熊本県 八代市 泉町(旧泉村) 五家荘
メニュー
雑文録

2018.07.16

山行

もともと僕は変な奴なのである。だから山の花々の中でも、変な奴が大好きだ。

僕が若かりし頃、「舞踏」を始めた先輩がいた。夏休みが終わり、その先輩は突然、全裸にスキンヘッド、布切れ一枚をまとい、白塗りで大学のキャンパスに現れた。そしてデビューしたてのバンド「ポリス」の曲をカセットでガンガン鳴らしながら、二人、三人で体をくねくねさせながら舞踏を舞った。その当時、舞踏はどういうものか、明確な定義はなかったが、その不思議なクネクネ踊りが、僕にとっては舞踏だったのだ。そしてその先輩は、「これからは舞踏の世界やで、わいら東京に行き舞踏で一旗あげる」と言い残し、演劇部の機材一式、学校からの予算をすべて横取りし、夜に京都を旅立った。お人よしの僕と石丸君はせっせと先輩の引っ越しを手伝い、頑張って下さいと先輩の乗ったトラックを見送った。

そして翌日、僕はガランとした部室で一人愕然として立ちすくむ石丸君の姿を発見した。石丸曰く「みんな持っていかれよった、何から何まで。すっからかんや。これから芝居(演劇の事)やりたくても、なんもできへん」と泣き言を言った。「部の予算も一円も残ってへん。」僕はハイライトを一本吸い、煙を吐きながら「そら、大変やななぁ」と言うしかなかった。

石丸君はその会話から2年後、その先輩を頼り東京に行き、全裸白塗りで先輩と一緒に全国津々浦々、キャバレー周りをすることになる。(今は東京で古本屋をしている。)去年、久しぶりに舞踏したいと言い出し、その推薦文を書いてくれと言われたが、もちろん断った。

その当時は、夏休み舞踏教室なるものもあって、夏休み、1ヶ月、和歌山の山奥の師匠の稽古場に泊まり込み自給自足、自然の中で舞踏を学ぶのである。(もちろん僕は行かなかった)最後はマッチとナイフだけでサバイバル(戦国自衛隊か!)したり、滝に打たれての修行があるそうだ。(ほとんど逃げ帰ったそうである)・・・そうしてわずかに生き残った者は、恥も外見も捨てることができるようになり、キャバレー周りのメンバーに昇格する。

山中で、そんな舞踏集団に会えたのが去年の夏、ある山の登山道の途中だった。

苔むす木の根の間からニョキニョキ、クネクネと舞踏を舞う花の集団がある。なんとも不思議なかたち、瞑想の森の緑の中でも不似合いなピンク模様。これは山の掟違反ではないかと、僕は心の中で叫び、ニヤリとほくそ笑んだ。全裸、スッポンポンで、顔に紅を差し、一人がこう体を曲げると、隣の一人はこう体をくねらせる・・・。なんと賑やかで饒舌な花の舞。花の名を調べるに「鍾馗欄(しょうきらん)という。※鍾馗蘭は、学名:Yoania japonica)はラン科ショウキラン属の多年草で、葉緑体を持たず菌類に寄生する腐生植物。葉は退化してうろこ状。1週間程度で黒くしおれる。共生により栄養を得ている。

育ち方も何ともユニークなのだ。僕は彼女らの前で膝をついて、夢中でシャッターを切った。舞踏公演、1週間限定。苔や木の葉の中から、ニョキニョキ、クネクネ顔を出し、真夏の森の中で美しく舞う舞踏集団、「愛の家族」。今年もぜひ、その美しい舞いと、彼女らのささやきに耳を澄ましに、山に向かいたいものだ。もともと僕は変な奴なのである。だから変な奴が大好きなのだ。

※あの夏の先輩の舞を僕は中古の8ミリで撮影し、編集し、田舎に持って帰った。そして両親兄弟の前で、ふすまをスクリーンに見立てて上映会を行った。(もちろん、家族全員無言で、凍り付いたようにに何も言わなかった)

※写真は2017年7月撮影のもの

 

2018.07.03

山行

先月、ある会合で昔からの知人、「出口」さんと会った。出口さんは或る有名大企業の管理部長、いつもは温厚誠実、明るい性格の出口部長、何故か少し暗い顔をしている。話を聞くに、氏は、典型的な管理職でリストラ担当役でもある。仕事では上部からの人格攻撃と部下の世話が大変とのこと。悩み、ストレスも相当溜まっているようなのだ。会合の席で、二人で延々2時間、お互いの過去、将来のことを語りつくし、僕のような、軽薄、能天気(!)でフリーの立場の人間とは話がしやすいらしく、会合の終わりには出口部長から笑いが飛び出し、最後に一言、そんな出口部長から最近の「ストレス改善方法」を伝達されたのだ。

瞑想と聞くと、誰しも何やら怪しい教えか、団体の勧誘かと疑われるのかもしれないが(昔僕はよく勧誘された。京都の河原町の行き帰りの人ごみの中で、同じ宗教団体の者に2回も声をかけられた・・・そうとう悩みが深そうだったらしい)出口氏曰く、そういう輩とは一切関係ありません!過去にNHKの番組でも取り上げられていた内容なのですよ。

その方法は、海外の著名人、グーグルなどのIT企業も採用し書物も多々あり、高い評価を得ているとのこと。その瞑想法はマインドフルネス瞑想法といい、3分間の瞑想で、体を前後左右に動かし中心点をさぐり背筋を伸ばし、大きく鼻で息を吸い、吐く、誰しも簡単な瞑想法でもある。もちろん、瞑想とは名ばかりで心に湧きだす雑念どもがいる。その対処法がラベリングといい瞑想中の心の中で暴れまくるる雑念にラベルを張り、随時処理していくのだ。仕事のことが気になったら「雑念」とラベリング、音が気になったら「音」とラベリング、過去の後悔は「過去」!とラベリング。(もちろんラベル名は任意)

そして、心の中に川の流れを想像しその川に、ラベリングした雑念を木の葉の船に乗せて流し去ることをイメージトレーニングしていくのだ。つまり、くよくよ悩んでも仕方のないことを頭の中で整理して、頭の中の空間をすっきりさせるわけ。それでもダメならストップ!思考で頭がいっぱいでラベリングが間に合わない場合は心の中で「ストップ!」と叫んで、頭の中を空っぽにする。いわば、その瞑想法は脳の筋肉トレーニング。心を落ち着かせ今、自分がここにいることを雑念に負けず、受け入れるようになること。なるがまま、頭と心のスイッチをオフにすること。

正直、僕の心の中は悔恨だらけだ。瞑想するに、幼稚園の時の悔恨が思い出される、それから中学、高校・・・。みなさんゴメンナサイ!失敗だらけの僕の人生、瞑想すればするほど、悔恨の念が僕をどんどん追い込んでいく!何一つ、いいことはなかった僕の人生58年!ラベルが追い付かないぞ!「悔、悔、悔!」更に人の成功を妬む、うらやむ雑念が湧く、「嫉妬、嫉妬、シッ!」負けだらけの人生「敗、敗、敗!」ラベリングした雑念で木の葉の船が沈没寸前だ。流す川も梅雨の濁流となり堤防決壊寸前!出口さん、出口はどこだ!その雑念に耐えること1週間。瞑想法の結果・・・悪戦苦闘の日々・・・何か心に、少し、スキマが出来て何か余裕が出てきたような気が。

テレビのワイドショーを見て不快不安な思いが伝染しても悪口言わずに「雑念」ポイ!と処理。本によれば、そう簡単に雑念はなくならないらしい。本当の瞑想法が会得できれば、自分の吐く息、吸う息を体で感じることができて、自己の存在を心の中で客観的に望むことができるようになるらしい。(僕には何年かかるかは不明)

で、先日の日曜日に、雨の中、五家荘の白鳥山に行く。両手両足がこわばるが、何とかウエノウチ谷から、白鳥山の谷からの山道は登ることが出きる。ただバランスがなかなかとれない。白鳥山へのルートは五家荘の中でも、指折りの美しい谷だ。頂上までは行けずに、写真を撮りながら途中で引き返す。ぽたぽたと葉を打つ雨の音がする。苔むす岩を増水した水が噴き出す。少し雨が止むと、頭上で鳥たちのさえずる声がする。この森には僕しか居ない。濡れた岩に腰かけ弁当を食べる。お目当ての花たちには出会えなかったが、今度また来るときは、ごちそうと、美味しいコーヒーを持参し、谷の水でお湯を沸かし、目を瞑り、樹々から湧き上がる生まれたての空気を吸い込もうと思う。何とかお気に入りの写真が一枚撮れた。写真のタイトルは「瞑想の森」にしようと思う。

2018.06.24

山行

いよいよ登山シーズン到来。五家荘の山の達人、Oさん、Mさんのフェイスブックの情報によると、このお二人、毎週のように山に登っている。五家荘にとどまらず、祖母山、九重山、九州のめぼしい山を総なめにする勢いだ。そしてこの二人を渦の中心にして集まる、おじさん、おばさん、(中には70を過ぎたおばあさんも!)のエネルギーもすごいものだ。あまり人が登らない五家荘の山もこのグループが歩くことにより、道が踏みしめられているのかもしれない。僕と言えば、まだ急な坂を長時間登るのは困難なので、ぼちぼち行くしかない。

と、いうことで、梅雨の晴れ間をぬい、五家荘の山に写真を撮りに行った。

レンズも家人には内緒で2本買い、その映り具合も確認したかったのだ。僕の写真は自己流で、撮り方もいい加減だ。毎回失敗した後に後悔する。誰にも教わったこともないし、教えることもない。今回も失敗の連続だった。(冷汗)川や滝の流れを白くぼわーっと美しく撮るにはレンズにNDフィルターは必携と本に書いてあった。とにかくNDフィルターをつければ僕もぼわーっと撮れるはずなのだ。早速、わけがわからないままにアマゾンでそのNDフィルターを数枚買った。栴檀轟の滝、梅の木轟の滝・・・ところが何回撮ってもぼわーっとならないのだ。さてと、川の中で一人、試案にくれる僕。みんな、真っ黒・・・本来ならば、ぼわーっとした水の流れの横に苔むした色鮮やかな新緑が映えるはずなのに!後で考えるに、五家荘の川自体、そもそも樹々に覆われ暗いのでNDフィルターは不要。普通のレンズでぼわっーっとならない場合にだけ、NDフィルターをつければよし。そんなことも知らぬまま、自宅から3時間の川の中までそわそわとカメラを抱えてやってきたのだ。写真の楽しみはそんなところにあると、今になって自分を慰めるしかない。

今回買ったのは、そのフィルターと中古の標準レンズ1本。これは正解だった。川から上がり、史跡の緒方家の写真を撮る時に、正門の苔むした石垣を登り、石垣の間に見つけた人字草(ジンジソウ)※ユキノシタ。これが今回の自分のお気に入りの一枚。

人字草の不思議なデザインも大好きなのはもちろん、更に、写真好きの変態的な快感として右の白く丸いボケ具合が何度見てもいいのである。さすが、ニコン、中古でもレンズはよい。(これからレンズが増え、さらにリュックは重くなったが!)時代にぽつんと取り残された緒方家。

地区を治めた庄屋の藁ぶきの家屋。たくさんの人が行き来したであろう縁側の上、緑に覆われた庭の景色を眺めながら、冷えたラムネでも飲みたいものだ。まだ、セミの声も聞こえない、無音の空間。この村の記憶は、家屋を取り囲む緑の闇に吸い込まれて行ったに違いない。誰が積んだか、静かにほぐれゆく石垣。そんな空間を映し出すフィルターはどこにも売ってないから、自分の記憶のフィルターに収めるしかないのだ。

 

2018.05.13

文化

クモ膜下出血を起こし、退院して1か月半が経った。同病の輩、さてどうなのかと本を買ってみたり、検索してみても、病気の解説はあったとしても、手術後の情報はほとんどない。大病をして自分はあとどのくらい生きれるか?余命率もほとんど書かれていないのが、クモ膜下出血という病気なのだ。大まかにいえば発症後、半分の人が亡くなり、残りの半分の人がマヒなどの重い障害が残り、生活するのに苦労されているようだ。リハビリの方法の本は結構あったのだけど、余命率がどうの、ぽっくり行くときは行くのが病気の特性なのだろう。僕が病院に行くのはあと一年後、手術をしてくれた先生に会いに行き、頭のCTを撮ることになる。(造影剤CTは同意書が必要なくらい結構きつい検査なのだが)それまでは血圧の薬やらなんやら飲むだけである。頭痛の鎮痛剤などはくれないものだ。

こんな能天気な僕にもマヒはある。両足のふとももの表面がしびれるのだ。常時サロンパスを張っては剝がされるチクチクした痛みが一日中ある。頭痛は何パターンかある。生肉を誰かが額の上にペタペタ叩きつけて、その肉はどうやら生姜焼き用の肉のようで、ペタペタ置かれるたびにジンジンと痛みがくるのだ。他に頭蓋の中に長いゴムをビンビンに張られて、誰かがそのゴムを指先でビンビン弾きやがる痛みがある。この痛みは結構頭の中に響くので、きつい。最後は空洞になった頭の中で、上から小さな針を落とす奴がいること。面白半分に、キマグレにチクチク落とす奴が居る。僕の虚空の頭の中を落下し、積み重なる銀色の針の山。以上の頭痛の症状を先生に訴えたって、聞いてくれるわけはない。開頭しているのだから仕方ないのだろう。(もちろん今でも、おでこに手を当てると、そのかすかに膨らんだタンコブからは激痛がはしる)そんな僕の変な症状を見て、痛み止めではなく先生はパキシルを処方してくれたのだけど。(冗談)

仕事にも週に4日復活。車も買い替える。これまで1年4万キロ合計17万キロ走破したシラトリ(白鳥)号から、スズキのイグニスにする。安全走行装置付きだ。車線からはみでるとピッピッと警告音がなる。(僕の場合、なり続ける)前の車に当たりそうになると自動ブレーキがかかる。(これまで数回)最初ジムニーを買いかけたが、さすがにそこまで馬鹿ではないと心にブレーキをかけ、イグニスにした。その時期は、僕の意識も高揚してカメラのレンズ2本、カメラバックもこっそり買ってしまう。頭を保護するには帽子も必要と、ニット帽やら、ハンティングや、帽子も3個買う。(頭のサイズが大きすぎてはいらない!)

で、そんなこんなで5月4日に五家荘の山に出かけた。パンパンのカメラバックを見て、家人も、京都から帰省した娘も呆然、激怒、やむをえす、監視介護の為、山行に同行することになった。3人を乗せたイグニス号はゴロゴロと喘ぎながら峠道を登り続ける。どんどんと高度が上がり、峰越に着く。山行と言っても、峠から約1時間30分、なだらかな尾根道を歩くルートで急な坂もない。ただし標高が1600メートルを超え、風が強く冷え込んだ。木の根には残雪がある。うつそうとした天然林の林を3人はとつとつと歩く。風にあおられながら白鳥山の山頂に着く。すれ違う登山者から花はどこですか?と聞かれる。確かに、これまで歩いてきたルートには花の姿は見えない。ドリーネ(大きな石灰岩)の真裏ですと答える。シャクヤクの群生地は、いきなり出現するのだ。道を迷うようにドリーネに向かうと突然、現れる幻想的な光景。1ヶ月前、ベットに横たわっていた時から頭の中で想像していた景色が確かにあった。

透き通る景色の中で、静かに花びらを開いてくれた、やさしい白衣の天使たち。そして僕は、まだまだ、会いたい花たちがいることに気がついたのだった。

 

 

2018.03.16

山行

猫の小弾(こだま)の病状が落ち着いて本当に良かった。数日間何もたべず、口からかすかに「ひゃー、ひゃーと」鳴き声を漏らしては部屋中吐きまくっていた。町内の動物病院に連れていき検査をし、栄養剤を打ってもらい、何とか体調が戻ったのだ。純粋無垢で粉雪のような小弾。一時期、猫の子供言葉で励まさなければもう治らないとさえ思った。作家の町田康さんの本で「猫にかまけて」という本の猫の写真が小弾そっくりで、町田さんの猫は白血病で亡くなってしまった。

「かわいい、かわいい小弾ちゃん、お体の具合はどうですか?おっちゃんはとても心配していました。あれだけ元気で大食漢の小弾ちゃんが急に元気がなくなっておっちゃんの心は心配だらけだよ。一度でいいからご飯の時におっちゃんの肩に乗り、肩乗り猫に変身し手からごはんを食べてくれたらおっちゃんはこんなうれしいことはありませんよ。お兄ちゃんの寛太も心配しています。早く元気になってくださいね。」

さて、それから4週間後、僕は病院のベットの上でこの原稿を書いている。うちの婆さん(実母)曰く、「そぎゃん、猫にかまけてるからこぎゃんなったとたい!」僕は点滴の下がる腕を振り回し即座に否定した。「猫は関係なか!猫たちがいるから俺の命は助かったったい!」

僕は1月26日自宅でくも膜下出血を発症し、翌日救急車に運ばれて開頭手術を受け、運よく一命をとりとめてリハビリの最中にある。

くも膜下出血というのは脳の動脈瘤が破裂し、脳のくも幕の部分が出血し、死ぬほどの頭痛を感じる病気で死亡率50%、助かったとしても脳の動脈を触るので殆どの人々に後遺症が残り社会復帰も困難な病気だ。発症後の存命率わずか!(ネットにはろくなことが書いていないぞ!)先生の説明によると僕の血管はクモ膜下の前に脳梗塞を起こし、その血管に動脈瘤があり、その破裂した瘤の首の部分にはチタン製のクリップが3か所止められてあり、止血してあるという。手術時間9時間。もちろん全身麻酔で記憶などないが、術後、家内と妹はその手術のビデオを見せてもらったらしい。(僕が見たら今でも卒倒する)それから2週間、僕の体は血圧だの心電図だの痛み止めなどたくさんの測定機器や点滴を下げられ、身動きもできない状況にあった。のどが渇き、スプーン一杯の水をもらうのにさえナースコールが必要なのだ。その2週間中に、再度動脈瘤が痙攣し破裂またはすれば、脳梗塞、意識不明となる可能性が高いそうで、もし、そうであれば最悪僕の意識は途絶え、あの世行き、火葬場の赤いレンガの台の上で肉体は焼かれ、後には割れた白い頭蓋骨とチタンの小さなクリップが3個残されているのだろう。

病気の原因は真冬の寒さと過労と高血圧、深夜無理して食べた牛丼の大盛にある。今で言うヒートショックが原因というわけだ。その夜の気温は熊本でもマイナス3℃の氷点下で市内から自宅まで2時間、疲れた体で僕は車を運転していた。元気をつけようと食べた牛丼が僕の胃をもたらせる。弱くなった胃の消化を助けようと脳から酸素がどんどん運ばれたのに、半分酸欠じみた僕が自宅の凍りついた部屋で裸になり一気に着替えたのだ。そこで酸欠興奮状態の動脈が破裂し、脳のクモ膜下一面に血が飛び散った。普通ならそこで救急車を呼ぶところだが、明日の仕事の段取りもあるし、痛みが引くのを我慢し繰り返しやってくる悪寒に体を震わせながら炬燵の中で毛布にくるまり、夜が明けるのを待った。翌日僕は血だらけの脳をだましながら、(ちょいと頭がグラグラするなぁ…)首の後ろにカイロを貼り付け、自力で車を運転し、熊本市内の脳外科に向かった。

30分程運転し、車に酔い途中で消化不良の牛丼を車内で噴水のように噴き出し嘔吐した。しばらくシートを倒し、体を休め、それからまたハンドルを握り、会社の近くの脳外科に行く。脳外科でCTをとり、先生が曰く、「今からS病院に行きなさい!(うちじゃ手に負えん!)」僕は聞き返す。「自分で運転していけばいいすか?」先生は「違う、救急車!今から呼ぶからっ!」つくづく僕は強運の持ち主なのだろう、頭の中は血だらけ…それで1時間、運転してくるなんて。ちよっとの力み具合で僕は問答無用、即死だったのかもしれない。

死んだらどうなるか?そんな不安や考える暇があるはずない。何しろ脳の大けがだ。手も足もでない。反抗のしようもない。自分を励ましようもない。すべては運に任せるまま。全身麻酔の包み込むような柔らかい浮遊感のまま、死の世界へたどりつくだけなのだ。泣きたいとか苦しいとかの感情も沸かない。土曜に入院後、手術は月曜になった。造影剤入りのCTで体中熱くなる。手術までが長いことよ。ああこのまま死ぬのか。仕事の打ち合わせ引継ぎを病室でする。デザイナーのI君が驚いてやってくる。こんな時なのに頭にどんどん引継ぎ内容が浮かんでくる。月末で支払いもあるしなぁ。「俺が死んでも頑張ってくれと言う」人生を達観しているI君は苦笑していつもどおり冷静な反応だ。

月曜日全身麻酔で眠りについた俺は運命のすべてをM先生に委ねた。それから9時間後、意識の戻った僕にそれから集中治療室での辛くて長い2週間が始まった。僕には僕を子供のように、かわいがってくれた叔母がいて、その叔母も濃脳梗塞で約11年間、意識不明で寝たきりとなり、昨年亡くなった。さすがに僕だって数年間の意識不明は嫌である。意識不明の僕の意識はどうなる?そんな疑問が脳の中をかけめぐる。

僕が横たわっていたのは脳外科の緊急病棟で、白い板で仕切られ簡単な病室にある。そんな部屋が4部屋並べられていて、後はカーテンで囲われたベットが20床ほどある。みんな脳梗塞や出血で運ばれてきた人ばかりがベットに横たわり、口を開けうごめいている。救急車が24時間、どんどん患者を運んでくる。レース場の修理工場に続々と運ばれてくる故障車に群がる蟻のように、医師、看護婦さんはよーいドン、一斉にその故障した車の整備を始めるのだ。目が覚めて時計を見るとまだ午前2時・・朝まで僕の長い夜が始まる。向かいのベットでガチガチとはさみだの管子だの金属の器具が重なり合う音が響く、フロアの中央からライトが当たり逆光に白い姿が浮かび上がり、人々のうごめく姿と、大木に巻き付く茎のようなチューブが揺れ銀色の医療機器が浮かび上がる。「うーん、うーん」とあちこちで人々のうめき声が聞こえる。まるで野戦病院のようだ。苦痛に耐えかねたじいさんが手をたたく、「おいっ!おいっ!」と叫ぶ、じいさんは急に体を起き上げ、みんなによってたかってベットに羽交い絞めにされる。

看護婦さんが、言うことを聞かず、病室をうろつき僕の部屋に入ろうとする子泣きジジイのような爺さんを引き留め、「この部屋には死にかかっている人がいるけん入ってはダメと」いなす言葉が聞こえる。確かに僕の部屋に結界がひかれてあるんだ。嗚呼、僕は死にかかっている人なのか。確かに僕は夜明け前の薄暗がり中、看護婦さんに「言うことを聞かないと死にますよ」と言われた。

僕の目の前には白い壁とうなりをあげる大きなエアコンの排出口がある。旧式なのかその機械が苦しそうにウンウンうなりながら温風を吐き出している。この旧式の機械はこれまでどのくらいの人の生気を吸い取り、吐き出してきたのだろう?去年山で遭難した時、谷底で僕を包み込んでいたのは深い黒い闇の世界だった。今回は白い壁に囲まれどこにも行きようがない。

友人の上村君が言うには下宿の2階から階段を転げ落ち、頭を強打、意識不明の重体時に見えたのが三途の川らしい。船に乗り岸にたどりつこうとした時に先に亡くなった親戚の人たちに「こっちにきたらだめ!」と言われたらしい。結局上村君は川を渡らず引き返し一命をとりとめた。幸い僕の目の前には三途の川は現れなかった。僕の目の前には凍り付いた大きな滝がどうどうと轟音を轟かせながら垂直に流れ落ちていた。僕は宇宙船のような乗り物に乗り、大きなガラスごしにその景色を眺めていた。白く蒼く氷ついた滝の上を白い水がごうごうと流れ落ちる。僕を乗せた船は静かに浮遊している。三途の川ならず三途の滝。そんな幻想を見たのはただの一回だった。(今思うに、その三途の滝は五家荘の栴檀轟の滝のようでもある)

それからも子泣きジジイは毎日数回は僕の部屋にやってきたけど、僕はその度に爺さんに向かって呪文を唱え念力を送ったけど、(何しろこっちは半分違う世界に足を突っ込んでいるから!)ようやく危険な2週間が終わり、個室に移った。頭の切断個所のホッチキスも切り取られ右の眼の周りの腫れもすこしは収まった。個室に移った夜、急に動悸が激しくなり、左胸が締め付けられる痛みがする。ナースコールすると一斉に胸がはだかれ心電図の装置が貼り付けられ血液検査、当直の先生が廊下を走ってくる。不安心から起こったものらしい。先生が大丈夫です、問題ないですよと励ましてくれる・・・そう言われても胸の痛みがおさまらないのです先生。脳どころか心臓までおかしくなると、いよいよ大変なことになったと気分が暗くなる。結果、翌朝から薬にうつ病の薬が新しく追加された。僕は無神論者だが、それから毎晩23時59分になると自分の胸に手を合わせ、一日生き終える事ができた自分の意識を確認し、それから数分後翌日の零時1分になった時にも現実を握りしめるように胸に手を当てる。これから新しい一日が始まるのだと安堵する。廊下の向こうで誰かのうめき声が聞こえる。眠れずにラジオをつけるが頭にほとんど人の声が入ってこない。僕の横たわった体を包み込む夜の白い闇よ。

手術して2週間過ぎ、いよいよリハビリが始まる。恐る恐る病院の廊下や、階段の登り降りをする。担当のリハビリ先生から目標を聞かれ「登山の再開」と書く。五家荘の山の写真を撮り始めてまだ1年なのだ。これからも去年撮れなかった花を撮りたいと思う。幸いマヒはなく、筋肉が落ちているだけのようだ。五家荘の山の達人OさんとNさんが見舞いに来てくれる。二人とも、僕の暗い顔と右のゆがんだ頬と額の傷に驚いたようだ。「また山に登りたいですね」僕がそういうとさすがに二人の反応はない。(そぎゃん、登りたいのなら俺の責任を問わないという同意書がいるばいと流石のOさんの顔にも書かれてある・・・)とにかく5月になれば登るつもりだ。頂上を目指すつもりはない。今まで会ったこともない、小さな花たちに会うために。また一人でのんびりと登ることになるのだろう。せっかく開設した五家荘図鑑のホームページをたった一年で終わらせるわけにはいかない。面会後、Oさん、Nさんとみんなで力を合わせて作った「五家荘の山」の本も出来上がったし!

リハビリの成果も出て、それから1週間で田舎の病院にリハビリ転院となる。(なんのことはない、大病院の1階のコンビニに看護婦さんの目を盗んで、小さなチョコレートを買いに行くために、リハビリと称して1階から6階までの階段を1日最低2階は自力で往復していたのだ。僕は100円のチョコの為に生きているのか…)

転院したのは自宅の町にある丘の上にある病院だ。回復期リハビリテーションという施設でそこで本格的なリハビリを行い社会復帰を目指すことになった。1日3回10日程度、体力のリハビリと合わせて、計算問題や、積み木、図形の認識、反応の検査があった。そしてようやく退院。手術からすでに約2か月近くが経っていた。気が付けば3月。自宅前の海辺の港にも春がやってきた。石積みの港の岸壁を登山用のスティックを突きながらよろよろと歩く。途中に芝生がありベンチがある。春の海の色は緑が濃くねっとりと波打っている。太陽の光が水面に反射してキラキラとまぶしい。ああ、父が亡くなったのは7年前のこんな日、3月6日だったな。父はこの小さな港町で生まれ、左官職人として80過ぎまで生きて、僕が入院した病院で亡くなった。僕は葬儀の送る言葉で、父が名残惜しそうに一日、このベンチに座り、故郷のキラキラした懐かしい春の海を眺めている後ろ姿にさよならを告げた。「父よ、もう、さよならの時です」と。

自宅に帰り、会いたくて仕方なかった猫の寛太と子弾を抱きしめる。死ぬことは怖くない。それは仕方のないことだ。限りなく無に近い有の存在が僕で、死んだら限りなく無に近い無という存在となる。(宇宙の果てなど知ったことではない!)死の楽しみとは先に死んだ人と会える楽しみがあると考えた方が気が楽だ。それが本当かどうかは死んでみないと分からない。つまりに誰も分からない。だから僕が死んだら、寛太も子弾もあの世で待ってくれていて又再会できるに違いない。そうして抱きしめると寛太は僕の手の平を噛みつき、かわいい子弾は僕の腕からするりと抜けて逃げて行った。

2018.02.18

山行

2018年2月。五家荘の山は今、眠りの中にある。少し冷え込んだりすると、山の道路は凍結し、雪が降り積もる。五家荘の集落をつなぐ道は崖沿いの道がほとんどなので、車にチェーンやスタッドレスタイヤの装着がないと、数メートルも移動出来ない事態となる。

今の時期、下界のラジオの道路情報では録音された内容を繰り返し放送するかのごとく、「五家荘方面、二本杉峠の付近ではタイヤチェーンなどのすべり止めが必要です」と伝えている。「二本杉峠」というのは、町から五家荘へ向かう、北の入り口となる峠のことだ。地図にあるように、砥用町の早楠の山裾から、うねうねと蛇行しながら高度を上げ、峠を目指す。登るにつれ途中で道幅が狭くなり、車一台分の幅となる。道の片側は、落石防止の金網が張られた岩壁で、もう片側は崖だ。冬場は白く凍り付き、普通のタイヤではまったく怖くて進めない道となる。(つまり引き返すことも出来ない!)

ところで、二本杉峠と呼ばれる正式な地名は、二本杉という。国土地理院の地図でもそう記されてある。二本杉峠なる地名は地図上には存在しないのだ。NHKはもちろん、地元の民放のラジオは冬になると間違った地名を呼称しているわけだ。

高校時代の恩師のN先生は県内の地名の研究者でもあり、毎年冬になると辛抱たまらず、放送局に電話をかけていたそうだ。間違った地名をマスコミが延々と流布しているわけだから責任重大だ。そして、そのクレームの電話に手を焼いた放送局の担当者が、回りまわって熊本の地名の研究者であるN先生宅に電話をかけて、確認することなる。

「今朝も変な電話がかかってきて、二本杉峠という地名は存在しない、嘘を放送するなという内容なんですが、どうなんでしょうN先生」と。「その電話の主は、わしだ!」と、先生が答えたかどうかは知らないが、N先生の説明を聞いて、その放送局は翌日から二本杉と放送するそうだ。しかし結局のところ、担当者が変わると、また二本杉峠に戻る繰り返し。先生ももう70過ぎ、今ではさすがに電話をかけてないらしく、ラジオではどの放送局でも「二本杉峠」と伝えている。実際、峠の場所には堂々と「二本杉峠」という標識もあり、だいいち今更、そんなことを気にしてどうするというのが一般的な感覚なのだろうか。

ところで、どこで読んだか、N先生の資料かどうか、僕の記憶もあいまいだが、今ある峠の店の場所より、昔はもう少し下りたところにお店があり、経営者も違うそうで、その店の女店主が飛びぬけて美人だったという内容の本を読んだことがある。峠にはいろいろな思い出話もあるようで、以前泊まった宿の女将の話では、車道が開通する前は、馬の背に下駄や屋根の材料となるコケラを積み、砥用の町に降り、帰りは貴重な食料などを馬の背に積み替えて峠を行き来していたそうだ。ある日、義父さんが峠に着いたところで気が緩み、つい酒を飲みすぎて、せっかく積んできた荷物がばらばらになった話や、時には子供たちも馬の手綱を引きながら、町に降りて、一緒に買ってもらえる饅頭が楽しみで仕方なかったとの話も、今では実感の湧かない、物語の中で聞くような話になってしまった。

だからこそ、正式な地名がその土地の由来を現代になんとか繋いでいこうと踏ん張ってくれているわけなのだ。

五家荘の他の峠もそうだろう。子別(こべつ)峠はそのものずばり、子供を奉公に出す別れの場所だったろうし、烏帽子岳の稜線には「ぼんさん越」(越は峠の意味)があり、不幸があったときには向こうの村から「お坊さんを連れて」、葬儀に間に合うように、家族の若い者がぼんさんの荷物を持ち、峠をふうふう越えてきた苦難が想像出来るし、南部の石楠越(しゃくなんこし)は、石楠花は咲かない地質なのになぜそんな名前かと言うと、もとももとは百難(ひゃくなん)越という名前からして困難な名前が山人のしゃれで「石楠(しゃくなげこし→(しゃくなん)越」になったという。峠に限らず、山ならではの地名として、山犬切(やまいんきり)という地名もあり、もちろん山犬はオオカミのことで、奥深い産地ならではの地名なのだ。

ちなみに「峠」の語源は白川静の常用字解によれば、山道の上り詰めたところでまた下りとなる分岐のところを言う。

そこは神の居るところとして道祖神を祀り手向け(たむけ)をした。とうげは手向けの音の変化した語というと書かれてある。「越」の語源は鉞(まさかり)の元の字でまさかりの形。困難な場所をこえるのに鉞を呪器として、使うことがあったのだろうとある。鉞の呪力を身に受けていくことを越というとある。

言葉の力は怖くて深いものなのだ。「道」の語源はもっとすごい。古い時代には他の民族のいる土地はその民族の霊や邪霊がいて災いをもたらすと考えられたので、異族の人の首を持ちその呪力で邪霊を祓い清めて進んだのが語源なのだ。これで道に首の文字がある意味が分かる。

五家荘は希少植物の宝庫でもあり、山村の民俗学の宝庫でもある。昨今の世界遺産とやらのブームにおどらされることなく、研究する人にとっては宝の山となるのだろう。いいおじさんとなり時間切れ間近のわが身を振り返ってみれば、もうちっと勉強しておればよかったと悔やむことしきり。

越すに越されぬ二本杉。山の達人Oさん、Mさんのフェイスブックでは、久連子の白崩平の周辺に雪を割って咲く金色のフクジュソウの開花の情報をちらほら見かけることがある。

残念ながら病床の身。リハビリの目標は「登山を再開できますように」と七夕の短冊に書く願い事のような文言を書いた。まずは5月。山の小道に小さな花々が春の陽気の中で精いっぱい咲き誇る姿を見るために、病院の階段を一歩一歩登る日々なのだ。

今度二本杉を超える時は、峠の道祖神にお参りして山に登ろうと思う。

2

分類
新着順
過去記事一覧
  1. ホーム
  2. 雑文録