熊本県 八代市 泉町(旧泉村) 五家荘
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雑文録

2022.05.17

山行

今年の5月の連休は晴天続きで登山日和が続いた。山に登らず、林道をぶらぶら歩く、いいとことりの「山歩き」の僕だが、五家荘の春にどうしても登ってみたい山があった。それは烏帽子岳(1692m)だ。過去に登った時は時季外れで、山頂のシャクナゲの景色を見る事はなかった。赤やピンクの満開のシャクナゲに埋もれる烏帽子岳の景色がまぶたに浮かぶ。残念ながらそれはあくまでも想像の景色で、山頂のシャクナゲの群生が同時に満開になることはないらしい。烏帽子岳への山道は急な坂はないものの、歩く距離が長く、峰越から片道約3時間。そもそも海抜ゼロメートルの自宅から峠まで車での走行時間が3時間。家を出てから昼に頂上に着くには朝6時に出なければならない。

と、いう事で5月5日に僕は一人で朝6時に家を出た。しかしすでに夜明け、海岸の釣り人達はすでに満員、押すな押すな、隣人との距離2メートルでひたすら撒き餌を放っていた。(朝まずめ、夜まずめ。釣りのタイミングを逃したら取り戻せない) 釣り人の方が僕より根性がある。

予定通り峰越に9時に到着。そこから登山開始。よぼよぼ登山で尾根道を歩き頂上を目指す。風の通り道の関係もあるのか、反対側の白鳥山への尾根道よりブナの大木が両手を広げている姿がいくつも見る事ができる。新しい葉の緑も濃くなり、頭上でウグイスやらフクロウやらの声が鳴り響く。よぼよぼ…鳥たちも「変な奴が来たぞ~」と警戒しているのか、鳴きながら僕の足取りに付きまとう。

2時間経過。悔しきかな、頂上までの少し低い鞍部で燃料切れ…長い休憩…目先の長い、長い真っすぐな道よ。まだこの道が続くのか。頭が空白になる。立ち上がろうにも、バイケイソウの緑の葉が一気に道をふさぐ。

いかんいかん、深呼吸。かすかなめまい。鼻呼吸が大事だぞ。口呼吸とのバランスがくずれると筋肉が硬直すると、ある資料で読んだのだ。行きあたりばったり登山では、ゆっくり呼吸を整え歩くのが大事なのだ。体のバッテリーの容量が切れかけている。更に休憩。ようやく体を起こし、半分はいつくばりながら最後の坂道を登り烏帽子岳頂上に着く。

あちこちの茂みでは白やピンクの花が満開だ。はなびらはまるで、マシュマロのように柔らかい。長細く丸みを帯びた葉には虫食いの後がある。下界のお上品なツツジの花とは違い、山の花は素朴で力強いのだ。何とも言えない生気が漂う。蜂たちのぶんぶんいう羽音。

春の青空の下での真昼。山頂から見渡す五家荘の緑の山々全体が春の陽気に包まれている。おにぎり2個が昼ごはん。シャクナゲの迷路をさまよい写真を数枚撮り帰路に就く。これで念願の烏帽子岳にも登れて満足だ。ブナの大木、大きな日影と涼しい風をありがとう。帰りの林道の奥、川沿いの民家に大きなこいのぼりが泳いでいた。

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2日後の5月10日は2か月に1回の定期健診だった。40項目の血液検査と薬をもらいに行く。

待合室に看護婦さんが飛んできて話かける。「最近何かしました?」「えっ?何も」「激しい運動とか?何かしたでしょう?」「いゃ、そもそもスポーツは嫌いなので」「数値がはねがってます」「ここ数年、ジュースにコーラ、みかんにようかん、いっさい食べてないです。(チョコはこっそり食べているけど)」「いや血糖値の話ではなくCKの数値が跳ね上がっているのです」

血液検査でCKという数値が通常の値の3倍、つまり平均100の数値が300に跳ね上がっていたのだ。CKとは激しい運動などで筋肉が大きなダメージを受けた時に発生する数値の事らしい。まぁ、烏帽子岳の登山の影響でその数が3倍。安静にしておれば回復するらしい。

先生曰く「過去に運動会の綱引きに参加した患者さんの数値が3000というとんでもない数値になりましたが…まぁ、時には気分転換、ぼちぼち行きましょうねー」何もせずに数値が跳ね上がる時は要検査らしい。

ところがここ数年悩んでいた血糖値は下がり、ぎりぎり正常値に回復…(ヘモグロビンA1cは下がらず)…たまには栄養補給と病院の近くのラーメン屋(これまでの人生の中で2番目くらいに旨い)で味噌ラーメンの麺大盛りを注文した。(ラーメンは1年に2回くらいしか食べない)

…糖分…いゃ当分、山は控えめにして、気になる棚田めぐりを始めよう。

 

2022.04.30

山行

4月23日は1日早い (個人的な) 山開きだった。年間を通して通う五家荘の正式な山開きは翌日の4月24日 (日曜) なのだけど、用事もあるので、1日早く山に出かけた。天気予報は雨だが、雨は雨で楽しい。もちろん大雨は別。去年の夏の豪雨でいつも楽しみにしていたハチケン谷が大崩落。秋にトリカブトを期待して林道を辿るに、道の奥でバンバン、ビーンと音が響いて来た。なんだかきな臭い香りがする。谷にコダマする音は崩落した斜面から大きな岩が落ち跳ねる音だった。林道はすでに足の踏み場もない、岩が小山のように積み上がった異様な景色が目の前にひろがる。さすがにこれ以上は無理と引き返した。(引き返す途中で足をするり滑らせ、下手な受け身…右肩を痛め、また整形外科に2か月通院するはめになった) そんな谷の林道が半年経つと、なんと重機の力で見事復活。まるで魔法にかかったように時間は巻き戻された。極端な書き方すれば、林道で自然の道を破壊しながら、自然崩落した林道を修復する繰り返し…となる。

しかし、今年の山の花の開花は1週間遅く、有名な芍薬の花もまだ固いつぼみだった。途中、霧のような雨がさわさわ降り始めた。しわしわ、さわさわ‥‥春の優しい雨に煙る谷。すでに里では散り尽くしたと思っていた山桜が数本、標高の高い五家荘の山では薄く白く咲いていた。足元の岩の上にも花弁が落ちて見上げると山桜の樹が頭の上で笑っている。

最近、気圧の変化で後頭部が痛むし、気分も落ち込む。気になりだしたら、さらに気になる。

気圧の急変は目に見えないけど、頭痛で悩む人も増えたのではないだろうか。僕の脳内の空洞化したドーム(肝心の脳は消えてしまった)の頂上から小人がガラスの細い針を落とし続けてキリキリ痛む。そんな時の薬に頼らない処方箋は山行なのだ。

道のわき岩のくぼみには可憐な「ヒトリシズカ」の群生がある。不思議な形態の花弁でシズカちゃんの、どこに花粉があるのか。「ヒトリシズカ」に咲く、この家族があちこちに満開の花を咲かせている。なんとも可愛らしい仲間だけどがみんな静か。開花期間は短い。

途中で、林道の横の谷を見るに小さな滝があるのに気が付く。道から外れ、崩れそうな坂をいったん降り、川に出、そこから見上げるに、その滝に高度差はなく、横に広く岩が露出している。苔むしている樹々の奥を滝の水はなだらかに流れ落ちている。過去の大きな地滑りで山肌が崩落し下部の岩盤がむき出しになり滝になったようだ。木をつかみながらひぃひぃ、よじ登ると、改めて写真に収めたい景色が広がっていた。ただ足元がゆらゆら、崩れやすいので、安全に写真撮るためにはいろいろ準備してまた訪問せねばならない。そんな企みを一人考え、森の中でほくそ笑む自分を「ヒトリバカカ」とでも名付けよう。

ふと視線の奥に初めて見る花が一輪。「延齢草(えんれいそう)」だと、後で山野草の生き字引 Мさんに教えてもらった。葉からいきなり花が開くような花。

「延齢草(えんれいそう)」はネットで調べるに花が付くまでに10年かかることから延齢 (長生き) という名がついたとのこと。※僕が見たのは「ミヤマエンレイソウ(シロハナエンレイソウ)」。

しかしネット検索するに、茶色の花の延齢草が楽天で販売されているのは不思議(もちろん、ポットに入った養殖物)。

これは縁起が良い。脳内ドームに針が落ちて来る自分が、そんなに長生きは出来ないだろうと思いながらも、運よく見つけた「延齢草」を喜ぶべきか。毒草だけど。

ぶらぶら楽しい「山歩き」。普通の人の倍の時間をかけて京の丈への登山口にたどりつき、山頂へ行く気はないので、雨が激しくなる中、引き返す。背負ったバックが重くなり足元がぬかるみ、林道がせせらぐ川に変わる。

もう少し気温が上がると、雨に濡れるのも、とても楽しくなる。ついさっきまで、うるさいくらいにおしゃべりしていた山の小鳥たちも家に帰ったのだな。また来るよ。スマホに君たちの声は録音させてもらいました。

2022.04.04

山行

五家荘の冬は下界と違い長い冬だ。もう雪解けかと思い、峠に向かう途中の陽のささない道にはまだ雪が積もり、時に凍結した氷道がぬらぬらと光っている。チェーンは買ったが“半ケツ”で吹きあがる風の中、一人這いつくばってタイヤと格闘するのも疲れた。山に登れたとしても花が咲く時期でなし、結果春になるまで家でじっとしているしかない。たまたま書店で樹木について書かれてある本が目についたので手に入れ、そのじっとしている時に読むことにした。

「樹木たちの知られざる生活」ペーター・ヴォールレーベン著・ハヤカワ文庫。

そもそも僕は、五家荘の山で山野草に出会うまで、植物にはまったく関心がなかった。ところが、いったん関心を持つとなんでも驚く質で、道端の「ツユクサ」の表情にも感動し、あの青紫の丸い耳に黄色い顔を大発見、このこは宇宙から来た植物だと一人驚いてシヤッターを切っていた。花はもちろん樹木はからきしダメ。見分けがつくのも杉と松くらいで、樹木の図鑑も買ったけどどうも身に付かない。

しかし、五家荘の山と親しくなるにつれ「ぶな」という樹だけは何だか見分けが着くようになった。ああ、この木が森の親玉なんだなぁと感じるようになった。「樹木たちの知られざる生活」の著者はドイツの森林管理官で森の管理の仕事をしている。ペーター氏はある時、古いブナの集まる森で苔に覆われた奇妙な形をした黒岩を見つける。氏はその岩の表面に付いた苔をつまみ出すと、それは岩でなく古いブナの切り株という事に気が付いた。更にその樹皮の端をていねいにはがすとなんとその奥に緑色の層があることに驚く。緑色、つまり葉緑素でその岩のような木は死んでいなかったのだ。辺りの岩もみんな「ぶな」の大木の切株で、切り落とされたのは約400年から500年も前のもの。研究の結果古い森では森を形作る樹々たちが根をはり、弱った樹に栄養を与えているという事実が分かった。

自然の森では一本一本が自分の事ばかり考えていたら森は持たない。死んでしまう木が増えれば森はまばらになり、強風が吹き込みやすくなる。倒れる木が増え、夏の陽ざしが直接差し込み土壌も乾燥し、どの木にとってもいいことはない。お互い貴重な存在で、病気で弱っている仲間にも栄養を分け回復をサポートし、種類の違う樹が集まり古い森は形作られているそうだ。

本には他にも知らなかった森の中の出来事が書かれてあり、樹々同士の情報の伝達にはキノコが今でいうインターネットの役割を果たしているそうだ。こんな事を書くとまるで古いおとぎ話のようだけど、2018年に書かれた最近の出版で、お話の根拠も最新の研究結果をもとに書かれてある。天然林に近い森の樹々、生き物は人間の世界よりもはるかに豊かな世界と言えるのだ。人間のように無謀、無駄な殺し合いはしない。

あらためて思うに、五家荘の森に入ると気分が落ち着くのもそのせいだと思う。残念ながら、五家荘の尾根のブナも枯れたり、倒れたりする景色が広がっている。白く骨のようになった大木の亡骸が、風に立ちすくむ姿を見るのは悲しい。小石、砂だらけの道が多くなってきた。大風で根が揺すられ、雨で土が流され根が洗われ、一本一本大木が倒れて行く。昔はもっと深い森だったろうに。大きな気候変動は人間の自然に対する無責任な行動の結果なのだろうけど、今更すぐに回復は出来ない。

3月20日、本を読んだ後、なんだか森の事が気になり白鳥山に向かう。峠に近づくと稜線が白い。昼前でも樹々は霧氷に覆われている。山頂に向かう途中、「ぶな」の大木が倒れ、根元から折れて道をふさいでいた。幹から枝がいくつも別れ、枝が網のような迷路を作っている。幹にまきつく苔からは涙のような形をした氷がいくつも下がっていた。と、驚くに、枝の先を見ると新芽がいくつも出ている。すでに死に体なのに新芽がでているとは?その「ぶな」はまだ死んではいないのか。なんともいえない気分になり、しばしその樹の姿を眺めていると、頭上からバタバタ、バタバタと霧氷の氷が頭に振り落ちて来た。行けども、行けども氷の雨は追いかけて来る。

 

 

山頂近くのドリーネの向こうの茂みでは、鹿の群れが歩いている。新芽を食べているのだろう。お尻の白い子鹿が数頭、こっちを見て警戒しながら斜面を登っている。兄弟なのだろう。

本によれば、樹々は言葉の代わりに情報を伝達する様々な、手段を持っているそうだ。しかし人間に植林された樹々は情報を伝達できず孤独な一生を送る。植林の時に根が傷付けられるので、仲間とのネットワークを広げる事が出来ないのが原因だそうだ。植林地の樹々は100年程で伐採されるのでみんな孤独のままらしい。どのみち老木まで育つことはないから。切り株まで援助し合うという友情は、天然の古い森でしか見る事ができないそうだ。

人間は100年も持たずに伐採される運命なのだけど、植林されたわけではないと信じたいから、もう少し五家荘の自然の森の中に居させて欲しいと思い、山の春を待つ。

 

2022.03.08

山行

「どなり、きんぞう」これは怒鳴る、金蔵…金蔵さんが怒鳴っているわけではない。

昨夜、僕の頭の中に浮かびあがった、思い出の知人「しろきん」さんのペンネームなのだ。

10年も前、「しろきん」さんは、全国紙に「どなり、きんぞう」のペンネームで釣りのコラムを書いていた。氏のひょうひょうとしたコラムは、週に1回掲載され釣ファンに人気を博していた。名前の由来は「しろきん」さんの苗字、城からくる。城という字は土と成りでできていて、なまえが均(ひとし)を「きん」と読み、合わせて「どなり、きんぞう」となる。コラムの内容は、よくあるパターン「こういう竿仕掛けで、どこで何匹釣ったかを自慢するもの」ではなく、釣れても釣れなくても、釣りは楽しい、自然にいやされるという、肩の力の抜けたなんとも雰囲気のある内容だった。

当時の仕事の関係で氏を熊本の南部、人吉市の営業先に案内する役を引き受けた。福岡からの特急を熊本駅のホームで待っていると、氏は文庫本を真っすぐ目の間に掲げ、本を読みながらこっちに歩いてきた、いまの歩きスマホじゃないけど、歩き文庫だった。氏は僕より小柄で髪は短く縮れ、卵のような頭に小さな丸い帽子を被っていた。さりげなくおしゃれでイギリス風の柄の背広も、ズボンも折り目ただしく上品だった。僕はあえて熊本市内から山越え五木経由で人吉の営業先に案内した。(そもそも、人吉に鉄道で向かうには時間がかかりすぎる)。しろきんさんは、営業先で先方に10分も満たない短さで企画を提案し、さっさと一礼してその会社を後にした。(相手の反応を見て、無理と悟ったのだ)

それから、帰りの時間はたっぷりあるので、帰路も高速とか使わずに、山越の道をたどり、やまめの釣りのポイントを探して二人、橋の上で、あの岩の下がどうのこうの、言いながら帰った。氏はその時30万近くするヤマメ専用の竿を買ったと嬉しそうに語った。竿名人の手作りのバンブーロッドでマニアにはたまらない。一回、大きなヤマメがかかり、ぐーっと竿を振りあげる時に、その竿がたわんで「ぎしぎし」と音を立て始めたので、すかさず竿を放り出しヤマメをばらしたと、残念そうに語った。はたから見たら、何しているの?という不思議な行為に見えるが30万の竿が折れたら、そのまま川に飛び込んで河童になりたい気分になるだろう。僕もバンブーロッドにあこがれていたけど、その話を聞き、次はカーボン製の竿にした。(山本釣り具で、日本の川用の短い竿)

「しろきん」さんは全国各地のラーメンにも目がなく、熊本ラーメンの人気店を紹介すると、最後はラーメンの鉢を両手で持ち、鉢に口を付け、大きく目の前に抱え上げ本当に最後のスープの1滴まで飲んで「ご馳走様」と叫んだ。(同席した僕は顔から火が出るように恥ずかしかった) それがラーメンに対する彼の儀式、マナーらしい。歳は当時50歳近く、有名国立大学を出て、本来ならば新聞社の幹部クラスのはずだけど、いろいろあって、ぼくのような田舎の兵隊と営業戦線を回る職務についていた。いきなりバイクの大型免許に目覚め、途中、運転教習場でバイクに倒され足を骨折、入院を経て念願の免許を取り、ハーレーにまたがったり「俺、くるくるパーになっちゃった」と部下の仲井氏に連絡後、鬱で半年入院したりした。

つまりそんな氏の書くコラムが僕には面白かったのだ。しかしある時、コラムの内容が問題を起こし連載は中断する。「しろきん」さんは、持ち前のユーモア心で当時全盛だったブラックバス・ブルーギルなどのスポーツフィッシングを小馬鹿にし批判したのだ。ついでに大手の釣り具メーカーまで名指しで「昔ながらの鍛冶職人の誇り、釣り具屋の矜持を忘れたのか?」「馬鹿じゃないの?このシトたち」と書いた。残念ながら書かれた方は氏のようなシャレが分かる人々ではなかった。記事に激怒した団体、個人は新聞社に猛抗議し、新聞社はやむを得ず紙面で謝罪、連載は中止された。今も検索すると、記事も読まずにとにかくこいつはけしからん、こらしめろというコメントが出て来る。自分たちに異論をはさむ奴らは絶対許さないというようにみんな連携し、思考が硬直し不寛容になる。そんな空気感は今も変わらない。それどころか、加速されている気もする。相手の発言の前後を読まずに切り取り、一方的に決めつける。普段はおとなしい人でも、いったんグループに加わると、排他的、攻撃的になるのだろうか。(僕も気を付けよう)

 

と、いう事で、長い前置きでした。

今年の1月、2月にかけて、五家荘の山々がスプレーマーキングされ、汚される事件が発生した。最初は国見岳、次は久連子岳。ピンクや黄色のスプレーで岩や樹々に、道に迷わないように、数十個所、印が付けてある。この行為は全国の山々でも行われている悪業なのだ。

使用されたスプレー缶は、木の陰に隠すように捨てられていた。登山道整備プロジェクトのO氏らのメンバーは集まり真冬にそのスプレーの除去作業を行った。国見岳の作業は吹雪の中で実行され、その事件は新聞やテレビのニュースでも報道された。

その犯人は当然、山に登ったのだし、汗をかいたのだ、そして自然の風に、癒されたはずなのに、そのお返しとしてスプレー返しとは。なんともはや。同じグループの人々が道に迷わないように自然の木や岩にマーキングする。

突き詰めて言えば、人が山に登るのも山を痛める行為でもある。人気のある山には登山者が多く集まり列を作り道が出来る。雨が降るとその登山道に水が流れ、道はえぐられ、自然は荒れていく。だから、せめて山に登る人は、それ以上、山を痛めないように気を使いながら山に登るのだと思う。

スプレーマーキンググループは、川の世界で言えば、「外来種」。外来種の発想が、これまでの登山の「在来種」の世界に放たれたのだ。

話は又、川の話に戻るけど昔、琵琶湖で外来種と在来種の論争があった。ブラックバス、ブルーギルなどの肉食外来種が昔の在来種を食い荒らし、すでに昔からいた日本の魚絶滅寸前に追いやった。外来種の魚を駆除し、昔の琵琶湖を取り戻そうというグループがスポーツフィッシングに規制をかけようと言い出した。それに猛反対したのが自然派のお笑いタレント清水国明氏で、彼ははスポーツフィッシングにも釣りを楽しむ権利があると裁判に打って出た。(敗訴したけどね) 清水さんは乱獲する漁師にも問題あるし、在来種の減少の原因は琵琶湖の汚染にも問題あると反論する。いくら外来種と言えども、殺処分するのはあんまりだ…。当時の裁判記録を清水氏は本(釣戦記)にしていて、今度読んでみようと思う。

僕が面倒くさいと思うのは、登山界においてもスプレーマーキングしている連中から、自分らにも自然を楽しむ権利があるし、マーキングして何が悪い、そうしてどんどん人が増えれば地元も賑やかになっていいではないか、と言う意見が出る事なのだ。登山者だって山を汚しているではないか。

そんな彼らに、僕が公に「馬鹿じゃないの、このシトたち」とか言ったらどうなるのだろう。「そんな奴らは、グルグル巻きにして、スプレー缶でピンク色に染めて、五家荘の谷につき飛ばそうといったら?」どうなるのか?(そんなこと言ったら、在来種、外来種、両方から嫌われるけんやめなさいとOさんに諭された。)

 

今はこれだけ雑文録に書くことにしょう。

スプレーマーキングした犯人ども「馬鹿じゃないの、このシトたち!」

 

さらに、ついで。

当時、熊本市内にフライの専門店(ススキ)があった。店に入るにそのオヤジ、いきなり素人の僕に5万くらいする竿のセットを売りつけて来た。知人の釣り名人(故人)に聞くに、そのオヤジはこっそり、五木の山奥の湖(内谷ダム)に外来魚の稚魚を放流していた。そういう行為を釣り具の専門店がやって、お客を増やし道具を売っているなんて…その店は罰が当たり閉店した。結果、オヤジは自分が放流した外来魚の始末など何もせずに、湖の生態系を破壊したのだ。「スポーツフィッシングにも釣りを楽しむ権利がある」という論理で。

「しろきん」さんは、その後、田舎の通信部で新聞記事を書いていたけど、今頃どうしているのか。スプレーマーキングの記事ネタ、あるんだけどなあ…

2回目のスプレー除去作業(久連子岳 2月27日)に僕も参加。自分でも思うにまったく役にたてなかった。途中の斜面に添う細い道に頭がふらふらして、歩くのがやっとだった。犯人どもをひっ捕まえて、谷に突き飛ばすどころか、自分で自分を谷底に何度も突き飛ばしかけた。なんとも恥ずかしい。清掃作業に参加した子供たちに「何にしにきたのあのシト?」と、馬鹿にされていたに違いない。

そんな何の役にも立たない、情けない僕にも、福寿草は金色の花弁を満開にして、僕の貧しい心を癒してくれる。そんな山の花を盗掘、踏み荒らしたり、岩にスプレーするのは許されない。許さないからねっ。

 

2022.02.06

文化

金海山釈迦院は五家荘エリアの西に位置する大行寺山(標高956m)の山頂近く、杉の古木に囲まれ鬱蒼とした標高942メートルの森の中にある。宗派は天台宗。

五家荘の自然や文化に彷徨いこんだ自分がなぜ、今日まで釈迦院にたどり着かなかったかには理由がある。それは釈迦院イコール「日本一の石段3,333段」のイメージに拒否反応を示していたからだ。もともとスポーツとやらが苦手…いゃ、嫌いなひねくれ者の自分だし、汗を流すならそこらのグランドを走ればいいし、石段を登るどころかその速さを競うなんてもってのほか、誰が考えたか、どこぞのイベント会社の「地域興し」をネタにした企みに乗るもんかと思っていた。そもそも企画したのは隣の旧中央町。要するにネタ作りに釈迦院は利用されたのだ。建設当時、泉村では石段建設に反対する人も結構いたと聞く。

時は日本一運動の真っ盛り、マスコミはこの日本一とやらを大きく取り上げた。県内を回るたびに思う、笑うに笑えない日本一競争の祭りのあと。海に沈む夕陽を浴びて一人微笑む、日本一のエビス像の後ろ姿のなんと寂しいこと。エビス君の寂しい肩を抱く人間は誰もいない。日本一の大水車もあった。天草のキャンプ場にあった「大王丸」は完成時、日本一だったけど、湯前町の親子水車「みどりのコットン君」に首位を奪われ地に落ちた。悲しくも情けない、天下の日本一の水車は、わずか30年で解体されてしまった。良きライバルのコットン君も同じ運命をたどる。五木村のバンジー騒ぎもようやく収まり、谷に静けさが戻ってきた。県内、日本一の負の遺産だらけなのだ。

自分は、そんな3,333段を競う汗を嫌悪し釈迦院を敬遠していたが、大きな勘違いだった。階段と釈迦院は思うほど、つながりはなく、階段のゴールから釈迦院の本堂まで、約2キロ近く石畳の道を歩かないと釈迦院にはたどりつけない。実際、階段を登り終えたあと、更に石畳の道を歩き参拝しょうとする殊勝な人がどれだけいるのか。昔、信心深い地元の人は老いも若きも、ふもとから山道を歩いて登ってきていたのだ。(そっちの方が健康) 今もそういう古道が残っているなら自分でも登ってみたいと思う。

釈迦院の由来は延暦18年(799年)大地震で大地が震動し、地中から金の釈迦如来様が出て来て、その如来を地元の僧「薬蘭」が安置、釈迦院と名付けたことから始まる。その後の時の流れの中で釈迦院の全盛期は西の高野山とも呼ばれ、天台・真言・禅・浄土宗の道場、二寺、75坊中(僧の住む家)が並び立ち一大聖地になった。そこには一般の僧侶だけでなく修験者(山伏)なども居たらしい。そこまで権力、信仰を集めると、他の権力者にとっては脅威に映るのだろう。天正15年(1587年)隣のキリシタン大名小西行長が総攻撃、75坊は焼き払われ、釈迦院の苦難の歴史は始まる。当時のキリシタン大名も南蛮貿易で利益を得たいのと、力で民の心を抑えておきたかったのだろう。キリシタンと言いながら、やっていることは乱暴残虐な戦国大名と同じなのだ (今は宇土市のゆるキャラに転生)。

それでもなんとか釈迦院は加藤家、細川家のサポートにより復興、江戸時代末期まで地元はもちろん、肥後藩の中でも特に信仰を集めた名刹と言われていた。ただ資料を探しても、小西行長の焼き討ち事件から江戸時代末期までの復興までの資料はあまり見当たらない。

そして明治2年、維新政府の神仏分離、廃仏毀釈の発令が下る。当時の住職は帰農し、およそ1000年以上も続いた名刹の歴史も明治4年に廃寺となり息絶えた。寺の領地も官有地にされ、釈迦院消滅。問答無用、維新政府の暴挙。ところが、本尊(黄金の釈迦仏)は熊本市の川尻の阿弥陀寺に無事保護されていた。誰かが本尊を守るために抱きかかえ、命がけで山の坂道を下りたのだろう。

そもそも、日本の信仰のスタイルは神仏習合、神様も仏さまも、土着の神もみんな一緒に住み、一つの信仰の形になり、平和、豊作を祈ったのに、いきなり時の政府の都合の良い神(神道を国の宗教と定めた)を信じろという神仏分離には無理があった。特に修験道は神仏習合の典型とされ明治5年には「修験道禁止令」まで発令され、素朴な山の神を信じる修験道は禁止、すべての山伏は世間に帰され、失職。指導者ランクの山伏だけでも全国に12万人いたが帰農したり、露天商などになり全国を漂白する人や、寺院を持っている人は自宅に戻り仏僧になったそうだ。特に修験道のシンボル「権現」「牛頭天王」「明神」は狙い撃ちされ、道祖神、馬頭観音、石の地蔵は叩き壊され、土に埋められたり川に投げ捨てられた。

妖怪のモデルは地域の土着の神の仮の姿のような気がしてならない。もしくは修験者、山伏の姿で、天狗はもちろん、河童、油すまし、ぬらりひょん…そんな神々を廃棄し、明治政府は強引に近代化を進めたのだ。しかし明治政府の思惑通りにはことは進まず、神仏分離令は10年足らずで破綻した。ただし、その10年で文化財の9割は破壊された。

 

 

五家荘の山には釈迦院発祥の修験道の教え、伝承が残り、その山伏の足跡が蜘蛛の巣のようにいくつも編まれ、何か大きな模様が描かれている気がする。しかも、その道に平家の影が見え隠れすると、更にその模様は複雑なものになる。

国見岳、大金峰、小金峰、久連子岳、白鳥山、尺間神社、その尾根道は大きく円を描いている。二本杉から釈迦院に続く古道もあると聞いた。

妙見宮をきっかけに、これまで神仏習合、廃仏毀釈について机上の歴史物語と思っていたのが、釈迦院について調べていくうち、ますます関心が高まる。もちろん、本の情報を頭に詰め込んだだけの自分ではあるけど、いよいよ1月23日に、釈迦院への道をたどる事にした。

朝から結構雨足は強く、この天気なら、林道の雪、氷も解けているかと期待した。(家人は雨の中出かけていく僕の事を馬鹿と思った) 泉村支所を通り過ぎ、柿迫の集落を経て釈迦院への林道をうだうだ登る。予想通り、林道の雪はほとんど溶け、チェーンは不要だった。それでも釈迦院が近くなるに連れ、雪が残る道が出て来た。目の前が明るくなったと思ったら、山門の前。先客は車1台。老婆と娘らしき人物が傘を差し階段を降りて来ていた。雨が降り続く中カメラのシャッターを切る。山門をくぐり左右に仁王像を眺め本堂へ向かう。本堂の奥には金箔の御本尊が祀ってある。

線香の白い煙が辺りを漂う。お守りやお札を買う。住職も昼食時だったけど、丁寧に釈迦院の歴史を話してくれた。根ほり葉ほり話を聞く。今、釈迦院には檀家はいなくなったそうだ。その為全国からの有志の支えで寺は成り立っているとの事。数年前までは雨漏りがひどく、本堂の中にブルーシートを被せ、その下で、お経を読んでいたそうだ。修復は支援する人々のサポートでできたという。時に、境内の清掃をしていると、関東から出張できたという人も清掃に参加し、その人は金銭面でも大きな支えになり、黒くくすんだ御本尊も金箔に塗り替える事ができたと嬉しそうに話してくれた。

話を聞いて感じたのは住職の欲のなさだった。正面の扁額も金ぴかに大変身。なんとこの書は世界的に有名な書家、金沢翔子さんの書(大河ドラマ平清盛の題字)で、釈迦院の事情を聞くと代金は受け取らなかったそうだ。こういう支援する人の支えでこの釈迦院は成り立っていますと住職は淡々と話す。そういう話を聞いていると、自分の気持ちの中に漂う黒い雲に微かな光が差し込んできた気になる。地域お興しとか日本一とか、ここはまったく無縁の聖地なのだ。

 

 

古書店で手に入れた本にも釈迦院の話が書かれてあった。肥後五家荘風物誌 (昭和42年発刊) 作者の野島和利氏は大学の農学部林学科を経て八代農業高校泉分校の先生に就いた。当然植物に詳しく、その本に当時27歳の野島先生は五家荘をくまなく歩きながら歴史、文化、自然の草花を満遍なく調べ一冊の本にまとめ上げた。

野島氏はバスを降り、柿迫神社を経て釈迦院に登る。その途中で黒モジの杖を突いた老人数人とすれ違う。どこから来たかと聞くと、宮原町からと言う。お釈迦様の誕生日だから釈迦院にお参りしてきたそうで、野島氏はその信仰心に驚いてしまう。「釈迦院まで、登るのは大変でしょう」「そうですな、ゆっつら、ゆっつら登りますから」とその老人一行は答えた。風物誌には釈迦院にたどり着くまで道際の山野草の名前、生育状態がびっしり記されている。

野島氏が山門をくぐると、そこにはたくさんの参拝客がいて甘茶をふるまわれていた。宿泊場で80歳の老人から釈迦院の歴史を2時間ほど聞かされる。その老人は喘息に悩まされながら一人、敷地内に小さな小屋を建て住んでいるらしい。当時の豊かな五家荘の自然の中で、野島氏は様々な人と出会い別れた。

 

雨がまた激しく降りだしてきた…

住職はお守りを袋に入れ、僕に手渡しながら話す。「昔は、花まつりは、にぎおうたもんですな、境内には店も出て、学校も休みで子供もたくさん登ってきたです」

釈迦院は今後、後継者がなければ本当に廃寺になるのかもしれない。それも時の流れ、延命などされずに森の闇の中で静かに目を閉じられるのも、いいのかもしれない。森の鳥たちはお別れの歌を歌うだろう。獣たちは涙を流すだろう。

僕は「そうですな、ゆっつら、ゆっつら登りますから」という心境にいつか、なれるだろうか。

 

2022.01.24

文化

五家荘地区は行政の区割りでの名称は八代市泉町になる。平成17年に周辺の1市2町3村と合併し、八代郡泉村から八代市泉町になった。合併して良かったのはこれまで各々にある文化財が博物館などで一堂に見る事が出来るようになったこと。去年の暮れに八代市立博物館で開催された「妙見信仰と八代」という展覧会を見に行った。八代には江戸時代から伝わる「妙見祭」という祭りが秋にあり、僕は好んで毎年観に行っていたのだ。

 

妙見祭の出し物は、市内を練り歩く神幸行列と、華やかな笠鉾の巡礼、獅子舞、飾り馬の疾走、そして「亀蛇(キダ)」と言われる神獣の乱舞と盛りだくさん。特に体は亀、顔は蛇の亀蛇の舞が見ものなのだ。ちなみに地元では亀蛇のことを「ガメ」と呼んでいる。およそ5メートルの長さの甲羅に、伸び縮み自在の蛇と鬼のような顔つきのガメが、まさしく怪獣ガメラのように回転し、周りの見物客をなぎ倒し、観客席に乱入したりするのは壮観なのだ。突き倒されても、みんな祭りだからニコニコ笑っているのが良い。以前、大雨でさすがに、貴重な笠鉾などはビニールでカバーされながらしみじみと列を組んでいたが、最後のトサキの河原でのガメの乱舞は壮絶だった。祭りはもう中止になってもいいくらいの雨の降りようだったけど、河原に集まった観客はガメの乱舞を待った。傘をさし、立ちすくむ僕の前のおばさんは「ガメばださんかい、早くガメばださんかいっ」とずぶ濡れの姿でつぶやき続けていた。そう、本来ならば神獣ガメの上には菩薩様が乗っかり、人々の健康平和を願っているのである。おばさんの目にはそんな幻の菩薩の姿が見えたのかもしれない…と思いきゃ、ガメは河原に足を取られ、ずぶ濡れ、ひっくり返りそうに斜めに傾きながらも回転し客席に迫ってきた。

 

「妙見」というのは古代中国が発祥で北極星や北斗七星の天体を永遠と信仰することから始まったらしい。仏教の教えのひとつで、そのシンボル像として「菩薩」様が生まれた。その菩薩様の足元には神獣「ガメ」が居て、菩薩様を守り、近寄ると噛みつきそうなガメが居る。亀は菩薩様を背に乗せ中国からプカプカ海を渡り日本にやって来た。八代上陸後、数か所転々としたので、ガメは何匹か八代周辺の町にも息づいている。

展覧会では全国から集められた、ガメに乗った菩薩像や、巻物が展示してあった。その展示物のフィギュアがあれば、即買う(へそくり、1万円まで)自分だが、もちろんそんなグッズの販売はなく、資料本を数冊買って帰った。古代からの信仰について本の数冊読んだくらいで何も分かるはずはないが、まぁ読んでいくうちに、少しは頭の栄養になったような気がした。

ところで、八代には「妙見宮」というお宮も当然ある。福島県の相馬妙見、大阪府の能勢妙見と並んで、日本三大妙見の一つといわれている。妙見宮は今、「八代神社」と呼ばれているが、妙見菩薩は仏教の信仰であり、昔は神仏習合、神社も寺(仏教)も一緒になり庶民の信仰の対象になっていた。敷地内には神宮寺があり、妙見宮は神宮寺が取り仕切っていたのだ。それが明治元年に明治政府から、神社から仏教を追い出せとの命令(神仏分離令)が下り全国一斉に、無謀なお寺排除運動が断行された。当時は「妙見」という名称自体が問題とされ、妙見宮にあった仏教に関連する施設、仏像、仏具はすべて取り壊し、神宮司住職まで追い出された。一応、その程度の知識は持っていたが、妙見宮の事を調べるうちに、単なるイベントとしてこれまで見ていた祭りが、違う角度から浮き上がって来る。と言うか、激しい怒りが湧いてくる。最後の住職は自分の代で終わる役目を悔い、これまでの歴代の住職の名前を刻んだ位牌を作り、ゆかりのお寺に奉納した。その位牌も展覧会に展示してあり、巨大なまな板のような横幅の広い位牌に名前が順番に刻んであった。それくらい、悔やんだ事件だったのだろう。これまで何百年も地域を守ってきた妙見さんからいきなり、明治政府の紙切れ一枚で何から何まで破壊、遺棄されたのだ。維新政府は今でいう、アフガニスタンのイスラム原理主義のタリバンと同じ。タリバンは偶像崇拝を否定し(自分らこそイスラムという偶像崇拝してるくせに)大きな仏像の遺跡を破壊した。そんなこたぁ歴史小説「飛ぶがごとく」「竜馬が行く」には一切書かれてないのにな。西郷どんのおひざ元、鹿児島のお寺の仏教関連施設はことごとく破壊されたのだ。

ところが、廃棄、破壊されたはずの一部の仏像、仏壇、仏具などはこっそり保護され、違うお寺に隠されていた。博物館に展示されている仏像の一部は、そうして保護された仏像だった。

「神仏分離令」とは違う言い方をすれば「廃仏毀釈(はいぶつ・きしゃく)という。廃仏毀釈というのは、仏を廃止、毀釈(釈迦の教え)をぶっ壊せ、毀損しろという意味なのだ。どうやら博物館では廃仏毀釈という言葉は使いたくないようなのだけど。(役人だからお上の愚行の批判はしにくいのか。) 哲学者、梅原猛氏によれば廃仏毀釈が無ければ、国宝の数は今の3倍はあったと言われ、国宝級の仏像が斧で叩き割られたり、燃やされたり、建物は引き倒され、仏具は二束三文で売り払われた。

古くから伝わる「神も仏も一緒に信仰し、みんな幸せに暮らそうぜ、土着の変な神もみんな一緒」という日本人の信仰心を明治維新は粉々にした。結局、天皇は生きた神となり、戦争の神として利用された。

はて、そこで思うに、五家荘のエリアには「釈迦院(しゃかいん)」という、これまた有名な寺院があったと思いだした。 (何か僕を呼ぶ声がして…幻聴?)最近、両肩、左ひざの体調不良(自己責任)の為、あまり動けない自分は、再度「泉村誌」を読みこれまで訪れたことのない釈迦院へ初めて向かう事にした。

釈迦院に行くまでに僕の脳内はこういう、長いうんちくの道をたどる必要があったのだ。最近「維新」という言葉を聞くたびに、虫唾が走るせいもある。何が維新なもんかい。

2021.12.27

山行

今年最後の五家荘。12月26日が2021年最後の五家荘行きだった。右肩の腱板の痛みも、整形外科のリハビリのおかげで、だいぶマシになったし。行く前には貼るカイロを、左右の肩、腰、首に、パンパン貼り付けた。ネットでゴム製のタイヤチェーンも買った。

家人から言わせれば「馬鹿じゃないの」という雰囲気、予定としたら、白鳥山の内の谷の登山口から少し谷を登り、すぐ帰る、という極めて軟弱な思想に基づいたルートにした。ところが週末は九州でも数年に1度の寒波到来との事。大雪も怖いが、この寒波が五家荘にとっては曲者なのだ。積雪はないが、路面はカンカンに氷つき、白い粉のような氷の塊は風にサーッと流れて、車から降りるも怖い、テカテカ光る路面の氷道なのだ。以前は普通のチェーンを巻いていたが、林道の走行中に合間、合間に顔を出す氷道の度に1日に5回も6回もチェーンの着脱の作業が面倒で仕方ない。スタッドレスタイヤを履けば済むことだが、毎週、山に行くことはないし、もちろん金もないので、間を取ってゴム製のチェーンを買った。

で、さっそく出かけるに、大通り峠のトンネルを過ぎると、すぐ100メートルくらいの白い氷の道が出てきた。早速、買ったばかりのチェーン装着作業開始。最初なので中々手間がかかる。案の定、しゃがむ僕の冷風に捲れた腰、半ケツを冷たい風が吹き上げる。肩も痛いがそんなこと言っておられない。何度も何度も氷りついた風が吹きまくる、その悪戦苦闘中の僕の真横を、地元のおばさんの運転する軽自動車が横目でさりげなく通り過ぎる。爺さんの運転する軽トラが憐みの顔をしながら、坂を登り行く。スタッドレスのタイヤのコマーシャル、こんなシーンがリアルだと思うけどなぁ。

結果、こんなありさまでは白鳥山に、何時たどり着けるか不明。行きは良くても帰りはもっと怖い。パンパンに膨らんできた右肩、曲がった指先を見ながら、今回は白鳥山は断念、椎原経由で、梅ノ木轟の滝の見学の後は、二本杉から雁俣山の散策ルートに変更することにした。五木村の物産館で原木椎茸を買い込む。(誰も来れないから、美味しい椎茸が山積み) 駐車場で冷たいおにぎりを頬張る。時計を見るともう昼前でないか。この気候の状態で行くと、梅ノ木から二本杉まで向かうの長い登坂は、白く激しく凍結間違いなし。チェーンの作業はあと1回は必ず必要となる。

いったん、梅ノ木轟の吊り橋に着くと、現金なもので「もっと雪が降らないと写真が撮れないではないか」と勝手にわがままを言いだす。とにかく寒い。誰もいない。滝の写真と、霜柱の写真を撮り、帰路に着く。空は曇り、峠までの氷道の入口で予想通り、チェーン装着。繰り返し、吹き上げる冷風。またも半ケツ。腹が急に冷える。峠に着くも雁俣山を散策する体力すでになし。

 

 

もう、自分には昔のような勢いはない。(今から思うと冬場でもぞっとする無謀な行動をしていた。) しかし、今年一年を振り返るに白鳥山には峰越ルートから何度も登ることが出来て楽しかった。国見岳については大雨で登山口までの道路が崩壊し、なかなか登る事が出来なかったのが心残りだが、自分としては登山口まで、林道をうだうだ1時間でも2時間でも、歩くだけでも良かったなと後悔している。

そんな登山 (?) のどこが、楽しいのか?と問われても、そのうだうだ歩きが自分は楽しいだけと、答えるしかない。

2021年を表わす一時が「金」との事。これはオリンピックの「金メダル」の事を指したいらしい、審査員が空気を読んで選んだ一文字だろうが、読みはどう考えても「金 (かね) 」だろう。

最近、過去に受けた頭の手術のせいか、加齢のせいか、とても音に敏感になってきた。音と言うのは、人の言葉でもあり、人の作る雰囲気、空気の事でもある。

僕から言わせれば今年は、「騒」の1年だった。いや「騒」でなくてもいい。「偽」でも、「虚」でもいいではないか。「愚」でも「醜」でも「悪」でも。そんな騒がしい言葉に取り囲まれた1年だった。

オリンピックに反対する人は、オリンピックを見るなと、某国会議員が発言していたが、その議員の言う通り、僕はたまたまニュースで流される報道以外、自分の意思でオリンピックを1秒も見なかった。(だから、オリンピックの1兆円を超す赤字はこの議員が払って欲しい) ※開催の収支決算の公表は開催1年後の来年、夏頃だそうだが、世間様の様子を見て公表するのだろう。もしくは偽証、準備中。

そんな落ち着かない、僕の心の空騒ぎが、五家荘に行くと、山の鳥たちの声、風の音、水のせせらぎで、ぱっと止まり「静」かな時が流れ始める。だから登山口までの1時間だけでも、歩いているだけで楽しいひと時になる。

そのひと時を写真のシャッターで切り取るのが、僕の今の山行なのだ。(もう登山とは言えない) 来年1回目の山は何時頃になるか、楽しみでもある。

2021.11.29

山行

霊感がどうの、守護霊がどうの (熊本市内の事務所の近くにある、某教団から無料の本がしょっちゅう送られてきて迷惑) 信じるタイプではないが、山を歩いていて「何か」を感じる時がある。その「何か」とはその場の磁力かもしれないし、なんらかの波動かも知れない。実際、登山用の磁石は目に見えない力で正確に北を指すのだ。

以前、ヤマメ釣りをしていた頃、いろいろな川を見つけては、道を降り、川に針を落としていた。ある日、某農業高校の分校近くの車道のわきに、車一台通れるくらいの古道を見つけ、川に降りて行った。舗装が途切れた道の先は緑の樹々に覆われた広く薄暗い淵になっていて、ちょうど川がえぐられたように膨らみ、蛇行しているその水たまりのスペースは釣りには恰好の場所だった。

昔の大雨の被害の跡だろうか、橋の欄干の一部が残っていて、この道は川を挟んで集落間の生活の行き来に使われていた形跡がある。淵は苔むし、水の色は深い緑で大きくうねっていた。この淵の深い奥底、岩の影にヤマメは息を潜め、居るはずだと、僕は何度も竿を振りあげ、岩から滑り落ち白く水が泡立つポイントに毛バリを落とした…しかし、うねる流れに乗り白い毛バリがふわふわ流されていくが、いっこうに魚のアタリの気配がない。気配がないどころか川に生気が感じられないのだ。何だか体全体がズーンと重く、気分が悪くなる。何度も何度も、針を落としても上手くいかない。その時は、その場をあきらめ、次の川を探しに坂を戻った。ところが次の休みの日も、僕は同じ場所に呼び戻されたように戻り、同じ場所に立ち竿を川に振りあげた。全然当たりがないのが悔しいのか、その淵に何か誘われた気がしたのだろうか。そして途中、前回と同じように体全体が重く、動きが取れなくなった。その場にいるのも耐えられず、しかし場所を変えるのではなく、重い体を動かし、その川をさかのぼることにした。ヤマメ釣りは本来、釣り上がるのが基本なのだ。ひざ下まで川に浸かり、転がる岩を避けながら上流を目指す。川の水深は浅く、流れは想像以上に早く足をとられそうになる。やはり、全然魚のいる気配がしない。釣りどころではない、早く陸地に上がれそうな場所を探さないと、すでに両岸は荒れた竹林に覆われ這い上がる道も見えない。また、体全体がズーンと鉛を背負うように重くなる。ふと、足元を見ると、水の色は透明で、白くさらさらと流れ、川底の石も手に取るようにくっきり見え、その石の横に細い白い骨が見えた。おそらく猪か鹿の骨なのだろうが…僕の体は驚き、跳ね上がろうにも川の流れに足をとられ、ここがどこだか、更に重く動かなくなって流れにたちすくんだのだ。

ハチケン谷も同じく、谷に向かう途中の林道で、僕の体は重くなる時がある。車に乗っていても同じハンドルが重く、一昨年、何かを感じた時に車の後ろのタイヤがバーストして、完全に動かなくなった。荒れた竹林に覆われた廃屋のトタンふきの屋根を見た時だった。普通、タイヤがパンクするのは落石の尖った先を踏んだ時なのだが、そんな形跡はまったくなく、ナイフで切り裂いたようなタイヤの傷口は側面に10センチほどの長さだった。(レッカー車を呼ぶのにえらい高い費用と時間を要した)。それにもこりず、ハチケン谷に向かうたびに、同じ場所で「何かを感じる」ので、最近はその道を通らず、本線からの分岐の前の空き地に車を停め、景色を眺めながら歩いて谷のゲートに向かう事にしている。

ハチケン谷は川に沿って峠に向かう林道があり、度々の水害でその林道は壊滅状態になった。今春久しぶりに訪れると、その荒地は見事改修され、ほどよい登山道に変身した。切り開かれた林道の左右の新緑の景色を眺めながら坂を登り、峠の近くになると杉林の斜面に山芍薬の姿が見られた。白くまるい、拳くらいの芍薬の花ビラは妖しく瞳のように大きく開き、不思議な空間を作りだしていた。芍薬だけではない、ヒトリシズカや、蘭、山野草が花の蜜の香りとともに、林道のあちこちに咲き誇り、深山の春のひと時を楽しむことができたのだった。

そして、秋のハチケン谷の紅葉の景色も楽しみだと僕は期待した。夏も過ぎると、紅葉の前に「トリカブト」の群生が見られると、山の先輩のフェイスブックにトリカブト独特の花の写真が載り始める。(これらの花は違うルートで山に登り撮影されたものだったのか) 残念ながら、トリカブトの開花時期は逃したが、10月30日、少し早いが山の紅葉の景色だけでも一人楽しもうと思い、僕はハチケン谷の入口のゲートをくぐった。

そこで見たのは、紅葉どころではない、夏の大雨で崩壊され尽くした谷の景色があった。5分も登ったところで、道はなだれうち押し寄せる、丸い大きな岩の塊に埋め尽くされていた。僕の足元には初めて見る黄金色のキノコが傘を開いていた。その色は、この先キケン立ち入るなとの警告だったのかも知れない。

 

 

ふと耳の奥に、「バーン」「バーン」と音が弾き、響いてくる。何の音か?その音は鳴りやまない。遠くをみても道は見たらず、押し寄せる岩と崩落した茶色の山肌しか見えない。思うに、その「バーン」「バーン」と言うのは崖からまだ崩れ落ち続ける岩の音なのだ。不気味に谷のあちこちから音が聞こえてくる。「この先、危険」万が一、その岩がこっちに向かってはじけ飛んできたら逃げようはない。通常の登山道でも、ガレ場を登っていて、足元の小石が崩れ落ち、たとえその石が小さな石でも、次に大きな石に当たり、ガレ場全体が崩落する危険がある。ハチケン谷は大きな岩がはじけ飛んで、僕のあしもとまで押し寄せて来ていたのだ。

過去に山で遭難した時も、闇の中でゴロゴロ、ゴロゴロと岩の転がる音がしていた。川の中で、岩が流れに押されて転がり落ちる音が響いていた。山はそうして、木がなぎ倒され、谷が崩れ、岩がはじけ飛んで形相が変わっていく。

ハチケン谷はキケンだ。シャレを言っている場合ではないぞ。

帰ろうと、振り返り坂を下る途中、僕はコンクリートの苔むした道に足を滑らせ、右肘を強打した。とっさにカメラを守り、肘をつくことでカメラを守った。(最近、病気の後遺症で足元がふらつき平行感覚がつかめない)

そして、ひじをついた足元に「トリカブトの花」を見つけた。こんな時期になっても半分枯れかけた茎に咲く紫の花が三輪…猛毒とも言われる異形の花「トリカブト」が目の前に現れた。僕は痛みとしびれる指先でシャッターを切った。

 

 

2021.11.21

山行

五家荘の自然は山野草、生き物の宝庫と言われるのに情けないが、僕は今もって山野草の名前はともかく、樹木の名前が覚えられない。写真の撮り始めはツユクサを珍しい花と思い、地べたにはいずりながら写真を撮っていた。町の草むらのどこにでも咲いている花で、そんなことも知らないのかと周りからさんざん馬鹿にされていたのだけど、標高800メートルの草地にも咲いているのだから、珍しい花だと信じてなにが悪いと言い返してしまう。これもツユクサ族の生命力の強さ、気候変動の遠因にもよる者なのだ。だいいち可愛いではないか。青い大きな耳を広げ、黄色い目をして口を尖がらせている姿はチャーミング、宇宙人の変身した姿とも感じる。ともかく無知の力、珍しいと思ったらシャッターをどんどん切っていた。

しかし、じっとしている山野草はともかく、生き物にはなかなか出会う事はない。時々、谷でカエルに出会うが、そんな彼らのじっとしている姿もお互い様。じっと見つめあう。こっちが見ていると、相手も見ている気がする。樅木の川で岩の上に這い上がってきたカエルと見つめ合う。最後は相手が根負けして、すごすごと川に落ちたが、落ちた場所が気に入らないらしくまた、岩に這い上がってきた。山で写真を撮っているうちに、彼らとは何か以心伝心、心が通うひと時がある。

そんなこんなで山をうろついていて、蝶に出会うのはうれしいものだ。平家の紋章は黒アゲハ。アゲハは大型の蝶の部類で、春先、偉そうに、あまり逃げもせず、堂々と蜜を吸う姿はなかなかたいしたものだ。何しろ自分の姿が五家荘の家紋なのだから。

蝶たちは決まった場所に行けば必ず会えると決まったわけではない。そんななかで、今話題の「アサギマダラ」はそれなりに居そうな場所が分かる。「そんなの時期」に「あんな場所」に行くと出会う確率が高いとしり車を走らせる時は、本当にわくわくする。

そのつもりで、今年の夏は2度も3度も出かけたが、全部、雨。見かけたとしても頭上はるか上。ネットで見るに、アサギマダラは上昇気流に乗るすべを持ち、あっという間にはるか山の上を舞い上がり、また、遠くへ滑り落ちて、何千キロも旅をするのだ。日本列島、東北から台湾まで。海の渡り方も同様で気流に乗り、滑り落ちる。漁師さんの証言では、波間に漂うアサギマダラを手に取ろうとすると、また空へ飛び立ったそうだ。

漂流しながら体を休めているらしい。時には岸から陸地に這い上がる姿も目撃されている。彼ら彼女らはいったい何が目的でそんな旅をするのだろうか。生き物は自分の種を残すためにいろいろな行動をするわけで、旅する行為が「アサギマダラ族」の生き延びる知恵なのだ。以前、僕はアサギマダラに会うにはは隣町の某所に行けば会えることを知った。標高1500メートルから隣町の標高10メートルもしない場所へ。蝶の道がある。更に、天草の半島の某所でも乱舞する場所を知った。天草灘の向こうは、台湾なのだ。

今年会えたのは夏の終わりどころか、秋の始め10月3日。その日もあきらめて帰路につくとき、車の上をよぎる影。即座に車を停めると、一羽、小さな滝のわきに咲く花の蜜を吸いに現れた。

そして僕の為に、ジーッとしてくれたのだ。僕は少し興奮しながらシャッターを切った。

自慢ではないが、カエルと同じ、以心伝心、何か気持ちが通い合う一瞬なのだ。

数キロ離れた隣町で会うのではなく、僕は五家荘で彼ら彼女に会いたいのだ。行きかえりにラジオで「子供科学電話相談」を聞く時があるが、何だか最近、子供たちの質問もつまらないし、先生の答えもつまらない。小賢しい質問はスマホで検索すればいい。子供がわざわざ聞きたいのは、「どうして生き物は生きているの?」「なんで僕はここにいるの?」という根源的な疑問があるからなのだろう。そこのところを共有しないと面白くない。アサギマダラの行動は研究でいつか明らかになるだろうが、実際、言語が通じないお互い同士、細胞レベルまで調べたとしてもお互い、何を考えているのかわからないではないかと思う。

数年前、電話相談室で「人間死んだらどうなるの?」「こころはどこにあるの?」という久々によい質問があったが、その問いに答える事が出来そうなのは、研究者の中には、もちろん誰もいなかった。脳の構造がどうの説明しだした脳学者もいたが、無味だった。

そうして10月も終わり、熊本市内の事務所の近くの公園で、僕は足を止めた。僕の足の前には、羽が破れた蝶の死骸があった。アサギマダラだった。

五家荘であった一羽が会いに来てくれたのだ。そう信じて何もおかしくはない。その姿をスマホで写真を撮り、僕は胸に収めた。

2021.11.09

文化

「先生」とは五家荘図鑑の雑文録に出てくるN先生のこと。N先生は五家荘の自然、文化、歴史研究の第一人者で、これまでにたくさんの研究書や文献を発行されて来た。はるか40年以上前、僕が通っていた田舎の高校の山岳部の顧問で、その当時から熊本の高校山岳界では怖れられている存在だった。(こんなこと書くと、次回会う時は殴られるかもしれない)…ちょうど4年ほど前、地域の観光振興のお手伝いで、「五家荘の山」という冊子の制作をお手伝いすることになった。五家荘の山は、九州100名山の中に10座も選ばれているという事で、その10座を踏破し(途中、遭難もしたけど…)なんとか、五家荘の山々や自然を紹介する冊子を仕上げる事ができた。冊子の完成前にN先生にも挨拶するのがスジと、それこそ30年ぶりくらいに僕は先生の家の門をたたいた。先生はとうに僕のことは忘れていても五家荘への熱意は変わらず、雑文録にあるように、僕に山への熱意を語られた。

「五家荘の山」の編集と並行し、「五家荘図鑑」の大まかな編集もスタートしていて、本の中の雑文録にN先生のことも書かせていただいた。その後、僕はクモ膜下を発症。悪運強く数か月後に社会復帰、まだ額の穴がふさがらないまま、先生に先に完成した「五家荘の山」を手渡した。

それから数か月後、「極私的五家荘図鑑」が完成。しかし後遺症が出て車の運転が2年間禁止となり、ようやく運転の許可が出たので9月に先生に届けに行ったのだ。ちょうど不在で奥さんに本を預かってもらったが、その翌週ようやく先生に会えた。

もちろん先生は雑文録も読まれていて、玄関先でいきなり叱られてしまった。その内容は先生の誤読によるもので、まったく僕の書いている内容とは正反対のことでもあったのだが、高校以来、先生からの雨あられのような、怒りの言葉を浴びているうちに、反論する気もうせ、ただただ玄関先に立ち尽くすだけだった…まるで言葉のサンドバック…(なんだか気持ち良くなるもんだなぁ)…その誤読の内容については語るまい。

先生は元生徒の心底に棲む「いい加減さ」を見抜き、攻撃してこられた…いゃ、このこともこの場で書く気もしないので書くまい。

ただ、「ヒトの話をよく聞け」と何度も言われた。まずは地元に出向き、地元の人の話をよく聞けと。これは民俗学のイロハのことだろう。そのことで何かが得るものがあり、その積み重ねが成果となるのだろう。軽々しい僕の文章は「なぁんも、地元の人の話を聞いとらんたいっ!」てな、ことになるのだ。(だから極私的なんだけど…)

そして、石楠花越(しゃくなんごし)の話になる。石楠花越しという地名の本当の呼び名は「百難越し」という。石楠花が咲く越(峠)のことではない。「よかかい、山の人にとって、峠を越えることはなんでンなか、普通の峠越えなんて、屁でもなか。片足とびでもぴょん、ぴょん、超えていきよる。そんだけ、山ん人は強かったい。そがん強か人が、あの峠だけは「百難(ひゃくなん)」…ものすごいきつか峠越えて言いよる。五家荘の中で「ひゃくなん」越していう峠は、ここしかなかと。

その意味は、久連子(くれこ)集落※に不幸のあったときに、若い衆が、峠の向こうの水上村からぼんさんも連れて、抱え上げて、荷物も一緒に葬儀に間に合うように峠ばこえないかん事情があったとたい。帰りは帰りで土産ば持たせないかん。

「なんでん書くのはあんたの勝手、自由だが、その前になんで俺に原稿ば見せんとか、間違った情報があるかもしれんたい…」(書くのは勝手に書けと言いながら、先に原稿を見せろって…先生…)

もともと性格に「百難あり」の自分で、先生、僕はどうしても人と話ができないのです…嗚呼、五家荘の山に入るのがあと10年早ければ。今の、五家荘も他の地域と同様、過疎化、風化が進んで話を聞くにも、なかなか人と出会えないのが現実なのです。

正直に言うと、「極私的五家荘図鑑」に書いた文化や歴史の内容は先生がまとめた書物がルーツで、地元の話を聞く機会が少なくなった今、その本の追体験をしているわけなのだ。

悪運の強い僕なのだ。たまたま市内の古書店「汽水社」をのぞいた帰りに、向かいの古書店に立ち寄り、郷土史の下の棚に五家荘関連の書物が、きちんと肩をそろえて並んでいるのが目についた。まるで僕が来るのを待っているかのように。「泉村誌」「泉村の自然」「五家荘森の文化」…と並んで、「秘境五家荘の伝説」(山本文蔵著)と、あと一冊。

「秘境五家荘の伝説」は昭和44年初版。当時に伝承された伝説や、平家の家系図などが詳しく紹介されている。その中に久連子の事も。

※久連子集落…久連子集落に残る五家荘に残る唯一の寺院が正覚寺。この寺院には平家代々の24名の位牌が保存されている。久連子の人口過剰により他に居住した門徒は今なお正覚寺と交流をしている。水上村15戸、五木村・梶原37戸、入鴨3戸…現在、正覚寺の住職がこの地に赴いている。

先生の言う通り、久連子の若い衆は不幸があると百難越を超え、水上村、五木村の門徒を故郷久連子まで連れ帰り、法事に案内する義務があったのだろう。令和の今、すでに正覚寺は建物だけが残っている。

79歳になられた先生は今も悔しそうに僕に語る。「あんとき、正覚寺の過去帳を見せてくれとお願いしたが、どうしても見せてくれんだった…。」

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