは附子(ぶし)と言われ、弱毒処理を行って漢方薬の生薬として使われている(新陳代謝、冷え性改善、鎮痛、強心など) 人間もトリカブトも共生しているのだな。

人間と毒キノコ、これから共生できるのだろうか?

 

【スギヒラタケ】

2025.08.26

山行

今年の夏も酷い暑さだった。標高1,000メートルを超える五家荘の峠でも、驚くに生暖かい風が吹いてくる。真夏になると、さすがの山野草の開花も少なく、カメラを用意しても被写体はなかなか見つからない。それでも山道を歩くのは良いものだ。誰も居ない暗い小道。ひたすらヒグラシの声が樹々の間からシンシンと聞こえて来る。はるか頭上では鳥の会話が聞こえる。昔の思い出が蘇る。白鳥山をウエノウチ谷から川に沿い登る道。巨木の緑の枝がいくつも重なりあう緑のトンネル。足元の苔の絨毯を踏みしめていく途中には自生したキレンゲショウマの黄色い花が咲いていた。汗を拭き、ブナの大木を見上げると、幹に着生したギボウシの茎は首をもたげ青空に向かい、白い花を咲かせていた。ふぃに舞い降りて来る、道に迷ったアサギマダラ。

残念ながら、今も白鳥山への林道の崩落の工事改修の見通しが立たず、例年なら月に2度ほどは通っていた五家荘へ、2か月に1度行くか行かないかの頻度となってしまった。

この際、これまで撮りためた五家荘の景色、山野草の写真のデータを整理することにした。過去の登山の出来事や、珍しい花々との出会いなど、整理しながら思いだす。

「後で何かに使えるかも?」などの思いで、シャッターを切ったこともあるが、画像フォルダには無駄な画像が積み重なっていた。「本当に、後で何に使うつもりだったのか?」自問しながら、画像をクリックすると、その瞬間、瞬間の画像が消えていく。デジタルの時代、人の生き死にも、懐かしい思い出も、ワンクリックで消えていく。

ハチケン谷林道を峠に向かい登り始める。山頂は目指さない。足元のごつごつした岩を踏みしめ歩く。時間に余裕がないので、目的地を決め、川の水で足を冷やし、コンビニ弁当を食べ、引き戻すことにした。

足元には丸い光の輪がゆらゆら揺らいでいる。もちろんそれは木漏れ日なのだが、あまりに強い日差しでその丸い光の輪は生きているようだ。帰路、川に降り、岩から滴る水の流れを写真に撮ろうとした。苔むした大きな岩にも光の輪が揺らいでいる、白いしぶきのたつ川面にも光の輪がいくつも揺らぎ流れ落ちていく。山の神の小さな魂がこぼれ落ちて流れていくように。

五家荘の盟主、国見岳は熊本県で最高峰の山で標高1739メートル。昭和62年に山頂の磐座(いわくら)を学術隊が調査したことが泉村村史に記されている。山頂の岩場の4か所に開けられた、柱の穴を確認。磐座とは神が宿った住処。下界の神社に祀られている人間が創作した神ではなく、はるか昔、古代人が信仰した自然の神様なのだ。平成4年に再度の学術調査を「国見岳の神籬(ひもろぎ)保存会」が行うが、成果が見られなかった。神籬とは神が下りてくる場所の事。

国見岳山頂の祠は数年前の暴風で跡形もなく吹き飛ばされてしまった。山頂に神は不在だった。つまり僕が見た、丸い光の木漏れ日は、飛散した魂の光だったのかもしれない。

8月15日前後、有志の人々が何十キロもある、祠の材料を背負い、国見岳山頂に立派な祠を建設された。写真を見るに山頂は満天の星空、山頂から新しい太陽が昇ってくる画像も送られてきた。山の神様の荒ぶる魂は人間の手で新しい祠に納まった。感謝しかない。

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時空を超え、縄文の空へ。

縄文の時代からの自然に宿る神を僕は「神」と信じている。日本書紀とか古事記に記された神 (なんとも読みにくい、ややこしい名の神々よ、彼らは空を飛んだり、巨岩を持ちあげたり、争いをする…まるでドラゴンボール) というのは単なる空想物語、創作と専門家の中では定説とされていて、記紀神話など文献が古いだけで国宝扱いされているにすぎない。言葉で書かれた物語はすなわち虚構。本当の神は言葉も持たず輝くだけ、存在するだけの神。

縄文ファンの僕は数回、長野の縄文の記念館を見て回ったことがある。町のあちこちの神社、小さな祠の周りには4本の柱が立ててあり神様が祀られている。この4本の柱は、神籬を表している。急坂から大木を谷に落とし、その転げ落ちる大木にまたがる奇祭「木落とし(諏訪の御柱祭)」は諏訪大社の祭りで、諏訪大社は諏訪湖を挟み、上宮(前宮、本宮)、下(春宮、秋宮)の4つの神殿があり、その4つの宮には大きな心柱が鎮座し、4本の心柱が神を祀る神籬を作っている。国見岳山頂の4本の柱の穴は古代から信仰された山の神が舞い降りる舞台だったのだ。真冬に諏訪湖が凍結すると「御神渡り」という、凍った湖面に見えない神が走った跡が見られることがある。

長野県諏訪郡富士見町にある井戸尻考古館の土偶には有名な、始祖女神像の他にも土器、土偶が展示されていて、ある土偶の(女性)の頭の上には、丸いとぐろをまいた蛇が居る。縄文人は蛇を神と祀っていて、諏訪大社の本当のご神体も蛇なのだ。由緒ある神社のご神体は蛇が多い。

諏訪神社も明治維新前までは、お寺と同体で敷地内には五重の塔や仏教の施設も混在していた(当時は寺が神社を管理していた)が、明治政府の神仏分離の命令で仏教の施設はことごとく破壊された。

国見岳、山頂の4本の柱の跡は縄文時代からの神を祀る、舞台の跡だと信じたい。シンプルに山の神の事を考え、自然と共生した古代に思いを馳せるだけで、救われる魂もあると信じたい。もう一度だけ、登りたい。

2025.05.20

今年の春は事務所の移転(熊本市内の事務所をたたみ、実家のある三角町に移転し事業を再再開)したり、もともと猫が寄る我が家に、新入りの野良猫親子が転がり込み(とうとう、家で飼育する猫の数が9匹になった)、ただでさえ回転の悪い頭がオーバーフローし、なかなか五家荘の山まで足が延ばせなくなってしまった。

と、言いながらも五家荘の地域プロダクトからの情報で4月30日に久連子で久連子鳥の品評会と久連子踊りの披露があるとの事、久連子踊りはだいぶ前に緒方家の前での踊りを見たのが最後だったので、頑張って家人に運転をお願いし、久連子までたどり着くことができた。前回の雑文録では金色の花、福寿草をテーマに文章を書いたが今度は春の陽気がむんむんする中で満開の石楠花の写真を撮った。

山野草は各自個性的で、谷の岩の間にひっそり隠れていたり、廃道のわきの草むらに咲いている花が多いが、石楠花は桃色や白、深紅の大きな花びらを開き堂々と自己主張している。ここまで正面からカメラ向かう花には気合で負けてしまう。あまりの美人さに我ながらとても恥ずかしい。

朝、開花したばかり、露にしっとり濡れた大きな花びら。知らないうちに薄桃色の世界に誘いこまれ、いつのまにか花びらの渦巻く世界の中心に吸い込まれていく。僕は美人を前に、何枚撮っても何枚撮っても、似たような画像しか撮れずに疲れてしまった。花そのものの世界を撮るのは難しい。

しばし休憩・・・改めてファインダーをのぞくと、その薄桃色の花びらの淵を名も知らない蜘蛛が細い足を立てこっそり、こっそり横切って行く。彼は待ち構えているのだ、虫たちが花に酔いしれ、蜜の香りに誘われ、行き場をなくすことを。体中、甘い蜜まみれ、花粉の粉で息をすることもできない、夢見心地の虫たちが桃色の柔らかい花びらの上で磔になることを。

しばらくして、死者を弔う久連子念仏踊りの舞がはじまった。鉦と太鼓の独特のリズムが谷間に響く。どんどん、かんかん。

 

はるらんまん、はるらんまん

2025.03.17

山行

今年初めての山行(五家荘)は3月2日、小雨の降る日だった。僕の山の守り神氏(本人にとっては迷惑だろうが…)から、福寿草の開花の情報が届いたのだ。九州の山地では福寿草の群生は珍しく、時期になると登山客で現地は賑わう。

 

八代市泉町・九連子(くれこ)は歴史のある集落だった。こんな山奥の谷間の地に全盛期は人口が増え、結果、土地を求め、兄妹家族は分家され山の向こうの球磨地域に移住して行った。村にある正覚寺(今は廃寺)の過去帳には、九連子の人々の詳しいルーツが記されてあったそうで、地域の民俗を研究していた僕の出身高校のN先生が過去帳の開示を求めたが断られたと残念がっていた。

 

 

僕が初めて白崩平で福寿草を見たのは2016年、そしてその帰りに雪道をさかのぼり岩宇土山に登り、帰路の途中に有名な子供を抱いたお地蔵さんを見た。このお地蔵さんは知る人ぞ知るお地蔵さんで、出会うためには相当な体力が必要な難所にある。僕はそのお地蔵さんの体に刻まれた、明治30年2月16日・久連子村の文字を読んだ。何故こんな急峻な山の中腹に子供を抱いた姿のお地蔵さんが祀られているだろうか。想像するに、正覚寺の過去帳を紐解けば多少の謎は解けたのだろう…と、つい学者気取りで思索にふけるのだけど。更に言えば久連子のお地蔵さんの表情は一般にみられるお地蔵様の顔でなく、素朴な人そのものの表情でもある。

 

 

しかし、その謎が解けたところで何になる。福寿草が咲く季節にお地蔵さんに出会い、当時への思いをはせ、手を合わせた僕だけの記憶。僕の記憶の中では福寿草とお地蔵さんは共にある。それだけでよいではないか。

 

雨の為、駐車場にも誰も居ない。朽ち果てた鳥居をくぐり、久連子神社の前に出る。古びた社殿の入口には結界が縄で編んであり、真新しい御幣が下がっている。山人の山の神様に対しての信仰心は厚い。明治時代になるまでは全国のお寺や神社は神仏混淆(習合)で同じ場所に同居しているのが一般的だった。明治政府の暴挙で強制的に神と仏は分離された。久連子踊りも念仏踊りの流れを汲むと言われ、この地に流れ着いた修験の影響を残しているのだろう。西の岩の尺間神社も修験道の流れを汲んでいる。ただ集落の奥に日露戦争で戦死された兵隊さんの像も祀られてあり、当時は仏様よりも「軍神様」の力が強かったのだろうとも思う。

 

今や集落自体が時の流れに朽ち果て、人の気配も少ない。以前、夏に久連子川でヤマメを釣り、上流へ釣上がっていると、川沿いの古民家の下では岩のくぼみにスイカやジュースが冷やしてあったが、その民家も雨戸が閉められ、誰も居ない。

 

最近、地方再生だの創生だの言い出す輩が増えて来たけど、お金が無くなるとみんなそうして騒ぎ出す。地方創生と言うのはどういう事か、僕は具体的に問いたいが、誰も答えることは出来ない。誰も答えられない事に、毎度毎度、お金をばらまくのはどういうことか。

 

小雨に洗われ、金色に輝く、透き通るうろこのような花弁。雨が降ろうが、晴れようが、誰かやってこようが、こまいが、谷間に身を寄せ、家族のように集まり、金色の花を咲かせる花たちよ。

 

お盆や仏事の時に死者の魂を鎮める為に踊られる、久連子(念仏)踊り。最近、なかなか見る機会が少なくなった。キーン、キーン、カーン、カーン、踊りの合間に強くたたかれる金色の鉦の音色は、福寿草の黄金の色と同じなのだ。

 

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