熊本県 八代市 泉町(旧泉村) 五家荘
メニュー
雑文録

2020.02.23

【強運・不運半々な日々】

強運不運、半々の人生である。まったく、運がいいのか悪いのか。年末に左肩の腱板断裂で最初に診た医者からは「早く手術せな、いかんですよ。内視鏡で切れた筋をつなぐことが出来るのはわたしだけですから、早く、早く」「先生回復するのにどれくらい?」「入院、退院、リハビリ合計でざっと半年は必要ですな。」

仕方なしに知人の紹介の医者にセカンドオピニオンすればその医者、プクンと膨らんだ、雪だるまのような体をプルンと揺らし、まず、リハビリしますかな」と苦笑い。なんと3か月週に1回リハビリ通いで腱板は切れたままでも痛みはなくなり、普段の生活が可能になった。登山用のバックは背負えないにしても、かすかな希望が見えた。

が、正月明け、頑張って、駅前の公園を歩いていたら凍った草に滑り内股座り。左ひざからプチリと音がした。内側のじん帯損傷。歩くに、杖が必要になった。同じ整形外科でリハビリ開始。つくづく、強運、不運半分の人生。何にしても、まだ登山は無理で、部屋で寝っ転がり、昔の登山を思い出している。具体的に言えば40年も前。もちろん、その時の僕は存在しない。体内の細胞も全部交代だ。その時を思い出すに相変わらず、強運、不運のくりかえし。確かにあの時僕は墜落をした。その後の事は何も覚えていない。

【墜落の仕方教えます】

僕の中では全然盛り上がらないオリンピックなのだが。特に最近スポーツクライミングなるものがテレビでよく取り上げられて話題になっているが、見ていて全然面白くない。というか、飽きるのだ。よく飛びついたり、逆さになったりしているが、サーカスとどう違う?と思う。

室内の競技で自然を感じることは何もない。これが屋外の自然石でのボルダリングなら見ている人も面白かったろうに。陽の光、草のにおい、風の向き、雨…競技者のしたたる汗。どのルートを取るかは自由自在。自然では絶対安全なホールド、スタンスなど絶対ない。見ている方も、手に汗をかくだろう。登っている最中に蜂が来襲するかもしれぬ。

僕は今からなんと40年前、ちょうど18歳から20歳になるまでの2年間、(正確に言えば高校時代の3年間もあるが)よく山に登っていた。京都に行き、調子に乗って岩登り(今風に言えばロッククライミング!)をやろうと、本屋で手に取ったのが、「墜落の仕方教えます」※という本だった。隣で立ち読みしていた赤の他人が「あんた、墜落の仕方教えますって、そんな本…」とつぶやき驚いた。山登りの世界でもへそ曲がりで協調性がないのが僕で、本来、未来のある若者ならそんなクズのような本を読まずに、ロイヤルロビンス※らの正しい山道を登る本だったはずだけど。

墜落の仕方の本を開くと、最初からうさんくさい髭面の大男が、ザイルから逆さにぶら下がり、口を開け両手をだらんとぶら下がっている無駄な写真が目に付く。そんな写真を見て、クライミングがうまくなるはずはない。僕はその本を持ちレジに行きお金を払った。そして僕はその時から2年後、本の教えのとおり墜落したのだった。(リアルに言えば真冬の中央アルプスの宝剣岳で、岩場を下降中、アイゼンで氷を踏み抜き、サッとその瞬間、足元の氷と雪が暗い谷に消え、これ以上、進んだら死ぬと体が警告を発し体全体が固まり全く動かなくなった。)その後、どうやって下界に帰れたのかは記憶にない。当時、よく言われていたのが岩登りをはじめて数年が一番危ない。調子に乗り、どんな場所でも行ける気がして、運が悪ければ自然の洗礼を受け、死ぬということだった。

【こんぴら】

言い換えれば、バカは死ななきゃ治らない。京都には大原の近くに、金毘羅山(通称コンピラというゲレンデ・岩場のトレーニング場)があり、おおよそ30くらいのルートがあった。日曜になると大勢のクライマーが集まりカラビナをガチャガチャ言わせながら(時には悲鳴!)も岩場に挑んでいた。ルートにはピラミッド、チムニー、ジャイアントなどなど、ユニークな名前が付けられて、とても一日では登り尽くせない。コンピラは初心者から海外遠征をする大学、社会人の山岳部まで老若男女の理想的なトレーニング場だった。一見たやすいルートだと思われがちだが、中には難易度の高いルートが結構ある。夏休みに福岡の某大学の山岳部の先輩を案内したが、最初はバカにしていたが歯が立たず、途中で何度も墜落した。コンピラの入り口の戸寺というバス停の横にも垂直の壁があり、登って降りられなくなった若者が時々居たりした。バス停に着いたとたん不幸な出来事を目撃するのだが、クライミングを始めた頃は体が野生にもどるのか、調子に乗るとどんな壁も登れる気がして、気が付くとどんどん登ってしまう時期なのだ。

社会人の山岳会に入った僕の師匠はビールを飲むといつも下痢する、一色さんという人だった。一色さんはいつも下駄ばきで登山口まで来て、壁を前にして、靴に履き替え、(薄毛隠しの)破れたチロリアンハットの上に、大きな金魚鉢のような赤いヘルメットをかぶるのだ。そしてしけた煙草火をつけ、ふぅーつと煙を吐き出し、岩に向かうのだ。一色さんはお調子者の僕の性格を読み取り「調子に乗るとえらい目にあうでぇ」と、いつも諭してくれた。

時々、やってくるのが農家の小島さんだった。小島さんは右手の指が3本しかなく、その指先で器用にザイルを結び、難しい、岩壁を難なく登った。一色さんの地味で確実な登り方とは違い天才肌だった。そんな小島さんでもある時会うと「こんまえなぁ。死にかけたんや。ピラミッドでな、ふいに気が抜けて足滑らしてな。頭から、ブラーんて、落ちてもうたんや。はって思って見たら、目の前に尖った石があんねん。もう少しで、みけんにその石の先が刺さって死ぬとこやったわ」ヘタヘラ人懐っこい、笑顔だった。僕もヘラヘラ笑った。小島さんはアウトローで、その後会ったときに「一人でアルプスの丸山東壁を登ったんや。その時も偉い、大変やったで。一人で登って、一人でザイルも回収せなあかん。えらいしんどかったわ」当時、小島さんとザイルを組むパートナーは誰もいなかった。(小島さんとザイルを組めば、たぶんえらいしんどい、下手したら死ぬかもしれんと誰も分かっていた。)

【ビビりフェイスにビビる】

コンピラの難関は頂上直下の「ビビリフェイス」と言われる。10メートルくらいの平べったい、垂直の壁だった。その名の通り、誰しも「ビビる、壁」で、途中までは難なく登れるが、垂直の壁、最後の数メートル。2センチほど突き出た岩の出っ張りに両足を揃えて乗せた時から「ビビリ」ははじまる。そこまでは楽勝、ところが壁の頂上まで、つるつるで何の手掛かりも見あたらないのだ。右に左に忙しく指先が騒ぎ始める。しばらくすると、緊張で両足がガタガタミシンを踏み始める。それでも手掛かりを探して落ち着いて指先を伸ばすに、数センチ先にふと指先に触れる、かすかな岩の出っ張りがある。ビビリフェイスをクリアする為には、背筋を伸ばし、その出っ張りに手をかけ、ガタガタ震える足を踏ん張り、体を持ち上げる「その勇気」があるかどうかなのだ。その勇気のない者はさんざんミシンを踏んだ後、だらーんと、墜落するはめになる。そのビビリ具合を見ようと、木の陰に見物人がたくさん集まってくる。ある日僕が見たのは大学の山岳部で、大きなリュックを背負い、冬用の手袋を着けおまけに冬用の登山靴にアイゼンを着けて登らされている新人だった。彼は靴先に付けた2本の爪で足場の岩にたち、厚手の手袋で岩にへばりついていた。そして最後の難関。どう伸ばしても手掛かりがない。ガタガタ足が震えだす。「はうら、もう少し手を伸ばしてみい、引っ掛かりがあるやろ、その引っ掛かりを引き付けてビビりを登るんや!もう少しやで!」罵声ともつかぬ、先輩からの励ましの声がする。新人君はようやくその指先に引っかかりに気が付いたが、冬用の手袋でなかなか掴めない。膝をがくがくさせながらつぶやく、「地獄や~地獄や~」先輩が叫ぶ。「おまえ、ええこと言うなぁ~おもろい奴や!」「やるかやらんかやで~はよう、登ってこんかい、本番やったら死んでるで」「ジゴクやジゴクや~」谷間に響き渡る、「ジゴクヤァ、ジゴクヤァ~」

そのあと彼がどうなったのか、僕にはったく記憶がない。まるで自分の墜落の記憶がないように。

 

愉しかりし山。その当時、日本で一番難易度の高い岩壁が、奥鐘山西壁と言われた。そのルート説明には「最後のピッチが最悪。木の枝をつかみ、回り込んで登る」とか、実際、登った人から話を聞くに「最後はなぁ、草や、草をつかんで草が抜けませんようにと祈りながら、体を引き上げて登るんや。ほんまにえらい岩やったで」当時、関西にはそのレベルの人がゴロゴロいた。難関のオーバーハングをいくつも抜け逆相の岩場をのぼり、途中の岩場でビバークし、体力も尽き果てた最後の1ピッチの締めは、草や草やで!…

スポーツクライミングはすべての足場やホールドが絶対取れないことが前提で競技場コースが設定され、大きな会場には冷暖房が完備されているのだろう。更に速度競技なので、見る方もあっという間。とにかく早い方が勝ち!そのあたりが僕には面白くない理由のひとつなのだが。

体の全細胞が入れ替わり、当時の僕とは別人となった僕は、情けなくも山を歩くことが精いっぱい。ベットに横になり、五家荘の深い森の中に居る夢を見る。今でも無意識に右手の指先を伸ばし、何かつかもうとする時があるのだ。幸か不幸か。

 

※墜落の仕方教えます ウォレン・ハーディング著 (1976年)。別名バッツオ。

※ロイヤルロビンス クリーンクライミング倫理提唱者、登山の神サマ。

2020.01.13

五家荘図鑑販売開始から、およそ1年。アマゾンで約10冊。上通りの長崎書店さんで9冊。山の店シェルパさんで多分5冊くらい。去年2月の五家荘の福寿草祭り、山のイベントで約10冊以上くらい売れたか。(苦笑)もちろん赤字!もう少し売れたらいいなと思い、そろそろ営業でもせんといかんと思い立ち、まずは熊本の書店めぐりはどうかと思うに、去年長崎書店さんに挨拶の時に、担当の人から、熊本での販売はうちだけですか?と聞かれたので、つい「もちろん、山の店シェルパさんと、御社だけです。御社は熊本で唯一、こだわりの書店と認識しております。」と直立不動の姿勢、ハッと即答した手前、他の書店にはお願いできにくくなった。橙書店さんにも持って行ったが、置く場所がありませんと丁寧なはがきと一緒に本が返送されてきた。(進呈したつもりだが)まぁいい。

それで、1年も経ったし長崎書店さんも怒るわけはないはずだし、あと2社、某全国書店と、熊本でビデオと一緒に本も売られている某書店に営業すべしと思うが、どうも足が重い。左肩の腱板も断裂し痛いし荷物も持てないし。そうして寒い冬、うだうだ布団を被り、クリップの挟まった脳みそで考えるに、ああそうだ、僕には京都の萩書房さんがあるではないかと、今頃気が付いた。(だからクリップのせいなんだ)

萩書房さんは京都、左京区一乗寺にある古書店。そもそも五家荘図鑑のホームページのサイトを作るときに、依頼先のフロンティアビジョンさんのウエブデザイナーさんからどんなデザインがお好みですか?と聞かれた時に、「誰かが、京都の古書店の2階でごそごそ書棚をあさって、変な山の写真集を見つけ、ページを開いたら五家荘という誰も知らない幻の山地の写真集を手に取った時のようなデザイン」と言い、困らせた記憶がある。

その古書店というのはつまり、今から思うと萩書房さんだったわけなのだ。(なんていいかげんな頭の迷宮なのか)と、いうことで早速、萩書房の井上さんに電話をし、本を送り付けたのだ。萩書房さんにはいつも無理を言い、どうしても欲しい本を東京の古書店ルートで探しあててもらったことがあった。不思議にも、いつ行っても僕の欲しい古本が並べてあるのだ。(都合よく、熊本の書店での営業は完全中止となりました。五家荘図鑑の販売は長崎書店、シェルパさんのみ)

で、この際、春に数年ぶりに京都に行くことにした。還暦60歳にして、青春18きっぷを買うような気分で、熊本から京都までの沿線を野宿しながらたどり着こうと思った。(※体調不良で野宿は困難…)せめて出町柳の三角州で(昔は酔いつぶれてベンチで寝てたな)一泊くらいするつもり。頭も重く、将来も暗い日々。そんなときにワクワクする京都行はささやかな生きる元気のもとになる。

もちろん京都には懐かしい友人も居るし、特に一乗寺エリアは、今や個性的な書店の巣窟で“その手の人々”に人気らしいし。恵文社、ガケ書房…訪問時は、一乗寺の他にも三月書房、アスタルテ書房(奇跡の復活)などなど書店めぐりとなるだろう。そして、その書店の書棚の奥で、僕は改めて「変な山の写真集を見つけ、ページを開いたらまだ、誰も知らない幻の山地の写真集を手に取る機会があるかもしれないと」ふとんをかぶりワクワクするのだ。

更に更に、思い出すに、僕は熊本の田舎高校の山岳部を出て、19歳から20歳まで京都の社会人の山岳会に入り、短い期間だが、京都の山々はもちろん京都を拠点に日本アルプスの山々を登った思い出があるのだ。よくよく思い出すに、その当時の無謀な登山が原因で僕の左肩は回らなくなり、ある角度で腕の筋が引っかかり、痛みがあり動かなくなった。40年経って、その時の傷が今の腱板断裂となったかどうかはわからない。

 

2020.01.05

2019年12月30日で60歳になった。還暦と言われる年だ。

僕は生まれてこのかた、誕生日とか一切嬉しくも悲しくもない。よく人様から「誕生日おめでとう」とか「生まれてきて良かったじゃん」と言われても、無関心無感動。だからフェイスブックとかで、お祝いのメッセージとか書かれてもとても困るので、非公開にしている。(そもそもフエイスブックは仕事の連絡用)しかし、よくも60年も生きてこれたのは「極私的には」良かったと思う。

2019年の病院歴。

脳の造影剤入りMRI(脳の血管の定期検診・問題なし)1回。脳のCTスキャン2回(髄液の漏れ、問題なし)大腸がんの疑いで内視鏡検査2回(大きなポリープ取る)これでうまく逃げおおせたかと油断したら12月に異常発覚!

左肩の奥に、筋が引っ張ったような痛みあり。五十肩かと思い、事務所近くの整形外科でレントゲン撮るに原因不明、更に肩のMRI撮る。なんと左肩の腱板断裂との診断。腱板断裂とは言葉そのもの、左肩を支える腱板が断裂して、切れた筋の端が尖って筋肉に疼痛を与えているらしい。

先生曰く、リハビリ2か月、手術入院2か月、その後のリハビリに2か月。(合計半年ではないか!)切れた筋は自然につながることはなく、内視鏡を見ながら筋をつなぐ必要がある。(なんだか手術をしたくてしたくて、たまらないらしいぞ…)そんなこと言ったって、今でも通勤2時間かけて、人の数より猫の数が多い田舎住まいの我が家から通勤しているのに。第一「猫の世話は誰が見る!」…と言うことで、知人の勧める他の整形外科にセカンドオピニオンに行き、週に1回、リハビリに通うことにした。(自転車、片手運転で!)

左肩をそのままにしておくとどうなるか?先生曰く「筋が自然につながることはなく、そのまま痛いだけ」とのこと。夜も眠れないほどの疼痛が続くわけでなし、結論として腱板断裂は当分放置することにした。

ただ、重いものは持てないのと、痛みを緩和するために、首から下げる三角巾のようなものをアマゾンで買って下げることにした。原因は不明だが、60年も左肩を使っていれば、どこか悪くなったのだろう。

ただ、一番残念なのはリュックが背負えない体になったということ。これまでのように五家荘の山にも写真撮りに行けなくなったのだ。もともと、くも膜下後から、急坂は酸欠で登れなくなったのだが、腱板断裂で更に登山は厳しくなった。

そんなこと言っておれば、山どころか、どこにも行けないので、次回からは腰に回すバックにカメラとレンズを忍ばせ、頑張って行ける場所に行けばいいのだと思う。

誕生日に無関心、無感動…といいながら今度ばかりは家人に誕生プレゼントに目覚まし時計をねだり、ホームセンターで買って来てもらった。もともと年末に机回りを掃除していて、高校時代に買った目覚まし時計が出てきたのだ。その時計をバックに詰めて18歳の僕は京都行の夜行に乗った。それから40年以上。何故か、その時計が引き出しの奥に転がっていた。電池を変えたがもう時は刻まなかった。ただ、目覚ましのベルはいつも通り、リンリンと鳴り響いた。

と、いうことで僕の還暦記念の品は新しい目覚まし時計。12月30日から時を刻む。

山の春まであと、3か月。以前、栴檀轟の滝の桜の写真を撮ろうと、下の遊歩道から舗装された林道を歩いたのだが、五家荘の高地にも林道のあちこちに、スミレや菜の花が咲いていて、むんとする春の陽気に汗をかいて、カメラとレンズを詰め込み、三脚を付けたバックの重さに、僕ははぁはぁ、息を切らした。汗を道にぽたぽた落とし、菜の花の群生を前に、花そのものは嫌いではないが、折角、山まできたのだから、どこにでも咲いている菜の花の写真を撮ることはないと思った。(僕の図鑑に欠けているのはそんな写真なのだ。)

今度はレンズ2個、軽量化作戦にしよう!あと何回やってくるか分からない山の春が、今からもう待ち遠しい。

2019.08.27

五家荘の山を登り始める前に、僕が通っていたのは五木村の川だった。

京都時代、熊本出身のカヌーイスト、随筆家の野田知佑さんのファンとなり、手当たり次第、本を買っては読み漁った。

 

野田氏はカヌーに愛犬ガクを乗せ、日本はもちろん、世界の大河を悠々と下りながら、自然と遊ぶ楽しさと、自然を壊す文明の浅ましさについて、チクリと批評する氏の話は、とても面白かった。その当時の日本の川も乱開発で荒廃していて、氏はパドルで川をかき分けながらその事を嘆くのである。

僕は帰熊すると、早速今は無き伝説のカヌーショップ「バイダルカ」でカヌーを買い、熊本の海に山に、漕ぎだした。

(野田氏と愛犬ガクのように、カヌーの先頭に保育園に入ったばかりの娘を乗せて、天草の島巡りの後、砂浜に上陸する我が家は難民一家とも呼ばれた)

ただ、カヌーについて、テレビでタレントだのリポーターだのが言うのは「カヌーに乗ると、水面と船の上の目線が同じで感動しました」と言うのが定番なのだが、誰が言い始めたのか、みんな全く同じことを言いながら、「いやー自然って言いですね!」なんて適当なことをいうタレントは嘘つきで、実は何も感動していないと僕は思う。見るからに、彼らは自然に関心も何もないではないか。

僕は単純に川に流されながら、ぼんやりするのが気持ちいいだけで、自然がどうの、目線がどうのとは一回も思ったことはない。スポーツとしてカヌーを取り組んだこともない。

例えば、夏にカヌーで熊本の川や海を漕いでみたらいい。一番最初に下った川が野田氏の故郷、菊池川で、菊水町から玉名まで。漕ぎだすと、川の汚染がひどすぎてカヌーどころではなかった。パドルを漕ぎだすと、水面にプカプカ浮かぶ黄色い糞尿のかたまりに四方八方、取り囲まれ、来年の東京オリンピックではないが、汚水が肌に触れないようにカヌーを漕ぐのは至難の業だった。

天草の内海も同じで、外で見る景色とうって違い、いざ、汚水の上に浮かぶ景色は菊池川と同じなのだ。勢い余ってパドルから、海水が顔にかかろうものなら発狂ものなのだ。

熊本で唯一、汚水を気にせず、自然の中で安心して下ることの出来る川は、川辺川、球磨川だけだ。ただこの二つの川はぼんやり、漕いで下るわけにはいかない。

 

バイダルカの店長タチカワ師匠の悪名高い「誰でも漕げる球磨川カヌー教室」

師匠の優しい笑顔の奥、髭に隠れ、小熊のように光る冷たい瞳。

カヌーを漕ぐみんなの姿があっという間に岩陰に消えていく。氏は初心者に対して、数分間人吉城前のせせらぎのような川で適当に漕ぎ方を教え、数分後、天下の激流「球磨川」に突入させるのだ。

目の間に迫る、数メートルの落ち込み、(ドーン!と音がする)迫る岩の連続、白いしぶき、あぶくで目の前が全く見えない。

師匠の技術指導は単純明快。「やばいと思ったら、ひたすら、漕ぎなっせ!」

数珠つなぎ、見よう見まねで川を下る、カヌー初心者軍団の群れは、漕いでも無駄。最初、奇声を上げていたが、数分後には阿鼻叫喚、数珠つなぎの悲鳴に変わるのだ。ヘルメットも、色とりどりのカヌーもお腹を見せて流されていく。師匠とその弟子は、ひっくりかえって岩に挟まり脱出できずあえぐ生徒を拾いに行くのだった。優等生の僕は難所を強運にもクリア。ただ、最後のなんでもない、ペタリ水面が停止したような、水たまりで、突然、派手にひっくり返った。

(川の恐ろしさはこんなところにある)

 

※一度、大雨で増水した阿蘇の杖立川で、滝に落ちて一人、しばらくしても、上がってこない人が居た。

5分経過、10分経過…

さすがに師匠の顔は引きつり、いつものニヤニヤ笑いでその場をごまかしながら、師匠の手先は救助用のザイルをほどき始めていた。師匠の空気に気がついた弟子は他人のふりをするか、そわそわその場を逃げ出そうとしていたが、

その時、滝に落ちた人が、カヌーを肩にかつぎ、全身ずぶぬれで(当然)滝から這い上がり、にこにこしながら、

「いや~すごかった、タチカワさん、人が悪いすよ~先に、滝があるなんて、最初から言っといてくれんと、ホント死ぬとこでしたよ~」

あなたの事を師匠もみんなも「マジ、死んだかもと思ってた」とは、言えずに、みんな笑ってごまかした。

あの時の師匠の技術指導も、「ただ前を見て、ひたすら漕げ」だった。

 

やはり、カヌーはのんびり下るか、漂いながら美味しいものを食べるのが一番楽しい。

これまで一番美しい水溜まりの思い出は、当時の相良村の野原小学校前の、鉄橋の下の蒼い淵だった。家族で、河原でテントを張り、カヌーで水面を漂った。余りの透明度の高さに、カヌーの黒い影が、川底の白い砂の上に映り、船が宙に浮いた気分になった。叱られて橋の上で泣いていた娘は橋の欄干の上で猿に誘拐されかけた。母猿が慰めに山から降りてきたのだ。

今でもその淵はある。川辺川ダム本体の建設予定地となるはずだった場所だ。ただ、野原小学校は見事に校庭の桜の樹とともになぎ倒され、がれき置き場になり、草茫々の荒れ地にされ放置されたままだが。

もうカヌーには乗れぬ体になったが、今も思い出す。あの夏の谷間のキャンプ。闇の中で鹿が鳴き、森の闇に眼が光った夜。焚火をすると、恐ろしいくらいのカゲロウが集まってきた。

かすかな川の記憶が僕の頭の中に繰り返す・・・。

 

野田氏は見るからに偏屈な親父で、今、四国に住まれているらしい。会えたところで、そう簡単に話などできる方ではないと思う。僕も偏屈もんの一人だが、それはそれでいいではないかと思う。氏は以前、アウトドア雑誌「ビーパル」でダム建設について、地元の新聞社、記者の姿勢を、「腐れ新聞の腐れ記者」と罵倒された。氏のこれまでの連載、随筆を読んだ者については充分理解できる内容だったが、(その雑誌は我が家の家宝でもある)

さて、その記事から10年は経つ今。熊本の自然で遊ぶ、偏屈なオヤジ、おばさんは増えたのかどうか。

2019.08.25

昔、写真の世界で「廃墟ブーム」というのがあった。日本中の廃墟、廃ビル、廃道の写真が写真集としてよく売られていた。

長崎の軍艦島がそのシンボルのようなものだけど、この世のなれの果てというか、哀れと言うか。現実とは違う世界をみんな見てみたいのだろう。

シャッター商店街もある意味、廃墟と言えそうだが、なんの味もそっけもないし、苔むしてもいないし、草ぼうぼうでもないし、色あせたスーパーのチラシのようで全然、わびさびが感じられないのだ。

わだちの跡が、かすかに残る山奥の廃道、その向こう、生い茂る草の向こうの暗い世界。

周りに響く、虫の声…。

 

ある時、僕は山の中で美しい集落を見つけた。

以前、フライフィッシングに凝っていた時、全国の釣り好きの連中の聖地は五木村の梶原川だった。梶原川はキャッチ&リリースの指定地で、そこでは魚が釣れても、リリース(逃がすこと)が義務つけられている。フライの世界で、日本でも有数の自然が豊かで魚影の多い、素晴らしい川というそんなシンボルの場所に指定されたのだ。

川の入り口には、ログハウスの管理小屋も建てられ、イベントも開催された。村の温泉館の一角には梶原川を紹介するコーナーが開設され、日本でも有名な名人作の釣り竿が手作りの毛バリと同時に展示されていた。(今は、その展示空間は消去され空虚。)

その竿は竹を重ね合わされて作られバンブーロッドと呼ばれ、名人作の竿はなんの変哲もない短い竹竿のように見えても、軽く1本数十万円はする。また有名な川の写真家の津留崎健さんの写真が展示され、津留崎さんの梶原川についての賛辞の言葉、思い出が展示されていた。当時は抱えきれないくらい山女魚が釣れたそうだ。

山女魚は釣れなくても、僕はせめて津留崎さんのような写真を一枚だけでも撮ってみたいと思った。

川面に蛍が乱舞する写真…

ものすごい数の金色に輝く、蛍の光の筋が画面中に乱舞する光景は圧倒的だった。

蛍の写真の撮影はそもそも難しいが、あれだけの数が居れば下手な僕でも一枚は撮れるだろうという、浅はかな計算なのだが。

ある日、僕は釣り場を探してどんどん車で梶原川をさかのぼった。そして小さなつり橋を見つけ、橋の手前で車を停めた。つり橋の手前に小さなバス停があった。

この橋は観光用ではない、生活用の橋なのだ。まずは釣り竿片手にその橋を渡った。そんな橋の下には必ず、川に降りる道があるものなのだ。

橋を渡り小さな小道を行くと、その向こうにはほんの4、5軒の山の斜面に肩を寄せ合う小さな集落があった。

茶畑のお茶の葉はきれいに摘まれ、小道の両脇には畑があった。森の中、住む人々のつつましい暮らしぶりが感じられる景色だった。

そんな景色の中に、突然現れた僕は、完全に世俗にまみれた異物の存在なのだが。

僕は橋の下へ向かう道を見つけ、川で竿を振った。川の水は透明で、川底の岩がそのまま透けて見える透明度で岩の上を、音もたてずに、

薄いゼリーのような水が流れていく。苔むす岩の横の緑の淵に毛バリを落とすが、アタリがすぐ来たが、ぜんぜん合わせることが出来ず、僕はねばるも退散した。

 

先週の日曜。数年ぶりに、川の記憶をたどり、梶原川に向かう。残念ながら、川にも、管理小屋にも人気はなかった。

つり橋を渡る。恐る恐る小道をたどると、そこには、すでに人の居なくなった集落があった。

奥には集会場があり、その前に、戦争で亡くなった人を祀る記念碑があった。あたりはきれいに掃除がしてあった。こんなところからも戦場に出征し、そして亡くなった人が居たのだ。

以前と同じ、畑の中の小さな小道、雨戸の閉められた家屋がそのまま残されている。ここは廃墟でもない。時間の止まったままの場所だった。カラス除けか、羽を開いたペットボトルが畑の策でクルクル回っていた。お茶畑の葉も摘まれず開いたまま。柚子の実が青々と実っていた。時をかけるつり橋の上を、赤とんぼがすいすい、飛び交っていく―。

この集落のような時間の止まったままの場所が五家荘にも五木にも、どのくらいあるのだろうか。

 

この釣り橋も、もうすぐ、ツタが絡まり、葉が生い茂り、人の行き来が出来なくなるのだろう。

あと数年後、つり橋の緑のトンネルをくぐると、それでもまだ、時間の止まったままの不思議な空間に出会う予感が、僕にはするのだが。

 

2019.06.02

毎週日曜の夜のテレビの楽しみはNHK韋駄天だったが、とうとう我が家もテレビ朝日の「ポツンと一軒家」という番組に寝返ってしまった。(正直、毎回、毎回、金栗さんの全力疾走は、見ている方が辛くて息切れする)たまたま熊本の水上村の一軒家の紹介があり、つい見てしまったのだ。更に翌週も水上村の一軒家の紹介だった。番組は崖っぷちの細い林道を取材者が辿り、その家の主を訪ね歩くシンプルな内容でスタジオではそんな林道に驚きの声があがるのだけど、五家荘の林道も同じで、何も驚くことはない。どこにでもあります。五家荘の一軒家も何時紹介されてもおかしくないのだ。

一軒家、すなわち、一軒の暮らし、ぽつんとした人生。何の作為もなく、ただ老人、老夫婦が山の中で暮らしている。(昨夜は、中年のカメラマンで自作のログハウスに取り組み、うつ病を克服した人だった)縁側で山を眺め、鳥の声を聞き、風に吹かれお茶、コーヒーをすすり五右衛門風呂で疲れをいやす。夜は無音の闇の中で獣の声を聞くのだろう。取材者も淡々と話を聞くだけで、台本もないし、話のオチもない。ただ僕らは、山の中の家で、ポツンと暮らしている「理由」を聞いて「ほーっ、へぇーっ」時に感動を覚え、あこがれ、(ちょっとやきもち妬いて)心いやされるのだ。視聴率が高いのも、そんな番組の光景に、いつかは自分もとあこがれる気持ちがある人が多いからなのだろう。それがたとえ実現できなくても。

森の香り、樹の香りの成分はフィトンチッドと呼ばれる物質で、「テルペン類」と呼ばれる有機化合物で構成され、鎮静作用や、抗菌、抗うつ作用があるとのこと。番組に出てくる人を見ると、みんな肩の力が抜けるのか、人の目も気にしなくていいのか、それこそ“自然体”で暮らされているのがよく分かる。

東京の高層マンションの最上階で夜景を眺めながら、古いアパートで布団にくるまりながら、老人ホームのベットの上で、場末のラーメン屋のカウンターに、肘をつきながら、会社のデスクの上で仮眠を取りながら…。特に都会人のほとんどは田舎からやってきた人だろうし。暮らしぶりはともかく、いろいろな人の心の中が、この番組でほっと溜息をついているに違いない。

もちろん僕も以前から、そんな暮らしにあこがれる一人だったが、今は頭の病気のせいで、その願いはかなわぬが、せめて里山にでも移住したいという思いがある。(我が家の猫族も大移動する必要があるけど)

僕は、もともと人と話をするのが苦手で、話をしたあとはどっと疲れがくる。そう書きながら、五家荘図鑑(写真集)を出したのもサイトを公開したのも、自己顕示欲の表れであり、多少は性格と矛盾しているのだろうが、それらは僕のささやかな「一軒家」で、無理してドアをノックされなくていい。

今回、たまたま仕事で知り合った、デザイナーのSさんに五家荘図鑑を渡し、キャラクターのデザインをしてもらった。タイトルは山猫倶楽部。最初は「猫の事務所」にしようとも思ったが、さすがに宮沢賢治の童話のタイトルはまずいので「山猫倶楽部」にした。(僕は実際、童話「猫の事務所」が大好きなのだが)ちまたに、猫をテーマにしたデザインのイメージは山ほどあるが、(似ているものが多く差別化が難しい)出てきたのはそんな予想を裏切る内容で、僕はとても気に入っている。

6月は検査やら何やらで山には行けそうにない。

想像の世界からやってきた山猫一匹、満月の夜に草原を駆け抜け、つり橋を渡り、川の岩を飛び越し、滝を眺め、森の中で苔の寝床で丸くなって夢を見る。蛍に包まれ金色の猫に変身したり、神楽の太鼓の音に踊りだす。

お話はこれからだ。彼だけは僕のポツンと一軒家に出入り自由なのだ。

2019.01.09

ようやくアマゾンで五家荘図鑑が販売開始となりました。僕の入力ミスもあり、さすがに出版社の発行ではないので、途中、審査にかかってしまった。アマゾンがすごいのは、何度もやり取りをしてくれること。ブランドもプライドもない自分にも、同じ立場で対応してくれた。個人的にはいい記念となりました。五家荘図鑑第2号発刊を目指し、「極私的」に活動を続けようと思います。※アマゾンに入り、本➡五家荘図鑑で検索お願いします!

2018.10.08

最近、天候や仕事の都合もあり、中々山に登れずにいる。山に登るというよりも、実際は病気の都合で、”山歩き”なんだけど。仕事に出る前に途中の宇土市のオコシキ海岸の道の駅に車を止め、頑張ってなんとか30分歩く。朝、ほとんど人は居ないので、時々瞑想しながら芝生の上を歩き、気が付くとグラウンドの周辺に植えられた棕櫚(シュロ・ヤシ)の樹に衝突しそうになる。夏から週に2回から3回、道の駅で朝の準備に追われる人からみたら、帽子を被った変な親父がふらふら歩いている姿を怪しんでいるにちがいない。30分の瞑想歩きは気持ちがいいものなのだ。その30分間で、僕の体内は海から生まれた酸素で満ちあふれることになる。

瞑想の師、小池龍之介氏(東京・月読寺住職)の指導によると、氏の座禅(瞑想)呼吸法は鼻で息を吸い、鼻で息を吐く。鼻からすった空気が脳を回り、体内に入り、お腹をぐるりと回り、また逆方向に鼻から出ていくものです(そして心が浄化される!)とのことだが、未熟者の僕は、流石にそんな感覚にはならない。更に師が言うには、この瞑想は鬱や精神的に不安定な方には不向きと書いてあったが、もう遅い、始めてしまったものだから仕方ない。

最近、毎晩パキシル一錠飲んでからでないと、眠れない状態が続く。飲み忘れると深夜、頭の中が熱くなりいろいろな思いが重なり、とても眠れなくなる。さすがに手術した傷跡は痛まぬが、頭が重い時は朝からパキシル一錠飲んで仕事に行く。30分の海の酸素はあっという間に会社に着く頃は消え失せ、雑務に追われることとなる。

ああ、もうちょっと、体調、気分が整えば、山に行けるのに。そして山の空気を吸いながら瞑想し、僕の体は山の酸素に満たされるのだ。去年の10月3日、僕は山で一人遭難し、奇跡的に自力で帰還を果たした。老いた母は動転し、親戚中に電話をかけまくっていた。帰宅すると僕はまるで浦島太郎のような気分になるくらい、家の中は騒々しかった。今から思うに、10月3日は母の誕生日だった。

去年の遭難、2月のクモ膜下手術、2度の危機を乗り越え、命拾いした僕だが、3回目はどうなるか分からない。どうなるか分からないから、時間だけは大事にせねばと思う。人も生き物も、生まれたことは良かった、良かった。それだけを受け入れる。僕が瞑想中にぶち当たりかける、公園の棕櫚の大木の枯れた葉の長い重なりのすきまからは、スズメたちのさえずり、語り合う声が聞こえる。そして晴れた空に向かい、鳥たちは一斉に飛び出し始める。解き放たれる黒い丸い影たち。今年の秋は何度も台風が襲ってきたが、その大きな台風の強風、大雨からも、小鳥たちは枯れた葉の中でひそやかに身を摺り寄せ、お互い台風が去るのをじっと待ったのだろう。良かった、良かった。僕も良かった、君たちも良かった。僕はこんな年になって、そういうことにようやく気が付いた。

2018.09.13

コロンブスの卵あり。あれこれいろいろ考えるより、素直に考えた時がよい時もある。「なぁんだそんな事か。それなら誰でも思いつくではないか。」そんな卵を見て、どこかで見たアイデァと言うのは易しい。そこで買ってきたのが佐賀のあるお店のコロンブスの卵なのだ。今夏は仕事でいろいろなアロマ(精油)と熊本特産の馬油を使った、モノづくりをした。(中国、台湾の人に人気)

そのアイデァもコロンブスの卵で、人に言わせれば「誰でも思いつくアイデァ」なのだけど。その作業中に、たまたま「ヒノキ」の精油を嗅ぐ事があって、その香りは、なんとも言えぬよい香りで緊張がほぐされ、気分がいやされるのだ。その精油の原料のヒノキは国産だけど、どこの山が産地なのかが分からない。ちょうどその時、五家荘の山の達人、Oさんのフェイスブックを見ていて、Oさんが登山中に、トトロや木霊の人形を森の中の苔の中に置いて写真を撮っているものがあった。そこで僕の壊れかけた頭の中に、ひらめいたのが、五家荘のヒノキや杉で精油が作れないものかというヒントだったのだ。

早速ネットで調べるに、熊本県内でも木材から精油を抽出しているところが2件あって、問い合わせをしたが、2件とも無理との答えだった。それでもしつこく検索するに、一番近いところで佐賀に「エコビト」さんと言う店があり、メールで質問したが丁寧に教えてくれて、近々店舗でアロマの抽出体験をするので来ませんかとのことだった。

僕はなんで飯を食っているのか自分でもわからない時があるのだが、そんなフリーの立場の僕は、早速申し込みをし、台風の中、高速を通り、愛車イグニス号とともに強風にあえぎながら3時間かけてエコビトさんにたどり着いたのだった。アロマ体験の素材は、ホウショウという、クスノキの仲間で、甘く芳醇な 香りが特徴の貴重な原料だった。鼻に頭まですーっと刺すような刺激臭が残る。幸運なことに若い女性の講師の人と二人の体験で、とても丁寧に教えてもらい、1時間かけて自分オリジナルのホウショウのオイル1ミリ(わずか!)を手にした。装置は一番シンプルで単純な装置だった。体験後、店舗の裏の工場も見学してくれて、なんとその店舗の親会社は大きな材木店だった。昼食は僕の柄になく、上品な自然食のランチ。(僕のような者が、隣のテーブルのカップルに怪しまれないようにするには緊張と努力が要る)。そこでお土産に買った一部がこの卵だった。下に精油を入れる穴があり、今もホウショウの香りを楽しむことが出来る。

エコビトさんのコンセプトは明確でとても分かりやすい。材木から出た材料を精油にして、自然食レストラン、ケーキ店、会社全体の事業が大きな自然のサイクルになっている仕組みなのだ。このアイデァを誰かが持ち帰り、五家荘でも真似しようと思ってもその卵は道の駅で売られる単なるお土産品で終わるだろう。何の価値もない。お土産品は飽きられたら単なるゴミだ。この卵を前にじっと考えなくては。五家荘の森に産み落とされた卵で、どこにもない、美味しい料理をどう作るのか。

間違ってもアイデァの卵をあの「クマ」に渡したらいけない。熊本の単純な県民性にわをかけて思考停止にしたのがあの「クマ」のゆるキャラだ(※くまモンのこと)。僕はそのキャラの害獣ぶりとその飼い主を登場時から激しく憎んだ。家人がそこまで言わなくても!と諭すのだけど。ここだけの話。(瞑想をはじめてから、憎むのを辞めた)
</font>

分類
新着順
過去記事一覧
  1. ホーム
  2. 雑文録